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・ ・{東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
輸送船の多くが撃沈されて食糧輸入が遮断され、国内の食糧事情は急速に悪化して飢え始めた。
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昭和18年度生産量…6,289万石 約943万トン。
国民総人口 …7,240万人
昭和19年度供給量…7,173万石
昭和19年度輸入量… 480万石
昭和19年度移入量… 480万石
昭和19年度供給量…7,086万石。
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平時では、重傷者を優先的に貴重な薬を使って治療をし、栄養を付ける為に食べ物をあたえた。
戦時では、軽傷者を先に応急手当をし食べ物を与え、苦しんでいる重傷者は後回しにし、場合によっては手当をせず死ぬに任せて放置した。
戦場とは、非常である。
戦える者が大事にされ、戦えない者は粗末に扱われた。
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最良の攻撃とは、多くの敵を殺す攻撃ではなく、負傷者を多く出す攻撃である。
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カレイ・マックウィリアムス「ウィリアム・ハーストはこの戦争は『東洋人と西洋人、そのどちらが世界を征するかどうかを決める戦い』だと述べている。この主張は、日本との戦いをヨーロッパ戦線よりも重視すべきとする政治勢力によって繰り返されている。そしてこれがベルリンでも東京でも、彼らの戦争理由を正当化するに利用された。日本もこの戦いを人種戦争であると考えていたからである。
メネフィーが行った調査によるれば、アメリカ人の半分は、今度の戦争の責任は日本政府にあるのではなく日本民族にあると考えている。これは我が国民の4分の3が、ドイツやイタリアについてはナチス政府やファシスト政府に責任があると考えている現実と好対照をなしている。国民の3分の1が、戦争が終わっても日本に食糧援助はすべきではないと考えている。ドイツへの食糧援助に反対する者はわずか6分の1である。戦争後に作られる国際連盟のような機関に日本の参加を認めてもよいと考えている国民は、39%しかいない。
日本民族そのものに反感を持つ態度は太平洋岸で特に強いとメネフィーは報告している。戦争勃発以来、日本に対する、いや日本民族そのものに対する反感が、日本人の顔をした7万人の日系市民に向けられている。
私の知る限り、日本との終戦交渉に柔軟な態度で臨むべきだとか、あるいは条件付きの平和交渉をすべきだと主張している者は一人としていない。日本人移民を少しでもよそに移住させ、退所を進めるという戦時移住計画局の方針を、日本に対する不要な融和政策だと非難する者も多い」(『日米開戦の人種的側面 アメリカの反省 1944』P.423。424)
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2015年8月2日 産経ニュース「南海に散った10万人…慰霊に捧げた男と日台の絆 台湾でバシー海峡での犠牲者を悼む慰霊祭
2日、台湾南端の恒春の岬でバシー海峡に向かって手を合わせる慰霊祭参列者(共同)
【恒春(台湾南部)=喜多由浩、田中靖人】先の大戦で少なくとも10万人以上が戦死したバシー海峡(台湾−フィリピン間北部)や周辺海域での犠牲者を悼む、戦後70年の慰霊祭が2日、同海峡を望む台湾・南端の潮音寺(ちょうおんじ)で行われ、交流協会台北事務所の沼田幹男代表(駐台大使に相当)や遺族、日台の関係者ら約160人が参列した。
戦争末期、この海域では日本軍の艦艇や輸送船が米潜水艦などに相次いで撃沈され“魔の海峡”“輸送船の墓場”と呼ばれた。
潮音寺は、同海域を航行中に撃沈され、12日間の漂流の末、九死に一生を得た元日本兵、中嶋秀次(ひでじ)さん(平成25年、92歳で死去)らが私財を投じ、昭和56(1981)年に建立。台湾の関係者とともに犠牲者の霊を見守ってきた。
慰霊祭では、海峡に沈んだ駆逐艦「呉竹(くれたけ)」の吉田宗雄艦長の長男で、佐賀・禅林寺住職、吉田宗利(むねとし)さん(73)が読経を行うなかで参列者が焼香を行った。
慰霊祭開催のきっかけになった『慟哭(どうこく)の海峡』の著者で、ノンフィクション作家の門田隆将(りゅうしょう)さんは、「バシー海峡の戦死者は長く、忘れられた存在だった。戦後70年の年にこれだけたくさんの方が集まったことに感動している」と話していた。」
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食糧不足の日本は、連合軍による海上輸送網の攻撃により、南方などから食料を輸入できなくなった。
残る道は、朝鮮と満州で必要量の食糧を確保する事であった。
朝鮮総督府は、半島の食料を日本に送る事で、朝鮮人による反日暴動が起きる事を警戒した。
連合軍の攻勢が激しくなりつつある戦時下で、朝鮮に反日暴動が起きる事は避けねばならなかった。
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朝鮮は、本当に日本に協力して一緒に戦ってくれるのか?
最後まで、生死を共にして戦ってくれるのか?
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食糧不足で飢餓の危機にあった戦時下の日本は、一粒のコメでも粗末にせず大切に為て食べていた。
国家は、食糧を確保する為に強制的に食糧を統制し、腹一杯食べない様に監督を強化した。
戦時下の国民には自由はなく、「もったいない」のプロパガンダで不自由な生活を強要された。
国民は、国家統制で、食べ物を奪われたひもじい食生活を強制されていた。
憲兵や警察当局は、国民一人一人の食生活を厳しく監視していた。
国外からの食糧輸入量が激減するや、国民はさらに悲惨な状況に追い込まれていった。
軍国日本は、戦場で自国の兵士が戦死・餓死・病死が増大しても、国内での餓死と病死は出さない為に全体主義的恐怖政治を行った。
これが、戦前日本の神懸かり的軍国主義である。
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この時期から、労働力不足の日本に朝鮮人の強制連行が始まる。その数、100万人以上。
日本政府と朝鮮総督府は、日本軍の要請に従って、朝鮮人女性を従軍慰安婦として戦場に送り出したとされている。その数、数十万人。
日本は、その大量の輸送船を何処から調達したかは不明である。
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食糧不足の日本に、大食いする朝鮮人を大量に移住させる事は、少食に耐えて戦っている日本人の食べ物が大量に減少する事を意味していた。
イナゴの様に食べ物を食い尽くす中国人を、食糧が不足している日本に強制連行する事も、日本にとって自殺行為であった。
軍部は、祖国防衛の為に戦っている日本軍兵士への食糧確保は深刻な悩みであった。
日本は、背に腹はかえられず、必要な食糧を日本に移す為に、反日暴動を起こす危険性に或る朝鮮人男性を日本に強制移住させた。
日本人は、民族差別から、日本人・朝鮮人・中国人に関係なく全ての女子供と老人と病人と怪我人などの弱者に平等・公平に食料を配給するべく、兵役義務のない朝鮮人労働者への食料配給を減らした。
此が、軍国日本の最大の戦争犯罪である。
戦時下の日本国内では、日本人も、朝鮮人も、餓死者はでなかった。
軍国主義国日本は、食糧消費によって内部から崩壊し始めていた。
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1944年2月17日 トラック島爆撃。アメリカ海軍機動部隊による2日にわたる大空襲によって、島内に停泊していた日本海軍の軍艦や輸送船が撃沈され、飛行場にあった270機の航空機も破壊された。
連合艦隊は、トラック島を放棄して日本本土に艦隊司令部を引き上げた。
陸海軍の軍人・軍属合計約4万人は、トラック島守備の為にトラック島に取り残され、サイパン島陥落後は武器弾薬や食糧の補給も途絶えて見捨てられた。
アメリカ海軍機動部隊は、トラック島攻略を実施せず後方に放置し、時折、新兵の練習がてら攻撃を加えていた。
食料がなくなった島内では餓死者が続出し、飢えを耐え忍んで生き残った者だけが日本に生還した。
各前線の日本軍の多くは、敵と戦う前に飢えと闘っていた。
3月8日 ニューヨーク・タイムズ紙「夜陰に紛れて防衛線を突破してくる日本兵は、第二列の我が軍に殺された。それは大量殺戮だった。日本の最も優秀な戦士達がまるで屠殺場の中の牛の群れの様に殺されている」
リンドバーグ「アメリカ兵は死者への尊厳を一切持っていなかった。敵兵の勇気についても考慮しない。遺体の歯を足で蹴って金歯を取り出し、土産にする。武器も食料もなく、降伏しようとする日本兵を容赦なく射殺する。我々は果たして本当の文明国家を代表しているのだろうか。……
アメリカ兵の一部が捕虜を残虐に拷問している事は誰もが知っていた。捕虜を射殺したり、手を上げて降伏する日本兵を即座に、まるで動物の様に殺す事に何の躊躇もない。降伏してもどうせ殺されるのだから(日本兵には)玉砕しか残された道はなかった。この点においてアメリカが日本よりモラルの点で高いとはどうしても見えなかった」(『第二次大戦日記』)
『ルーズベルト秘録』「リンドバーグはこのほか、捕虜を定期的に飛行機から突き落としながら『日本兵が玉砕した』と報告していたオーストラリア兵の集団行為を飛行士の目撃談として紹介した後『戦争中の事でもあり、日本軍の残虐性に対する復讐だったのだろう』と説明している。
だが、戦争中のこととはいえ、このような残虐な仕打ちは果たして欧州戦線で起こりえただろうか」
ジョン・W・ダワー「アメリカ軍は、捕虜を取らないという方針のもとに日本軍の捕虜を多く虐殺した」(『人種偏見』)
太平洋の島々で、補給も援軍も立たれ、組織的な抵抗が出来なくなった日本軍守備隊はジャングル地帯に逃げ込んだ。
アメリカ軍は、戦闘終結を宣言するや、これ以降はジュネーブ条約の規定による正規軍兵士捕虜保護はしないとし、日本軍の敗残兵は全てゲリラかテロリストとして見付けしだい皆殺しにした。
ゲリラ戦やテロ行為は戦時国際法法規は適用されず、捕らえた敗残兵を現地指揮官がゲリラやテロリストと認めれば裁判を省いて即時処刑できた。
島民が、日本軍敗残兵を庇ったり食べ物などを与えれば、逮捕して、拷問にかけて情報を聞き出した。そして、場合にはゲリラやテロリストの一味として処刑した。
アメリカ軍が占領した島々の島民は、アメリカ兵の日本兵残党狩りに協力した。
南方戦線の日本軍の被害は、必要物資の輸送手段が断たれた為に、戦死より餓死の方が多かった。
原因は、日本軍の兵站軽視にあったといわれている。
アメリカ軍の様に、充分な食料や医薬品などの物資を補給されていれば餓死という惨状は免れたと言われている。
だが、それは大洋に於ける孤島防衛戦を理解できない者の世迷い言である。
そうした戦術はおろか戦略なき者の言う事は、信じない方がいい。
戦況の悪化によって日本軍は制海権や制空権を失い、海上輸送路は猛攻にあって寸断され、多くの輸送船が撃沈された。
日本軍兵士や食料・武器弾薬を乗せたオンボロ輸送船は、護衛艦を伴っていなかった為にその多くが撃沈されていた。
海上輸送路の遮断と輸送船の激減によって、南方からの食糧輸入が困難となり、国内の食糧配給が激減して、飢えが始まった。
山本七平「アウシュヴィッツのガス室よりもはるかに高能率の、溺殺型大量殺人機構の創出」
日本本土から南方各戦線への補給はおろか、日本と朝鮮や中国との航路も安全ではなくなっていた。
その為、朝鮮や大陸からの食糧輸送も激減した。
農家は、国家権力によって、「御国の勝利」の為という美名の基に自家消費分の食べ物さえ供出された。
軍需景気の成金や高級将校らは、特権を利用し、夜な夜な高級料亭に繰り出して美食や美酒に酔いしれた。
都市部では食料などの生活物資が不足しはじめ、親は飢えに泣く我が子の為に闇で食料を手に入れ、自分の空腹をよそに子供に食べ物を与えた。
親は進んで幼子の為に犠牲となり、体力ある子供は年老いた両親に食べ物を渡した。
追い詰められつつあった戦時下では、敗色が濃くなろうとも「戦争に勝つ事」のみを心の支えとして、助け合いながら、「ひもじさ」に耐え、我慢に我慢して何とか共に生き残ろうとした。
彼等は、最後の最後まで諦める事なく、戦闘意欲を持って前進した。
日本軍は、貴重な労働力である日本人男子数百万人を徴兵・徴用して南方戦線に送り出した。
輸送船の多くがアメリカ軍の攻撃を受け撃沈され、数多くの日本軍兵士は救助される事なく溺死した。
生き残った日本軍兵士は、地獄の様な悲惨な戦場に追い立てられ、多くが餓死するか病死した。
日本人学生は、国家の命令で動員され、祖国と家族と天皇・皇室を守る共に特攻隊に志願し、積めるだけの燃料を詰め込んだ特攻機で敵艦に突入しようとしが多くが撃墜された。
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3月10日〜13日 東北地方太平洋沿岸豪雪。
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3月30日 日本は、ソ連との友好関係の維持発展の為に5年間続けていた漁業協定を締結させ、ソ連が懸案としていた北部樺太の石油・石炭採掘を中止した。
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日本国内の労働不足を補う為に、朝鮮半島から屈強な青年男子200万人(一説に400万人)と若い女性数十万人(女子挺身隊・従軍慰安婦)が、約1年間で日本に強制連行された。
強制連行の為に、全国から多くの船舶をかき集めた。
日本当局は、健康で頑強な青年達を、労働力として全国の重要な軍需工場や鉱山などに振り分けた。
日本軍・憲兵・警察当局は、戦時下であっても日本全国に散らばった朝鮮人達を厳しく監視下に置いていた。
朝鮮人は、ナチス親衛隊やゲシュタポに逮捕されたユダヤ人の様に羊の如く、日本人によって日本に強制連行された。
朝鮮半島では、目の前で日本人によって強制連行される同胞を無言で見送り、奪い返す為に抵抗もしなければ暴動も起こさなかった。
朝鮮人は、ただただ、男も女も、子供も大人も、惨めたらしく「騙された!」と泣き叫び大地を叩き転げ回るだけであった。
朝鮮人の食欲は底抜けに近い程に旺盛で、粗食にして少食の日本人とは正反対に、中国人の貪欲な爆食に負けないほどに大食漢である。
朝鮮人の大半が反日派として、日本人を殺したいほどに憎悪し、監視の隙があれば反日反天皇暴動を起こそうとしていた。
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日本国内の食糧は、極端に不足し、多くの国民が飢え始めた。
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サムライ日本人は、武士道精神から「誠=誠実」を愛し、追い詰められてやむを得ず嘘をつくかもしれないが、個人益の為に人を「騙す」ことを最も嫌った。
神道価値観から、損をして貧乏くじを引こうとも「騙すより騙される方がいい」と信じていた。
それは、東アジア価値観とは正反対の価値観である。
日本の美徳は、現代日本では「個」優先主義から消滅しつつある。
その証拠が、「オレオレ詐欺」である。
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4月1日 東條内閣は、国内の食糧が不足した為に、六大都市で国民学校の学童一人につき一食米7勺の給食を始めた。9月には、不作とわかるやパン食に切り替えた。
子供にひもじい思いをさせても、餓死だけは避けるべく努力した。
戦時中。戦地での餓死者が続出したが、日本国内には餓死者はいなかった。
4月5日 ソ連は、日本に中立条約を破棄する事を通告した。
4月15日 ラジオで「地方増産だより」の放送を開始し、各地の食糧増産状況を紹介して、戦時下での食糧暴動を起こさない様に嘘の希望を与えた。
4月18日(〜12月) 大陸打通作戦(一号作戦)。日本軍は50万人を動員して、中国軍(200万人以上)を撃破した。
河南省では、京漢線沿いを南下してきた北支那方面軍14万人が、40万人以上の中国軍を撃破した。
中国軍は、敗走途中の農村を荒らし略奪を行い、日本軍の仕業と喧伝して反日感情を植え付けていった。
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6月8日 日本政府は、慢性的食糧不足に対して日本、朝鮮、台湾で増産計画を実行したが、戦時の為に労働力不足と化学肥料などの農業資材不足で計画通りには行かなかった。
異常気象により、予定量を生産する事が出来なかった。
食糧不足で栄養失調に陥り、体力と免疫機能の低下で感染症などの疫病が発生した。
前年では。全国で、結核死亡者は17万人以上であった。横浜では、赤痢、ジフテリア、発疹チフスが発生して、1月〜9月までに3,400人以上が発病し、350人以上が病死した。
政府は、嘘デタラメの大本営発表を行って最悪な環境下で生きている国民に淡い希望を与え、餓死者を出さず、病死を減らす為の方策を立てて実行していた。
都市部に、高額の闇米や小麦などの食糧が出回るが、低所得層は闇買いが出来ない為に近郊の農村部に買い出しに出た。
憲兵隊や警察当局は、東條首相の命令で、配給体制を差別なく公平性を維持する為に監視を強化し、違反者を厳しく取り締まった。
取り締まりは鉄道の敷地内のみで行われたが、敷地を一歩でも出れば見逃した。
情にもろい日本人は、公権力で統制支配を強化しても、本音と建て前でいい加減な取り締まりを行っていた。
出征兵士の家庭では、内職で生活費を稼いでいる母親を助ける為に、10代の子供が買い出しに回っていた。
戦時下の子供達は、苦労している母親に心配をかけない為に、イナゴやトンボなどの昆虫はもちろんお手玉の豆を食べて空腹を紛らわし、大本営発表を信じて「ひもじさ」に耐えていた。
食うや食わずの国民は、憲兵隊支配を強化する東條内閣を呪った。
御前会議で、内田信也農務相は「食糧払底を国民に知らせて協力を求めたい」と提案し、承認を得た。
東條首相は、国家の責任者として、国内で餓死者を出さない為に食糧統制を強化し、平等な食糧配給を徹底させ、国民に食糧事情を自覚させ自活を求める目的で有効であると同意した。
6月12日 東京は、米不足を補う為に小麦粉の配給を決定した。
在郷軍人会や国防婦人会は、隣組組織を利用して、半強制的に国民を動員して広場や公園や路地など利用できる空き地を農地に変えて、食糧生産を始めた。
野良仕事を嫌う市民は、非国民として軽蔑された。
東條内閣は、食糧の最低限量を確保するべく、供出に協力した農家に報奨金を出した。
だが、食糧管理法で統制された農家には余裕がなく、異常気象で収穫が落ち込むや、逆に飯米の還元配給を求めた。
戦時下の為に、食糧は兵糧が最優先とされ、次に軍需工場及び各種鉱山などの労働者、そして農山漁村と都市部の一般家庭の純に配給された。
優先的に節減されたのが全国の刑務所で、餓死しない程度の最低限量の為に、囚人は栄養失調となり病死が増えた。
「天皇制度打倒」を叫ぶマルクス主義者ら政治犯は、徴兵・徴用が免除された分だけに非人道的な差別を受け、餓死しない程度の最低限度の食料を与えられていたが、戦場での戦死や都市での空爆で殺害される事や食べ物に困る心配がなかった。
6月22日 天皇は、終戦工作に関する指示を出した。
東條首相は、政治・外交に専念する為に、7月18日に陸軍統帥を梅津美治郎に譲った。
海軍は独自の終戦工作を開始して、東條首相に反旗を翻した。
中谷武世と赤城宗徳ら議員有志は、東条英機首相では戦争に勝てないと判断し、東条内閣を打倒し勝てる体制を早急に作るべきであるとして岸信介に大臣を辞職し内閣不統一で退陣に追い込み様に求めた。
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44年後半 アメリカ海軍は、太平洋とアジア近海の制海権と制空権を手に入れるや、日本人を餓死させる飢餓作戦「オペレーション・スターベーション」を開始した。
占領地から食糧や石油や原材料を輸入できない様に、日本の海上輸送路を破壊する作戦である。
アメリカ海軍潜水艦は、日本の軍艦や輸送船その他の艦船を発見次第に攻撃した。
特に、南方及び朝鮮との二航路は容赦ない攻撃を受けた。
日本海軍は、攻撃重視・防御軽視思想から、補給体制の防御として船団保護を行わなかった。
結果。輸送船の90%と軍艦の多くが、アメリカ海軍潜水艦の雷撃で撃沈された。
日本は、急速に輸送船を失い始めた。
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7月1日 マッカーサー元帥の南西太平洋司令部は、日本についての限定的研究をまとめた。
「輸送力に対する重大な攻撃と中部及び南西太平洋における戦局の逆転にもかかわらず、今日、天皇と軍幹部、軍全体と全国民は一つにまとまっており、最後の勝利または死にいたるまで戦いぬく覚悟だ。彼らは、この戦争が勅命によるものゆえに神聖な使命があると信じている。東條が絶対的な支配権を握るにはこれで十分であり、その指揮の下、兵士達は戦場で狂信的な行動を示し、人々が必要とあれば自爆をも辞さない不屈の精神で戦闘を続けている。……天皇を退位や絞首刑に処すれば、すべての日本人が途轍もなく暴力的な反応に走る事になるだろう。彼らにとって、天皇の絞首刑は我々のキリストの磔に匹敵する重大事なのだ。日本人の全員が玉砕する道を選ぶ事になるだろう。そして、軍国主義者の立場は計り知れないほど強化される事になる。戦争は不当に長引く事になり、我が軍の被害も必要以上に大きくなる」
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7月11日 昭和新山噴火。火災サージにより負傷者1人、家屋損壊。
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7月18日 東條内閣は総辞職した。
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7月19日〜22日 梅雨前線豪雨 。
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7月22日 小磯内閣が成立した。
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8月 重光外相は、ソ連が和平実現に意欲があるかどうかを探るべく、佐藤尚武大使に探るよう訓示した。
戦局の悪化に伴い戦争の終結を図るべく、独ソ講和の仲介を働きかける形を取りながら日本の意図を伝えようとした。
ソ連側の答えは、「ノー」であった。
連合国軍が求めるのは無条件降伏のみであり、不寛容の原則に従い全面降伏しなければ死滅あるのみであった。
アメリカは、日本の外交暗号を解読していて重光の和平工作を全て知っていた。
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8月26日 昭和新山再噴火。降灰による窒息で死者1人、家屋焼失。
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9月 北海道旭川市の東川町の遊水池建設現場に、中国で捕虜とした中国共産党軍は武宗犯罪集団の土匪など中国人338人が強制連行され過酷な労働を強いられた。
終戦までの11ヶ月間。重労働に耐えるほどの栄養有る食事を貰えず、寒さを凌げる防寒具も与えられず、軍国主義者日本人の厳しい監視下で虐待を受けて、88名が犠牲になったと言われている。
戦後、強制連行され奴隷的重労働のすえに死亡した中国人88名の弔う為に慰霊碑が建てられ、毎年、盧溝橋事件が起きた7月7日には慰霊祭が行われている。
この悲劇は、日本の戦争犯罪とされている。
2013年現代。同様の非人道的戦争犯罪がなかったかの草の根的調査が、全国各地で反戦平和の市民団体の自主的に行われ、発見しだい日本を告発する為に世界に向けて公表されている。
彼らは、たとえ数センチの人骨であっても戦争犯罪を証明できると語り、昭和天皇と軍部の非人間的犯罪行為の立証に情熱を傾けてる。
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10月4日〜8日 台風「低気圧番号4」+秋雨前線。
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10月9日(〜19日) チャーチルは、モスクワでスターリンと会談する。ハリマン大使は、オブザーバーとして同席した。
チャーチルは、日本爆撃の為にシベリアの航空基地の借用と対日戦参戦の時期を問うと共に、交換条件として満州の日本軍を攻撃に必要の戦略物資約100万トンを引き渡す事を約束した。
ソ連軍南下開始時期が知れる事で中国情勢は複雑になるとして、重慶政府には極秘にされた。
そして、ロンドンのポーランド亡命政府と親ソのルブリン政権の合体構想を話し合った。
両首脳は、世界分割計画にもとずき、地球上の新たな勢力範囲を取り決めた。
アメリカは、分割案を受け入れた。
ただし、ポーランドがソ連・共産主義体制下に組み込まれる事にバチカンが反対する事が予想された。
10月25日 日本軍及び憲兵隊は、泰緬鉄道敷設工事で犠牲になった、日本兵1,000人以上と連合国兵士捕虜約1万3,000と東南アジアの現地住民3万3,000人以上の慰霊祭を行った。
日本軍は、死亡した日本人や敵の外国人を平等に扱い、さらには軍犬や軍馬や軍鳩なども慰霊した。
従軍仏教僧は、占領地の布教活動と慰霊祭を行っていた。
神主は、国家神道として宗教活動を行う為に従軍せず、一兵卒として徴兵されて戦っていた。
神主には、兵役免除という特権はなかった。
日本軍は、戦没兵士の魂と共に軍犬・軍馬・軍鳩の霊魂も、祖国に殉じた戦友として平等に靖国神社の祭神として祀った。
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11月2日 ルーズベルトのラジオ演説「この戦争に勝うえで、死傷者を最小限に留める事を保証する確かな方法が一つある。─それは、すべての行動において、我々が物量面で圧倒的優位を維持する事である」
アメリカは、自国民兵士の死傷者数を最小限に抑え、完全な勝利を得る為に、優れた科学技術力と強大な工業力を最大限に利用していた。
原爆は、その為の究極の兵器として開発が急がれた。
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12月7日 昭和東南海地震。紀伊半島・熊野灘(南海道)沖から遠州灘沖(東海道)にかけての海域(南海トラフの東側)で周期的に発生する海溝型地震・逆断層型地震。 M7.9。死者1,223人。名古屋の三菱重工や中島飛行機などの軍需工場が壊滅的被害を受ける。
アメリカ軍報告「日本は不運な事に、自然の脅威に直面した」
島村英紀(武蔵野学院大学特任教授)「44年に起きた東南海地震は名古屋を中心に発生し、〝逆神風〟といわれました。三菱重工などの軍需産業が全部やられた。でも軍部はひた隠しにしたので新聞にはベタ記事しか載らなかった。でも、アメリカは分かっていた。震源は名古屋だと。日本の軍需工場の中心が壊滅した、と」
12月24日 連絡船「近海丸」は激浪のため転覆沈没。
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