🍠18〗─1─東京近代都市改造計画としての日本橋魚河岸移転問題。鮮魚市場移転に反対すの日本橋魚河岸。~No.54No.55No,56 @ 

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   ・   ・{東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 将軍の御膝下で特権を与えられ優遇されてきた日本橋魚河岸は、徳川幕府を打倒した長州や薩摩など身分低き田舎侍(イモ侍)がつくった明治新政府に対する反抗意識が強かった。
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 何れにせよ、武士の世は終わり庶民の世が訪れた。
 武士は戦争から解放され、庶民が戦場に送られる事となった。
 庶民には、徴兵の義務と租税の責任が強制された。
 武士は没落し、才能のない武士は下層民とり貧困生活に苦しむ事になった。
 地方の貧しい武士達は、生きる為に、東京や大阪の貧民窟に流れ込んだ。
 貧民窟の住人であった非人やエタなど賤民で腕に職のある者は店を構えた。
 牛鍋屋などの、忌み嫌われてきた獣の料理屋が急増した。
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 江戸の庶民にとって、明治維新による近代化・文明開化など関心がないどころか、歓迎などしなかったし、むしろありがた迷惑・はた迷惑であった。
 誰も、近代化を望んではいなかった。
 「時代の夜明け」など、ちゃんちゃらおかしいかった。
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 2017年4月8日号 週刊現代「アースダイバー 中沢新一
 築地市場
 第15回 日本橋から築地へ(1)
 魚河岸は自然と文化をつなぐインターフェイスの場である。
 魚河岸は胸を開いて自然の力を受け入れる。
 魚河岸への圧力
 日本橋魚河岸は江戸文化の象徴のような存在であったため、明治新政府はことあるごとに、魚河岸に冷たかった。
 魚河岸の問屋はそれまで特権的な『株』というものを持っていた。この株は、他人に売ったり、譲渡したりすることが、簡単にできないもので、この制度のおかげで、新参者が魚河岸で商売したりと思っても、この株がなければ居場所を得ることはできなかった。問屋の特権と魚河岸の安定を守ってきた、この古いタイプの株制度を、明治政府はあっさり廃止してしまった。
 するとたちまちにして、魚河岸には新規の業者が流れ込んできて、混乱がはじまった。大森から深川まで、東京湾の周辺には、つぎつぎと新しい魚鳥市場(魚と鳥をいっしょに売った)が開設さえ、日本橋魚河岸のブランドは、大いに傷つけられることになった。そうなると当然、魚河岸の秩序は乱れていった。季節によっては、魚河岸に腐った魚貝が大量に捨てられ、人々は鼻をつまんで歩かなくてはならないほどになった。
 とにかく新政府は、日本橋に魚河岸のあること自体が、気に入らなかったのである。日本橋の界隈は銀座と並んで、『文明開化』に向けて開かれた表玄関である。そこに生魚を売る市場が広がり、下駄を長靴に履き替えた強面(こわもて)の兄いたちが、素人衆が容易に踏み込みことを許さない聖域(アジール)をつくっている。彼らは役人でさえ恐れない。江戸時代に鍛えられた魚河岸の反権力主義は、こんどは新時代の精神そのものに、屈強な批判の目を向けていた。
 たくさんの外国人が東京に出入りするとうになると、たびたぶコレラの流行が起こった。そのたびに新政府の役人は、御用新聞を使って、コレラの発生源は魚河岸にありという偽情報を流して、日本橋から魚河岸は撤退させようという世論を煽ろうとした。河岸の兄いたちは、そのたびに激怒した。
 こういう事態にたいして魚河岸の側でも、さまざまな制度改革を進めることで、時代に乗り遅れまいとした。旧来の株制度が廃止に追い込まれたあと、東京・大阪にはつぎつぎと、『会社』という新しい企業形態が誕生していた。魚河岸の問屋たちは知恵をしぼって、『販魚会社』なる会社を設立しようとした。資本金を1万500円として、一株30円で、発起人は魚河岸の名だたる問屋たちである。問屋たちは新しい企業形態に生まれ変わることで、魚河岸を新時代に適応させようと努力を重ねた。こうして日本橋魚河岸は、ゆっくりと、変わっていった。
 自然と文化の大分離
 『文明開化』をめざす新政府が、日本橋魚河岸に冷淡な態度をとったことには、深い文明論的な意味が込められている。新政府は西洋文明を大胆に取り入れて、日本を西洋に伍することのできる、近代国家に生まれ変わらせようとした。そのさいにモデルとした西洋風な諸制度の背後には、『自然と文化の大分離』という原理が、厳然と作動していた。
 この原理によると、人間は自然に優越した存在で、人間が文化と技術をもってつくりあげる世界は、自然とは根本的に違う原理によってつくられる。近代以前の世界では、自然と人間の分離が不十分だったので、人間のつくる文化の中に自然の原理が混ざり込んでいた。しかしこれから真の近代人によって生み出される文化は、自然からの影響を排除して、計画性にそって正しく設計された、予想可能で操作もできる、衛生的に管理されたものとなっていかなければならない。自然と文化を分離することの原理を掲げて、西洋の近代世界はつくられてきた。
 新政府の官僚と官僚的知識人たちは、西洋に近代世界をつくりだしたこの原理を、ほとんど無反省のまま、無邪気に受け入れようとした。自分たちの文明をつくりあげてきたのが、それとはまったく異なる原理によっている事実に、彼らは目をふさいで、強引な近代化を押しすすめようとしたのだった。
 ところが日本列島に形成されてきた文明は、『自然と文化を分離しない』という原理によって、生み出されてきた。人間のつくる文化は、自然から分離されるのではなく、むしろ自然につながっていなければならない。自然を生み出す原理が、文化を形成する原理ともなる。自然の力は人間の世界から遮断されるのではなく、人間の世界にたえず流れ込んでいる。日本人が理想としてきた文明の形は、自然を制圧するのではなく、人間と自然が触れ合う境界面に、ハイブリッドな文化装置を設置することで、お互いの調停点を探ろうとするものだった。
 新政府は、このような日本的な原理から生み出されてきたさまざまな文化を、頑迷で遅れた、前近代的な遺物として、葬り去りたかったのである。そしてその代表が、日本橋にとぐろを巻いて巣くっている(と新政府の役人たちには見えた)、魚河岸という存在であった。
 魚河岸の自然哲学(1)
 じっさい、日本橋に形成されてきた魚河岸の文化は、『自然と人間を分離しない』という日本型原理が生んだ、最高の作品の一つでる。魚河岸は海に直接に面している。そこに魚貝を満載した平田船が接岸してくる。陸揚げされた魚貝は、ただちに仲買人たちによってセリにかけられ、値段が決められ、海の生物は商品に変身する。こうして小売の手に渡った魚貝は、できるだけ新鮮なうちに、消費者のもとに届けられるべく、魚河岸を駆け出していく。
 これだけのことを見るだけでも、魚河岸が、海の自然と人間とをつなぐ『インターフェイス(境界面)』の働きをしているのが、よくわかる。自然と人間の世界を分離するのではなく、結合する働きをしている。魚河岸という場所を通過することで、自然界のものが文化的なものに、変身をとげる。魚河岸はそういう転換の場所なのであり、そこに生臭い自然の匂いが充満するのも、当然である。」
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 4月15日号 週刊現代「アースダイバー
 築地市場
 第16回 日本橋から築地へ(2)
 魚河岸の自然哲学(2)
 日本人は『自然と文化を分離しない』という原理をもとに、文明を築いてきた。そのために、自然と文化が入り混じる『境界(インターフェイス)』には、じつに味のある、複雑な組織がつくられてきた。
 魚河岸がそのような境界の典型である。魚河岸は市場であるが、そもそも市場というものは、共同体と共同体の境界につくられ、そこで物品の交換がおこなわれる。市場とは、外のものが内部に流入してくる場所である。魚河岸の場合はそのことに加えて、海の自然からもたらされた富を、人間世界に陸揚げして、食の商品に変える境界でもある。魚河岸は二重三重の意味合いをはらんだ境界として、日本的な創造原理が自己実現をとげてきた場所なのだ。
 魚河岸は、海の自然と人間文化の入り混じった境界であるから、海の自然が奥深くまで入り込んでいる。板舟に並べられた魚には、しじゅう海水が注がれて、鮮度が保たれている。活け船や水槽を使って、慎重に魚河岸に運び込まれた魚たちなどは、自分たちが市場にいることにも気づかないで、ゆったりと水の中を泳ぎ回っている。
 自然と文化の混在したその境界の空間を、仲卸(仲買)たちが、所狭しと動き回っている。その仲卸自身が、境界的な生き物である。
 仲卸は、問屋にとって産地の海から運び込まれた魚貝を、セリにかけ、人間世界の商品に変える役目をになっている。彼らは、相手の顔を知り抜いている寿司屋や料理店や小売の魚屋のために、できるだけ質の良い海の食材を用意したいと願っている。その日に入荷された魚貝を、彼らは半魚人特有の鋭い目利きをもって正確に評価し、陸に棲む人々に手渡そうとしている。
 こうして、海であり同時に陸でもある、この魚河岸という両義的な境界には、代々の仲卸によって、海の食材に関する莫大な知識が蓄積されることになった。境界の領域に、もっとも貴重な知財が蓄積されるというのが、『自然と文化を分離しない』日本文化の大きな特徴をなしている。日本の農村文化では『里山』が、そのような知財の集積される境界をつくってきた。その里山を凌駕するような豊かな境界を、日本の海民文化は、魚河岸として実現してきた。その意味で、魚河岸の文化は、日本型原理の生み出した最高の作品の一つである。と私は思うのである。
 移転論の台頭
 しかしそういう日本型文化の典型のような魚河岸であればこそ、文明開化の時代に、大きな困難に直面した。文明開化のモデルとなった西洋の近代は、『自然と文化の大分離』という原理を実現しようとしていた。この原理では、自然と人間世界の境界につくられてきた、豊穣な中間領域などは認められない。
 人間の世界の内部に、自然界が深く入り込んでくると、腐敗や死や病気がもたらされるからである。そういう事態を阻止するために、近代世界は自然界から切り離された、『衛生的』な都市を設計しようとした。新政府のブレーンたちは、そういう衛生的な近代都市に、東京は生まれ変わらなければならないと信じていた。
 憲法発布の前年である明治21年(1888)の夏、東京府は新しい街造りに着手すべく、東京市区改正条例を制定して、本格的な東京改造に乗り出した。江戸の都市構造は、火事と風水害にきわめて弱いという弱点をもっていた。この点を改造するために、東京を区画整備して、商業区、工業区、住居区などに分け、衛生的な近代都市への計画的な発展を図ろうとした。
 その計画では、市場の設置場所は、箱崎、芝、深川の三ヵ所に限定され、そこに新しい市場が開場される予定であった。このうち最大の広さを持つのは箱崎市場で、約5万坪の広さをもち、他の二つは2,000〜3,000坪である。この計画にしたがえば、日本橋にあった魚河岸(当時は魚鳥市場)は、10年以内に指定された場所に移転しなければならないこととなった。しかも、移転にかかる費用の全額は、業者自らが負担すべし、という性急で乱暴な命令であった。
 このとき魚河岸といっしょに、移転を命じられたのは、青物市場、獣肉市場、屠場、火葬場など。自然の生死のサイクルに関わる業界が、衛生的な都市実現のために、所定の区画への移転を命じられたのである。おまけに、移転を監督する役目をまかされたのは、庶民に高圧的な態度で臨むことで恐れられた警視庁であり、これ以後、日本橋魚河岸との間で、暗闘が続くことになる。
 移転派VS.非移転派
 この移転命令をうけるや、はじめ魚河岸は断固たる反対を表明した。たった10年で移転を完了しろだと、移転にかかるもろもろの費用も全部こちとら持ちだと。魚河岸は旧知の議員を使って、東京府に反対圧力をかけ続けた。
 それにはさすがの東京府もまいって、移転期間を10年延長して、20年後とすることを認めた。ところが10年目の明治32年になっても、いっこうに魚河岸に移転の気配すらなく、さらに5年、さらに5年と、移転時期は延長されていった。しかしその間にも、膨張する東京は、近代都市としての発展を続けていた。日本橋魚河岸の置かれた状況は、けっして明るいものではなかった。
 問屋の多くは、現地での営業を望んでいた。衛生面の設備を改良するとともに、河岸に大きな桟橋を架設して、利用面積を広くすることで、改良を図ろうとした。他にも中州に市場を移す案、芝浦の埋立地案などが飛び出し、侃々諤々(かんかんがくがく)の状態となった。
 魚河岸の内部は、移転派と非移転派とに、別れていった。非移転派は財閥派とも呼ばれ、市場内に住宅や売り場をもっている人が多く、移転派はそういう財産を持っていない人が多かった。そのため、有産者=非移転派、無産者=移転派という階級構図ができあがり、おりしも大正デモクラシーの時代を迎えて、双方の論客たちがいかに激しく議論を戦わせて、一歩も引かない状況になっていった。」
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 魚河岸は海近く河近くで魚介類と死体を扱う「穢」た商売とされ、獣・動物の死で生活する賤民より上とみられたが、米屋や八百屋より下と見下されていた。
 明治新政府は、近代化の一環として身分制度を廃止した。
 「穢」として忌避されてきた魚河岸の身分・地位は改善されたが、同時に徳川幕府から保護の為に与えられていた特権が剥奪された。
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 江戸庶民は、賤民に近い身分の死に穢れた魚河岸若衆を反権力の豪の者として尊敬の眼で眺めていた。
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 死を扱う穢れた魚河岸や魚屋は、逃げ隠れせず、表通りで堂々と商売をしていた。
 江戸文化の「粋」「気風」「男伊達」を体現していたのは、身分が低い魚河岸若衆・火消人足・鳶職などの死に近い穢れた職業人達であった。
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 キリスト教共産主義の真の敵は、御上に楯突く反権力を隠さない下層民達であった。
 忌み嫌われ忌避され続けた下層民が唯一従うのは、日本中心神話に正統性を与えている神の裔・日本天皇のみであった。
 天皇家・皇室の強力な守護者は、穢れた下層民達であった。
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 下層民は、大陸の人民・民衆・大衆のような無智でもなければ馬鹿でもなかった為に、キリスト教の奇跡に救いを求めなかったし、社会を根底から破壊する共産主義に染まる事もなかった。
 キリスト教に改宗し、共産主義に暴走したのは、権力を持った裕福な上流階層や高学歴な知的エリートであった。
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 下層民は、明治維新を境にして、近世の江戸時代以前と近代の明治時代以降では異なる。
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 下からの日本と上からの西洋とは、真逆な社会である。
 日本は実践的であり、西洋は理論的であった。
 その為に、日本には思想も哲学も主義も生まれなかった。
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 東洋といっても、実践的な日本と観念的な中国・朝鮮とは全く異なる社会であった。
 西洋に近かったのは、日本ではなく、中国や朝鮮であった。
 日本は、東洋の中で憧れたのは、中国や朝鮮ではなく、釈迦を生み出したインドであった。
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 聖と俗や自然と人間の境界に存在している日本人が、日本天皇である。
 俗・人間である日本天皇は、境界に立つ唯一の存在として、唯一人で、孤独に、聖・自然への祈りと祀りを行っている。
 境界に立つ日本天皇に求められる唯一の徳目は、「徳」のみである。
 「崇高な徳」を持った日本天皇が、唯一人、孤独に境界に立ち、両界に向けて勅・詔を宣べ、御製・和歌を詠われる。 
 日本天皇の御言葉には、最も尊い「言霊」が宿っている。
 それが、日本型祭祀の天皇制度である。
 日本天皇は、祖先神・氏神の血・魂・心・志・気概が繋がった天皇霊をまとう。
 皇統とは、崇高な徳を持つ天皇霊を宿す事である。
 神聖不可侵の存在とは、崇高な徳を持った天皇霊を宿した事である。
 それゆえに、日本天皇には「血筋」の一員でしか即位できない。
 「血筋」の異なる赤の他人が天皇に即位したら、祖先の天皇霊を宿る事ができず、崇高な徳を持てず、聖と俗・自然と人間の境界には立てないし、祈りも祀りも主宰できない。
 そして、聖・自然と俗・人間の境界は消滅し、両界は完全に遮断される。
 天皇制度が、万世一系男系天皇(直系長子相続)で守られてきた理由である。
 天皇は、一系である。
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 反宗教無神論者の反天皇反日的日本人は、「境界に立つ唯一の神聖な御一人」という意味を十分に理解した上で天皇制度を廃絶しようとしている。
 日本人で、反宗教無神論者も、反天皇反日的日本人も、明治の西洋式近代教育を受けた高学歴知的エリートの系譜にある人々である。
 反天皇反日的日本人は、日本国籍を持っていても、日本民族日本人とは異質である。


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