🗡47〗─4─現代に残る日本陸軍鉄道専門部隊の遺構。新京成電鉄。〜No.153 

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 明治時代、欧米諸国以外で鉄道を敷設建設できたのは日本だけで、清国(中国)は欧米諸国に依存した。
 近代化の象徴は、鉄道敷設であった。
 日本陸軍鉄道専門部隊の遺産は、現代日本に受け継がれている。
 エセ保守とリベラル左派は、現代に残る軍部の痕跡を完全否定している。 
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 2024年1月27日 MicrosoftStartニュース 文春オンライン「《なぜ新京成電鉄はクネクネと走るのか》そのカーブに秘められた日本陸軍「鉄道専門部隊」のナゾ
 日本陸軍には、当時最新鋭だった「鉄道」を使った作戦を専門にした部隊が存在していた。ノンフィクション作家・早坂隆氏が鉄道連隊の謎を解き明かす。
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 不自然かつ異様なS字カーブの連続
 千葉県の津田沼と松戸を結ぶ新京成電鉄は、家屋の合間を細かく縫うようにして、右に左にクネクネと走っていく。その軌道はまさにS字の連続であり、ある種、不自然かつ異様である。
 なぜ、新京成電鉄は不思議なほど曲がりくねっているのか。その理由には、まさに日本の近現代史そのものが凝縮されている。
 新京成電鉄の車窓から撮影した線路の様子。レールがクネクネと曲がっているのが分かる(筆者撮影)
© 文春オンライン
 新京成電鉄は元々、戦前戦中に陸軍の鉄道第二連隊が使っていた演習線(通称・松戸線)の線路を、戦後になって旅客用に転用したものである。もちろん、修正されている部分も少なくないが、その基本となっているルートは、鉄道連隊時代のものである。
 では鉄道連隊とは何か? 
 日清、日露、第一次世界大戦、そして大東亜戦争(太平洋戦争)と続く近代戦争の中で、実は鉄道連隊は「重要な名脇役」であった。戦地に鉄道を敷き、その運用を含めて補給を根本から支える。敵に破壊された路線を速やかに補修、復旧させる。時には武装した車両で、敵兵とも戦った。
 日本の鉄道連隊は国内から朝鮮半島満洲、中国大陸、そしてアジア各地へと活躍の場を広げ、終戦前には映画「戦場にかける橋」で有名な泰緬鉄道の悲劇へと繋がっていく。近代戦において、鉄道は「最新鋭の道具(武器)」で、これを有効に使えるか否かが、戦況を大きく左右した。
 その鉄道連隊の演習線は、なぜ急カーブが多いのか。その理由はいくつかある。演習線では、鉄道を敷く技術力の向上のため、あえて難しいカーブが設けられる。もちろん、敷設後は運転手の腕を磨くのにも最適である。簡単な条件下の演習では、戦地での困難な軍務に耐えることができない。
 また、当時の陸軍の内規により、一つの鉄道連隊につき45キロメートルの運転区間をつくる必要があったことも、急カーブの多い理由の一つである。限りある用地内で距離を稼ぐには、カーブが多いほうが良い。
 さらに、線路が蛇行しているほうが、敵機からの空襲を受けた場合に避けやすいという考えもあったようだ。以上のような理由から、鉄道連隊の演習線は急カーブが続く軌道となっており、それが現在の新京成電鉄にまで引き継がれているのである。
 現在、多くの乗客はそんなことなど知らぬまま、通勤や通学にこの路線を利用している。
 馬や人力が主力……兵站輸送に苦慮した日清戦争
 日本の鉄道連隊が描いた「軌道」をなぞっていくと、日本の近代史に関する新たな像が見事に浮かび上がってくる。実は日本の近代戦争において、極めて大きな役割を果たしていた鉄道連隊。忘れ去られた夢の跡には、あまたの笑みと涙と血が滲む。知られざる鉄道連隊の哀歓を綴りたい。
 明治維新後、鉄道は「最新鋭の乗り物」「文明開化の象徴」として、日本に流入した。日本で最初の一般鉄道が開業したのは、明治5(1872)年10月14日。汽笛が鳴り響いたのは、新橋~横浜間である。
 その後、明治7(1874)年5月に大阪~神戸間が開業するなど、日本各地に官設鉄道や私設鉄道が次々と開業し、拡充されていった。「鉄道時代」の幕開けである。
 日本は明治27(1894)年7月に日清戦争に突入。翌28年に勝利を収めた。昭和7(1932)年に刊行された『鉄道第二連隊歴史』(帝国軍隊歴史刊行会)によれば、日清戦争時、日本は「臨時鉄道隊」を組織し、北支(北支那)に位置する山海関~天津間の鉄道の修理などを行ったとされる。これが日本の鉄道部隊の「起源」だという。
 日清戦争を通じ、日本は前線における兵站輸送に苦戦。最前線では、馬や人力による輸送に頼るような状況だった。兵員や軍需物資の速やかな輸送は、軍にとって重要な課題となっていた。
 いくら優秀な兵士や兵器を準備しても、戦場に迅速に投入できなければ、戦況を有利に進めることはできない。それまでの馬や人力とは桁違いの輸送力を持つ鉄道の存在が、戦争のかたちを変えようとしていた。軍用トラックなどの自動車が戦争に使用されるようになるのは、後の第一次世界大戦頃からである。
 そんな中で、日本軍が力を注いだのが鉄道部隊の創設であった。当時、欧米列強の多くは、すでに鉄道部隊を有していた。日本もそれに続こうと考えたのである。鉄道部隊の創設は、日清戦争後の軍制改革における喫緊の命題の一つに位置づけられた。鉄道部隊を的確に運用することが、戦争の趨勢を大きく左右する時代が来ることを、充分に認識していたのである。
 こうして明治29(1896)年4月、東京の牛込区市谷にある陸軍士官学校の構内に、鉄道大隊の編成事務局が誕生。そして11月18日、陸軍に鉄道大隊が産声をあげた。所属は近衛師団である。
 組織として教科書としたのは、ドイツ陸軍であった。一般鉄道の開業時にはイギリスを模範としたが、鉄道大隊に関しては、陸軍の親独姿勢を反映してドイツが手本とされた。
 鉄道2個中隊、電信1個中隊(後の電信隊)、材料廠という部隊編成である。初代大隊長は、工兵中佐の吉見精。陸軍士官学校第1期生の俊才であった。
 中野駅前で本格的訓練。義和団事件では海外へ
 創設翌年の明治30(1897)年6月、鉄道大隊は甲武鉄道(現・JR中央線)の中野駅前に転営。当時のこの地には平坦で広大な土地が広がっており、鉄道部隊の演習地として最適であった。中野駅からの引き込み線として演習線が敷設され、この地において鉄道兵らの本格的な訓練が始まった。蒸気機関車の運転はもちろん、線路の敷設、修理など、訓練内容は多岐に及んだ。甲武鉄道から人員の派遣を得て、新米の鉄道兵らは様々な技術の習得に励んだという。
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 ノンフィクション作家・早坂隆氏が、鉄道連隊の謎を解き明かす 連載「日本陸軍『鉄道連隊』の研究」第1回全文 は「 文藝春秋 電子版 」に連載されている。現在、第3回「 25歳鉄道兵は“中国の暴走貨車”を脱線させて『軍神』になった〈満洲事変秘話〉 」まで公開中です。
 (早坂 隆/文藝春秋 電子版オリジナル)
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