🍙10〗─1─国際連盟と欧米列強は、軍国日本が人口過剰と食糧不足で20万人以上の欠食児童を抱えた窮状にある事を知っていた。昭和7年~No.32No.33No.34 @ 

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   ・   ・{東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 前年からの持ち越し(古米) 914万石。
 生産高 5,522万石(825万トン)。
 輸入量 1,160万石。
 移入量 1,062万石。
 供給量 7,627万石。
 消費量 6,668万石。
 人口 6,590万人。 
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 1932年
 コミンテルン指導部は、東京の国際共産党日本支部である日本共産党に対して、天皇制度を打倒して暴力的共産主義革命を起こすよに指令を出した。世にいう、32年テーゼである。
 日本共産党は、1932年テーゼを、搾取と抑圧に苦しむプロレタリア階級を専制君主天皇から解放と、古い伝統文化で閉鎖した日本を国際主義で開放する為の指針であるとして歓迎した。
 『赤旗』「共産主義の現実は、人類にとって最高至上なる幸福状態の達成である」「国際共産主義コミンテルン)の決定は、現代世界における最高至上の洞察であり指導理論である」
 軍国日本は、天孫降臨神話で正統性を保ってきた神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)を共産主義勢力から守る為に、左翼・左派のマルクス主義者を弾圧した。
 悪名高い思想警察・特高は、これまた悪法といわれた治安維持法(最高、死刑)を適応して共産主義者を弾圧した。
 司法当局は、共産主義者を大逆罪である不敬罪で死刑などの厳罰にするより、日本独自の転向策を採用した。
 それは。江戸時代のキリスト教弾圧の踏み絵に似てい、棄教する事を誓って踏み絵をすれば放免した。踏み絵を拒否した者には、日本の宗教感や死生観で順々に説き聞かせて棄教を促した。それでも頑なに棄教を拒否すれば、やむなく処刑した。火炙りにするときは、キリスト教徒は違って生きたままではなく、見物人に悲鳴やうめき声を聞かせない為に殺してから火炙りにした。
 牢内で踏み絵をして棄教を誓った者は放免したが、それが偽装で隠れて信仰を守っても、檀家寺からの新たな告発がなければ放置した。
 その結果、日本各地に隠れキリシタンが存在していた。
 日本民族は気弱なだけに、キリスト教世界の様な、残虐にして惨たらしい容赦なき異端審問や魔女狩りは起きなかった。
 特高は、獄中の思想犯に拷問をかけ、共産主義を捨て天皇に忠誠を誓う事を強要した。
 大半の意志の弱い共産党員は、拷問の苦痛に耐えかねて転向した。
 少数の意志の強い共産党員は、転向を拒否した為に、死刑ではなく十数年の禁錮という重刑で刑務所に収監された。
 転向者は、警察の監視下で日常生活に戻り、徴兵されて軍隊に入隊した。
 共産主義の知識を買われて、特高憲兵隊の手先になったり、特務機関などの軍諜報機関工作員となった者もいた。
 さらには、反共産主義となって右翼・右派の国粋主義軍国主義に加わった者もいたという。
 名家名門の家系出身者は、その血筋の良さと大学や高校での高等教育を見込まれて、民間団体や地方自治体の職員として雇用された。
 マルクス主義者となったのは、大半が生活に困らない大学や高校の学生で、労働者はほんの少数であった。
 天皇心神話をお神楽として守る農民は、神の裔・天皇を殺そうとする共産主義者を支持するどころか、畜生以下の極悪人として敵視していた。
 農村部は、都市部とは違って反マルクス主義であった。
 有力者の親や親族の後押しで、中央行政府の役人となり、その貢献度から革新官僚の一員となった者もいたという。
 だが。転向者が本心から転向したとは限らず、偽装転向者が多くいたといわれている。
 事実。戦後、日本共産党の再建や日本社会党の設立などに、転向者の多くが参加している。
 いずれにしても、特高は36年1月に勝利宣言を行った。
 『日本共産党唯一の残留組織を壊滅するに至りたり』
 ソ連赤軍第四部(GRU)は、コミンテルンにかわって、日本政府と日本軍の機密情報を得るべく日本にリヒャルト・ゾルゲを送り込んだ。
 朝日新聞記者の尾崎秀実らは、ゾルゲに協力してスパイ団を結成した。
 アメリカの一部のユダヤ人が、天皇制打倒の為に、ゾルゲの対日諜報活動を支援したといわれている。
 陸軍の四王天延孝中将や右翼・右派などの反ユダヤ主義者は、ユダヤ人は共産主義者と組んで神の裔・天皇を殺害し神国日本を滅ぼそうとしているという「ユダヤ陰謀論」を喧伝した。
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 白貞基は、昭和天皇暗殺テロを中断して、朝鮮人テロ集団を集めて自由革命家連盟を組織し、その後に黒色恐怖団と改称し抗日テロを実行した。
 朝鮮人テロリストは、日本や朝鮮で陰険な陰謀をめぐらして暗躍していた。
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 日本政府は、地方の農山漁村での人口過剰が貧困の原因であるとして、余剰人口対策として海外移住計画を進めていた。
 中南米諸国は、アメリカの反日政策に同調して日本人移民を制限もしくは禁止していた。
 日本に残されていた移住先は、満州しかなかった。
 田畑の遺産を受けられない貧困農家の次男以下の青年は、尋常小学校の義務教育しか受けていなかった為に、都会の低所得労働者になるか、各地の炭鉱で働くか、軍隊に入隊するか、満州や中国に移住するか、の何れしか選択肢がなかった。
 若手将校らは、貧困農家を救済するには、議論百出で何も決められない無能無策の政党政治は当てにできなと憤慨していた。
 篠原市之助「農を持って基とする我が国の農村の窮乏は、実に国家存亡の危機であります」
 赤塚金次郎「今になって考えれば、純粋な青年将校を軍上層部が利用したと思います」
 軍国日本は、貧困農家から食いはぐれた荒くれ者を勇猛果敢の優秀な兵士として吸収し、農村の貧困救済を大義名分として侵略戦争を起こした。
 国際社会は、軍国日本の主張を完全否定した。
 軍部は、満州の占領地を確保し拡大を目的として、下部組織として満州開拓団や満州開拓青少年義勇軍を組織して送り込む計画を実行し始めた。
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 日本企業には、本店採用の高給取り職員と支店・現場採用の低賃金の行員とは越えられない差別が存在していた。
 行員でも、能力次第では昇給が望め、貧しい人々が住む工業地帯近くの下町から脱出して郊外の新興住宅地に移り住んだ。
 財閥系など資金力のある企業は、行員の生活支援支援として新設した工場周辺に共同住宅を建設した。
 政府や地方自治体も、貧困者救済として、自立を支援する職業訓練的社会事業施設を幾つも建設し、子供情緒教育として映画館や公園を開設した。
 そうした取り組みで貧困者数は減少していったが、それでも貧困生活から抜けだせない社会生活不適応者は存在していた。
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 日本の乳幼児は12%で、アメリカ・イギリスの2倍、オランダの3倍であった。
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 1月 大阪の主婦・安田せいは、知人の女性(21)が夫の出征前日に自殺した事にショックを受けた。
 今後は、女性であっても男性に負けないように「御国の為」に尽くすべきだとして、白い割烹着を着て極寒の冬の大阪港に立ち、戦地に向かう兵士達に暖かいお茶を出した。
 女性達の自発的奉仕活動は全国に広がり、国防婦人会(国婦)が組織された。
 似たような婦人会が全国で幾つも誕生し、それを幾つかの団体にまとめた。
 文部省管轄、大日本連合婦人会。内務省管轄、愛媛の愛国婦人会。
 各婦人会は、政治思想に関係なく、身体を張って、競うように戦争に協力した。
 市川房枝「正面から戦争に反対して監獄へ行くか、または運動から全く退却してしまうか、あるいは現状を一応肯定してある程度協力するか」
 軍部は、男以上に積極的に活動する女性達に驚愕し戸惑ったが、次第に彼女ら利用し、婦人会を支援した。
 出征する若い兵士達は、母親と同世代のおばさん達に見送られて輸送船に乗船して戦地に向かった。
 日本国民は、軍部・軍国主義者に騙されたのではなく、自ら積極的に戦争に協力した。
 日本人と朝鮮人・中国人とは、違うのである。
 1月8日 桜田門事件。不逞朝鮮人李奉昌は、国家元首昭和天皇を殺害するべく爆弾を投げたが失敗した。
 天皇ファシストは、神聖不可侵の祭祀王・ヒロヒト天皇を守り現人神・天皇制度(国體)を維持する為に、裁判にかけて大逆罪で処刑した。
 不逞朝鮮人は、大半がキリスト教の洗礼を受け、上海フランス租界の某キリスト教会を利用して反日テロ活動をしていた。
 蒋介石は、同じキリスト教徒として、密かに不逞朝鮮人達を反日の同士として支援していた。
 上海の大韓民国臨時政府朝鮮人テロリストは、昭和天皇や皇族を暗殺する為に暗躍していた。
 ファシスト中国は、影で大韓民国臨時政府を助けていた。
 軍国日本は、報復として上海を侵略する必要があった。
 其れが。悪名高い、第一次上海事変であった。
 ……{ 現代の韓国と北朝鮮は、国家元首昭和天皇を暗殺しようとした朝鮮人テロリスト李奉昌を国民の英雄として子供に教えている。
 彼らは云う、昭和天皇は人々に嫌われ、殺されて当然の極悪犯罪者であると。
 1999年4月16日 当時自由党党首小沢一郎は、韓国を訪問し、両国の友好の為に朝鮮人テロリスト・李奉昌が祀られた独立三義士墓を参拝した。
 日本の政治家の一部は、高学歴者として全ての事を知り尽くした上で、小沢一郎国会議員を偉大な政治家として支持し総理大臣に担ぎ上げようとしている。
 韓国を旅行する日本人知識人や政治家の一部は、歴史の全てを理解した上で独立三義士墓を参拝し、軍国日本がおこなった植民地支配に於ける犯罪行為を認め、朝鮮人・韓国人に耐え難い苦痛を与えたとして土下座し涙を流しながら謝罪している。そして、昭和天皇の最高決定権者としての責任を告発している。
 現代日本の歴史は、周辺諸国の告発を真摯に受けとめて、天皇支配下で行った従軍慰安婦や強制連行など犯罪行為を正しく子供達に教えている。
 諸外国の歴史も、天皇制度国家日本がおこなった極悪犯罪を隠す事なく正確に教えている。
 一部の日本人は、日本を国際化する為の障害となっている、祖先崇拝・祖先神祭祀の天皇制度を廃止す様に主張している。
 小沢一郎は、中国との友好を深める目的で、宮中ルールを蹂躙し皇室の尊厳を冒?して、今上天皇の高齢と病弱を押して次期国家主席習近平との会見を実現させた。
 2010年8月10日 菅直人首相談話。
 日本政府は、正式に朝鮮半島に対する植民地支配が犯罪行為であった事を認めた。
 日本の国会も、日韓友好を求めた首相談話を承認した。
 日本世論は、歴史が好きな国民として、歴史を知った上で、同談話を批判せず当然の事であると容認した。
 一部の日本人は、歴史を詳しく調べた上で、韓国・北朝鮮に対してさらなる謝罪と賠償を払うべきであると訴えている。
 国際世論は、正しい公式見解であるとして評価した。
 女系天皇擁立を主張する日本人も、国家元首昭和天皇暗殺未遂事件を詳しく知た上で、万世一系男系天皇(直系長子相続)制度を廃止しようとしている。
 現代日本は、劣化している。
 現代日本人の中国化と共に、その劣化は深刻化している。
 金銭面での皇室への憎悪と皇族のアイドル化が、その証明である。
 現代日本の政治家の中に、天皇を敬い、皇室に敬意を払わない者が少なからずいる。}……
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 2月8日 時事新報。大宅壮一「凶作地の窮状は、東京にいて想像していたよりも、はるかに深刻で陰惨を極めたものであった。……農民たちの窮状は何も今年に限ったことではない。近年、珍しく豊作だといわれた昨年度(1930年)においても、彼らの大部分はやは窮迫の程度が幾分酷いだけで、たいした変わりはない。……彼らの窮迫の本当の原因は『豊作』とか『凶作』とかいうよりも、もっと深いところにあるのであって、それを凶作による飢饉だというのは、一切の責任を天候や自然に押しつけるようなもので不正確である」(『飢饉に非ず─凶作の東北を巡歴して』)
 某目撃談「『凶作も程度がいかに甚だしいかは、農民の多くが人間らしい生活ができなくなって、馬と同居しているのを見ても分かる』と語って物笑いになったというが、人間らしい生活をしていないのは、今年に限ったことではなく、また凶作地の農民だけのことでもない。馬を家の中で飼育するのは昔からの習慣だし、凶作だからといって、立派な家が、突然、倒れかかった小屋に変わるものでもない」
 「都会では小学児童の一部の欠食が問題になっているが、かの地では、地主の子どもを除いて、全校児童が欠食児童のようなもので、昼食をぬくぐらいのことは普通のことであり、別に凶作の年に限ったことでもない。つまり彼らの窮迫は、昨年の天候不良による急性的なものではなく、ずうっと古い、慢性的なものなのである」
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 3月1日 イギリスは、輸入関税法を導入して自由貿易主義を捨て、外国製品に対して一律10%の関税(従価税)をかけ、商品にはよっては付加価値税を上乗せした。
 各国は、輸出維持と自国産業保護を目的として、一斉に通貨切り下げと関税引き上げを行った。
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 5月15日 五・一五事件
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 6月6日 グルー大使一家は、横浜港に上陸した。
 エルシー・グルー(グルー大使の娘)「私が日本へ行ったのは20歳の時だったが、日本は不思議な魅力をたたえた国だった。美しい風土。人々は親切で節度をわきまえ、礼儀正しく、街の通りはいつも綺麗に掃き清められ、貧しい身なりの人でも、その衣服はいつも清潔だった。街を歩いても電車に乗っても、もし肩が触れれば、すぐその非を認め謙虚に詫びる人々。珍しそうに遠巻きに見詰めるけれど、近寄ればはにかんだ笑顔になる下町の子供達。全てが新鮮な思いを抱かせる日本。美しい詩情に溢れて、まるでお伽の国の様に見えた日本。父も母も、グルー家の人間は皆、そういう日本にのめり込んでしまったのです。父は本当に日本を愛していました。愛する日本と自分の祖国アメリカが戦争するのは、父には絶えられない事でした。アメリカは世界中のどの国よりも、日本の良い友人であり得るのだ、これが父の口癖でした」(1991年 船山喜久彌に話した思い出で)
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 7月 国際市場は冷え込み、各国間の取引も激減した。
 イギリスは、カナダ・オタワで帝国経済会議を開催し、食糧と工業原材料の安定供給と生産品の独占的市場を確保し外国製品を排除する、12の協定をまとめた。世にいう、オタワ協定である。
 排他的巨大な経済ブロックの誕生である。
 アメリカは、対応措置として、カナダを除いた南北アメリカ大陸21ヵ国をまとめて汎米会議を開き、排他的自給自足体制を築いた。
 その他のフランス、オランダ、ソ連も、ブロック経済に移行した。
 国外に植民地を持たない軍国日本、ドイツ、イタリアは、全ての経済ブロックから締め出された。
 三国以外で経済ブロック外に取り残されていたのは、中国、東欧、バルカン半島と幾つかの独立国だけであった。
 その為に、軍国日本は中国に、ドイツは東欧に、イタリアはバルカン半島ケニアに、生き残りをかけて生活圏を広げる為に侵略を開始した。
 アメリカは、主要産業に急成長し始めた自動車業界の原材料であるゴムと錫を確保する為に、仏印への影響力を強め始めた。
 中国は、侵略して来る軍国日本から祖国を守る為に、タングステンを武器として、アメリカ、ドイツ、ソ連などから経済及び軍事支援を引き出していた。
 日本は、インドから綿花をオーストラリアから羊毛を購入し、製品化してイギリスなどの経済圏に輸出し、原材料を買う外貨を稼いでいた。
 イギリスなどの排他的経済ブロック圏で日本製品に高関税をかけられる事は、売り上げの激減につながった。
 日本企業は、海外市場を確保する為には高関税に対抗する必要があった。
 商品価格を、高関税に見合った価格に下げる為に、生産コストを大幅に下げるしかなかった。
 企業努力として、従業員の賃金を引き下げ、単純労働を日本人から朝鮮人に入れ替えた。
 日本人底辺労働者は職を失い、出稼ぎで生計を補っていた地方の中小・零細農家は現金収入の手立てを失った。
 富の偏在よる格差が広がり、それ以上に地方の貧困化は都市部以上に深刻化した。
 日本人の下層階級は、食うや食わずの困窮生活から、低賃金を武器として職を奪った朝鮮人を憎み、人数が増加する朝鮮人への差別を強めた。
 農村部の崩壊が始まり、日本は狂信的な軍国主義化した。
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 7月28日 文部省は、凶作地帯の欠食児童の実態調査を行い、全国で20万人以上が欠食状態にあると公表した。
 政府は、欠食児童対策として救済費20万円の予算を計上した事を発表した。
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 8月 斉藤実首相は、犬養首相暗殺テロが地方の貧困農家救済の遅れが原因であったとして、臨時議会を招集して農村匡救予算案の審議を行った。
 時局匡救議会は、世界恐慌かで財政難にあり、都市部の貧困労働者の救済との兼ね合いを考慮して、当初の予算案を大幅に縮小して1億8,500万円で可決した。
 匡救予算は、農村土木事業を起こし雇用を増やし、返金収入で救済しようとするものであった。
 だが、大半の公共事業を請け負ったのは財閥系の土木会社であった。不況下にあった各企業は、収益を上げる為に地元の地主やヤクザの協力を得て、地元の業者と貧困農民の参入を最小限に抑えて、都市部の子会社と労働者を送り込んだ。
 都市部の貧困労働者は、救農公共事業で失業する事なく家族を養った。
 潤ったのは、財閥と地主だけであった。財閥は、批判をかわす為に雀の涙ほどの義捐金を地元にくれてやった。
 収穫の約5割という高い小作料を払わされている零細農家は、社会から見放されて、やっと生きていた。
 皇道派若手青年将校は、貧困農家の惨状を直に見聞きしていただけに、義憤を感じて社会的構造改革が必要であると痛感した。
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 10月23日 軍部は、東北地方の在郷軍人会から416名を選抜し武装移民団としてを試験的に満州に送った。
 満州移民促進の為に在郷軍人会や右翼を通じて、各地で勧誘の為の時局大講演会を開いた。
 「諸君は5反歩の土地を持って、息子を中学にやれるか、娘を女学校に通わせられるか。駄目だろう。……日本は土地が狭くて人口が過剰である。この事を左翼は忘れている。だから、国内の土地所有制度を根本的に改革する亊では改革はできない。ここれ我々は、国内から外部へ眼を転換しなければならない。満蒙のふよ沃野を見よ。……他人のものを失敬するのは褒められた事ではないけれども、生きるか死ぬかという時には背に腹はかえられないから、あの満蒙の沃野を頂戴しようではないか。これを計算してみると諸君は5反歩ではなしに、一躍10町歩の地主になれる。つまり旦那衆になれる」(山下文男『昭和の欠食児童』P.90)
 中国人地主は、土地を高額で日本に売って、中国人や朝鮮人小作人を追い出した。
 開拓民の農地は、現地の中国人が開墾した土地が与えられた。
 追い出された中国人小作人は、日本人を憎んで反日ゲリラに参加した。
 満州人農民は、中国人や朝鮮人への敵意から日本人開拓民を歓迎した。
 モンゴル人は、中国からの独立の為に日本の支援を期待した。
 日本開拓団は、満州の大地は、荒涼として農地適用地が限られていた為に、僅かな立ち退き料を払って取り上げた。
 満州に移住した移民団員の多くが、地主や高利貸しに虐げられてきた小作人や零細農家出身であっただけに、地主気分となって中国人や朝鮮人らを虐げた。
 中国人は、日本の侵略から祖国を守る為に馬賊となって抗日活動を始めた。
 朝鮮人と台湾人は、勇猛果敢に民族解放運動の組織を結成し、45年の終戦日まで朝鮮・台湾・中国そして日本国内で活動していた。
 世界は、日本の大陸侵略と非難し、対日経済制裁が強化された。
 中国人は、反日運動を激化させ、日本製品ボイコットを行って日本経済に打撃を与えた。
 軍国日本は、国際社会での孤立しが進んだ。



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