🗡29〗─5・A─日本陸軍の万能練習機、一式双発高等練習機、二式高等練習機。~No.98 

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 日本陸軍は、戦車よりも航空機を選択していた。
 インベンション
 昭和10年頃 1,000円程度の金があれば東京都内で家が建てられた。
 戦闘機1機、7万円、爆撃機1機、20万円、戦車1台、35万円。
 戦車は高額な特殊鋼を大量に使う為に値段が高かった。
 日本陸軍が、戦車ではなく航空機を主力兵器としたのは正しい判断であった。
 陸軍主力戦闘機「隼」の製造を許可したもは、東條英機であった。
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 2022年12月16日 MicrosoftStartニュース 乗りものニュース「生まれ故郷 立川へ「一式双発高等練習機」旧陸軍の万能機 80年間どこにあった?
 吉川和篤(軍事ライター/イラストレーター) の意見
 生誕の地で公開された「激レア機」
 2022年10月末、第2次世界大戦中の旧日本陸軍機である一式双発高等練習機が、昨年2021年11月に続いて都下、立川市で公開されました。このときは実に80年ぶりの里帰りといえるものでした。
 この機体、日本航空協会から「重要航空遺産」の認定も受けた貴重なものです。一体どの部分がレアなのか、立川に帰ってきた経緯と合わせて見てみましょう。
 【コックピットやエンジンも】80年前の航空技術を見た! 公開された「一式双練」
 2022年10月末に立飛リアルエステートで公開された一式双発高等練習機(キ54)。外枠を付けるのではなく、機首内部にフレームを入れて補強する形のため、見やすかった(吉川和篤撮影)。
 2022年10月末に立飛リアルエステートで公開された一式双発高等練習機(キ54)。外枠を付けるのではなく、機首内部にフレームを入れて補強する形のため、見やすかった(吉川和篤撮影)。
 © 乗りものニュース 提供
 一式双発高等練習機が展示されていたのは、JR中央線立川駅北口からほど近い立飛リアルエステート南地区5号棟です。この地にはかつて航空機製造会社の立川飛行機(現・立飛ホールディングス)が存在しており、戦前から戦中にかけて通称「赤とんぼ」と呼ばれた九五式一型練習機や九九式高等練習機、九八式直協偵察機、ロ式(ロッキード)輸送機の製造が行われていました。さらに同社は、中島飛行機(現・SUBARU)が開発した一式戦闘機「隼」の移管生産も行っており、同「隼」三型はほぼ全機といえる1500機がここで造られたものです。
 これら機体を開発・製造する中で技術を蓄積した立川飛行機が自社開発した全金属製双発機が、一式双発高等練習機でした。展示された機体は、立川飛行機の流れを汲んだ不動産賃貸業の立飛ホールディングス立川市)が2020年11月に所有権を取得して同地に迎え入れたもので、だからこそ「80年ぶりの里帰り」と形容されるのです。
 では、里帰りするまでの間、この機体はどこにあったのかというと、本州最北端、青森でした。
 使い勝手に優れた万能練習機として
 そもそも一式双発高等練習機が生まれるきっかけとなったのは、1939(昭和14)年3月に旧日本陸軍が出した新型機の開発要求でした。
 当時、陸軍は九五式二型練習機の後継機として、操縦訓練だけでなく航法や通信、射撃、写真撮影など、機上作業全般に幅広く使用できる、多目的に使える高等練習機を欲しており、その試作を立川飛行機に依頼したのです。なお、これは立川飛行機にとって、全金属製、引込み式脚を備えた初の双発エンジン機ともなりました。
 1941年に制式採用された一式双発高等練習機(キ54)の当時の写真。力強くハ13甲型エンジンを回している(吉川和篤所蔵)。
 © 乗りものニュース 提供
 同社は、中島九七式輸送機並びに、ロッキード・スーパーエレクトラ旅客機をライセンス生産したロ式輸送機の製造経験を活かして、この双発新型機の開発に取り組みます。結果、1940(昭和15)年6月に初飛行に成功、飛行試験も良好で、小規模な改修の後、1941(昭和16)年7月に一式双発高等練習機(キ54)として制式採用されました。
 機体サイズは、全長約12m、翼幅約18m。搭載された日立製の「ハ13甲型」空冷9気筒エンジンは信頼性が高く、視界の良い操縦席や様々な訓練に対応できる広い機内などと相まって、使い勝手に優れた練習機として陸軍などから高い評価を受けます。そのため、多目的練習機としてだけではなく、輸送機タイプ(キ54丙)や哨戒機タイプ(キ54丁)も造られ、連絡機や落下傘部隊の降下練習機としても重用されました。
 こうした派生型まで含めると一式双発高等練習機(キ54)シリーズは合計1342機が生産されています。
 里帰りするまでの足どり
 今回、立川で展示された一式双発高等練習機(キ54)は旧日本陸軍の飛行第38戦隊に所属していた機体で、1943(昭和18)年9月27日に秋田県能代市にあった飛行場(当時)を離陸して青森県八戸市へ向かう途中でエンジン故障に見舞われ、両県にまたがる十和田湖に不時着して水没したものです。この時、訓練中の乗員4名のうち、3名が亡くなりました。
 一式双発高等練習機(キ54)の垂直尾翼にしっかりと残った陸軍飛行第38戦隊の赤い部隊マーク(吉川和篤撮影)。
 © 乗りものニュース 提供
 その後、敗戦によって陸軍がなくなったことなどから、長らく忘れ去られていましたが、1990年代になって事故の記録から湖に沈んでいることが判明、2010(平成22)年に湖底の地形調査で発見されます。そして、青森県航空協会の有志らにより2012(平成24)年に引き揚げられ、県立三沢航空科学館で展示されるようになりました。ただ同館がその後、改修を受けることとなったため、それを機に立飛ホールディングスへの寄贈が決定、こうして生誕の地へと戻されることになったのです。
 機体は、60年以上にわたり水中にあったものの、淡水の十和田湖は年間を通して水温が4~5度と低温で、加えて紫外線や塩分にさらされなかったことなどから保存状態が比較的良く、一部には運用当時のオリジナル塗装や日の丸、部隊マークなども残っていました。こうした希少性などから、2016(平成28)年には日本航空協会(東京都)から重要航空遺産の認定を受けています。
 このように、歴史的価値もかなり高い立川の一式双発高等練習機ですが、一般公開は2022年10月末をもって最後となるというアナウンスが行われた結果、多くの見学者が詰めかけ、航空機メディア界隈ではちょっとした話題になっていました。
 ただ、これだけ多くの人を引き寄せたのですから、状況によっては今後、再び公開されるかもしれません。同機は、まさに80年前の日本の航空技術を21世紀の今に伝える「生き証人」といえるものです。
 もし、再度公開が行われたら、是非とも会場に足を運んで、当時の日本の航空機産業や技術について思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
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 ウィキペディア
 一式双発高等練習機 キ54
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 一式双発高等練習機(いっしきそうはつこうとうれんしゅうき)は、第二次世界大戦時の大日本帝国陸軍の練習機。キ番号(試作名称)はキ54。略称・呼称は一式双発高練、一式双高練、双発高練など。連合軍のコードネームはHickory(ヒッコリー、クルミの意)。開発・製造は立川飛行機
 概要
 陸軍航空通信学校所属の一式双発高練
 1939年(昭和14年)、日本陸軍立川飛行機に対して、九五式二型練習機の後続機として、多目的に使用できる高等練習機の試作を指示した。条件として全金属製の双発機で、引込脚式を基本とし、正副操縦者のほかに操縦訓練生、航法手訓練生、通信手訓練生、爆撃手訓練生、旋回機関銃手訓練生などの生徒とその教官・助教、計6~7名が乗り組むことを求められた。立川では、中島九七式輸送機や、米国ロッキードスーパーエレクトラライセンス生産機であるロ式輸送機を生産した経験を生かして開発し、試作機は1940年(昭和15年)6月に初飛行した。審査結果は良好だったため若干の機体の改修の後、1941年(昭和16年皇紀2601年)7月に一式双発高等練習機として制式採用された。
 立川としては初めての自社開発の全金属製双発機だったが、エンジンの信頼性が高く機体の耐久性に優れ、また操縦席からの視界がよく、機内も様々な訓練に対応できる広いスペースが確保されているなど、使い勝手に優れた傑作機であった。そのため操縦・航法練習機型の甲型(キ54甲)、通信・爆撃・射撃練習機型の乙型(キ54乙)といった多目的練習機としてだけではなく、輸送機型の丙型(キ54丙)、哨戒機型の丁型(キ54丁)も生産され、連絡機としても使用された。主に航空関係の各種軍学校、教育飛行隊、司令部飛行班や航空審査部飛行実験部にも配備され、丙型空挺部隊である挺進連隊(挺進団・第1挺進集団)の落下傘降下練習機として、また民間機(名称:Y39型輸送機)としても使用された。また、少数機が満州国軍にも要人輸送機として供与された。
 生産は1945年(昭和20年)6月まで行われ、総生産機数は1,342機であった。大戦末期には、250キロ爆弾2発を搭載しての特攻機も用意された。
 戦後は連合国軍の命令で、人員や物資を運ぶ緑十字飛行に利用された。また外地では国共内戦第一次インドシナ戦争で、日本人志願兵の操縦により運用されている。 
 現存機については、下記の十和田湖に沈んだ機体が発見されるまでは、中華人民共和国の北京航空航天大学北京航空館が保有する機体胴体部分のみが唯一とされていた。
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 二式高等練習機(にしきこうとうれんしゅうき)は、第二次世界大戦時の大日本帝国陸軍の練習機。試作名称(機体計画番号。キ番号)はキ79。略称・呼称は二式高練。開発・製造は満州飛行機。
 九七式戦闘機を高等練習機化した機体。
 概要
 1940年(昭和15年)に陸軍は旧式化しつつあった九七式戦闘機を単座および複座の高等練習機に転換する計画をたてた。開発は陸軍航空工廠と満州飛行機が共同で当たり、1941年(昭和16年)に試作1号機を完成させ、1942年(昭和17年)1月に二式高等練習機として制式採用となった。
 九七戦からの主な変更点は、エンジンを低馬力のものに換装したこととそれに伴う重心位置の変更、プロペラの変更、開放型の風防(キャノピー)への変更等であった。単座の甲型と複座の乙型の他、計画・試作で終わった丙型丁型(プロペラおよびエンジンの違い)が存在する。総生産機数は3,710機で、この中には1945年(昭和20年)に試作された木鋼製化された機体1機も含まれている。
 操縦性能は九七戦の特性を受け継いで良好であり、整備もし易い機体だったため、部隊からは好評で終戦まで生産は続けられた。大戦末期には特攻機として使用された機体も少なからずあり、また日本本土空襲時には来襲するアメリカ軍機の邀撃にも一部が投入されている。1945年(昭和20年)2月16日には、飛行場掃射のため関東地方に初来襲したアメリカ海軍第58機動部隊の空母艦載機を千葉県横芝陸軍飛行場の第39教育飛行隊が二式高練で邀撃。戦死5名の被害を出すものの、F6F-5 1機を確実撃墜する戦果を残している(米海軍第80戦闘飛行隊機。撃墜機残骸確認)。この戦果は古くはノモンハン事件で九七戦をもって、太平洋戦争(大東亜戦争)では一式戦「隼」をもって活躍した飛行第1戦隊のエース・パイロット、当時は第39教育飛行隊の教官でありこの邀撃に出撃した升澤正利少尉機とされる(助教である森脇伍長とともに撃墜を報告)。(海法秀一伍長は森脇伍長単機の撃墜だったと記している。)
 本機の現存機はインドネシアのサトリア・マンダラ博物館に、戦後のインドネシア独立戦争で使用された機体が展示されている。
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