🗡20〗─1・B─何故、日本陸軍は対戦車能力の低くい軽戦車95式にこだわり使い続けたのか。~No.62 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   

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 日本陸軍は、戦車よりも航空機を選択していた。
 インベンション
 昭和10年頃 1,000円程度の金があれば東京都内で家が建てられた。
 戦闘機1機、7万円、爆撃機1機、20万円、戦車1台、35万円。
 戦車は高額な特殊鋼を大量に使う為に値段が高かった。
 日本陸軍が、戦車ではなく航空機を主力兵器としたのは正しい判断であった。
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 日本陸軍航空部門は、東條英機の監督下で新型航空機を絶えず開発していた。
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 1939年7月 ノモンハン事件
 日本軍の被害、戦死:8,440人、戦傷:8,864人、装甲車両:約100輛、戦車:約30輛、航空機:約180機。
 ソ連軍の被害、戦死:7,974人、戦傷:1万5,251人、装甲車両:約1,000輛、戦車:約350輛、航空機:約250機。
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 ウィキペディア
 九五式軽戦車は、1930年代中期に大日本帝国で開発・採用された戦車(軽戦車)。秘匿名称「ハ号」※「九十五式軽戦車」、「ハゴ」、「ハゴ車」は誤り。正しくは「はごう」。(「イ号」は八九式中戦車、「ロ号」は九五式重戦車)。
 日本戦車としては最多の2,378輛が生産され、九七式中戦車 チハ(チハ車)とともに第二次世界大戦で活躍し、日本軍の代表的な軽戦車として知られている。

 本車は、他国の戦車の設計思想が対戦車戦を意識するようになりつつある中で開発された、日本初の対戦車戦闘を考慮した戦車である。しかし、その対戦車能力は低く、敵戦車との戦闘では常に苦戦を強いられた。一方で機動力が優れており、有力な機甲兵器・対戦車兵器を持たない軍隊との戦闘ではそこそこの活躍をみせた。
 初めて九五式軽戦車が本格的に投入されたノモンハン事件では、3輌一組のフォーメーションを組んだ上で、ソ連軍のT-26軽戦車やBT-5戦車と戦闘し、撃破に成功した事例も存在する。これは猛訓練の結果でもあり、無線をほとんど使わずに行動する「以心伝心」の様なものであったとされるが、基本的に装甲が薄い同時期の軽戦車が相手であれば本車の九四式三十七粍戦車砲でも対応可能だったことも窺える。ただし、同事件での戦車部隊の作戦期間は短期間だったこともあり、戦車単独での戦果はごく少なく、また本車も一部が鹵獲されている。同事件でソ連軍戦車を多数撃破したのは歩兵連隊に配備された九四式三十七粍砲(対戦車砲)であり、敵味方ともその戦果を高く評価している。
 日本と友好関係にあったタイにも40輌から50輌が輸出され、太平洋戦争の開戦前に仏領インドシナとの間に起こった国境紛争で活躍した。ただし、温度変化の影響か、1/4以上の車輛について装甲に自然にひび割れが生じる不具合が起き、クレームが付けられる事態となった。
 太平洋戦争(大東亜戦争)緒戦である一連の南方作戦の内、フィリピン攻略戦においてアメリカ極東陸軍第192戦車大隊(en:192nd Tank Battalion)所属のM3軽戦車と遭遇した事例(1941年12月22日、アメリカ軍にとって第二次世界大戦最初の戦車戦とされる)では、九五式軽戦車がM3軽戦車小隊5両を撃退することに成功したものの、ビルマ攻略戦にてイギリス・インド軍のM3軽戦車と遭遇した事例(1942年3月5日)では、九五式軽戦車が次々と命中弾をあたえたにも関わらず、全て跳ね返された。
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 九七式中戦車は日本軍最弱?中戦車とはどんな戦車だったのか徹底究明!
第2次世界大戦中、日本軍の主力戦車であり続けた九七式中戦車はどんな戦車だったのか?当時の戦車としては革新的技術を採用し、戦争序盤ではそれなり活躍もしました。その九七式中戦車の開発の経緯と能力を当時の他国戦車と比較しながらご紹介します。
 2020年8月27日
 サバイバル
 ノモンハン事件における九七式中戦車の戦闘
 日本軍はソビエト・モンゴル軍との満蒙国境地帯でのにらみ合いが続く中、1931年のノモンハン事件で大規模を衝突をし、第二次ノモンハン事件と呼ばれる交戦では7月の数日間で戦車戦がありました。日本軍は戦車、装甲車を含め92車輌、ソビエト・モンゴル軍は戦車、装甲車を合わせて452輌と圧倒的な戦力差がありました。日本軍の戦車は八九式中戦車30数輌、九五式軽戦車がこれも30数輌と主戦力で、九七式中戦車(57mm砲搭載チハ車)は4輌のみ初の実戦投入されました。一方、ソビエト・モンゴル軍の主戦力はBT-5、BT-7といったBT戦車でした。
 戦車戦は日本軍の物量負け
 戦闘は数で劣るも、戦術、兵練度が高い日本軍が、ディーゼルエンジン搭載車輌が被弾しても炎上せず、戦場に修理復帰するというメリットもあり、砲初速が速いが装甲が薄いBT戦車相手に互角に渡り合いましたが、それでも戦車30輌を撃破され、日本軍が戦車隊を戦場から下げたため戦車戦は終了しました。たった4輌しか投入されなかった九七式中戦車の評価は難しい所です。 ※画像は後の主力戦車BT-34(口径76mm)
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 2022年11月29日 MicrosoftStartニュース 乗りものニュース 「里帰り「九五式軽戦車」の実像 なぜ旧陸軍は「軽」戦車を使い続けたのか
 現存する貴重なオリジナルエンジン「九五式軽戦車」を日本へ
 2019年6月28日、イギリスのボービントン戦車博物館が開催する「タンクフェスト2019」の会場にどよめきがおこりました。旧日本陸軍の「九五式軽戦車」が、日の丸を掲げ、オリジナルの空冷ディーゼルエンジンが奏でる独特の排気音を響かせて登場したからです。
 【画像】幻の「五式軽戦車」ほか旧陸軍の軽戦車をもっと見る
 © 乗りものニュース 提供 2019年6月ボービントン戦車博物館「タンクフェスト2019」で走行展示する九五式軽戦車。後方にアメリカのM4戦車が続いている(画像:月刊PANZER編集部)。
 この戦車は九五式軽戦車の「4335号車」という個体で、太平洋戦争中にミクロネシア連邦ポンペイ島へ日本軍警備隊として派遣されたものです。実戦は経験しなかったものの、その後これまで所有者の移り変わりなどで3回も海を渡ったという紆余曲折の経歴を持ち、そして長年かけてレストアされた戦車です。
 加えて、オリジナルのエンジンで可動するのは本車と、アメリカのオレゴン州にある「5092号車」だけとされ、世界に2台しかない機械技術産業遺産としても貴重な個体です。
 現在の所有者はNPO法人「防衛技術博物館を創る会」(代表理事小林雅彦氏)で、ボービントン戦車博物館に委託保管されています。そして今年になって、日英の各関係機関と「4335号車」を輸入する段取りができ、4回目の渡海で日本に帰ってくる里帰りプロジェクトが本格始動しました。
 しかし、コロナ禍やウクライナ情勢、急激な円安などにより想定外に費用が膨らんだため、輸送費、イギリスでの事前調査費、帰国後の保管、整備費を工面するクラウドファンディングが、クラウドファンディングサービスサイト「READYFOR」にて開始されています。
 © 乗りものニュース 提供 「タンクフェスト2019」でオリジナルの空冷ディーゼルエンジン音を響かせて走行する九五式軽戦車。観客の注目を浴びた(画像:月刊PANZER編集部)。
 なお、この4335号車が無事に里帰りを果たした暁には、静岡県御殿場市に2027年の開館を目指す「(仮称)防衛技術博物館」にて保管展示される予定です。
 九五式軽戦車は「強くて速くて良い戦車」?
 ボービントン戦車博物館で走行展示した九五式軽戦車は、秘匿名称「ハ号」だったことから「HA-GO」と呼ばれ、戦車発祥の地イギリスでも人気者でした。
 日本陸軍の戦車といえば弱かったと、一般的にはイメージされるかもしれません。確かに、同時代の他国戦車と並ぶと小柄なことを実感します。ところが九五式軽戦車は、中国戦線では「強くて速くて良い戦車」などといわれていました。70年以上を経ても空冷ディーゼルエンジン音を響かせながら軽やかに走り回る九五式軽戦車は、「強い」かどうかはともかく「速い」のは間違いないと感じます。
 © 乗りものニュース 提供 九五式軽戦車「4335号車」の銘板。昭和18年4月製造となっている。(画像:月刊PANZER編集部)。
 21世紀の現在でも、戦車を一から企画設計して量産する能力のある国は両手に収まる数しかありません。日本は戦前から戦車大国でした。
 戦時中、1939(昭和14)年から1945(昭和20)年における日本の戦車生産台数は約5000台で、ソ連アメリカ、ドイツ、イギリス、フランスに次ぐ6番目の数です。おもな車種の生産台数内訳は九五式軽戦車が2378台、九七式中戦車が2123台で、この2車種が日本陸軍戦車の主力となり終戦まで戦うこととなったのです。
 九五式軽戦車が採用された1935(昭和10)年当時、同戦車の重さ7t、主砲37mm、車体前面装甲厚12mmという諸元は、世界的に見ても軽戦車の標準的スペックでしたので、対戦車火器や戦車をほとんど持たない中国軍相手であれば「強い」との印象もあながち間違いとはいえません。むしろ第2次世界大戦開戦以降の欧米における戦車の発達が異常なほどなのであって、日本の国力では追いつけなかったというのが実態ともいえます。
 日本陸軍は1935(昭和10)年採用の九五式に始まり、1939(昭和14)年には九八式、1942(昭和17)年に二式、1944(昭和19)年に四式と、次々に軽戦車を開発しました。これらは新車というより前車の改修やグレードアップといった仕様なのですが、敗戦間際の1945(昭和20)年になっても重量9tの五式を試作するなど、いかなる戦況になろうと最後まで開発の手を止めることはなかったようです。
 なぜ旧陸軍は「軽」戦車を作り続けたのか
 日本陸軍は中国大陸を主戦場と見なしてきました。広大な中国戦線ではトラックを使った乗車機動も多用され、そうしたなか九五式の前に配備されていた八九式中戦車は最高時速25kmで、自動車化部隊に追随できませんでした。
 このような事情からも「装甲化された騎兵」のニーズは必然でした。速度重視で開発された九五式軽戦車は時速40kmを発揮してトラックにも追従でき、故障も少なかったので重宝されました。
 しかし太平洋戦線では、緒戦こそマレー半島進撃作戦で速力を発揮した「日本版電撃戦」を演じましたが、以降は苦戦を強いられることになります。それでも軽戦車の開発が続けられたのは、限られた資源を艦船や航空機に振り向けなければならなかったという台所事情のほかにも、「強くて速くて」に追加して「軽い」ことも重要だったからでした。輸送船の荷役能力と、本土決戦を想定し国内の貧弱な道路や橋梁でも耐えうる重さに留めなければならないといった、インフラ上の事情があったのです。
 © 乗りものニュース 提供 九八式軽戦車。九五式と性能差がさほどなく少数生産に留まった。(画像:Imperial Japanese Army、Public domain、via Wikimedia Commons)。
 地方にまで舗装道路が整備されている現代の視点では想像しにくいのですが、高速道路を含む道路網が整備されたのは最近のことです。国土交通省のWEBサイトによると1970(昭和45)年に簡易舗装を含めた全国の道路舗装率は、一般国道で78.6%、一般道路では約15.0%にすぎませんでした。ちょっと裏道に入れば砂利道、砂ぼこり、水たまりは当たり前だったのです。ちなみに2020年には一般国道で99.5%、一般道路が約82.5%にまでなっています。
 戦後最初の国産戦車、のちの61式戦車でも、当時流行していた軽装甲思想とまだ貧弱だった道路インフラを考慮して、構想段階では重さ25tに収めようとしていました。そして2022年現在の10式戦車でも、他国の同世代戦車より約10tは軽いです。
 戦車の戦闘力は、単純なカタログスペックではなく、使われる環境に適合しなければ性能を発揮できません。太平洋戦争末期の本土決戦にタイガーIなどを持ち込んだとしても、ほとんど役に立たなかったでしょう。」
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 2021年1月27日 歴史人「隠れた傑作軽戦車95式(日本)
 第2次大戦:軽戦車列伝 第5回 ~結果として誕生した軽量級戦車の明と暗~
 白石 光
 過酷な戦場でも故障知らず、だが弱点も多く「鉄の棺桶」と呼ばれることも
アメリカ軍に鹵獲(ろかく)されて検分に供されている95式軽戦車。日本兵に比べてアメリカ兵は大柄なので、本車の小ささがよくわかる比較写真となっている。
 日本陸軍は、1930年代に「戦闘の主力となる軽戦車、それを支援する中戦車」という戦車の運用構想を案出した。これは、当時としては世界的に見ても標準的な考え方であり、妥当なものである。
 そして、かような運用構想を具現化するべく、日本陸軍は95式軽戦車(秘匿名称は「ハ号」)を開発した。
 全備重量7.4t、最大装甲厚は砲塔で12mm、最大速度40km、乗員は車長、操縦手、機関銃手の3名、武装は37mm砲1門と機関銃2挺。このように95式軽戦車は、軽戦車としてもきわめて小型なことがわかる。しかし、本車が実用化された1936年当時の世界水準では、かなり優れた軽戦車といえた。
 ところが、1930年代は世界の戦車技術が急速に発達した時期でもあり、日本が太平洋戦争に突入した1941年末期になると、すでに95式軽戦車では、あらゆる面で不足が生じ始めていた。そのため、太平洋戦争が勃発してアメリカのM3スチュワート軽戦車と対戦すると、一方的な負け戦を強いられることが多かったが、これはスチュワートの方が、開発時期が新しかったがゆえにやむを得ない。
 とはいえ、戦場での兵器は新しかろうが古かろうがそんなことはお構いなく「敵に勝ててなんぼ」である。その点で95式軽戦車は残念な戦績しか残していないが、闘魂溢れる乗員の練度の高さが兵器としての劣勢を補い、スチュワートはもとより、M4シャーマン中戦車をも撃破したケースすら散見される。
 95式軽戦車は機械的信頼性に優れており、これに既述した日本軍戦車兵の練度の高さも手伝って、あらゆる車両にとり過酷な運用環境といえる戦場で、「故障知らず」で運用できた。これは本車の大きな長所であり、時に「弱すぎる傑作戦車」と称される所以でもある。
 一方で、車重の関係から装甲厚の向上は見込めず、これは弱点のひとつであった。また、搭載している37mm砲も世界の同口径戦車砲に比べて威力が弱く、これも95式軽戦車の弱点といえた。
 このように弱点が多く、まさに「鉄の棺桶」のように言われることもある95式軽戦車だが、日本陸軍もドイツやソ連と同様に突撃砲型の自走砲として、37mm砲よりも強力な47mm砲を搭載した、試製5式47mm自走砲ホルを試作まで漕ぎ着けていた。その完成時期が終戦間際だったため、実戦での活躍はなかったが、ホルがもし実戦に投入されていれば、シャーマンと互角とまではいかないものの、そこそこに戦えたのではないかと思われ、惜しかったといえよう。
 なお、敗戦後も生き残った95式軽戦車の一部は、牽引車やブルドーザー、警察の警備車などに改造され、戦後復興期に民間で再活用されている。
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