🗡28〗─3・D─最強の零式水上偵察機、二式水上戦闘機。~No.93 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   

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 昭和10年頃 1,000円程度の金があれば東京都内で家が建てられた。
 戦闘機1機=7万円、爆撃機1機=20万円、戦車1台=35万円。
 戦車は高額な特殊鋼を大量に使う為に値段が高かった。
 日本陸軍が、戦車ではなく航空機を主力兵器としたのは正しい判断であった。
 海軍主力戦闘機「ゼロ戦」の製造を許可したのは、山本五十六であった。
 東條英機は、陸軍主力戦闘機「隼」製造と原爆開発を許可し、アメリカ本土を空爆する為の巨大爆撃機富嶽」の研究を命じた。
 戦前の軍国日本における軍事技術は、技術を知らない軍人の無茶な要求を満たす為の創意工夫による破壊と創造のインベンションで、世界を相手にしたナンバーワンと自分に対するオンリーワンであった。
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 日本陸軍に必要な主要兵器は航空機であって戦車ではなかった。
 東条英機は、その事を満州事変や日中戦争を戦って理解していた。
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 最先端軍事技術は戦艦や戦車ではなく航空機であった。
 現代の日本人は、昔の日本人以上に科学技術や軍事技術がわからない。
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 2022年11月12月8日 YAHOO!JAPANニュース 乗りものニュース編集部
 水面発着できる零戦!?「二式水上戦闘機」が初飛行-1941.12.8 太平洋戦争開戦の日
 零戦を改造して生まれた二式水上戦闘機
 © 乗りものニュース 提供
 太平洋戦争が開戦した1941(昭和16)年12月8日。旧日本海軍の戦闘機「二式水上戦闘機」が初飛行を迎えました。
 戦闘機の黎明期は、まだ離発着ができる飛行場が十分に整備されておらず、任意の水面を離発着可能な「水上機」(飛行艇含む)が多く用いられました。主翼に「フロート(浮きいかだ)」が付いているなどして、飛行機を浮かせることができたのです。
 飛行場が整備されるにしたがい、水上機の存在価値は低いものになります。なにより、飛行機の性能向上に伴い、フロートが飛行時に空気抵抗として邪魔な存在になったからです。
 ところが、太平洋戦争を想定するにあたり、南洋の島々を攻略していくことを考えると、旧日本海軍は各地に飛行場をいちいち建設するよりも、水上機海上へ降り立つほうが効率良いのではという判断を下します。こうして水上戦闘機を開発することにしたのですが、新設計の水上戦闘機は量産に至るまでに時間がかかることから、中継ぎ的な存在として既存機を改造した水上戦闘機も造ることにします。
 そこで、ベースとなる戦闘機として白羽の矢が立ったのが「零戦ゼロ戦とも)」こと零式艦上戦闘機でした。ただ、同機を生み出した三菱重工は新型の陸上戦闘機「雷電」の開発で忙しかったため、代わりに中島飛行機(現・SUBARU)が開発を担当します。こちらはベース機がすでにあったため1年足らずで開発は完了しました。
 ただ、量産するにあたり、海水への耐性を補強し、フロート装着による重量増や、抵抗の増大によって起きた機動性の低下をカバーするために、垂直尾翼にある方向舵(ラダー)の面積を拡大するなど、機体各部にさまざまな改良も加えられています。
 二式水上戦闘機は1942(昭和17)年7月に旧日本海軍に制式採用されると、翌1943(昭和18)年9月までの1年あまりの間に327機が生産されました。当初は戦闘機としての役割が期待されたものの、前線では対偵察機や洋上哨戒など、さまざまな役割で用いられています。ただ絶対数が少なかったため、戦後に残った機体はほぼ皆無で、現役時の写真も本家の零戦と比べて非常に希少となっています。
 【写真】現地で任務に就く「二式水上戦闘機
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 戦闘力低い下駄履き零戦二式水上戦闘機」 なぜ旧日本軍では重宝されたのか?
 2020.01.08 柘植優介(乗りものライター)
 第1次世界大戦で欧米諸国で用いられた水上戦闘機や戦闘飛行艇は、第2次世界大戦ではほとんど見られなくなりました。 しかし日本だけは使い道を見出し、零戦改造の水上戦闘機を生み出しました。
 水上機は滑走路いらず 飛行場の開設必要なし
 日本が開発した軍用機の中で唯一、1万機以上作られた零式艦上戦闘機、通称「零戦」は、旧日本海軍が後継機の開発に手間取ったこともあり、太平洋戦争末期になっても改良発展型が開発されていました。 そのため、零戦は初期型の一一型から終戦時にテスト中だった五四型まで10以上もの種類があり、さらに練習機型なども存在します。
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 零式艦上戦闘機をベースに各種改造を施した二式水上戦闘機
 そのなかでも一風変わった派生型なのが「二式水上戦闘機」、通称「二式水戦」です。 練習機型も含めてほかのタイプはすべて「零式」と呼ばれたのに対し、これだけ「零式」とついていません。 それはなぜでしょう。
 そもそも、水上戦闘機とは、海面や湖面などに離着水できる水上機の戦闘機仕様で、飛行場が未発達だった第1次世界大戦では、各国で使用されました。 また黎明期の飛行機は、エンジンを含めて信頼性が低かったため、不意のエンジンストップなどでも海洋や河川、湖などに降りられる水上機の方が、安全性が高かったという側面もあります。
 しかし、技術が進歩し飛行機の性能が上がるにつれて、フロート(浮きいかだ)部分が速力や機動性を向上させるうえでの障害となり、またエンジンなども信頼性が向上したことで、水上戦闘機はほとんど消え、欧米諸国において水上機飛行艇は、偵察用や観測用などの支援用に特化するようになりました。
 しかし、日本ではいささか事情が異なっていました。 旧日本海軍は、来るべき対米戦争では太平洋が主戦場になると想定しており、南太平洋に点在する島々を占領した際には、飛行場が完成するまでのしばらくのあいだ、水上戦闘機を配置しようと考えました。
 水上戦闘機なら飛行場が必要ないため占領後すぐさま展開でき、周辺の制空権を維持しつつ、偵察や警戒任務にも用いることが可能というわけです。
 下駄を履いたゼロ 自らの役割を全う
 そのための機体として、1940(昭和15)年に川西航空機において、まず「強風」の開発が始まりました。ただし、「強風」は野心的な要求性能から当初より開発が難航しました。そこで「強風」が実運用に入るまでの中継ぎとして、既存機を用いた水上戦闘機が開発されることになりました。
 二式水上戦闘機のベースに用いられた零式艦上戦闘機(画像:アメリカ空軍)。
 ベース機として白羽の矢が立ったのは零戦でした。零戦三菱重工が開発した艦上戦闘機で、その高性能ぶりから水上戦闘機にも転用することになりました。しかし零戦の開発元の三菱は、1940(昭和15)年当時、零戦の生産だけでなく、一式陸上攻撃機局地戦闘機(いわゆる迎撃戦闘機)「雷電」の開発で余裕がありませんでした。
 そこで、旧日本海軍水上機の開発ノウハウがあり、また三菱を補完すべく零戦の生産を行っていた中島飛行機に、中継ぎとなる水上戦闘機の開発を命じました。こうして1941(昭和16)年初頭から中島飛行機で開発はスタート、ベースとなる機体があったため1年足らずで開発完了し、太平洋戦争開戦日である同年12月8日に試作機が初飛行します。
 しかし機体の性能自体は問題なかったものの、水上機として用いるための海水による腐食対策に苦心しました。零戦は空母で運用する艦上機でしたが、飛沫など直接海水を浴びることはないため、電気系統含めて重点的に対策を施す必要がありました。
 また、フロート装着による重量増や、抵抗の増大によって起きた機動性の低下をカバーするために、垂直尾翼にある方向舵(ラダー)の面積を拡大するなど、機体各部にさまざまな改良も加えられました。
 かくして、零戦ベースの水上機は1942(昭和17)年7月6日に「二式水上戦闘機」として旧日本海軍に制式採用され、翌年9月まで約1年のあいだに327機生産されました。
 アメリカは工業力と機械力で水戦の必要なし
 二式水戦は、太平洋戦争緒戦の日本の戦線拡大によって、開発時の構想どおり飛行場設営が追い付かない最前線で活動し、北はアリューシャン列島から南はソロモン諸島まで、様々な場所で要地防空や船団護衛、海洋哨戒など多用途に用いられました。
 太平洋戦争中、南太平洋の水上機基地で翼を休める二式水上戦闘機(画像:アメリカ海軍)。
 しかし、このような水上戦闘機は日本特有で、第2次世界大戦においては他国で同種の機体はほとんど使用されませんでした。一応、アメリカ海軍ではF4F「ワイルドキャット」戦闘機にフロートを付けたF4F-3S「ワイルドキャットフィッシュ」が、イギリス海軍では「スピットファイア」戦闘機にフロートを付けた水上戦闘機型がそれぞれ製作されましたが、これらは試作で終わっています。
 そもそも、アメリカは圧倒的な工業力と機械力によって、陸上であれば多数の重機を持ち込んで、短期間で飛行場を作り上げる能力を有していました。また大戦後半になると大量生産した各種空母によって、艦載機によるエアカバーが可能となり、艦載機よりも低性能な水上戦闘機の必要性がなくなりました。
 イギリスについては、島しょを取り合う戦闘を想定しておらず、対日戦が勃発したため急遽、水上戦闘機を製作したものの、陸戦主体のヨーロッパ戦線では必要なく、大西洋ではアメリカ供与の空母と艦載機で間に合っており、さらにイギリスの対日戦はインド方面で、水上機の出番はありませんでした。
 結局、第2次世界大戦(太平洋戦争)における水上戦闘機自体が、土木機械が足りない日本ならではの機体だったといえます。そのため日本の形勢が不利になると、活動の場は減りました。
 ちなみに本命の「強風」については、二式水戦の生産終了後となる1943(昭和18)年12月1日に制式採用されましたが、ほとんど活躍することなく生産もわずか97機で終了しています。【了】
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 時事ドットコムニュース>特集>【特集】日本の海軍機>二式水上戦闘機
 【特集】日本の海軍機
 二式水上戦闘機
 前線の二式水上戦闘機。撮影日時、場所は不明だが、ソロモン諸島ショートランド島で撮影されたものと思われる 【時事通信社
 飛行場が整備できない島しょ部などの防衛用として水上戦闘機の開発を目指した海軍は1940(昭和15)年、川西航空機に新型機の開発を命じた。しかし、対米開戦が必至の情勢となったことから、川西の新型機が完成するまでの「つなぎ」として、中島飛行機零式艦上戦闘機の機体を利用した応急の水上戦闘機を発注した。中島は当初、零戦の完成機を改造しようとしたが、海水による腐食対策が難しかったため、零戦ベースの専用機体にフロートを装備した水上戦闘機を開発した。
 1号機は41(昭和16)年12月に初飛行し、翌42(昭和17)年7月に二式水上戦闘機として制式化された。零戦降着装置を取り外して、機体下に主フロート、両翼下に補助フロートを取り付けたほか、潤滑油冷却器を主フロートの付け根に埋め込んだ。垂直尾翼の大型化と機体下面の安定ひれの追加で、フロートの抵抗による操縦性能の悪化を防いでいる。最大水平速度は、零戦二一型の時速533キロから同436キロに低下したものの、水上機としては極めて高い運動性を発揮した。
 制式化と同時に激戦のソロモン諸島アリューシャン方面に配備され、陸上基地施設のない前線基地では防空や船団護衛、対潜哨戒などに活躍し、貴重な戦力となった。零戦と同様に20ミリ機銃と7.7ミリ機銃を搭載し、いざとなれば格闘戦も辞さなかったが、43(昭和18)年以降、米軍が高性能の新型機を投入してくると、さすがに活動の場はなくなった。正確な機数は不明だが、250機以上が製造されており、補助的な機種としては異例の多さと言える。
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 零式水上偵察機(れいしきすいじょうていさつき)は、十二試三座水上偵察機として愛知航空機により開発され、1940年(昭和15年)12月に日本海軍に兵器採用された水上偵察機。 略称として零式水偵、零水とも呼ばれ、零式小型水上機との違いを明確にするため零式三座水上偵察機とも表記される。略符号はE13A。連合国が名づけたコードネームはJake(ジェーク)。
 開発
 1937年(昭和12年)に日本海軍は、九四式水上偵察機の後継機、十二試三座水上偵察機の開発を川西航空機製作所と愛知航空機に指示した。海軍からの要求は、艦載機としても水上基地からでも運用できる長距離偵察機ということで、最大速度は370km/hとなっていた。試作機の納期は1938年(昭和13年)9月までとされていたが、愛知航空機では他の機体の試作・改良で手一杯で製作する余力がなく、納期に間に合わず失格とされた。しかし、愛知航空機では研究資料とするために製作を続行し、1939年(昭和14年)1月に1号機が完成した。
 機体は金属製(主翼の翼端は木製)で、低翼単葉の双浮舟式の水上機で、主翼は折りたたみが可能である。フラップは単純フラップとなっている。エンジンの出力、武装とも九四水偵よりも強力になっていたが、特に胴体に爆弾倉を設けており、小型の爆弾ならば2発が搭載可能。
 1939年6月に川西製の機体が事故で失われたため、急遽、海軍では愛知製の機体を受領し、横須賀で試験を行った。その結果、飛行性能優秀ということで採用内定となり、1940年(昭和15年)12月に零式一号水上偵察機一型として制式採用され、1942年4月7日に零式水上偵察機一一型に改称した。
 運用
 パプアニューギニアカビエン沖に沈んだ機体
 日本海軍は初期の空母・戦艦・巡洋艦・潜水艦に水上偵察機を搭載し、偵察の要として運用すべく準備を重ねていた。その仕上げとも言えるのが本機の配備であり、1941年(昭和16年)から艦船や基地への配備が本格化した。第二次世界大戦(太平洋戦争)開戦時には海軍の主力艦船には本機が搭載されており、艦隊や外地の基地の目として盛んに活動した。
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 A6M2-N 二式水上戦闘機
 飛行する佐世保航空隊の二式水戦
 二式水上戦闘機(にしきすいじょうせんとうき)は、大日本帝国海軍第二次世界大戦中に使用した水上戦闘機。略して二式水戦とも呼ばれる。開発・製造は中島飛行機。制式番号はA6M2-N。連合国コードネームは、「Rufe(ルーフ)」。
 開発
 日中戦争で九五式水上偵察機等の水上観測機が搭載機銃で敵機を撃墜するなどの意外な活躍をしたことから、1939年(昭和14年)に日本海軍は本格的な水上戦闘機の開発を決定し、十五試水上戦闘機(後の「強風」)が試作されることになった。
 しかし開発が難航したため、太平洋戦争(大東亜戦争)開戦による南方侵攻作戦に新型水上戦闘機は間に合わないことが明白になってきた。そこで、短期間で高性能の水上戦闘機を製作するために、当時高性能が話題となっていた零式艦上戦闘機零戦)一一型をベースに水上戦闘機化することを臨時に計画し、1941年(昭和16年)に中島に対して、「仮称一号水上戦闘機」の試作を命じた。零戦を開発した三菱重工業に対して改造を命じなかったのは、三菱が零戦や一式陸上攻撃機などの生産に手一杯だったことと、中島の方が小型水上機の生産に関して経験豊富だったためであった。
 中島ではこれを受けて社内呼称「AS-1」の緊急試作を開始し、約11ヶ月後の同年12月8日(奇しくも太平洋戦争勃発と同じ日)に試作1号機を初飛行させた。結果、飛行性能自体は良好であった。
 当初は改造箇所を局限し、重整備のために還納されてくる一一型や二一型を改造する予定であった。また、二号艦上戦闘機(後の零式艦上戦闘機三二型)をベースにした「仮称二号水上戦闘機」から新造する方針であった。これは二線級の任務に新造の零戦を回す余裕は無く、また、一一型・二一型ベースの一号水上戦闘機が実用機として長く活用できるとは予想されていなかったためである。
 ところが水上機として設計されていない零戦の機体は開口部が多く、浸入した海水が機体各所、特にマグネシウム合金部品を腐食・劣化させてしまうことが判明し、既存の零戦を改造する方針に無理があることがわかった。そこで、設計段階から、全面的な(腐食)対策を施し、水上機として不都合な部分に手を加えた上で、全ての機体を新造することが決まった。なお、仮称二号水戦の開発は三二型の審査の遅れを受けて中止されている[2]。
 1942年(昭和17年)7月6日に二式水上戦闘機として制式採用された。
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