🦋3〗─3・B─高度成長期の日本…今と当時との「5つの違い」。日本経済が韓国に完敗した理由。〜No.7 

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 2023年4月7日 YAHOO!JAPANニュース 幻冬舎ゴールドオンライン「「先進主要国から羨ましがられていた」高度成長期の日本…今と当時との「5つの違い」
 児井正臣氏の著書『自然災害と大移住――前代未聞の防災プラン』より一部を抜粋・再編集し、「高度成長期」「バブル」の時代からその崩壊までをみていきます。
 順風満帆だった高度成長期(昭和後半)
 [図表]大卒男子初任給と国電初乗り運賃の推移
 高度成長時代がいつ始まったのかについては多くの意見があるが、筆者の生活者としての実感としては概ね1965年(昭和40年)頃からだと思う。戦争で壊滅的になった経済の復興に20年、東海道新幹線東京オリンピックが復興の仕上げと考える。
 そして高度成長が始まった。それをもたらしたものは、今とは大きく異なる当時の舞台装置、すなわち当時の日本の経済環境だったと思う。それは、
(1)人口増加が進むとともに、若年層の多い人口構成だったこと
(2)第一次産業から第二次、三次産業へ労働力が移転し、生産性が向上し、それとともに所得の向上があったこと
(3)地方圏から都市部への人口の移転と、都市部における住宅不足から土価や住宅価格が高騰したこと
(4)技術革新により買いたくなる新商品が次から次へと世に現れたこと(三種の神器、新三種の神器
(5)将来はもっと豊かになるという夢を国民が抱いていたこと
 これらはもちろん相互に関係のあるものだが、成長に向けてのさまざまな舞台装置がすべて揃った大変ラッキーな時代だったと思う。そのなかでも、筆者は特に(5)将来への夢、が大きかったと思う。
 すべてについて世の中が前向きだった。サラリーマンはローンで自宅を持つことに何の疑いも持たなかった。
 私事になるが、筆者は1968年に就職、73年に結婚し、半年後に横浜市住宅供給公社の540万円という分譲マンションに幸運にも倍率23倍という抽選に当たり入居した。
 このときの手持ち資金が70万円で、それを頭金とし残りはローンとした。5年後に福岡に転勤となり、この家を売却しすべてを精算したら700万円が手元に残った。
 5年間家賃相当の額をローンの返金として支払いながらである。そして「夢よ、もう一度」とこの700万円を頭金に福岡でマンションを買った。
 6年後再び転勤で売却したときに残ったのは増えも減りもせず700万円だった。1985年のことで、実はこの頃から舞台が第一幕のフィナーレに入り、「成長のための装置」が効かなくなり、成長が止まりかけたのだと思う。
 なおこの間大卒初任給は約3万円から平均14万円となる一方、JRの初乗り料金は20円から120円になっている。ここ最近30年の動きに比べると非常に大きな伸びだったように思えるが、ある意味経済の実態(実力)を反映していたのだと思う[図表]。
想像できていたはずだが…「有頂天」だった日本国民
さらにこの間に、日本は世界でも稀に見る低負担・高福祉の国になった。先進主要国のなかでは、税負担が低く、当時の望ましい人口構造のもとで、軍事費の負担が少ないことは別にしても、この国の経済モデルは他の先進主要国からは羨ましがられていた。
 もちろん当時でも冷静に先を見ていた人はいたと思う。経済学者や経済官僚など、ベビーブームの終わりとともに将来の人口構造の変化などは容易に想像できたはずだし、このラッキーな成長モデルがいつまでも続くわけがないと思っていた人は少なからずいたと思う。
 しかしそれを口に出すことは当時の「空気」ではできなかったのかも知れない。そしてバブルが始まったのが実際はこの頃(85年頃)からだと思う。
国民は夢がまだまだ続くものと有頂天になり、海外に出かけ強い円のおかげで高額商品を買い漁った人も多かった。それまで堅実な成長を遂げていた企業の中には、同じ成長をキープしようと前年同期比といった数字が経営者や従業員を縛るところも出てきた。
 コンビニや外食をはじめとするチェーン店が急激に全国各地に広がったが、需要があるかどうかよりも、企業は規模を拡大し続けることを前提とするビジネスモデルになっていて、それを維持するために新店を出し続けていた。
 しかし新規分野への進出や店舗数拡大はまだしも、余剰資金でマネーゲームに手をだし、中には成長が続いているように装い粉飾に手を染めるところも出てきた。
 一方でIT関連の技術革新がさらに進んだが、もうこの頃からは実産業の生産性向上に寄与したというよりは、ITを使った新しい架空の世界を作りだしたと言える。
 それはゲームであり、SNSだった。バブルは90年頃まで続き、日経平均株価3万8915円(1989年)という最高値をつけた。そして大量の不良債権が積み上がった。
 これを止めるべく日銀が金利や数量規制でバブル解消を止めにかかった。
 これがハード過ぎてその後30年続く不況の原因となったという説もあるが、筆者はそれが厳しかったからとかどうかではなく、経済基盤が大きく変わったのが原因だったと思う。
 日本経済が第一幕から二幕に移る間の幕間の喜劇、ドタバタ劇だった。
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 児井 正臣
 1968年3月 慶応義塾大学商学部を卒業(ゼミは交通経済学)。
 1968年4月 日本アイ・ビー・エム株式会社に入社。
 1991年12月 一般旅行業務取扱主任者主任補の資格を取得。
 幻冬舎ゴールドライフオンライ
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 4月7日6:10 YAHOO!JAPANニュース ビジネス+IT「日本経済がドイツ・韓国に完敗した理由、分岐点となる「90年代」に何を間違えた?
 ドイツと順位が逆転したり、台湾や韓国に追い付かれることは特段、驚くような話ではないかもしれない…(Photo/Shutterstock.com)
 日本のGDP国内総生産)がドイツに抜かされようとしている。すでに1人あたりのGDPでは台湾に抜かされ、韓国が日本を抜くのも時間の問題と言われる。国内ではこうした事態に対して「ショックだ」といった反応が多いようだが、果たしてそうだろうか。過去の経緯と日本経済の現状を知る人にとって、ドイツと順位が逆転したり、台湾や韓国に追い付かれることは特段、驚くような話ではない。
 【詳細な図や写真】日本はドイツを追いかける立場であることを忘れてはならない(Photo/Shutterstock.com)
 日本はそもそもドイツに勝っていない
 2022年における日本の名目GDP(ドルベース)は4兆3,006億ドル、ドイツは4兆312億ドルとわずかに日本のほうが上回っている。GDPを国際比較する際には、ドルで統一するルールになっているので、円安が進んだ現在、ドイツと日本が逆転する可能性はそれなりに高まっている。IMF国際通貨基金)の予想では2023年時点でも日本がかろうじてドイツを上回っているが、為替が予想以上に円安に振れた場合、逆転もあり得ることになる。
 日本の人口は約1億2500万人、これに対してドイツは8300万人となっており、圧倒的にドイツのほうが人口が少ない。少ない人口で同規模のGDPなので、圧倒的にドイツのほうが豊かに暮らすことができる(ドイツの1人あたりGDPは日本の1.4倍もある)。
 こうした状況に対して、「あくまで円安の影響なので大したことはない」、「ドイツに抜かされるのはショッキング」など、さまざまな意見が聞こえてくるが、近視眼的な見方をしているだけでは事態を悪化させるだけだ。
 そもそも戦後の日本は、「ドイツに追い付け、追い越せ」をスローガンに輸出に邁進してきた。昭和の時代、ドイツの工業製品は憧れの的であり、付加価値の高いドイツ製品に対して、日本勢は低賃金を武器に価格で勝負を挑み、シェアを拡大させていった。
 日本勢の大量生産が功を奏し、日本がドイツのGDP(当時はGNP)を抜いたのは1968年のことである。だが規模ではドイツを抜いたものの、それは人口の多さと低賃金によるところが大きく、1人あたりのGDPではドイツに遠く及ばない状況が続いた。購買力平価で見た場合、日本の1人あたりGDPがドイツを上回ったことはなく、労働生産性も一貫してドイツを下回っている。
 高度成長時代における日本とドイツの関係は、少し前の中国と日本のようなものであり、豊かな先進国とそれを目指す規模の大きな新興国という関係だった。ドイツは、当時も今も高付加価値な工業国であり、日本との比較で言えば、今でもドイツのほうが工業製品の付加価値が高い。
 人口の多さによって規模では逆転したものの、本質的には、日本はドイツを追いかける立場であることを忘れてはならない。厳しい言い方かもしれないが、こうした現実を受け入れて初めて、適切な処方箋を導き出すことができる。
ドイツと日本は状況が違うという言い訳は成立しない
 では規模ではドイツを追い抜いた日本が、なぜ再びドイツに引き離されようとしているのだろうか。政府の財政出動が足りないなど、経済政策に問題があるとする意見や、ドイツの輸出が伸びているのはEU欧州連合)の効果なので実力ではないといった議論が幅を利かせているが、どれも事実ではない。
 財政について言えば、ドイツは憲法で均衡財政が義務付けられている国であり、大幅な財政赤字は原則として許容されない。コロナ危機やロシアによるウクライナ侵攻によって方針転換が行われつつあるが、これまでは国債を発行しない年すらあった。ドイツには財政出動で経済を伸ばすという考えはなく、基本的に企業の競争力が経済を成長させるという方向性でコンセンサスが得られている(そもそも経済理論上、財政出動によって根源的な成長力を増大させることはできない)。
 近隣諸国への輸出において為替リスクが存在しないことがメリットになるのはその通りである。だが、ドイツのような巨大な工業国は、近隣の経済圏だけに輸出しているわけではなく、北米やアジアなど全世界に輸出を行っている。これまでドイツは中国向けでも輸出を堅調に伸ばしており、これは自由貿易圏の存在とは無関係である。
 つまりドイツは財政出動に頼ることなく、EUという自由貿易圏に依存することもなく、輸出を伸ばしてきたわけだが、なぜそのようなことができたのだろうか。それはドイツの工業製品に競争力があったからである。競争力を単一の指標で定量化するのは簡単ではないが、輸出製品の価格を見れば、マクロ的にはおおよその動向について把握できる。
 ドイツの輸出製品の単価は戦後、一貫して上昇が続いているが、これは製品を毎年値上げしても販売数量が落ちないことを意味している。これに対して日本の輸出単価は1980年代以降下がる一方となっている。日本は数量を維持するため値引きを余儀なくされている状況であり、こうした違いこそが製品競争力の差ということになる。
 高い競争力を持つ製品を輸出しなければ、輸出主導で経済を伸ばすことは不可能であり、その点において日本はまだドイツに追い付いていないのが現実だ。
製品の競争力と為替は関係ない
 この議論は韓国との比較にも当てはまる。かつての韓国は日本の下請けとして部品を製造する国だったが、90年代以降、ITや半導体の分野で目覚ましい成長を遂げ、日本を凌駕する工業国となった。
 韓国の平均賃金が日本を抜いたことに対して、国内では懐疑的な見方をする人が依然として多いが、冷静に数字を見れば、韓国の賃金が日本を抜かしたことも驚くべきことではない。
 2010年以降の韓国の平均成長率(実質)は3%を突破しており、高成長が続いてきた。一連の高成長を支えているのがサムスン電子をはじめとするハイテク産業であることは説明するまでもない。
 日本と異なり、韓国は通貨高政策を採用しているので、ウォンは高く推移しており、輸出企業にとって著しく不利な環境にある。それにもかかわらず、韓国の輸出が好調なのは、ひとえに韓国製品の競争力が高いからである(かつて日本の競争力が高かった80年代、プラザ合意で強烈な円高になっても、日本の輸出はまったく落ちなかった)。
 韓国は一貫して高成長が続き、一方の日本は過去20年間、限りなくゼロ成長という状況を考えると、感情的な問題はさておき、韓国が日本に追い付くのはごく自然な結果と言って良い。
 ドイツ・韓国に大きな差を付けられた最大の理由
 ではドイツと韓国の企業が高い競争力を維持する一方、なぜ日本企業の競争力は落ちてしまったのだろうか。実はその答えもそれほど難しいものではない。
 日本の世界市場における輸出シェアは90年代を境に急低下したが、最大の理由はビジネスのIT化という潮流の変化を見誤ったからである。ドイツは90年代以降、製造業のIT化と高付加価値化に舵を切り、薄利多売のビジネスからは撤退した。一方、韓国はパソコンやスマホの台頭をいち早く見抜き、すべての工業的なリソースを両者に集中することで、一気に製品の世界シェアを拡大した。
 日本勢はこうした流れに背を向け、従来型の製品戦略を続けた結果、半導体や電機の分野ではほぼ完敗する状況まで追い込まれた。内需企業もビジネスのIT化に消極的であり、スイスのIMD(国際経営開発研究所)が策定している「デジタル競争力ランキング」では、デジタルテクノロジーのスキルで63国中62位、企業の俊敏性で63カ国中最下位、ビッグデータの活用で63カ国中最下位という、惨憺たる状況になっている。
 すべては企業戦略の誤りの結果であり、経済政策の問題ではない。日本のゼロ成長を政策のせいにしているうちは、今後も同じ状況が続く可能性がある。
 執筆:経済評論家 加谷珪一
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