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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
技術はあっても資源のない軍国主義国家日本は、豊富な資源を持つ軍事経済大国のソ連やアメリカから日本を守る為には破壊的イノベーションと改良リノベーションを繰り返していた。
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2023年11月14日 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「海軍陸戦隊の上陸支援を担う“陸を走る軍艦”【特二式内火艇カミ車】─戦車ビフォー・アフター!─
ご覧のように水上航行中の特二式内火艇カミ車の外観は、戦車ではなく、ほとんど「砲塔を備えた小型哨戒艇」のように見える。アメリカ軍に鹵獲されて試験中に撮影されたワンカット。
戦車が本格的に運用され「陸戦の王者」とも称されるようになった第二次世界大戦。しかし、戦車とてその能力には限界がある。そこでその戦車をベースとして、特定の任務に特化したAFV(装甲戦闘車両)が生み出された。それらは時に異形ともいうべき姿となり、期待通りの活躍をはたしたもの、期待倒れに終わったものなど、さまざまであった。
有名なアメリカ海兵隊と同じく、日本海軍は海から上陸して戦う地上兵力として、海軍陸戦隊を擁していた。そして支援車両として陸軍制式の八九式中戦車(はちきゅうしきちゅうせんしゃ)や九五式軽戦車(きゅうごしきけいせんしゃ)などを装備していたものの、これらの戦車は、陸戦隊とともに海から海岸へと上陸する能力を備えていなかった。
かような事情を懸念した海軍は、陸戦隊のための「自力で海から上陸できる戦車」を開発することにした。特に太平洋戦争が勃発し、太平洋に散在する島嶼部で戦いが行われるようになると、上陸用舟艇などによる移送をすることなく、自力で浮上航行して上陸できる水陸両用戦車が強く求められた。
そこで、「水に浮く戦車」の開発が開始される。ではどうやって重い戦車を浮かせるかというと、簡単にいえば、戦車に「浮き」を取り付けるのだ。このような発想に基づいて水陸両用戦車の開発が進められ、最初に実用化されたのが特二式内火艇(とくにしきないかてい)カミ車である。
日本海軍では、内燃機関を搭載したモーターボートなどの小型艇を「内火艇」と呼んだが、日本初の浮上航行戦車の存在を隠す目的で、あえて内火艇の名称が付与された。しかも航行中の状態では、戦車としての足回りが海中に隠れているため、いかにも内火艇に見える。
特二式内火艇カミ車は、車内に設けられた浮力空間だけでなく、車体の前部と後部に大型のフロートを装着することで、浮上航行をひときわ容易にしていた。しかもこの車体前後のフロートは、上陸が完了し「普通の戦車」として地上運用に移る際、邪魔にならないよう投棄できる構造となっていた。
また、水上航行の際は、車体後部に備えられた2基のスクリューを回して進んだ。
砲塔に搭載されたのは37mm砲だったが、太平洋戦争開戦早々に威力の不足が懸念された。そして案の定、後のアメリカ軍との交戦では、M4シャーマン中戦車の装甲に歯が立たず苦戦を強いられている。
制式化は1942年で、約180両が生産されてクェゼリン、サイパン、レイテの戦いなどに投入されたが、浮上航行能力には優れていた反面、装甲が薄く火力も弱かったため、有効な機甲戦力として活躍する機会はなかった。
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ピクシブ百科事典
特二式内火艇 とくにしきないかてい
特二式内火艇 「カミ車」は旧日本海軍(海軍陸戦隊)の水陸両用戦車。
概要
日本海軍が編成した陸上戦闘部隊・海軍陸戦隊はそれまで八九式中戦車や九五式軽戦車等の陸軍制式戦車、及び独自に輸入したヴィッカース・クロスレイ装甲車等を使用していたが、上陸作戦に使えるような車両は保有していなかった。そこで陸軍技術本部の協力を仰ぎつつ、九五式軽戦車をベースに開発したのが本車である。
砲塔は二式軽戦車を流用、主砲は前期型では間に合わせに九四式三十七粍戦車砲もしくは九八式三十七粍戦車砲を、後期型では本来の一式三十七粍戦車砲(主砲同軸機関銃である九七式車載重機関銃との双連)を搭載していた。また、車体前方左側に九七式車載重機関銃を装備した。(前期型で車体前方機関銃1挺のみ 、後期型では主砲同軸機関銃と合わせて2挺。)
車体の前後に水上走行を可能とするための着脱式の舟形フロート(浮き)を取り付け、上陸後に着脱するようになっていた。(前部フロートには一体式の前期型と左右分割式の後期型があった。)
展望塔や換気塔も上陸後は外される事となっていたが、こちらは実戦では付けたまま行動しているものもある。
試作車は1941年(昭和16年)に完成し、翌年に“特二式内火艇 カミ車”として制式化、終戦までに約180輛が完成し、南方の島嶼地域に展開する海軍陸戦隊に配備された。
現存車輛はソ連軍に鹵獲された車輌がロシアにあるクビンカ戦車博物館に展示、またパラオのコロールにあるアサヒスタジアムの裏手には、本車輛が朽ち果てたまま放置されている。
海軍の水陸両用戦車
日本海軍では水陸両用戦車であることを隠すため、「特型内火艇」(内火艇とはモーターボートのこと)と呼称した。
特三式内火艇 「カチ」
特四式内火艇 「カツ」
特五式内火艇 「トク」(未完成)
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ウィキペディア
特二式内火艇 カミ車(とくにしきないかてい、もしくはうちびてい カミしゃ)は日本海軍(海軍陸戦隊)の水陸両用戦車。1942年(昭和17年/皇紀2602年)に制式採用された。昭和以降の兵器の呼称様式に従い皇紀の下2桁を取って「二式」と呼ばれる。
開発
特二式内火艇のカラー側面図
海軍陸戦隊はそれまで八九式中戦車や九五式軽戦車等の陸軍制式戦車、及び独自に輸入したヴィッカース・クロスレイ装甲車等を使用していたが、上陸作戦に使えるような車両は保有していなかった。そこで陸軍技術本部の協力を仰ぎつつ、エンジン、ギアシャフト、電気系統などで九五式軽戦車をベースとして開発したのが本車である。
潜水艦による輸送を考慮したため、全面的に溶接構造を採用し、ハッチ部分にはゴムシールを装備するなど、車体の水密化を図っていた。水上航走時は、後部に付けられた2軸のスクリュープロペラによって推進した。
砲塔は二式軽戦車の物を流用していた。主砲は、前期型では間に合わせに九四式三十七粍戦車砲もしくは九八式三十七粍戦車砲を搭載していた。後期型では本来の一式三十七粍戦車砲を搭載していた。一式三十七粍戦車砲は主砲同軸機関銃である九七式車載重機関銃との双連であった。また、車体前方左側に九七式車載重機関銃を装備していた。そのため、前期型は車体前方の機関銃1挺のみであり、後期型では主砲同軸機関銃と合わせて2挺である。
また、搭載兵装として館山海軍砲術学校研究部作成「陸戦兵器要目表」特二式内火艇の項の特徴としての中に「要スレバ二式魚雷二本ヲ搭載スルコトモ可能」とあり魚雷攻撃が可能であった事を示唆させている。しかし実際に試験した記録がなく、その後に特四式内火艇が登場したことで混同しているおそれもある。また、魚雷と車体の大きさや落射器の装備位置の兼ね合いから実現にもそもそも無理があった可能性が高い。
本車の特徴として、車体の前後に水上走行を可能とするための着脱式の舟形フロート(浮き)を取り付け、上陸後に取り外せるようになっていた。ただし、フロートの再装着には時間がかかるため、厳密には本車が「水陸両用戦車」でいられるのはフロートを付けている状態の時のみである[要検証 – ノート]。ただ、帝国海軍は本車を上陸侵攻作戦用の兵器と位置づけていたため、この点はあまり問題とはされなかった。前後のフロートは波浪のある海面を航行するためのものであり、静水(平水)面ではフロートを切り離して車体自体の浮力で行動することが想定されていた。なおこの状態での車体の乾舷は約50 cmである。前部フロートには一体式の前期型と左右分割式の後期型があった。
また、展望塔や換気塔も上陸後は外される事となっていたが、こちらは実戦では付けたまま行動しているものもある。
浜辺に上陸する特二式戦車。切り離したフロートが後方の水面上に見える。取扱説明書掲載写真
試作車は1941年(昭和16年)に完成し、翌年に“特二式内火艇 カミ車”として制式化された。公式には、フロート装着時を特二式内火艇と称し、艦船名簿にも記載されており、“隻”で数えられ、フロートを切り離した状態を特二式戦車と称する。
配備と実戦
二等輸送艦で輸送中の車輌。
本車は終戦までに約180輛が完成し、南方の島嶼地域に展開する海軍陸戦隊に配備された。搭載砲は既に威力不足となっていたものの、貴重な装甲戦力として重宝された。
アメリカ軍により鹵獲され、航走試験中の車輌。1945年
初の実戦となったのはクェゼリンの戦いであった。サイパンの戦いでは10輛が配備され、上陸作戦ではないためフロートは未装着であったが、プロペラスクリューは装着している[3]。フィリピンのレイテ島の戦いでも使用された。台湾沖航空戦の戦果を鵜呑みにした大本営は同島を決戦地と捉え、多号作戦と呼ばれる強行輸送を1944年(昭和19年)10月下旬から繰り返し行った。12月7日にレイテ島を巡る戦いの事実上の終結点ともいえるアメリカ軍のオルモック湾上陸作戦が行われたが、その直後、12月11日の夜間にはマニラから第九次船団となる二等輸送艦2隻が駆逐艦「夕月」・「桐」の護衛の下、400名の陸戦隊員と本車11輛、トラック、火砲、物資を満載してオルモック湾に到着した。
先に上陸を開始した「第159号輸送艦」はアメリカ軍第55師団から攻撃を受けるも機材を下ろし、続く「140号」も機材の6割を下ろすことに成功した。洋上でも駆逐艦隊同士の交戦が行われたものの、大破した「159号」を除く3隻は離脱することができた(ただし「夕月」は帰路に空襲で撃沈される)。
上陸部隊は激しい攻撃にあいつつも、オルモックを守っていた日本陸軍第26師団の一部と連絡を取ることに成功した。本車は更に2号ハイウェイに沿って北上を図ったが、アメリカ軍第77師団に妨げられた。やむなくルートを変更し北にあるバレンシア飛行場にいた海軍設営隊と連絡を取ろうとするも失敗し、オルモックの北西にあった海岸の町パロンポン付近に追い詰められ、壊滅した。
このほか、硫黄島などでも実戦で使われたという説もあるが、使用状況はよく分かっていない。
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