🍠19〗─1─軍人・児玉源太郎や文官・後藤新平らが現代台湾の国家・経済・社会の基礎を築いた。~No.57No.58No.59 @ 

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   ・   ・{東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 台湾が親日派知日派であるのは、今の日本人が持っている金ではなく昔の日本人が台湾を愛して活躍したからである。
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 2018年1月・2月号 SAPIO「志高き精神
 政治家には二種類ある、権力掌握を目的とする者、仕事を目的とする者だ
 日本人よ、後藤新平の心を取り戻せ
 李登輝
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 1895年の下関条約で台湾は清朝から日本へ割譲された。初代総督の樺山資紀から第3代の乃木希典まで、台湾の開発は端緒についたばかりであった。
 1898年、第四代台湾総督として児玉が発令されると、児玉は後藤をナンバー2の地位にあたる民政局長(後の民政長官)に起用する。後藤はもともと医師出身の内務官僚だったが、日清戦争後の大量の帰還兵士23万人の検疫を見事にやり遂げ、その行政手腕が児玉の目に留まったのである。
 その後、民政長官として在任した9年あまりの間、後藤は指導者としての力量を遺憾なく発揮し、台湾は未開発社会から近代社会へと、『一世紀にも等しい』といわれるほどの開発と発展を遂げることになる。
 当時の台湾は匪賊が跳梁跋扈して治安が悪く、マラリアをはじめとする疫病が蔓延する危険な地であった。のみならず、アヘン吸引者も多く、産業にみるべきものもなく、まさに未開発の状態だった。
 そこでまず後藤が着手したのが人事刷新の断行であった。着任するや高等官以下1,080名の禄を食むばかりで仕事をしない官吏を更迭し、日本国内へ送り返すとともに、新渡戸稲造をはじめとする優秀な人材を幅広く台湾に呼び寄せたのである。
 続けて台湾の産業発展の基礎となる公共衛生の改善、台湾経営の財源確保のための事業公債発行、台湾北部の基隆と南部の高雄を結ぶ縦貫鉄道の建設、基隆港の築港を進めた。そしてこれらのインフラ整備を完成させると、砂糖、樟脳(しょうのう)などに代表される具体的な産業開発と奨励をしたことで、台湾の経済発展の軌道を定めたのである。
 私が幼いころ、家は地主で、父は組合長も務めていた。祖父はお茶畑を持ってお茶を作りながら、同時に自治会長にあたる『保正(ほせい)でもあった。清朝時代から続いてきた集落の自治制度である保甲制度は、後藤がそのまま存続させた。台湾が日本の領土とあっても、台湾の人々に無理のない『生物学的見地』からの統治を考えた人でもあったともいえるだろう。
 天皇・国家のために尽くす
 今日の台湾の繁栄は後藤が築いた基礎の上にあるといえる。この基礎の上に新しい台湾を築き、民主化を促進した私は、後藤とも無縁ではないと思っている。つまり、時間的な交差点はなくとも、空間的には強いつながりを持っているだけでなく、後藤新平と私個人の間には精神的な深いつながりがあるのである。
 政治家には二種類の人間がいると言われる。まず権力掌握を目的とする者、そして、仕事を目的とする者だ。権力にとらわれない政治家は堕落しない。私は総統時代に指導者の条件として、『いつでも権力を放棄すべし』を自らに課し自制していた。
 普通の人が権力を持った時、非常に幸福であり、快楽でると思うことが多い。それはやりたい放題で、なんでもできるからだ。しかし、後藤は明らかに後者、つまり、仕事のために権力を持った人間であった。
 私と後藤には共通するのは『信念』であったといえる。私はクリスチャンで、信仰を通じて最終的に見出した私自身のあり方が『我是不是我的我』、つまり『私は私でない私』であった。
 この言葉は、新約聖書のなかにある『ガラテヤの信徒への手紙』の『生きているのは、もはや、私ではない。キリストが、私のうちに生きておられるのである(後略)』という一節からきている。つまり私、李登輝のなかに神が息づいていて、自分のためだけでなく公のために生きなくてはならない、ということである。
 一方、後藤の信仰は何だったかという私は寡聞(かぶん)にして知らない。しかし、おそらく『天皇』もしくは『国家』という公のために尽くすという『信念』があったのだろうと推察する。だからこそ、第四代台湾総督の児玉源太郎から片腕として信頼され、台湾の近代化をやってのけたのである。そうした意味で、私はクリスチャンではあるものの、強う信仰心、信念を持って事に当たっていくという意味では、後藤は私の先生であると言えるのである。
 国家の浮沈は、ひとえに指導者にかかっている。社会や個人の成功が経済や富であると考える風潮が蔓延している今こそ、指導者は『公』に尽くすことに一生を捧げた後藤の精神を学ぶべきであろう」
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 台湾人は、縄文人琉球人などと同じ南方系海洋民と揚子江流域系少数民族との混血児の末裔である。
 台湾は、親日派知日派である。
 中国・朝鮮は、反日派敵日派である。 
 その代表が、日本を対中戦争と対米戦争に追い込んだ中国共産党であり、昭和天皇と皇族を殺そうとした朝鮮人テロリストの遺志を継ぐ者を公言するを韓国政府である。
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 当時の日本人と現代の日本人は、別人に近い日本人である。
 現代の日本人が、当時の日本人を自慢しても無意味である。
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 日本人には、良い日本人と悪い日本人がいる。
 当然、良い日本人軍人もいれば悪い日本人軍人がいた。
 良い日本人軍人は、職分として敵を攻撃し敵軍将兵を殺したが、平和にも貢献したし、人道的な行いもした。
 A級戦犯として人間性人格否定された東条英機松岡洋右板垣征四郎らと日本陸軍は、ヒトラーナチス・ドイツホロコーストから逃げて来たユダヤ人難民数万人を助け、戦前は神戸で、戦争中は上海で保護した。
 戦時中、松岡洋右ナチス・ドイツからのホロコースト実行という強力な外交圧力を拒絶した。
 ユダヤ人難民保護を切望したのは昭和天皇であった。
 連合軍は、神戸を無差別絨毯爆撃をしてユダヤ人難民を保護した市民(女性や子供の関係なく)を生きたまま焼き殺したが、合法的な正当行為とした。
 東条英機松井石根A級戦犯)らと日本陸軍は、河南省で餓死寸前の中国人数百万人を救護するべく抗日軍と戦いながら、多くの犠牲者を出しても食糧や医薬品などの大量の戦略物資を救援物資として運び込んでいた。
 その結果、最前線で戦っていた日本人兵士の多くが餓死若しくは病死した。
 日本軍の死者の3分の2が、戦死ではなく餓死か病死であった。
 その影響は捕虜収容所にも及び、連合軍兵士捕虜は日本軍兵士と同じ粗末な食事を与えられて、戦後その捕虜虐待が人道に対する戦争犯罪とされて多くの日本人兵士が有罪となりリンチ的方法で処刑された。
 捕虜収容所では、連合軍兵士捕虜は苦しい状態に追い込まれ多くの病死者が出たが、餓死者はいなかった。
 戦時国際法は、軍国日本・日本軍のユダヤ人難民保護と中国人飢餓民救護という人道的貢献を無意味・無価値として抹殺した。
 A級戦犯はおろかB級C級戦犯達を祭神として祀る靖国神社は、戦争讃美の邪悪な宗教施設として破壊を強要されている。
 ユダヤ人難民の救護と保護を切望した昭和天皇に対しては、御逝去されて30年以上経とうとしてもなお天皇戦争犯罪天皇の戦争責任が糾弾されている。
 それが、1946年のマルクス主義共産主義)史観と1980年代の日本人残虐非道な極悪人史観=自虐史観である。
 国際的反日勢力が、中国共産党、韓国・北朝鮮ソ連・ロシア、そしてアメリカや西洋諸国である。
 韓国の国民的英雄である朝鮮人テロリスト達は、昭和天皇や皇族を殺そうと幾度も試みたが全て失敗した。
 国内には、天皇制度を廃絶し皇室・天皇家を消滅させようと企む反天皇反日的日本人が存在している。
 彼らは、天皇・皇后、皇太子・皇太子妃及び皇族を韓国訪問させ、昭和天皇や皇族を殺そうとして失敗した朝鮮人テロリストを処刑した事に対して謝罪させようとしている。それが天皇・皇后両陛下韓国訪問の真の目的である。


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