🍙11〗─3─昭和三陸地震。寺田寅彦。宮沢賢治。昭和8年~No.41No.42No.43 @ 

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   ・   ・{東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本列島は、甚大な自然災害が多発する苛酷な自然環境であった。
 大きな自然災害が発生すれば、死傷者は数十万人で、被害者は数百万人に及ぶ。
 日本民族日本人は、そうした恐怖の自然災害多発地帯で、辛抱強く、忍耐強く、我慢強く、図太く、幾分かは動揺しても慌てふためく様な醜態を晒さず、何事も無かった様に平然として生き、黙々と後片付けをして普通の生活を続けてきた。」
 ゆえに、暴動や略奪は一度たりとも起こさなかった。
 2000年の歴史の中で唯一の例外は、関東大震災に於ける朝鮮人惨殺事件の1件のみである。
 日本民族日本人は、争い事を嫌い、揉める事を避け、憎む事を心の穢れとして忌避する、心温かく、穏やかで、大人しい、素直で、正直な人間であった。
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 寺田寅彦「明治29年6月15日 の同地方(東北日本の太平洋沿岸)に起こったいわゆる『三陸津波』とほぼ同様な自然現象が、約37年後の今日再び繰り返されたのである。同じ様な現象は、歴史に残っているだけでも、過去において何遍となく繰り返されている。現在の地震学上から判断される限り、同じ事は未来に於いても何度となく繰り返されるであろうという事である」(『津波と人間』)
 昭和9年 寺田寅彦「文明が進めば進むほど天災は劇烈の度を増す」「天災は忘れた頃にやってくる」(『天災と国防』)
 「人類がまだ草昧の時代を脱しなかったころ、人間は極端に自然に従順であって、自然に逆らうような大それた企ては何もしなかったからよかったのである。
 文明が進むに従って人間は次第に自然を征服しようとする野心を生じた。そうして、重力に逆らい、風圧水力に抗するようないろいろの造営物を作った。そうしてあっぱれ自然の暴威を封じ込めたつもりになっている、どうかした拍子に檻を破った猛獣の大群のような、自然が暴れ出して高楼を倒壊せしめ堤防を崩壊させて人命を危うくし財産を滅ぼす。その災禍を起こさせたものと起こりは天然に反抗する人間の細工であると言っても不当ではないはずである、災害の運動エネルギーとなるべき位置エネルギーを蓄積させ、いやが上にも災害を大きくするように努力しているものはたれあろう文明人そのものなのである」(『天災と国防』)
 「今度の大坂や高知県東部の災害は台風による高潮のためにその惨禍を倍加したようである。最もひどい損害を受けたおもな区域はおそらく明治以降になってから急速に発展した新市街地ではないかと想像される。災害史によると、難波や土佐の沿岸は古来しばしば暴雨時の高潮のためになぎ倒された経験をもっている。それで明治以前にはそういう危険のあるような場所には自然と人間の集落が希薄になっていたのではないかと想像される。付け焼き刃の文明に陶酔した人間はもうすっかり天然の支配に成功したとのみ思い上がって所きらわず薄弱な家を立て連ね、そうして枕を高くしてきたるべき審判の日をうかうかと待っていて……」
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 自然災害において、人間の浅知恵を超えた予想も付かない事態が起き甚大な被害をもたらす事が当たり前である。
 特に。自然災害多発地帯の日本で生きる限りにおいて、想定外の深刻な災害に襲われる事は避けられない。
 ましてや、昔の日本人が災害に見舞われる恐れのあるとして住まなかった土地に、自然に逆らい強固な防災措置を施して住みついたのが現代の日本人である。
 現代日本人は、人口爆発で程良い価格で購入できる安全な土地が少なくなった為に、地代の安い災害に襲われる危険性に高い地域に土地を購入して住むしかなかった。
 想定外の深刻な災害で憤激する日本人は、如何に、自然災害多発地帯で生きてきた日本人が古代から如何に対応してきたかという日本の歴史を知らないかである。
 つまり。日本人は、架空に近い時代劇は好きだが、真実に近い歴史が嫌いと言う事である。
 想定外の天災に襲われるのは当たり前の事であり、甚大な被害を受けるのは災害を忘れた人災である。
 自然災害多発地帯の日本列島で天災が避けられない以上、如何に備えた所で被害は減らすかである。
 如何に天災と付き合い被害を減らすか、それが日本人の智恵である。
 日本民族の歴史とは日本人の智恵の宝庫であるが、現代日本人はその宝庫を古臭く無価値で役立たずとして切り捨てていた。
 ゆえに、自然災害に襲われる度に被害をもたらした責任者を探しつるし上げている。
 責任者探しをして賠償金を得ようと騒ぎ立てる日本人は、日本民族日本人が辿った自然との苦闘の歴史が嫌いな日本人である。
 日本列島に於いて、自然災害から逃れられる安全・安心な土地などはない。
 自然災害多発地帯の日本で、豊かにして便利な生活を手に入れること自体がハイリスクなのである以上、ハイリターンとして想定外の被害は避けられない。
 地球温暖化で自然災害が巨大化している以上、想定外の被害も深刻化して行く。
 日本民族日本人の歴史は、人間相手にした歴史ではなく、自然を相手にした歴史である。
 自然を顧みず人間のみを相手にしてきた世界史・大陸史とは、根本的に違う。
 ゆえに、自然重視の日本モデルは人間性善説となり、人間性悪説を確信する人間重視の世界には通用しない。
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 日本人は、古来から「言霊」を信仰し、不吉な言葉を発すると現実になると恐れていた。
 自然災害多発地帯の日本列島で生きてきた日本人は、天災は避けようもなく必ず訪れる定めとして諦め、生きるも死ぬも天の定め、寿命と覚悟していた。
 だが、「天災は避けられないが、人災は避けられる」として、如何に生き延びるかを考え、工夫し、対策を練って、準備していた。
 生き残る為には、助かるという「希望」を持ち、未来につながる「夢」を持ち続ける事であった。
 天災は一人では対応できない以上、個人の私欲・我欲・我が儘を捨て、皆で集団となって協力して取り組む必要があった。
 自分に自信を持ち、集団の力を信じる。
 天災を乗り切って「生きる」という唯一の目的の為に、学力のある者は知恵を絞り、体力のある者は力を出し切り、技術のある者はその腕を振るい、集団的「生きる力」「生命力」を発揮した。
 命を守るには、状況に応じて瞬時に自己判断して行動を起こす。
 以前は安全な場所とされた所が、今では最も危険な所になっているかも知れない。
 助けがあると思っても、助けがない事もある。
 自然災害において、「かなわず」という事は存在しない。
 事態が落ち着けば、お上や国は救援に動いてくれるが、すぐには来ない。
 今この時は、自分と家族の安全は自ら守るしかない。
 天才は天才なりに、秀才は秀才なりに、平凡は平凡なりに、愚鈍は愚鈍なりに、やれる事は何かしらあった。
 そこには、現場を知らない高学歴な融通性なきエリートなどは必要はなかった。
 必要な学問は、机上の空想的観念的モノの役に立たない屁理屈ではなく、今この時の現場に役に立つ合理的理論的な知識であった。
 集団力とは、対話して意思の疏通をはかり、意見をまとめて決めた事は全員が守って協力して実行する事である。
 天災の前では、個人的な好き嫌いなど関係なかった。
 自分の思いや考えを自由に話し、相手の話を否定せずに聞く事である。
 反省し悪かった事を確かめて、お互いが、注意をし、そして褒め合って、集団達成意欲を高めていった。
 対話する事で、対処の仕方を学び、新たな気付きや発見し、一人の個人能力を高めるのではなく、集団能力を鍛えて一定に保った。
 自分さえ良ければそれで良く、他人など関係ないと切り捨てる者は、村八分にして集団から追放した。
 善かった事を思いだして笑い合い、楽しい歌を歌い、輪になって踊り、悪かった事を綺麗サッパリ忘れた。
 自然災害多発地帯の日本は、浮ついた並みの精神力では正気を保てない厳しい自然環境である。
 有能にして強い指導者の命令に盲目的に従い、下僕的に行動していれば生きられる気候風土ではなかった。
 自然災害多発地帯で生きる為には、自分勝手の人間が分けもなく「群れ」る烏合の衆は百害あって一利なく、ただただ有害そのものであった。
 社会の安全とは、相手の考え・意見・感情・主張を受け容れる為の、集団の安心、自分の自信、仲間としての信頼、が欠かせない。
 他の地域からの助けや支援を充てに出来ない以上、地域自己完結型としてあらゆる職種の雑多な人々が集団に必要であった。
 人としての相性的好き嫌いは仕方がないとしても、互いが偏見を持たずに知る事である。
 日本民族が相手としてきた自然とは、甚大な崩壊・破壊をもたらす危険をはらんだ、一瞬の油断もならない自然であった。
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 日本の民族性とは、自然災害から逃げる時は一人で他人を構わず一目散に逃げるが、復興する時は生き残った者が集団となって助け合い励まし合い褒め合って復興した。
 そこには、他人否定の自己中心的な朝鮮人とか中国人は含まれてはいない。
 日本の民族性は、日本民族という特殊な同属性によって培われた特性で、社会が混乱して秩序が崩壊しても暴動、内戦、略奪、強奪を起こさない、精神的制御棒となっている。
 日本の民族性に共鳴しない若しくは反発・拒絶する移民が増加すれば、社会に安定をもたらす、場の空気・同調圧力としての精神的制御棒は消滅する。
 その時、初めて日本はローカルからグローバルに生まれ変われる。
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 1933年3月3日午前2時30分 昭和三陸地震岩手県上閉伊郡釜石町(現・釜石市)の東方沖約200キロメートルを震源とし地震。そして津波
 被害
 家屋全壊 7,009戸。流出4,885戸。浸水4,147戸。焼失294戸。
 死傷者数 1,522人。
 行方不明者 1,542人。大半が、津波の引き波により海中にさらわれた人
 負傷者 1万2,053人。
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 宮沢賢治 1896(明治29)年8月27日〜1933(昭和8)年9月21日
雨ニモ負ケズ」(執筆推定、1931年11月3日)
 雨にも負けず
 風にも負けず
 雪にも夏の暑さにも負けぬ
 丈夫なからだをもち
 慾はなく
 決して怒らず
 いつも静かに笑っている
 一日に玄米四合と
 味噌と少しの野菜を食べ
 あらゆることを
 自分を勘定に入れずに
 よく見聞きし分かり
 そして忘れず
 野原の松の林の陰の
 小さな萱ぶきの小屋にいて
 東に病気の子供あれば
 行って看病してやり
 西に疲れた母あれば
 行ってその稲の束を負い
 南に死にそうな人あれば
 行ってこわがらなくてもいいといい
 北に喧嘩や訴訟があれば
 つまらないからやめろといい
 日照りの時は涙を流し
 寒さの夏はおろおろ歩き
 みんなにでくのぼーと呼ばれ
 褒められもせず
 苦にもされず
 そういうものに
 わたしはなりたい

 南無無辺行菩薩
 南無上行菩薩
 南無多宝如来
 南無妙法蓮華経
 南無釈迦牟尼仏
 南無浄行菩薩
 南無安立行菩薩
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 辞世歌「病気のためにこの身は朽ちても 稲などの実りに役立つのであれば嬉しい」
 (農産物の「実り」と、仏教の「御法(みのり)」を掛けた)



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