🍙26〗─1─日本本土海上封鎖による「飢餓作戦」。日本殲滅(滅亡)計画の「ダウンフォール作戦」。三河地震。昭和20年~No.166No.167No.168 @ 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・{東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 昭和19年度産米 …5,856万石。 約878万トン。
 国内総人口    …7,281万人。
 昭和20年度消費量…6,811万石。
 昭和20年度輸入量…  150万石。
 昭和20年度移入量…  150万石。
 昭和20年度供給量…6,186万石。
   ・   ・   ・  
 軍国日本の食料事情は悪化し、食糧配給は深刻度を深めていた。
 日本人は、食べる量が減り健康を害するほどの栄養不足に陥っていたが、ニセの戦果を発表する大本営発表を信じ、精神力で最終勝利に期待を込めて耐えに絶えていた。
 空腹を精神主義で乗り越え、一心不乱に本土決戦の為の竹槍訓練を繰り返していた。
 日本本土では餓死者は出ていなかったが、太平洋戦線では日本兵士の多くが戦死ではなく餓死で死体の山を築いていた。
 女子供を助ける為に進んで死を選ぶのが、日本精神を持った日本男子であった。
 ゆえに、後方で生き残った者は、戦場で死んだ日本男子を神として靖国神社に祀り、その尊い死に感謝し、その死という功績を顕彰した。
   ・   ・   ・   
 軍部がニセの戦果を大本営発表として発表しても、憲兵隊や警察当局が厳しく取り締まっても、日本が負けているという噂は広がっていた。
 地図が読める国民は、軍部の嘘には騙されなかった。
 短波ラジオを持ち外国語が分かる国民は、連合軍の放送をこっそりと聴き、その情報を流していた。
   ・   ・   ・   
 軍国日本は、食糧供給能力をなくし、1億総玉砕か、1億総餓死かに、追い詰められた。
   ・   ・   ・   
 日本は、深刻な食料不足に追い込まれていった。
   ・   ・   ・   
 敗北間近の日本とって、朝鮮とは如何なる存在か?
 その時、朝鮮人はどう行動するのか?
 朝鮮半島には、約3,000万人の朝鮮人が生活していた。
 日本国内には、約200万人の朝鮮人達が生活していた。
 彼らは、日本憎しの反日派・敵日派か、さもなくば、日本に協力的な親日派知日派か。
 敵か味方か?
 もし、敵になり、連合軍に味方して叛乱を起こせば日本は一溜まりもなく滅亡する!
 大日本帝国内の朝鮮・朝鮮人の存在は恐怖であった。
   ・   ・   ・   
 戦局の悪化により、朝鮮、台湾、満州からの食糧輸送は不可能となった。
 日本国内の朝鮮人や中国人は、憎き日本が敗北する事を海外ラジオ放送で知り、反日行動の好機を窺っていたと思われる。
   ・   ・   ・   
 連合軍の猛攻で、護衛のない輸送船は撃沈されて海上輸送路は遮断され、日本を中心とした大東亜共栄圏全体の供給網は完全破壊された。
 その結果。南方からの食糧輸送も途絶え、国内の食糧不足は深刻化して餓死者を出す寸前まで悪化していた。
 北部仏印では、数百万人が飢餓に追い込まれ、200万人以上のベトナム人が餓死したといわれる。占領地内で多くの餓死者を出した事は、日本軍の戦争犯罪とされた。
 日本人兵士の死亡は、輸送船の激減で、補給が来なくなった為に戦死するよりも餓死の方が多かった。
 だが。連合国軍兵士捕虜は、飢餓状態に追い詰められたが、餓死は少なかった。
 日本人と同じ乏しい食事を、連合国軍兵士捕虜に食べさせた日本兵は戦犯とされ、捕虜虐待の罪で処刑された。
 アメリカ軍は、日本の輸送船を発見しだい撃沈し、朝鮮や満州からの食糧などの必要物資が輸入できなくなった。
 銃後の日本は、乏しい配給で食いつなぎ、野菜はもちろん食べられる雑草や海草や小動物を混ぜて飢えをしのいだ。
 日々の食料もまともに食えなくなった本土の日本人は、僅か一握りの米に大根や芋や豆を混ぜ込んで空腹を紛らわせた。
 乳幼児には、僅かに米粒がある様な重湯を呑ませて我慢させた。
 日本全体に食糧不足となり、日本人は餓死しない様にして絶望的な戦争を続けていた。
 日本人は、「ひもじさ」に堪えながら、絶望せず、諦めず、勝つ事のみを信じて戦っていた。
 最後の勝利を信じていた日本人は、神憑り的精神主義で飢餓に耐え、国内では餓死者を出さない様に食べ物を分け合い助け合った。
 彼らは、人を信じ、励まし合い庇い合って困難に立ち向かっていた。
 日本は、無差別爆撃と海上封鎖で抗戦力をなくし、11月予定のアメリカ軍による九州上陸作戦を待たずして、年内に降伏せざるを得ない状況に追い込まれていた。
 アメリカは、日本が崩壊寸前である事を、日本国内の協力者(大半がキリスト教徒)からの情報提供で熟知していた。
 日本国内には、数万人の日本人や朝鮮人キリスト教徒が存在し、バチカンとの友好関係から戦争を妨害しない範囲での行動が認められていた。
 だが、彼らは信者に戦争反対を説き、日本は負けると耳打ちして厭戦気分を広めていた。
 キリスト教会は、密かに神社参拝を否定し、異教国日本を敗戦へと導いていた。
 日本政府は、国内の労働力不足を補う為に、輸送船を確保して100万人以上の朝鮮人を日本に強制連行した。
 朝鮮人は、中国人同様に美食で大食を人生の最高の喜びとするだけに、その食欲は少食を美徳とする日本人の食べる量の数倍はあった。
   ・   ・   ・   
 戦争中の児童の集団疎開に於いてイジメがあったが、地域の食べ物が少なく都会に対して長年に亘って恨み辛みを募らせている地方に多くあった。
 都会に対する憎悪に近い敵意を持つ地方に強制疎開させられた児童は、悲惨であった。
   ・   ・   ・   
 アメリカ海軍機動艦隊は、日本本土近海に接近し、Bー29爆撃部隊では爆撃できない地方の各種需工場、港湾、鉄道、橋梁、道路などを攻撃していた。
 日本陸海軍航空部隊は、「攻撃こそ最良の防御」の原則から、沖縄方面へのカミカゼ特攻を継続して行っていたが、日本各地を攻撃している敵空母艦載機への迎撃を行わなかった。
 僅かでも軍事知識のある者からすれば、日本の敗北は火を見るよりも明らかで、後は時間の問題であった。
 アメリカ軍は、日本人を餓死寸前まで追い込む為に完全封鎖作戦を実行した。
 B−29や潜水艦は、日本の全ての港湾に大量の機雷を設置した。
 空母艦載機と潜水艦は、港内に隠されている船舶や海上の漁船まで海に浮かぶ全ての船を攻撃し破壊した。
 日本海側の港湾も容赦なく攻撃されて、安全な港湾は一つもなかった。
 3月末までに、瀬戸内海航路を含む全ての海上交通は封鎖され、小さな漁船でも沿岸から100メートル沖に出ることが出来なくなった。
 日本の周辺海域は、アメリカ海軍によって完全支配された。
 慢性的食糧不足にあった軍国日本は、南方はおろか朝鮮や満州からも食糧を運び込むことが出来なくなり、日本人は餓死に追い込まれ始めた。
 日本陸軍が主張する本土決戦など、幾ら日本軍兵士の為に食糧などの戦略物資を備蓄しても、日本国内に約7,000万人を食わせるだけの食糧がない以上は不可能であった。
 そして。昭和20年は、大凶作であった。
 軍部は、第一線の正規兵250万人と予備役兵400万人と国民義勇兵2,800万人、陸軍航空隊7,000機、海軍航空隊6,000機、その他多数の特攻兵器があると豪語し、強気の徹底抗戦を主張していた。
 だが、その実態は貧弱で本土決戦など出来る状態ではなかった。
   ・   ・   ・   
 パラオ本島は、戦場の後方に取り残され、内地からの補給が遮断されて、武器弾薬はあっても食糧がなくなった。
 武器の傍らに座り込む兵士達は、カゲやヘビやネズミなどの動物から草や木の皮・根っこまで食べながら飢えをしのいだ。
 ひもじさに耐えられなくなった者は、食べれば死ぬと分かっている毒性の強い芋を食べ、痙攣しもがき苦しみながら死んでいった。
 空腹に耐えられなくなった者は、山の様な武器を使って自殺した。
   ・   ・   ・   
 連合軍の日本人兵士捕虜収容所は、日本軍の連合軍兵士捕虜収容所に負けないほどに非人道的で、日本人兵士捕虜に対する虐待は激しかった。
   ・   ・   ・   
 軍国日本は、戦闘可能な日本人の男性と女性を本土決戦兵士として徴用し、労働不足を埋める為に朝鮮人の男女を徴用した。
 だが、日本と朝鮮との航路は遮断されていた為に、朝鮮人徴用工や勤労奉使隊・女子挺身隊を日本に移動させる事は不可能となっていた。
 日本人は「死」する玉砕用兵士にされ、朝鮮人は「生」きる戦争継続の労働者にされた。 
 日本人は女子供も死に、朝鮮人は生きた。
   ・   ・   ・   
 1945年1月13日 三河地震直下型地震。M6.8。被害者数、死者2,386人、行方不明者1,126人、負傷者3,866人。
 東南海大地震で倒壊を免れた東海地域の軍需工場の大半が倒壊した。
 中央気象台は、地震に関する極秘報告書を赤坂葵町の技術院総務部調査課長に送った。
 アメリカ軍報告「地震津波が東京を襲った」
 アメリカ軍は、関東大震災より激しい地震が日本中部を襲い、軍需工場に壊滅的破壊をもたらしてこれ以上の戦争遂行は不可能と分析した。
 重光葵「大地震による損害は、空襲によるものよりも遙かに大きかった」「空襲と地震渡とによって我が軍需工場は再び立つ能わざる致命的損害を受けた」
 ウィキペディア
 救援活動
 地震が発生した当時は太平洋戦争中であり、当時の政府当局によって国民の戦意を低下させないことや軍需工場の被害を伏せるため(敵への情報流出も作戦へ影響する)報道管制が敷かれ、地震発生の報道はなされたものの被害規模やその後の状況などは多くが伏せられた。ただし、地元でもある中部日本新聞(現・中日新聞)は比較的多い報道を行なったほか、名古屋大学教授らからなる震害地学術調査団を現地に派遣している。 地震被害の報道がなされなかったことで、近隣地域からの救護団も無く更に、地震直後の行政による組織的な救援活動が実施されたとの記録は残っていない。しかし、明治航空基地や海軍基地の軍関係者による小規模な救助及び復旧活動が行われたとの証言が残っている。
 地震発生から2カ月後から行政(県)の手配による「工作体」が組織され復旧活動が進められた。
   ・   ・   ・   
 大陸の常識からいえば。敗走続きの上に大災害が起きれば、君主や政府への不平不満から暴動が起きた。反体制派は、敵軍と単独和平をし、祖国解放の大義を掲げて、君主制打倒の為に内戦を起こた。敵国軍の支援を受けた人民軍は、政府を打倒して、君主とその取り巻き一派を逮捕し、人民から搾取した罪で人民裁判に掛け、見せしめに公開で処刑した。
 世界的な人民革命は、前体制派や君主派を皆殺しにする凄惨なる大虐殺で成就した。
 だが。日本の常識は世界の非常識であり、日本には人類史・世界史・大陸史が共有する世界基準は通用しなかった。
 1月18日 ヴァージニア州ホットスプリングで開催されていた太平洋問題調査会は、戦後の日本から天皇制度を廃止し、農業国として主要産業を連合国の管理下に置くという、共産主義的「日本処理案」を発表した。
 調査会に出資している財閥や企業団の多くが、原爆開発に参加していた。第一次世界大戦後の大恐慌を経験した資本家らは、戦争終了後に平時経済に混乱なく回帰させ繁栄を維持する為に原子力産業を利用しようとした。その為にも、原爆その存在を知らしめる必要があった。つまり、日本への原爆投下は是が非でも実施させねばなたなかった。
   ・   ・   ・   
 1月30日(〜2月3日) マルタ会談(コードネーム、アルゴーとクリケット)。ルーズベルトは、健康状態もあって会談には参加できなぁった。
 会談は、ヤルタ会談に向けての準備、ナチス・ドイツに対する最後の戦いの計画、ホロコーストから救出されたユダヤ人数百万人をどうするか、そしてソ連軍を中央ヨーロッパまで侵入させない。
 アメリカとイギリスの軍首脳部は、日本殲滅(滅亡)計画である日本本土上陸の「ダウンフォール作戦」が議論された。
   ・   ・   ・   
 2月 政府・軍部は、本土決戦に備えて、中高年の予備役兵や兵役検査で不合格となった病弱者など150万人を動員する第一次大動員令を発した。 
 武器弾薬がなかった為に竹槍や混紡を渡し、海岸線に防衛陣地としての塹壕堀を命じた。
 兵糧不足から、将兵は食料現地調達を命じられ、山野に分け入って山菜を、海や川に潜って魚介類や水草を、日頃食べそうもない物でも採取して食べて決戦に備えた。
 日本将兵は、助からない絶望的状況にあっても、盲目的に上官の命令に従って規律を守って集団行動をとっていた。
 日本各地では、食べ物が極端に不足し、餓死する一歩手前の飢餓状態にあった。
 当時の臣民・日本人は、飢えに苦しみ痩せ細ってフラフラになっても、国體を守る為に本土決戦によって玉砕する事を覚悟していた。
 その悪鬼迫る気力のせいで、国内での餓死者はまだいなかった。
 「神風」を信ずる女性や子供さえ、竹槍で、敵航空機を撃墜し、敵戦車を破壊し、敵軍艦を轟沈する気迫を見せていた。
 一部の作戦部将校は、戦略から、弱兵の彼らは弾よけで玉砕するだけの補充兵と割り切っていた。
 その後も動員令が行われ、婦女子も本土防衛の人柱として竹槍訓練が強要された。
 2月4日 ヤルタ会議(〜2月10日)。スターリンは、日本に対する戦争に参加するという対日秘密協定に署名した。ソ連軍の満州侵攻は、ヨーロッパの勝利のあと2ヶ月から3ヶ月のちとされた。つまり、5月上旬にナチス・ドイツを敗北させたとして、7月上旬から8月上旬の間とされた。
 ソ連は、アメリカの武器貸与法による支援のもとで、中国を支配しソビエト化する計画を進めた。極東戦略として、朝鮮はもちろん日本をも領有化する計画を立てていた。それが、帝政ロシアからの伝統的アジア戦略であった。
 米ソが、世界を再編成し、その新秩序のもとで世界の安定を図るというのがヤルタの密約であった。
 2月5日 ニューヨーク・タイムズ紙「連合軍の爆撃に晒され、精神異常の状態でさ迷いながら逃げる日本兵の掃討する任務は、百戦錬磨の海兵隊員でさえ吐き気をもよおすものだった」
 だが。宗教的人種差別主義のアメリカ人は、非白人で異教徒の日本人は絶対神によって創造された人間とは認めていなかった為に、白人でキリスト教徒のドイツ人を殺害するほどの罪悪感にとらわれる事はなかった。つまり。太平洋戦線では、人種差別的認識があった為に精神障害に罹るアメリカ兵はあまりいなかった。
 2月8日 ヤルタ会談アメリカとソ連は、極東アジア諸問題解決の為に、日本分割と朝鮮分断と中国の共産主義化について密約を結んだ。ルーズベルトは、南樺太・全千島列島・北海道の半分をソ連領とする事に合意した。
 2月10日 青森県東方沖で地震。M7.1。青森県八戸市で最大震度5。死者2人。
 2月19日 政府は、全ての新聞に天皇を廃止するという「日本処理案」を掲載して、国民に知らせた。
   ・   ・   ・   
 3月 日本の大本営は、フィリピンのマッカーサーの司令部に対して沖縄戦の前に停戦を申し込んだ。
 ルーズベルトは、原爆の都市実験を日本で実施する為に、日本からの和平交渉の提案を拒絶した。
 当時の北部仏印は、歴史的な洪水が発生していて、食糧不足から飢餓が発生していた。
 人種差別が強くプライドが高い仏印植民地政府は、植民地のベトナム人が幾千万人飢えて死のうと意に介さなかったが、被災民救済を行うキリスト教会の訴えに、責任を軍事支配している日本軍に転嫁した。
 ド・ゴールは、44年8月に連合国軍の軍事支援を受けて首都パリからドイツ軍を駆逐した。ヴィシー政権は崩壊して、フランスは正式に連合国の一員となる。
 3月2日 農商務省は、配給の公正を厳格に期す目的で、幽霊人口を約100万人と推定し、配給不正受給者は詐欺罪で厳しく処罰すると発表した。
 憲兵隊や警察当局は、政府高官や高級級官僚であろうと上級将校であろうと、容赦なく監視の目を光らせ、時局を弁えない不正者は「非国民」として摘発した。 
 何時の時代でも、自分の事しか考えず、他人への迷惑を顧みない「心汚い」日本人はいた。そうした心汚い日本人は、自分の行為を正当化する為に言葉巧みに責任を他人に押し付けて、他人や社会に迷惑をかけようとも傲慢に振る舞っている。
 昭和天皇は、皇室は国民の模範となるべきとの信念から、戦場の兵士を惨苦を思い、兵士と同じ食事を取っていた。
 皇族も、昭和天皇の大御心に従い、庶民と同じ粗食と少食を旨としていた。
 軍部は、特攻隊員や一部の軍人と技術者には優先的に食料を与えていた。
 特攻隊員など特殊な任務を与えられた兵士が、「死」を宣告された様に自暴自棄となり、傍若無人に暴れ回り、一般市民に迷惑をかけ、八つ当たり的に破壊行為をしようとも大目に見て見逃した。
 軍国日本は、軍人が暴力的に威張る軍国主義国家であった。
    ・   ・   ・   
 3月6日 W型戦時標準船第五青函丸沈没事故。
    ・   ・   ・   
 3月9日 仏印に駐屯する日本部隊は、明号作戦を発動して、仏印植民地政府を敵と見なして親日的な独立派ベトナム人に協力してクーデターを起こした。
 日本軍は、親日派政権を樹立するべくチーファ監獄など各地の刑務所から独立派の政治犯を解放した。
 同時に、フランス人の下僕の様になって苛酷な徴税とアヘン専売で暴利を稼いでいた華僑を現場から追放した。
 追放されら華僑は、私産を取り返す為に、反ファシスト戦線に走って日本軍に抵抗した。
 3月11日 日本軍は、バオダイ帝統治下で安南王国を独立させた。
 ホーチミン(本名・阮愛国)は、アメリカのOSSの支援を受けて日本軍に攻勢を掛け、勢力を全ベトナムに拡大した。
 日本軍は、仏印植民地政府の食料庫を開放して米を大量に放出して被災者に配った。
 さらに、東南アジア経済を支配し暴利を得て優雅に生活していた華僑から財産を没収した。
 これが。悪名高い、占領地から強奪した天皇の闇私産といわれた「菊の財宝」である。
 百姓根性の日本人は、飢えの苦しみや空腹のひもじさを人一倍肌身で知っているだけに、相互扶助の精神で飢餓に陥ったベトナム人被災者を救済する為に奔走した。
 連合軍は南北ベトナムの日本軍補給網を攻撃して破壊し、抗日ゲリラは各地で日本軍補給部隊を襲撃して強奪した。
 落合茂「日本軍は辻に大釜を出して人々に粥を振る舞った」(高射砲部隊)
 小山房二「仏人経営の雑貨店マゾワイエの日本人女将が炊き出しをした。ベトナム人の反仏暴動があったとき、この店だけは襲われなかった」(同盟通信特派員)
 だが。最悪な飢餓状態に陥ったために、日本軍が支配した5が月間で200万人が餓死したといわれている。
 日本軍は、「アジアの解放」という大義から、3月13日にカンボジアを、4月にラオスをフランス支配から独立させ、同時に華僑の経済支配を破壊した。
 3月19日 国内の食糧を確保する為に、各地の動物園にさらなる動物の殺処分を要請した。つまり、「動物より人」としての暗黙の強制であった。だが、子供は自分の食べ物を動物に与え、「ひもじさ」を我慢した。
 上野動物公園は、カバの絶食処分を決定した。4月1日にオスが、4月24日にメスが、餓死した。餓死は残酷で、薬殺するか、銃殺にすべきであったとされた。職員は、当局の指示を無視して、残った動物を助ける為にエサを掻き集める為に奔走していた。
 憲兵隊や警察当職は、戦時下の非常時を理由にして、人間の食べ物を動物い与える事は非常識、非国民行為と譴責した。
 軍部は、本土決戦の為として、国内にある食糧や医薬品など生活必需品を強制的に挑発して、全国各地の基地内に隠匿した。
 軍需産業の関係者や高級将校は、役得として隠匿物資を横領していた。
 日本は、古代から動物を家族の一員として大事にしてきただけに、動物を虐待し虐殺する事を忌み嫌っていた。
 日本の食生活は、魚と植物が中心で、大陸の様な肉食ではなかった。
 日本人の体型は、腸が長い胴長短足で、植物食に適している。
 大陸人の体型は、腸が短い胴短長足で、食肉に適している。
   ・   ・   ・    
 3月22日・23日 青森県赤石村大然(おおじかり)集落に空前の雪泥流洪水。
   ・   ・   ・   
 アメリカ軍の国ごと海上封鎖作戦「飢餓作戦」。
 日本は、食糧・資源・エネルギーを外国に依存し海外から輸入しなければ生きられないという、致命的な弱点を持っていた。
 3月27日 B29編隊は、山口県付近から関門海峡へ侵入し、海上封鎖用の機雷Mk26機雷約1,800個を散布した。
 これ以降、B29編隊の編隊は都市部無差別爆撃と平行して港と航路封鎖の為に機雷を散布した。
 飢餓作戦で散歩された機雷は、約1万2,000個であった。
 軍国日本は、開戦初期に軍民合わせて約630万トンの船舶を保有していたが、アメリカ海軍の潜水部隊や航空機によって撃沈されて激減した。
 アーネスト・キング元帥「地上侵攻をせずとも、封鎖の影響で食糧・燃料・医薬品の欠乏で、飢えに到らしめられた日本は降伏やむなきに至る」
 敗戦までに、日本船舶293隻が触雷(しょくらい)で沈没した。
   ・   ・   ・   
 4月 中谷武世と赤城宗徳らが結成した護憲同志会(議員32人)は、鈴木内閣が戦争終結交渉を行おうとしているとの情報を得るや、本土決戦による聖戦の勝利を目指すべく鈴木内閣の打倒に動き始めた。
 4月5日 ソ連は、日ソ中立条約破棄を発表した。だが、有効期限は5年間で、なをあと1年は有効であった。
 だが。ソ連共産主義勢力は、国際法に基ずく条約も協定も協約も、如何なる約束事を守るつもりはなかった。
 ソ連軍は、日本に侵攻する為に大軍をシベリアに急送していた。
 日本人マルクス主義者は、天皇制度を打倒し、日本を共産主義化する為に、ソ連軍を日本に上陸させるべく全面的に協力していた。
 4月7日 小磯内閣は、政治、軍事、外交に成果らしい成果を残すことなく、軍部からつんぼ桟敷に置かれて解散した。かわって、海軍出身の鈴木貫太郎が内閣を組織した。
 陸軍も海軍も、戦争の継続は不可能であるとの認識では一致していた。後は、どうやって天皇の地位の保証と国家の体面を守るか。
 つまり、国體護持を貫くかであった。
 阿南惟幾陸相も米内光政海相も、戦争継続で辞表を提出して内閣を瓦解させる気はなかった。
 繆斌を通じ、重慶政府を仲介とした和平工作は失敗した。
 ソ連モロトフ外相は、佐藤駐ソ大使に日ソ中立条約の不延期を申し出た。
 東京の陸軍中央や外務省に、ソ連軍がシベリア鉄道を使用して大軍を極東へ輸送し、満州国境に配置しているとの情報が絶える事なく送られていた。
 ソ連は、戦後のアジア再編に影響力を強め共産主義陣営の拡大の為に、対日強硬姿勢を強めた。
 アメリカ軍の艦船は太平洋沿岸近くにまで出没する様になり、航空機や潜水艦は輸送船を発見しだい攻撃し撃沈した。
 日本海の各港湾に対しては、潜水艦や航空機が機雷を設置して徹底した海上封鎖を実施した。
 日本は、戦争遂行に必要な食糧や石油などの軍事物資の供給路が断たれ、国民生活はさらに絶望的状況となっていた。
 迫水久常内閣書記官長は、指示のあった日本の戦争継続能力の現状調査書を作成して、鈴木首相に提出した。
 調査書は、戦争継続は不可能で、食糧不足は本年末には深刻な状況に至ると予測していた。「国民は空爆の激しさ、輸送の困難さ、そして国内の孤立した地域では飢餓状態が現れている事を鑑みれば、生存に必要な最小限の米と塩で何とかやっていかねばならなくなるだろう」
   ・   ・   ・   
 5月 国務次官ジョセフ・C・グルー(J・P・モルガンの血縁者)は、ソ連の参戦は共産主義をアジアに蔓延させ、戦後の平和を危機に追い込むだけであると警告した。
 アメリカ政府及び軍首脳部は、戦争は翌46年末まで戦争は続くと判断し、ソ連の参戦こそが戦争を早期に解決するものであるとして歓迎した。
 そして、無条件降伏のみが将来の戦争を防止するとして、天皇制廃止や天皇の処罰を含む無条件降伏の緩和には反対した。
 5月7日 首都ベルリンがソ連軍の猛攻で占領され、ナチス・ドイツは国家崩壊して無条件降伏した。
 ナチス・ドイツの無条件降伏により、欧州戦争は終結した。戦場の兵士は、勝利に終わった事に安堵し、一刻も早い帰国を望んだ。
 前線司令官の中には、ソ連共産主義勢力の拡大は新たな紛争の原因になるとの意見具申をワシントンに送った。
 戦時動員・再転換局(フレッド・M・ヴィンソン)は、戦争の長期化で国内の食糧や衣服などの生活必需品が品不足となり国民の不満が増大し、政府・軍に対する信頼を失いつつある。
 対独戦の終結を契機に、産業体制を戦時から平時に転換し軍需生産を減らすべきだと、統合参謀本部に要請した。  
 アメリカ軍首脳部は、日本との戦争が継続中である現状において、国民の間に厭戦気分が拡がり、兵士の士気が低下する事を懸念した。
 そして、対日戦が集結するまで軍需生産を続けると決定した。国民の不満が増大して戦争継続を不可能にする前に、日本を是が非でも降伏に追い込む必要に迫られた。
 陸軍省や戦時情報局は、戦勝気分に浮かれている国民世論を引き締める為に、日本軍による捕虜や民間人への非人道的残虐行為の証拠写真を大量に公開した。
 新聞や雑誌、映画やラジオも、人種差別意識を煽る為に日本人の血に飢えた野蛮を誇張した。
 日本の野望と野心を打ち砕く為には、如何なる犠牲を払っても無条件降伏を受諾させる事が必要であると喧伝した。
 制海権や制空権を支配したアメリカ軍は、海上封鎖を徹底する為に輸送船はもちろん民間船や漁船まで攻撃した。
 アメリカ軍機や潜水艦は、日本人遭難者を助ける救助艇はもちろん海面を漂う日本人漂流民を、軍人・民間人に関係なく機銃掃射して皆殺しにした。
 アメリカ軍が占領した太平洋の島嶼では、協力的でない日本軍兵士捕虜を射殺し、民間人を強姦暴行して殺害する件数が増加した。
 ワシントンへは、玉砕、自決、事故死と報告された。白人は、人種差別的に日本人の事を「黄色いサル」「黄色いネズミ」「黄色いウジ虫」「黄色い害虫」などと軽蔑し、人と認めていなかった為に殺す事に罪悪感を抱く事はなかった。
 ゆえに、原爆投下も正当化している。
 国民と議会は、日本に対する無条件降伏を要求し、天皇戦争犯罪者として退位させて処罰を与え、天皇制度を廃止する事を求めた。
 人種として日本人を絶滅させ、国家として地上から消滅させる事を。
 マッカーサー報告書「天皇を退位させるか、絞首刑にする事は全日本人から猛烈な、暴力的な反応を引き起こすだろう」
 5月8日 日本政府は、ドイツが降伏しても、日本は自存自衛の為に戦い抜くという声明を出し、徹底抗戦の姿勢を見せた。(日本時間、9日午後7時30分)
 5月21日 農商務省は、食糧生産が急務として、農村の人手不足を解消する為に農家出身の徴用工を帰農させる事を決定した。
 学徒や都市空襲で職場を失った工員を、生産要員として農村に移す計画を検討した。
 5月11日、12日、14日の最高戦争指導者会議で、ソ連の好意的中立を求めると共に、戦争終結の為の斡旋を依頼する事が協議された。阿南惟幾陸相が、日本は負けていないと主張した為に、ソ連への斡旋以来は時期早々として延期された。
 5月24日 トルーマン大統領は、陸海軍の参謀長らと議論を重ねて、日本本土進攻作戦を正式に承認した。
 クレムリンで、ヨシフ・スターリンは軍首脳を集めてナチス・ドイツとその同盟国に対する勝利を祝い、最後に残った日本への侵攻作戦とアジアの共産主義化計画に取り組んだ。
 ソ連軍は、日本軍以上に自軍兵士が敵の捕虜になる事を許さず、捕虜となって帰還した者を逃亡した卑怯者として懲罰を与え、その家族も同罪とし警察の監視下において社会的保証を制限した。
 ドイツ軍に協力したカルムィクやクリミヤ・タタールチェチェンなどの諸民族への制裁としては、各民族の自治共和国を地球上から消去し、祖先伝来の故郷から不毛の他所へと強制的に追放した。
 5月25日 統合参謀本部は、ダグラス・マッカーサー大将に日本上陸作戦の決定を伝えた。


   ・   ・   ・