🗡39〗─2─世界初の日本独自軍事技術による近代的上陸用舟艇「ダイハツ(大発)」。~No.126No.127 

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 大発動艇(D型)
 大発動艇(だいはつどうてい)は、1920年代中期から1930年代初期にかけて開発・採用された大日本帝国陸軍上陸用舟艇。通称は大発(だいはつ)。また、陸軍と同型の大発を相当数運用した海軍においては、十四米特型運貨船(じゅうよんメートルとくがたうんかせん)の名称が使用されている。
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 大日本帝国軍 主要兵器
 上陸用舟艇【小~大型発動艇】
 揚陸は安全にスムーズに 陸軍が開発した画期的な上陸用舟艇
 大正12年/1923年、陸軍はかねてより意識していた上陸用の舟艇の開発を「大正12年帝国国防方針」にて決定しました。
 日本は島国なので、もし攻め込むことになればほぼ確実に船舶輸送が必要になってきます。
 海は海軍の領域ではありますが、いちいち海軍に輸送の協力を仰ぐのは手間ですし、浅瀬から揚陸する程度の船ならちょっとした距離の輸送にも使えます。
 それに揚陸中は非常に無防備なので、この時間をいかに短縮するかは人命にもその後の物資確保にも重要でした。
 海軍は輸送への関心はほぼ皆無だったので、陸軍は独自で小型舟艇の開発に乗り出しました。
 そして大正15年/1925年に有名な【大発動艇】と、より小型の【小発動艇】の開発が始まります。
 【小発動艇】は兵員輸送が主で、【大発動艇】はそれに加えて物資や兵器の輸送を目的とされました。
 制式採用が昭和2年/1927年と2年後で多少時間がかかっていますが、そのあとも改良が進み、最終的に量産になったのは【小発】が昭和6年/1931年に開発されたC型、【大発】が昭和7年/1932年のD型と呼ばれるものです。
 まず【小発】のC型は、艇首に機関銃を装備でき、また全鋼製のため多少の防弾がありました。
 そしてスクリューは一般的な船のプロペラタイプではなく、螺旋状のもの(掘削機のドリルみたいなもの)を採用します。
 これはスクリュータイプだと砂浜に突っ込んでしまった場合の損傷が懸念され、また後進の際にも砂を掻き出すのがスクリュータイプよりスムーズだったためです。
 対して【大発】ですが、【大発】はまずB型で画期的な装置を採用します。
 それは艇首が陸に向けてパタンと倒れるようになっていて、これが道板の役割を果たして船から直接陸地に渡れるようになるのです。
 この構造だと車両そのものも、徒歩でも車両に載せても楽々揚陸できます。
陸軍はこの構造を軍事機密として、報道などでも厳しい検閲を受けて艇首構造の写真撮影を禁止してしました。
 さらにC型では凌波性を高めるために船首をダブルトップ化し、船底肋骨を2本にしています。
 普通の船ならもっと乾舷が高いのでこういう構造にしなくていいのですが、【大発】ではちょっと波に突っ込むとすぐに水浸しになってしまいます。
これを避けるために水を切る船底を2本にして、波をより外側に逃がすような設計としたのです。
 この構造は揚陸、離岸にも役立ちます。
 1本だと砂浜に突っ込んだ時に少し不安定ですが、2本で突き刺せば水平に近い形で停止できますし、離岸もスムーズです。
 それをよりサポートするのが、船後部の船底の形状で、前が2本の船底に対して、後部は平面になっていました。
 これだと揚陸の瞬間まで船が水平を保てるので、非常に大切な構造でした。
 そして量産化されたD型は、当時の日本の主力戦車だった【八九式中戦車】が搭載できるようにさらに改良が加えられました。
 これが【大発】としての完成形で、以後陸軍は大量に生産しています。
 陸軍が開発したとは思えない、非常に実用的かつ先進的な上陸用舟艇
 エンジンは最初はガソリンエンジンでしたが、のちにディーゼルエンジンへと変更され、その優秀な性能から【大発】は「十四米特型運貨船」、【小発】は「十米特型運貨船」として海軍でも必要不可欠な存在となっています。
 「松型駆逐艦」では、すでに陸軍で【大発】一本化のために生産が終了していた【小発】を搭載できる設計となっています。
 「日華事変」や太平洋戦争で大活躍した【大発】は、上陸作戦だけでなく前述のとおり近距離輸送や偵察でも重宝されています。
 泥沼の「ガダルカナル島の戦い」では、「蟻輸送」と呼ばれる【大発】の行列が島伝いに輸送する姿も見られました。
 アメリカは「日華事変」で活躍している【大発】の写真を入手し、そっくりな「ヒギンズ・ボート」を第二次世界大戦に投入しており、それほど実用性抜群の船だったのです。
陸軍を追い払って残された【大発】は、それはそれは大切に有効活用されています。
 【小発、大発】は他にも派生型が多く、例えば【九七式中戦車】が搭載できる【特大発動艇】、開発中だった【四式中戦車】(約30t)を搭載することを目的とした【試製大型発動艇】、武装を強化した【武装大発】などがあります。
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 2022年1月14日 乗りものニュース「 旧日本陸軍が愛用した船「ダイハツ」って? 世界初の近代的上陸用舟艇が生まれたワケ
 小型の船が海岸に直接乗り上げて船首を開き、兵士たちが飛び出してくる――映画でもよく見るシーンですが、この「上陸用舟艇」を世界で最初に生み出したのは旧日本陸軍でした。誕生の経緯と発展をひも解きます。
 旧陸軍が欲した独自兵器「大発」
 軍用小型艇の一種、「上陸用舟艇」が持つほかに類を見ない特徴は、海岸に直接乗り上げて船首(バウ)の扉を開き、その開いた扉を歩板(ランプ)にすることで、兵士が容易に陸へと降り立つことができる点です。
 戦争映画などでよく見かけるこの船は、アメリカにおいてはLCPV(Landing Craft, Vehicle, Personnel)、通称「ヒギンズ・ボート」と呼ばれ、上陸用舟艇の代表のように扱われることが多いです。しかし、こうした種類の船、実は旧日本陸軍が昭和の初めに製造した「大発」というものが、原型だったのです。
 旧日本陸軍はなぜ大発を世界に先駆けて開発し、大量に生産できたのでしょうか。少し時代をさかのぼってその経緯を見ていきましょう。
 ニューギニアのミルン湾で遺棄されたあとオーストラリア軍に使用される大発。特徴的なW字状の艇首や簡単な構造の操舵輪などがわかる(画像:Australian War Memorial)。
 第1次世界大戦(1914~18)さなかの1915(大正4)年5月、イギリス・フランス連合国は、大戦中ドイツと同盟を結んでいたトルコを攻めるべく、地中海と黒海をつなぐ要衝、ダーダネルス海峡の西側にあるガリポリ(ゲリボル)半島へ上陸作戦を行いました。
 イギリス軍を中心に実施されたこの上陸作戦は、近代的な陸海統合上陸作戦の最初の戦例となるものでした。けれども、当時の上陸作戦では地上部隊を陸揚げするのに、通常のボートや小型の蒸気船に曳かれた艀(はしけ)を使うしかありませんでした。このため上陸に時間がかかってしまい、その間、トルコ軍に防備を固める時間的な猶予を与えてしまったのでした。結局、英仏連合軍は部隊を上陸させることはできたものの、その後、内陸への進出に失敗したことで12月には連合軍が撤退に追い込まれ、この作戦は失敗に終わっています。
 当時の日本陸軍は、ガリポリの戦いの戦例を深刻に受け止めました。とくに日本軍の基本戦略を定めた「帝国国防方針」が1925(大正14)年に改訂されると、陸軍にはこれまでのようにロシアとの戦いだけに備えるのではなく、海軍と協力してフィリピンを攻略することも求められるようになったからです。
 旧日本陸軍は、明治時代から幾度も上陸作戦を経験してきています。だからこそ、ガリポリ上陸作戦の教訓をうけて、近代的な上陸作戦の難しさを一層実感したともいえるでしょう。
 参謀総長も呆れた広島の舟艇部隊
 旧日本陸軍海上輸送を担当したセクションは、広島県の宇品にある陸軍運輸部でした。しかし、大正時代の後半は軍縮もあって、この組織はなかば休眠状態にありました。日露戦争で使用した、上陸用の木製の艀や、団平船(だんぺいぶね)と呼ばれる重量物の近距離輸送に使用する平底の和船をいまだ多数抱えている状態だったのです。
 こうした問題から、1920(大正9)年の演習で、当時の参謀総長である上原勇作大将(のちに元帥)に「鉄舟でなければダメだ」と指摘されたほどで、さらに翌年の演習では、荒天の影響で目的地に上陸できないという事態まで引き起こしました。
 ガリポリに上陸する、イギリス・アンザック(オーストラリア・ニュージーランド)軍団。使用しているのが通常の木製のボートや艀であることがわかる(画像:Australian War Memorial)。
 陸軍運輸部ではとりあえず、これまでの木製船に船外機を付けることで対応しましたが、これらも1922(大正11)年の演習では、荒天のため多数が転覆。さらに1925(大正14)年の伊勢湾陸海軍協同演習では、試作中の舟艇が転覆して、多くの溺死者を出す”事件”まで起きました。
 ここにいたって、陸軍は上陸船艇の抜本的な開発と上陸作戦のシステム化を決意します。
 まず上陸を担当する専門部隊として広島県の第五師団を指定、隷下の工兵隊のなかに「丁工兵」と呼ばれる舟艇を担当する専用の隊を編成しました。なぜこうしたかというと、それまで陸軍は操船や荷役のために民間作業員を軍属として雇っていたからです。そうではなく、舟艇運用専門の兵士を育てることにしたというのです。ちなみに、これが後年拡充され「船舶工兵」、ついで「船舶兵」となりました。
 一方、それと並行して陸軍運輸部では、上陸作戦に使いやすい新たな舟艇の開発に着手します。
 A→B→Cと発展、戦車も搭載可能に
 旧日本陸軍は当初、ひとつのフネを原型とし、そこからバリエーション展開することで上陸作戦に必要な諸々の用件に対処できると考えていたようです。しかし市原健蔵技師を中心とする陸軍運輸部の技術開発セクションは、これに反対。おおむね4つからなる上陸作戦用の船艇を提案し設計しました。
 内訳は、小型で兵員30名ほどが載せられる「小型発動艇(小発)」、上陸作戦時に偵察や連絡に用いる「高速艇(甲と乙)」、味方の上陸を至近から支援するため小型の砲と機関銃を備えた「装甲艇」、そして小発よりも積載力に優れた「大発動艇(大発)」です。大発は、兵員60名または馬、もしくは野砲や山砲など、さらに物資12tを搭載することが可能とされていました。
 大発の側面・前面図(樋口隆晴作画)。
 大発は1925年の試作型(A型)を経て、1927(昭和2) 年にB型が製造されるようになりましたが、このB型こそ、艇(船)首を開き、それを歩板(道板)にした、現代に続く上陸用舟艇の原型となったものです。また海岸近くの浅い海面で行動したさいに、スクリューが損傷するのをふせぐため、通常のプロペラ型ではなく、螺旋状のいわゆるスパイラル型に形状を改めていたのも特徴でした(一部の艇は通常型)。
 このあと、同年製造のC型では、艇首底面の肋材を2本として、上陸時、とくに重量物や火砲をおろす際の安定性を高めています。このアイデアも市原技師によるもので、C型は正面から見るとW字型に見えるのが特徴となっています。
 さらに1932(昭和7)年には、戦車(八九式中戦車)を積載・揚陸できるように各部が強化されたC型が誕生、こうして大発は兵器として完成の域に達しました。
 海軍も使って5000隻以上生産
 大発のデビューは、1932(昭和7)年の第一次上海事変にともなう、七了口上陸作戦からでした。この上陸作戦は、もっとも成功した最初の近代的上陸作戦と評価されています。その後、八九式中戦車よりも重い九七式中戦車が登場したことから、同戦車を搭載できるように大型化した「特大発」も製造されました。
 大発に代表される各種の上陸用舟艇は、太平洋戦争では各地の上陸作戦で使用され、それなりの貨物を積めることや取り回しの良さなどから、荷揚げ施設の貧弱な港湾や局地における短距離輸送、さらには不得手とはいえ小型火砲を搭載しての対魚雷艇戦闘(武装大発と呼ばれた)など、上陸作戦以外にもさまざまなシーンで使用されています。なお、旧日本海軍もその使い勝手の良さから、「十四米特型運貨船」という名称で使用しました。
 貨物を積んで航送する大発。喫水が深くなっているので満載状態だと思われる。大発は近距離の輸送にも使用された(画像:アメリカ海軍)。
 大発は、太平洋の半分まで戦場が広がった状況で、あらゆる戦域で使用されたことで、日本軍の将兵には馴染みの深い船となりました。こうして幅広く使われた大発は、5500隻余りも生産されています。
 一般にオリジナリティーがないと言われている日本の兵器ですが、大発は真の意味でオリジナルな兵器だったと言えるでしょう。
 【了】
 Writer: 樋口隆晴(編集者、ミリタリー・歴史ライター)
 1966年東京生まれ、戦車専門誌『月刊PANZER』編集部員を経てフリーに。主な著書に『戦闘戦史』(作品社)、『武器と甲冑』(渡辺信吾と共著。ワンパブリッシング)など。他多数のムック等の企画プランニングも。
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 2024年2月13日 MicrosoftStartニュース 乗りものニュース「戦前から有名だった「ダイハツ」って? 世界に先駆けて日本で生み出された画期的な技術とは
 船首に隠された画期的な仕掛けとは?
 “ダイハツ”といえば、主に軽自動車や小型車を主力している自動車メーカー「ダイハツ」を思い浮かべる人がほとんどだと思われます。しかし、戦前、戦中の日本では、別のものが“ダイハツ”の通称で呼ばれていました。それは、旧陸軍の上陸用舟艇である大発動艇、略して「大発(ダイハツ)」です。
 【サイズ感おかしい…】これが、戦車を上陸させる「ダイハツ」です(写真)
 洋上を航行する大発動艇。喫水が低いので物資は満載状態と思われる(画像:アメリカ海軍)。
 © 乗りものニュース 提供
 同艇の大きな特徴となっているのが、艦首が海面や地面に向かって倒れる扉式になっている点です。海岸に直接乗り上げた際に、艦首が城門の跳ね橋のような形で開き、それを即席の足場である歩板(ランプ)として使用することで、兵士が容易に上陸することができます。
 2024年現在においては、上陸用舟艇には必ずといっていいほどついている機構で珍しくもありませんが、当時としては非常に画期的なものでした。日本陸軍では1930(昭和5)年からこの大発を使っていましたが、当初は船首の構造を軍事機密扱いにするほどでした。第二次世界大戦アメリカ海軍が上陸用舟艇として利用したLCVP(Landing Craft Vehicle Personnel 通称:ヒギンズ・ボート)も同艇を参考にしたといわれています。
 太平洋の島々での戦いでその優秀さを証明!
 このタイプの上陸用舟艇の利点は、船首が倒れて足場になるため、船体が障害とならず、人員のほかに車両や物資なども、多数の人員やクレーンなどを使わずに荷物の出し入れをできることです。大発の登場以前は、人員はカッターボートで上陸し、資材や物資などは、ホートなどに艀(はしけ)を曳かせて上陸するのが一般的でした。これでは、上陸後の橋頭保の構築にもたつくこととなり、敵に防御や反撃の体制を整える猶予を与えてしまいます。
 大発はこれらの問題を解決し、迅速に人員のみならず火砲や車両、陣地構築用の資材などを運びこむことを成功させました。重量は6tまで搭載可能で、これは武装した状態の兵員で換算すると、最大約60名が収容可能な数字でした。1932(昭和7)年に開発されたD型では、八九式中戦車の搭載も可能に改良され、これが実質的な完成型になりました。
 当初は、大陸で中華民国軍を相手に、敵の背後などへ上陸し、不意を突くことで、戦闘を優位に進めるといった用途で使用されていました。後の第二次世界大戦アメリカと戦うことになった際は、太平洋の島々が戦場だったため、より大発の価値が高まることになります。同大戦では、陸軍のみならず、海軍でも十四米特型運貨船として使用され、数千隻が開戦序盤の日本陸海軍の上陸作戦で先陣を切りました。
 ニューギニアのミルン湾で遺棄されたあとオーストラリア軍に使用される大発。船首にランプが確認できる(画像:パブリックドメイン)。
 © 乗りものニュース 提供
 日本が守勢に転じた後も、キスカ島の撤退作戦で将兵のピストン輸送に活用されたほか、沿岸部や河川での物資輸送をおもに担当する武装大発としても活用されました。ただ武装大発に関しては、より軽快で重武装を誇るアメリカ海軍の高速魚雷艇「PTボート」が天敵ともいえる相手でした。
 ※一部修正しました(2月13日17時15分)。
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