🍙24〗─3─戦時下で起きていた温泉やスキーへの旅行大ブーム。昭和18年。~No.149 

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 2023年8月22日 YAHOO!JAPANニュース ダイヤモンド・オンライン「「戦時の日本の鉄道」は旅行客で大混雑!東急電鉄社長は小言を…“終戦2年前”の意外な実態
 今年も8月15日がやってきた。終戦から78年が経過し、当時10歳だった少年も今や88歳、当時の成人はほとんどが100歳以上になっている。総務省人口推計によれば2022年10月1日現在の78歳以上の人口は1509万人。さすが長寿社会、想像以上にご存命の方は多いのだが、夏休みに「祖父母に戦時中のことを聞いてみましょう」という宿題があった筆者の子どもの頃を思い浮かべるまでもなく、戦争を語り継ぐ人が年々少なくなっているのは事実である。戦時中の記憶と言えば硫黄島の戦いや沖縄戦、各地への空襲と艦砲射撃、原爆投下など、悲劇的結末を迎えた1945年の出来事を中心に語られることが多いが、本稿では80年前、1943年の鉄道と人々の暮らしを振り返ってみることにしよう。(鉄道ジャーナリスト 枝久保達也)
● 「心身の鍛錬」「聖地巡拝」などを理由に 戦時下で温泉やスキーを楽しんだ人たち
 3年9カ月の太平洋戦争において、ちょうど折り返しとなる1943年は、戦局においても人々の暮らしにおいてもターニングポイントとなった一年だった。戦局は既に前年、空母4隻を失ったミッドウェー海戦、消耗戦を強いられたソロモン諸島をめぐる戦いで劣勢となっていたが、連合国軍はこの年になって本格的な反攻作戦に着手する。
 既に徴兵、召集あるいは軍属として動員された若者は多く、戦死公報が届いた家庭も少なくなかったが、それでもまだ多くの市民にとって戦争とは遠い海の向こうの話だった。大本営発表で始めて「玉砕」が用いられたのは1943年5月、大学生が徴兵対象となり「学徒出陣」が行われたのは同年10月、ほとんどの生活物資が配給制となったのは同年末のこと。この一年で生活は一気に戦争色を強めていく。
 その中で鉄道はどのように変わっていったのか、1943年の朝日新聞から見ていこう。まず1月14日付朝刊には「スキーの持込み許可制」と題したのんきな記事が載っている。記事によれば週末から休日にかけての旅行者は相当な活況を呈し、上越方面の週末の夜行列車はスキー客で非常な混雑が予想されるため、スキー板は持込承認証所有者に限り1人1組に限り持ち込みができるようにするという。
 太平洋戦争開戦前年の1940年4月に戦費調達を目的とした「通行税」が導入され、鉄道の運賃・料金が大幅に値上げされると、1941年7月に鉄道省は遊覧旅行や団体旅行のほとんどを禁止。また開戦直後の1942年1月と4月に、立て続けに運賃・料金が値上げされるなど、既に不要不急の旅行自粛が強く求められていた。
 とはいえ前掲の記事にもあるように、「心身の鍛錬」や「聖地巡拝」などの名目で、温泉やスキーを楽しんだ人も少なくなかった。熱海までの乗車券が発売停止となっても、その先、例えば名古屋までの乗車券を買って熱海で降りる、なんてことも行われていたという。
● 国鉄は「決戦ダイヤ」改正で 通勤以外の旅客列車を大幅削減
 鉄道省は1943年3月に全急行列車を指定制とするが、4月2日付夕刊「急がぬ旅はやめよう」には、3日・4日の土日は「今春一番の人出が予想され、ことに2日夜発の夜行列車は各方面とも文字通りの殺人的混雑を見るものと思われる」として、国鉄は「輸送も戦場だ、徒な遊楽旅行はやめて下さい」と一般の協力を求めたと報じている。
 実際、4月6日付朝刊は2日の夜行列車から3日の早朝にかけて、リュックサック姿のハイカーやスキー客、釣り客などで「最高の人出」を記録したと伝えており「敵前旅行はほんとに自粛せよ」と批判している。
 これに対して国鉄は、夏季輸送対策として7月に料金値上げと券面通りに乗車券を使用しない乗客への罰則を制定。10月1日に「決戦ダイヤ」改正を行い、軍事輸送を増発するため通勤以外の旅客列車を大幅に削減した。同日夕刊の見出しにも「不急旅行は止めよう」とあることから、制限を重ねてもある程度の旅行者は残っていたようだ。
 12月15日付朝刊によれば、国鉄は年末年始においても一等車、寝台車、食堂車の連結を全面的に中止し、夜行列車は全て乗車指定制とした上で、乗車券の発売は各駅に割り当てられた枚数に制限する対策を講じている。
 同月16日付朝刊は「決戦へ捧げん輸送力」と題して、年末年始に1000人が旅行を中止すれば、東海道線の列車が1本削減可能で、これにより都民1日分の野菜が輸送可能だと指摘。温泉などの旅行客は従来の2割から5割減少しているが、いまだに一部の旅行斡旋会社が神社仏閣などへの戦勝祈願などを名目に、温泉地への遊覧旅行を行っていると伝えている。
● 東急電鉄社長の五島慶太が 時差通勤を主張・試行し成果
 庶民がしたたかに旅行を続ける中、鉄道輸送の軍事化は着々と進んでいた。2月4日付朝刊は国鉄が設計を簡素化し、耐久性を下げた「決戦型車両」の導入や、電車の座席撤去、客車を改造した貨車の投入など輸送力増強を進めると報じており、2月15日のダイヤ改正では、東海道本線特急「かもめ」の廃止、急行・準急列車や遊覧地向け列車が削減されたほか、山手線や中央線など都心の電車の終電が約20分繰り上がった。
 遊覧電車、長距離列車が削減される中、増発されたのは貨物列車と混雑が問題化していた通勤電車だった。軍需産業を中心とした工業化と、それに伴う動員の強化で、東京の通勤利用者は激増し、通勤ラッシュは殺人的混雑を呈した。6月16日付朝刊は7月から支線、通勤路線の二等車(現在のグリーン車に相当)を廃止し、通勤時間帯の輸送力を増強すると伝えている。燃料不足、車両不足でバス路線が大幅に削減されたことも鉄道の混雑を助長した。
 この頃の「空気感」を示すのが6月、東急電鉄社長の五島慶太東京新聞に寄稿した記事である。
 五島は「近頃の者は口を開けばヤレ非常時の、ヤレ決戦段階のと無造作にいふ。しかし彼等は一体この言葉がホントにわかっているだろうか」との小言から始まり、鉄道事業者が「乗らないで」とお願いする非常時なのに、利用者は「金さえ出せば何時でも行きたい所に行ける、勝手に荷物を送れる、という自由主義的な観念が骨の髄までしみ込んでいる」と批判している。
 彼は旅行制限に続いて、「些少の便、不便をいうべき時代ではない。即時実行あるのみである。各工場、会社、銀行、学校、官庁等は夫々始業の時間を食い違はしてこの輸送を緩和すべきである」として「時差通勤」の導入を主張している。時差通勤は1944年4月1日に導入されるが、東急本社では先行して30分の時差通勤を試行し、成果を出したそうだ。
● 戦時下で日本とシンガポールを結ぶ 「大東亜鉄道建設」の構想も
 この頃から本格的に始まったのが、防空訓練だ。例えば4月17日付夕刊は、地下鉄銀座駅で16日午前10時半から、切符売り場付近に250キロ爆弾が落下し、ガス管、水道管、地下鉄トンネルが破壊されたという想定で訓練を実施したと伝えている。この訓練は現実のものとなり、1945年1月27日の空襲で銀座駅が被弾している。
 8月27日付朝刊は、「空襲必至の現下の情勢に対応して」鉄道省が鉄道防空を強化すると伝えており、12月7日付夕刊は、開戦2年目を迎える8日に山手線、京浜東北線常磐線などの通勤路線で乗客も参加する避難訓練を行うと報じている。
 この他、2月10日付夕刊は金属回収の一環として、登山遊覧用のケーブルカーやビルのエレベーターを廃止して全て回収し、鉄や銅を兵器に転用する方針を伝えている。「勝つためにエレベーターなくとも何のその、兎角運動不足のビルの勤め人も職場偲んでこれから『歩かう!』の鍛練戦である」との一文からは、日常と戦争の奇妙な融合を感じさせる。
 また2月28日付朝刊は、敗色濃厚の中「大東亜鉄道建設」の実現に向けてタイ政府との具体的交渉を開始したという勇ましいニュースを伝えている。これは釜山から奉天、天津、南京、広東、ハノイバンコクを経由して日本とシンガポールを結ぶ構想で、日本海に「日韓トンネル」を建設し、戦後に新幹線として実現する「弾丸列車計画(東京~下関間)」との連絡も構想されていた。
 現代を生きる我々はその後、1年ほどで戦局は加速度的に悪化し、本土空襲が始まることを知っているが、戦時下にあってもささやかな日常を守ろうとした人々は、まさかそんなことになるとは思いもよらなかっただろう。
 平時と戦時は明確に線引きされるものではない。じわじわと日常を侵食していき、気が付いたときには後戻りできない状況になっているのである。戦争体験の語り部がいなくなったとしても、その苦い経験は私たちも語り継ぐことができるはずだ。
 1937年から1945年まで8年にわたる戦争で日本人約300万人、そして日本の侵略によりアジア・太平洋各国で計2000万人以上が死亡したと推計されている。この過ちを繰り返さないことは、日本に生きる私たちの責務である。
 参考論文 工藤泰子(2011)「戦時下の観光」『京都光華女子大学研究紀要』49号
 枝久保達也
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