🗡19〗─3・C─戦艦大和を無用の長物に変えた日本軍の破壊的イノベーション。~No.61 

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 現代日本イノベーションが喧伝されているが、戦前の日本を「大艦巨砲主義」と批判する現代の日本人には破壊的イノベーションが理解できないし実行できない。
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 太平洋における日米海軍の実力は、アメリカは3個艦隊であり、日本は1.5個艦隊である。
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 2022年12月8日 講談社ホームページ
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 皮肉にも戦艦「大和」を「無用の長物」に変えてしまった、山本五十六の「革新的すぎる新戦略」
 播田 安弘
 プロフィール
 史上最大の戦艦・大和が完成しました。その巨体もさることながら、主砲に採用された46cm砲も、艦砲としては世界最大のスケールを誇りました。しかし、残した戦果や実戦歴から、無用の長物と言われたり、航空機による戦闘が主流になりつつある時代に逆行していたことから"時代錯誤の大艦巨砲主義の産物"ともいわれています。
 しかし、前回の〈史上最大の戦艦「大和」に搭載された「46センチ主砲」の「ヤバすぎる威力」〉で見たように、大和に導入された技術は、非常にレベルの高いものでした。その高い技術力が存分に発揮されなかった原因として、航空機戦力への転換と言われています。では、戦力としての航空機活用はどのように始まったのでしょうか?
 今回は、大和をめぐる海戦の変化を見てみたいと思います。解説は、『日本史サイエンス』『日本史サイエンス〈弐〉』の著者で、船舶設計技師の播田 安弘さんです。
 構造上の問題点とは
 戦艦大和の防御力として、その艦体を守る装甲について見てみると、場所に応じて鋼材が使い分けられていました。装甲のしかたは、おもに表面硬化装甲と、均質装甲に分けられます。
 表面硬化装甲とは、表面を硬化させた装甲板による装甲です。じつは装甲は硬ければよいというわけではありません。硬いだけでは反面、脆さも生じ、壊れやすくなるのです。そこで衝撃を受ける表面のみを硬くし、裏面は衝撃を受けとめる柔軟さをもたせた装甲が表面硬化装甲です。
 表面だけを硬化させるには、表面に炭素を吸収させて焼き入れをする浸炭処理という方法がよく用いられ、こうしてつくられた装甲を浸炭装甲といいます。
 表面硬化装甲は、砲弾が深い角度(垂直に近い)で命中する部分に適していることから、戦艦では主砲の砲塔などに用いられました。
 一方で、砲弾が比較的、浅い角度(水平に近い)で命中する部分は、硬い表面の脆さのほうが効いてきて、割れてしまう可能性が高まります。そこで、そうした部分には焼き入れをせずに、全体に柔軟さと強さをあわせもつ均質装甲が用いられました。
 大和の装甲は、上甲板側部は厚さ230mmのMNC鋼を使った均質装甲、艦側上部から喫水以下は410mmのVH鋼を使った表面硬化装甲、喫水下部には200mmのMNC鋼を使った均質装甲でした。大和の主砲の砲塔は、前面は650mm、上部は270mmのVH鋼による表面硬化装甲が施されました。これは戦艦の砲塔としては史上最も厚い装甲でした。
 MNC鋼はニッケル(Ni)とクロム(Cr)からなる鋼にモリブデン(Mo)を加えて粘り気を増した均質装甲です。VH鋼は浸炭処理をせずに硬化処理して強度を増した新型の表面硬化装甲で、大和で初めて採用されました。これにより大和の主砲は、上面を爆弾が直撃しても、びくともしなかったようです。
 しかし、大和には構造上、大きな問題もありました。艦側上部の410mmVH鋼と、下部の200mmMNC鋼とは溶接ができなかったため、継手が鋲で留める鋲接になっていたのです。そのため側面に魚雷を受けると、衝撃で鋲が外れ、200mmMNC鋼板が内側に変形し、ここから浸水してしまうおそれがありました。
 【写真】大和 防御の問題点410mmVH鋼とその下の200mmMNC鋼板とは鋲接合。魚雷をバルジに受けると、衝撃で鋲が吹っ飛び200mm鋼板が内側に変形し、ここから浸水した(『日本史サイエンス』より一部改変)
 近代日本の成長の証だった
 こうして戦艦大和の能力をみていくと、いくつか問題点はあるにせよ、よくぞこのようなものをつくれたものと、素直に感動をおぼえます。1853年に米国のペリーが来航したときにはまだちょんまげを結っていて、黒船を見て肝をつぶした日本人が、それから80年ほどで世界最大の戦艦を建造したことは、やはり驚くべきことでしょう。
 しかし、日本人の高い技術力のシンボルとなるはずだった戦艦大和は、誕生直後から、手放しでは歓迎されない状況に立たされることになったのです。
劇変した「海戦の常識」その主導者とは?
 1941年12月8日、つまり大和が完成する8日前、連合艦隊司令長官山本五十六は、当時考えられなかった斬新な航空機動作戦で米国ハワイ州オアフ島真珠湾を奇襲し、米国太平洋艦隊の戦艦8隻を沈没させるなどして壊滅状態に陥れました。
 【写真】海軍機真珠湾攻撃の出撃準備に入る空母上の零式戦闘機(左)と、開戦期の快進撃を支えた九九式艦上爆撃機(写真は改良された2型) photo by gettyimages
 【写真】見送る甲板員真珠湾に向けて出撃する機を見送る甲板員たち photo by gettyimages
 さらに12月10日、日本軍は英国領マレー半島への上陸作戦を展開し、東方沖で英国の東洋艦隊と対決しました。このとき日本軍は航空機による爆撃によって"不沈艦"と呼ばれた英国の最新鋭大型戦艦プリンス・オブ・ウェールズを撃沈し、さらに巡洋戦艦艦1隻を沈めました。
 【写真】日本機の攻撃を受けた英国艦日本機の攻撃を受けた英・戦艦プリンス・オブ・ウェールズ(奥)と、巡洋戦艦レパルス photo by gettyimages
 真珠湾では停泊中の戦艦が相手でしたが、このマレー沖海戦は世界で初めて、航行中の戦艦を航空機だけで撃沈した例となり、世界に強烈な衝撃を与えました。それまでは、ペラペラのアルミ製の小さく貧弱な飛行機が、重武装の巨大戦艦を沈められるはずがないと考えられていたのです。
 英国のチャーチル首相はのちに、第二次世界大戦における最大の衝撃は、この戦いで戦艦を失ったことだったと著書で述べています。
 真珠湾マレー沖海戦における日本の鮮やかな勝利は、海戦の戦略を大きく変えるきっかけとなりました。世界の国々は、戦艦は航空機に勝てないことを思い知らされ、戦艦主体の戦略から、航空機と空母を主体とする戦略へと切り替えていくことになったのです。大和にとっては、皮肉としか言いようがないなりゆきでした。
 計画されてから7年余をかけてようやく完成して、さあこれからというとき、ほかでもない日本人によって世界が新戦略に目覚めたために、時代遅れという烙印を押されてしまったのです。
 しかし、それは言い換えれば、山本五十六のような卓越した戦略思想の持ち主がいなければ、世界は大艦巨砲主義から抜け出せていなかったということです。英国も大和とほぼ同時期にプリンス・オブ・ウェールズを建造していました。決して大和だけが時代錯誤だったというわけではないのです。
 大和が起こした技術革新
 1945(昭和20)年4月6日、もはや敗戦が決定的となった状況で、大和は沖縄に出撃しました。上陸した米軍に反撃する、というのは建前だけの作戦目的で、実際には生還の望みはない特攻作戦でした。
 そして、翌7日、午後2時23分。大和はその途上の鹿児島県の坊ノ岬沖で、巨大な火柱と黒煙を噴き上げながら沈没しました。船体はおびただしい数の爆撃と雷撃を受け、爆発して無残にも3つに折れていました。
 【写真】米軍機(写真右上の航空機)の攻撃を受ける大和米軍機(写真右上の航空機)の攻撃を受ける大和(4月7日の撮影と思われる) photo by gettyimages
 国家の危機には神風が吹くという蒙古襲来から信じられてきた神国思想は、絶対に沈まないと信じられていた戦艦とともに、海の藻屑と消えました。竣工からわずか3年4ヵ月のことでした。実際の戦闘に参加した回数はごくわずかでしかなく、自慢の46cm砲が敵艦に火を噴くこともほとんどないまま、大和はその短い生涯を閉じたのです。
 しかし、大和は日本に対して大きな貢献を、少なくとも2つはしていました。
 1つは、日本の重工業や機械工業の基盤づくりです。前にも少し述べましたが、造船業はあらゆる製造業が集約した総合産業です。鉄の加工から、溶接、組み立て、精密機械、エンジン、装備品、電気、制御などで、このため、造船業が発達することは、ほかのさまざまな産業にも波及効果がきわめて大きいのです。
 大和の船体建造では、別の組み立て場所で単部材〜小部材〜中部材まで組んでユニットとしてから船台上に運んで組み立てる、いわゆるブロック工法が編み出されました。戦後日本の造船が隆盛になったのは、大型ドックと、このブロック工法のおかげでした。
 ブロック工法は、戦後の日本造船界に引き継がれ、日本が造船王国として君臨する土台となった重要な技術でした。たとえば三井造船(当時:現三井E&S造船)の千葉工場では、20万tタンカーの船体を輪切りにした巨大ブロックを専用ドックで建造していました。
 【写真】三井E&S造船でのタンカーのブロック工法による造船タンカーのブロック工法による造船(三井E&S造船・千葉工場) photo by gettyimages
また、大和の巨大な測距儀は、レンズから機械式計算機を使って距離計測し、データを射撃盤に送るものです。その技術が生かされて、戦後になってカメラ産業が盛んになり、長野県の諏訪地方を拠点として、ニコンキヤノンが成長して精密機器産業の発展に貢献しました。
 そして大砲は、特殊な高強度の金属材料ですから、その財産が生かされて戦後の鉄鋼業が発展し、普通鋼の大量生産のみならず、特殊鋼もお手のものの高い技術力が培われました。船や砲は精密な制御が必要でしたが、とくに大和に求められた高い精度の技術が、戦後の電機産業、機械産業の発展を促しました。大和をつくったことが、造船にとどまらず、多岐にわたる産業の発展に大きく寄与しました。
 そしていうまでもなく、戦後日本の奇跡的な高度経済成長は、そうした技術に支えられて実現したのです。
 もう1つは、次のような貢献です。
 戦後日本人の心を支えた
 日本は巨大戦艦の存在を、米英には極秘にしていました。そのためには、敵を欺くにはまず味方というわけで、日本国民にも戦艦大和や武蔵のことは知らされていませんでした。ほとんどの日本人は、太平洋戦争のあいだ、日本でいちばん大きな戦艦は長門だと思っていたのです。
 日本に大和という戦艦があったことが広く知られるようになったきっかけは、終戦から7年がたった1952年の『戦艦大和ノ最期』の刊行でした。この本は大和最後の沖縄特攻に副電測士として参加した吉田満少尉が、絶望的な状況のなかで偶然にも一命をとりとめて生還したあと、大和が沈むまでの経緯や、乗員たちが死にゆくさまを克明に綴ったものです。翌年には『戦艦大和』として映画化もされました。
 【書影】吉田満戦艦大和ノ最期』
 吉田満戦艦大和ノ最期』(文芸文庫ワイド版)
 大和の存在を初めて知った日本人は、この国が、そのようなすごい戦艦をつくっていたということに大きな衝撃を受けました。そして、明治維新からたった70年余りでそこまでやれる自分たちの力に、はかりしれない自信をもちました。その自信は技術や産業にとどまらず、精神的にも日本人を支える大きな柱となったのです。
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 2021年12月27日 乗りものニュース ›› ミリタリー ›› 「大和」だけじゃない 大艦巨砲主義の象徴&最も戦艦にこだわり続けたアメリカのナゼ
 「大和」だけじゃない 大艦巨砲主義の象徴&最も戦艦にこだわり続けたアメリカのナゼ
 時実雅信(軍事ライター、編集者、翻訳家)
 tags: 歴史, 船, 艦艇(軍艦), 軍艦, 旧日本海軍, イギリス軍, アメリカ軍
 戦艦「大和」の建造中、山本五十六は「これからは海軍も空軍が大事で大艦巨砲はいらなくなる」といいました。今も「大和」=「無用の長物」という見方が支配的。しかし当時を振り返ると「大艦巨砲主義」にこだわったのは旧海軍だけではありませんでした。
 戦艦の建造ラッシュとその後
 旧日本海軍の戦艦「大和」は、日本がロンドン海軍軍縮条約を破棄した1936(昭和11)年に建造が開始されました。それまで第1次世界大戦後の軍縮条約で新たな戦艦の建造は制限されていましたが、当時、日本の脱退を受けて列強各国も建造を始めました。
 当初、日本は大和型戦艦4隻の建造を計画しましたが、それに対しアメリカは10隻、イギリス海軍は7隻の戦艦を計画しています。当時の空母(航空母艦)はまだ航続距離が短い複葉機が主流で、艦隊の主役ではありませんでした。
 ただ、イギリスは1939(昭和14)年に第2次世界大戦が始まったために、建造期間と費用がかかることから建造する数を2隻減らし、代わりに新設計の戦艦1隻(のちの「ヴァンガード」)を起工します。
 アメリカの戦艦「ニュージャージー」の一斉射撃(画像:アメリカ海軍)。
 日本は1941(昭和16)年に太平洋戦争が始まると、いち早く大和型戦艦の4番艦を建造中止にしました。さらに翌年6月に起きたミッドウェー海戦で空母4隻を失ったことで、手っ取り早く空母をそろえるため4番艦より建造が進んでいた3番艦「信濃」を空母に改造しています。
 他方、アメリカはアイオワ級戦艦6隻が建造中で、このほか大和型に匹敵するモンタナ級戦艦5隻も計画していました。
変化した戦艦の役割
 このように、各国の戦艦の建造計画はそれぞれ中止されたり変更されたりと、さまざまな道をたどりましたが、その事情をもう少し掘り下げて見てみましょう。
 まず、第2次世界大戦の海戦は太平洋と大西洋で性格が違っていました。大西洋ではドイツ海軍が弱体で空母を完成させられず、ドイツは大戦前半については戦艦や装甲艦で、後半は潜水艦でアメリカやイギリスといった連合国の輸送船団を攻撃しています。それに対して太平洋では、日本とアメリカの双方が戦艦や空母を始めとした強力な軍艦を多数保有しており、それらを中心とした複数の艦隊を編成していました。
 日本はハワイ真珠湾攻撃前の1940(昭和15)年に複数の空母を中心に編成した艦隊、いわゆる空母機動部隊を創設し、航空機を海戦の主役に据えるようにしました。この動向は旧日本海軍山本五十六連合艦隊司令長官の言葉どおりにみえます。
 イギリスの戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」(画像:帝国戦争博物館)。
 太平洋戦争中は日米とも空母の数を増やしたものの、戦艦の建造に見切りをつけた日本に対して、国力のあるアメリカがモンタナ級戦艦を中止にしたのは、開戦からかなり経過した1943(昭和18)年7月でした。アイオワ級戦艦は1944(昭和19)年4月に「ウィスコンシン」が最後に就役し、残る「イリノイ」は終戦直前の1945(昭和20)年8月12日、「ケンタッキー」は戦後の1950(昭和25)年1月に建造中止になっています。
 このように見てみると、すでに時代が航空機中心になりつつあったなかで、むしろ日本よりもアメリカの方が戦艦にこだわり続けたといえるでしょう。ただ、それには理由がありました。
 変化した戦艦の役割
 太平洋戦争は初戦で日本が占領した南方の島々を、アメリカが攻め落としていきました。日米が空母や戦艦を繰り出し、海軍の総力を挙げた「ガチバトル」になったのです。
 当時、すでに航空機の性能や航続距離が飛躍的に伸びて、戦艦の主砲が届かない遠距離からたがいに軍用機を送り込む、航空戦が主流になっていました。とはいえ砲撃戦がなくなったわけではありません。およそ1年半にわたり死闘がくり広げられたソロモン諸島では、航空機だけでなく戦艦などあらゆる軍艦が投入され、砲撃戦も起こりました。
 シブヤン海海戦で対空用の円陣を組む栗田艦隊(画像:アメリカ海軍)。
 第2次世界大戦前は戦艦が海戦の雌雄を決する切り札でしたが、太平洋では役割が変化していたのです。それはアメリカが顕著でした。
 戦艦は、上陸部隊を支援する艦砲射撃、艦隊の防空、砲撃戦というように、むしろ用途が広がっています。なお、日本もアメリカ軍に占領されたガダルカナル島を戦艦で砲撃しています。アメリカ軍の戦い方からわかるのは、各種の航空機や軍艦をそろえて、あらゆる戦いに対応できる総合力がものをいう、ということです。そのなかでは、時代遅れにみえた戦艦も充分大きな役割を果たせたわけです。
 戦後も活躍したアメリカ戦艦
 航空機が主役の時代にあっても、戦艦を航空攻撃のみで沈めるのは、実はかなり困難でした。
 1944(昭和19)年10月に起きたレイテ沖海戦のうちシブヤン海海戦では航空機の支援がなく、戦艦「武藏」が沈められたといわれます。これは日本軍が限られた航空機を敵の空母部隊に集中させるしかなかったからでした。
 シブヤン海海戦は8時間にわたる死闘でしたが、沈没したのは「武藏」だけで、重巡妙高」が脱落した程度です。これに対し、アメリカ軍はのべ286機が出撃し、撃墜や不時着水などで19機を失い、40機が被弾で損傷しました(アメリカ海軍の戦闘報告書から集計)。
 ここからくみ取れるのは、対空用の円陣を組んだ艦隊を攻撃するのは、アメリカ軍でも容易ではなかったという点であり、決して航空機が万能だったわけではないということです。
 湾岸戦争でトマホークを発射する「ウィスコンシン」(画像:アメリカ海軍)。
 レイテ沖海戦ではアメリカ軍が戦艦部隊を栗田艦隊に差し向けており、大和型とアイオワ級という日米の戦艦同士が砲撃戦を行う可能性がありました。双方の艦隊がわずかなタイミングで行き違ったため、戦艦同士が砲火を交える機会はありませんでした。
 これについて、アメリカ艦隊の司令官ウィリアム・ハルゼーは、「兵学校以来の夢がかなわなかったのが残念だ」と自伝に書いています。なぜなら、当時のアメリカでは20世紀初頭に兵学校で学んだ多くの司令官が、日露戦争のような戦艦の砲撃戦を夢みていたからです。
 しかも、アメリカは第2次世界大戦後も戦艦を使い続けました。アメリカ海軍はアイオワ級戦艦を朝鮮戦争ベトナム戦争で地上への支援射撃で使用し、1991(平成3)年の湾岸戦争でも巡航ミサイルを地上目標に対して放っています。
 このように大戦後も長らく使われ続けたアイオワ級戦艦がすべて退役したのは1992(平成4)年でした。こうして見てみると、どの国よりも戦艦にこだわっていたのは、アメリカだったといえるのではないでしょうか。【了】
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 大艦巨砲主義(たいかんきょほうしゅぎ)とは、艦隊決戦による敵艦隊撃滅のため大口径の主砲を搭載し重装甲の艦体を持つ戦艦を中心とする艦隊を指向する海軍軍戦備・建艦政策および戦略思想。巨砲大艦主義、巨艦巨砲主義、巨砲巨艦主義、大艦大砲主義とも言う。
 英国海軍戦艦ドレッドノート (1906年)が各国間の建艦競争を大艦巨砲主義に走らせる契機となった。しかし、タラント空襲や真珠湾攻撃マレー沖海戦の戦訓により、適切な航空援護なしに戦艦を戦闘に参加させてはならないことが認識された。

 日本と米国
 詳細は「ワシントン海軍軍縮条約での各国保有艦艇一覧」および「アメリカ海軍艦艇一覧#超弩級戦艦」を参照
 第二次世界大戦勃発直前(1941年)における日米の超弩級戦艦所有数は以下の通り。
 日本 - 金剛型巡洋戦艦から高速戦艦に種別変更)4隻、扶桑型2隻、伊勢型2隻、長門型2隻、大和型2隻(建造中含む)(計12隻)
 このうち金剛型、扶桑型、伊勢型、長門型の10隻は、1921年(大正10年)の軍縮条約発効前に建造された艦齢20〜30年を超える艦艇である。
 米国 - ニューヨーク級戦艦2隻、ネバダ級戦艦2隻、ペンシルベニア級戦艦2隻、ニューメキシコ級戦艦3隻、テネシー級戦艦2隻、コロラド級戦艦4隻(計15隻)
これら15隻全てが軍縮条約発効前に建造されたもので同様に艦齢20〜30年を超える。
ただし、米国は開戦直前から以下の超弩級戦艦を建造しているため、大戦中の戦艦保有数は倍以上の総数27隻に及ぶ。
 ノースカロライナ級戦艦2隻、サウスダコタ級戦艦4隻、アイオワ級戦艦6隻(計12隻)
日本はワシントン海軍軍縮条約により、仮想敵国であった米国と主力艦の戦力に上記のような大きな量的・質的格差があったこと、そしてパナマ運河を航行するためにパナマックスより大きい戦艦を建造できないことを鑑みて、戦艦史上最大の46センチ主砲の64,000t級大和型戦艦(「大和」と「武蔵」)を建造した。
 大和型は6万トンを超す大艦であり、45口径46cm砲という巨砲を備えた大艦巨砲主義の申し子だった。しかし、戦艦との戦闘では優位に立てたはずの大和型も航空機には勝てず、「大和」「武蔵」ともにアメリカ海軍航空母艦載機の集中攻撃を受けて沈没した。また連合国・枢軸国を問わず、多数の戦艦が航空機や潜水艦の攻撃で沈没した。
 日本は大和型よりも大型の51cm砲を積む超大和型戦艦の建造を予定していたが戦中に計画を中止している。また、米英仏独ソも35,000トン級を凌駕する巨大戦艦の建造計画があったが、直後に始まった第二次世界大戦では海軍の主役の座は航空機に移った。

 賛否
 太平洋戦争において日本海軍が米海軍と異なり、大艦巨砲主義に拘束され航空優位思想に転換できなかったという批判があるが、米海軍の建造数を見れば判る通りこのような考えは完全に誤りである。開戦直前まで艦歴20年を超える戦艦10隻しか擁さない日本海軍は大和型2隻の建造を行ったにすぎないが、これに対して1940年時点で米海軍はノースカロライナ級戦艦2隻・サウスダコタ級戦艦4隻・アイオワ級戦艦4隻、計10隻の建造を開始しており、この動向および各艦の性能は日本側も把握していた。
 また、大艦巨砲主義や航空優位思想の意味は多義的なもので検証に耐えるものではなく、決戦に備えて戦艦を使用しなかったという語りも、事実は、あるいは使用されあるいは使用されようとしあるいは戦艦としては見捨てられて使用されなかったのであり、機動部隊の建制化も重要な意味を持たない上に、アメリカ海軍が高速空母部隊を創設した時期は日本海軍も連合機動部隊の発令をした時期であり、この批判はイデオロギーであるとする意見もある。
 戦後、日本海軍の砲術出身の大艦巨砲主義者は次のように語っている。
・福留繁中将は「多年戦艦中心の艦隊訓練に没頭してきた私の頭は転換できず、南雲機動部隊が真珠湾攻撃に偉効を奏したのちもなお、機動部隊は補助作業に任ずべきもので、決戦兵力は依然、大艦巨砲を中心とすべきものと考えていた」と反省を語っている。
黛治夫大佐は、大艦巨砲が航空主兵に敗れた戦後になってもなお、戦前の想定どおり、砲撃主体の艦隊決戦を挑むべきだったと生涯主張し続けた。
戦後、大艦巨砲主義に反対していた日本海軍の航空主兵論者たちは次のように語っている。
・源田実大佐は、海軍が大艦巨砲主義から航空へ切り替えられなかったのは組織改革での犠牲を嫌う職業意識の強さが原因だったと指摘する。「大砲がなかったら自分たちは失業するしかない。多分そういうことでしょう。兵術思想を変えるということは、単に兵器の構成を変えるだけでなく、大艦巨砲主義に立って築かれてきた組織を変えるとことになるわけですから。人情に脆くて波風が立つのを嫌う日本人の性格では、なかなか難しいことです」と語っている。
奥宮正武中佐は、戦艦無用論も含む航空主兵論は戦前極端とも見られたが、太平洋戦争の経過がその見通しがほぼ正しかったことを証明したとして、とくに航空関係者が嘆いていたのは、大艦巨砲主義の下で作られる戦艦の建造費、維持費など莫大な経費が浪費される割にほぼ戦局に寄与しないことであり、それを航空に回せばより強力なものができると考えていたと語っている。
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 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「大艦巨砲主義」の解説
 大艦巨砲主義 
 海戦は砲戦によって決せられるとし,射程,破壊力ともに大きい巨砲を積んだ高速で防御力の強い巨艦が勝利をもたらすという戦略思想。近代的な戦艦の出現とともに起り,太平洋戦争中の真珠湾,マレー沖などの戦いで航空母艦中心主義が正しかったことが立証されるまで旧日本海軍をはじめ世界の海軍でこの思想が続いた。大艦巨砲主義に基づいて主要国間で主力艦の建艦競争が起り,アメリカ,イギリスは第2次世界大戦終了まで多数の戦艦を建造した。日本は『長門』『陸奥』『大和』『武蔵』をはじめとする戦艦を建造したが,大戦中に建造を中止した。大戦後,戦艦はほとんど姿を消した。アメリカは 1980年代に戦艦を復帰させたが,92年3月末日までにそのすべてが退役した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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 2015年4月14日 YAHOO!JAPANニュース「”大艦巨砲主義”のまぼろし
 dragonerWebライター(石動竜仁)
 「大艦巨砲主義」の象徴とされる、戦艦大和ウィキメディア・コモンズより)
 否定表現としての”大艦巨砲主義
日本海軍の戦艦大和が沈んでから、今年の4月7日で70年を迎えました。その節目とあってか、いくつかのメディアで大和を題材にした記事を見かけましたが、その一つにこんなのがありました。
 “ 
 世界最大の46センチ主砲が敵戦艦に火を噴くことはなく、この最後の艦隊出撃で、撃墜したとされる敵機はわずか3機だった。大艦巨砲主義の誇大妄想が生んだ不沈戦艦への“信仰”に対し、宗教家の山折哲雄さん(83)は「大和とは、いびつな時代のいびつな象徴だった」と指摘する。
  出典:大和撃沈70年:最後の特攻、敵機撃墜たった3機(毎日新聞
 毎日新聞の記事では、宗教家の言葉を引く形で「大艦巨砲主義の誇大妄想」とそれが生んだ「浮沈戦艦への信仰」と、批判的・否定的なトーンで伝えています。NHKでも過去に歴史ドキュメンタリー番組「その時歴史が動いた」で『戦艦大和沈没 大艦巨砲主義の悲劇』を放映していましたし、ざっと例を挙げられるだけでも、戦艦大和大艦巨砲主義の象徴として批判的に扱うメディアは多いようです。
 このように、「第二次大戦では強力な戦艦を主力とする大艦巨砲主義を空母機動部隊を中心とする航空主兵思想が真珠湾攻撃マレー沖海戦で打ち破ったが、初戦の勝利に囚われた日本は大艦巨砲主義固執し、逆に初戦の失敗から学んだアメリカは航空戦力で盛り返した」のような説明をする本や人はよく見られますね。
 真珠湾攻撃日本海軍機の攻撃を受ける米戦艦(ウィキメディア・コモンズ)
ところで、この大艦巨砲主義という言葉。大雑把に言えば、敵を撃破するために大きな戦艦に巨砲を積むという思想ですが、現在でも時代遅れの考えを批判する際に使われています。近年、メディアでどういう風に使われたのか、ちょっと見てみましょう。
{「安倍政権の原発政策は、時代遅れの大艦巨砲主義」(マスコミ市民,2013年8月)
「生産部門におもねる豊田家--復活する「大艦巨砲主義」 」(選択,2011年4月)
「時代錯誤の「大艦巨砲主義」か「日の丸」製造業の大再編」(月刊ベルダ,1999年10月)}
 製造業に関わる批判例が多いですね。重厚長大な製造業イメージが、大きいフネに巨砲を載せる大艦巨砲主義と重ねて見えるので、このような批判的意味合いを持った比喩表現として使われているのだと思います。いずれにしても、現代において「大艦巨砲主義」とは、敗北のイメージを持った、ネガティブな言葉と言えるでしょう。
 大艦巨砲主義ニッポン。戦艦何隻建造した?
では、第二次大戦中の日本はどのくらい大艦巨砲主義に毒されていたのでしょうか? 
 第一次大戦後、列強各国は重い財政負担となっていた建艦競争を抑えるため、海軍軍縮条約を結び各国の戦艦建造・保有に制限をかけ、軍拡競争に歯止めをかけました。この軍縮条約以前の時代こそ、大艦巨砲主義と言える思想が世界に蔓延っていたと言っても良いかもしれません。
 この海軍軍縮条約は1936年末に失効を迎えたため、以降は自国の好きなだけ戦艦を建造出来ます。大艦巨砲主義の日本は、きっとどこよりも大量に建造している事でしょう。軍縮条約失効以降に建造された戦艦を、日米英の3カ国で比較しました。
 海軍軍縮条約失効以降の日米英戦艦建造一覧
……あれ?建造数・進水数共に日本がブッちぎりで少ないですね。アメリカは12隻起工して10隻進水、イギリスは6隻起工して全て進水させているのに対し、日本は大和型を4隻起工して大和と武蔵の2隻進水、信濃1隻は空母に転用、もう1隻は建造中止で解体されています。戦艦として進水した数で見ると、日米英で2:10:6です。アメリカの5分の1、イギリスの3分の1の数です。さらに言えばイタリアが建造した戦艦(3隻)より日本の建造数は少なく、列強国の中で最低の数です。
 こうして各国の戦艦建造実績を比較すると、日本が戦艦に偏重していた訳ではない事が分かります。もっとも、これは多国間の比較であり、工業力の差が現れただけ、という見方もあるかもしれません。
 しかしながら、開戦に先立つ1941年11月には大和型戦艦3番艦、4番艦の建造は中止され、後に3番艦は空母に変更されている事からも、開戦準備の段階で戦艦以外の艦艇が優先されているのが分かります。よく見られる言説に「真珠湾攻撃マレー沖海戦で航空機が戦艦を撃沈し、大艦巨砲主義の時代が終わった」というものがありますが、それらの戦闘が行われる1ヶ月前に日本はこれ以上戦艦を建造しない方針が取られているのです。
 次々”航空化”させられた日本の戦艦
 ここまでは軍縮条約失効以降の新戦艦建造を見てきましたが、今度は従来から保有していた旧式戦艦の扱いを見てみましょう。
 太平洋戦争開戦時、日本は戦艦を10隻保有していましたが(大和型2隻は戦中に就役)、いずれも軍縮条約以前に建造された戦艦で、最も新しい戦艦陸奥でも就役から20年が経過していました。中でも低速で威力の劣る35.6センチ(14インチ)砲搭載の扶桑型・伊勢型の4隻は、戦艦戦力として期待されておらず、伊勢型2隻は航空機を搭載する航空戦艦に改装され、扶桑型2隻は航空戦艦あるいは空母への改装が計画されるほどでした。
 航空戦艦改装後の伊勢。後部の主砲が撤去されてる(ウィキメディア・コモンズより)
 このように戦力価値の低い戦艦は航空戦艦・空母に転用が計画されていた訳ですが、このような方針を大艦巨砲主義を掲げる組織が行うでしょうか? 空母4隻を失ったミッドウェー海戦後も空母や補助艦艇の建造はされますが、戦艦建造は一顧だにされません。対して、イギリスは戦争が終わっても戦艦を作り続けましたし、アメリカに至っては1991年の湾岸戦争でも戦艦を出撃させてますが、別に大艦巨砲主義と呼ばれる事はありません。何かヘンですよね?
 湾岸戦争イラク軍を砲撃する戦艦ミズーリウィキメディア・コモンズより)
 「巨大」なモノへの信仰から大和を造った?
 日本海軍にとっての戦艦の扱いがこのような状況にも関わらず、なぜ日本海軍は大艦巨砲主義だと言われていたのでしょうか?
 大和型が世界最大の3連装46センチ(18インチ)砲を搭載していた世界最大の戦艦であった事、つまり「巨大」であった事が考えられます。例えば、先の毎日新聞の記事中では、こんな事が書かれています。
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 「大国主命奈良の大仏……。古来、日本人は『巨大なるもの』への信仰がある」。宗教学者の山折さんは説明する。ただし、もちろん、巨大戦艦は神仏などではなかった。
  出典:大和撃沈70年:最後の特攻、敵機撃墜たった3機
 このように、日本人の巨大さそのものへの信仰が大和を生んだとする言説もちょくちょく見られます。しかし、失敗の原因を民族性に求める言説はあまりに大雑把過ぎます。このような言説に対し、航空主兵の尖兵である航空自衛隊教育集団の澄川2等空佐は、大和型建造の目的について以下のように説明し反論しています。
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 「強力な攻撃力を追求することであって、単なる巨大さへの信奉では決してない。大和級の設計概念は、小さく造る事である。(中略)18インチというという世界最大の艦砲を9門も搭載し、その18インチ砲に対抗しうる防御力を有しながらも、全体が当初の考えどおりコンパクトな艦体にまとめられたというのが大和級戦艦の特徴である」
  出典:澄川浩「日本海軍と大艦巨砲主義」朋友26巻4号
 大和型は強力な攻撃力と防御力を小さな艦に収めた事を特徴としており、大きい事それ自体は目的では無い、と否定しています。考えてみれば当たり前の話で、大きいとコストもかかれば燃費も悪くなります。大きさに信仰なんてものは関係なく、当時の状況と判断と技術がそうさせた結果であり、信仰にその原因を求めるのは問題を単純化して見ようとする悪い例です。
 しかし、大和型を建造させた判断とはどのようなものだったのでしょうか? そして何故、結果的とは言え世界最大になったのでしょうか。大和型建造に至るまでの日本海軍が置かれた状況と、判断を見てみましょう。
 なぜ大和は建造された?
 当時の状況と判断について、先に挙げた澄川2等空佐が、空自の部内誌で以下のようにまとめています。
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 演習や実験においていかに航空攻撃力がその可能性を見いだしたとしても、実戦においてその威力を示すまではどのような用兵者もその価値を信じ切るには至らないというのが本当のところだと考える。戦艦無用論がいかに強く提唱されても国の命運を賭けてまで、戦艦の砲戦力を全廃することなど到底採りうる方策ではなかったというのが現実である。
  出典:澄川浩「日本海軍と大艦巨砲主義」朋友26巻4号
 大和型以前の日本戦艦、つまり建造から20年近く経過した旧式戦艦では、海軍軍縮条約失効後に建造される他国の新戦艦に対抗出来ませんでした。しかも、大和型が計画された当時はまだ、澄川2佐が言うように、航空機による戦艦撃破は一度も実証されていません。実験では撃破の可能性が示唆されていたものの、停泊中の戦艦に対しては1940年のタラント空襲と1941年の真珠湾攻撃、作戦行動中の戦艦に対しては1941年のマレー沖海戦が起きるまで実例がありませんでした。このため、対抗上新戦艦が必要だったのです。
 サウスダコタ級戦艦マサチューセッツ(中央、ウィキメディア・コモンズより)
 大和型が巨砲を持って生まれたのも理由があります。当時の日本の国力では空母建造と並行して戦艦を揃えるのは不可能なため、建造出来る戦艦の数は限られました。数の劣位を、質でなんとか埋めようとしていたのです。戦艦は最も大量生産からかけ離れた兵器で、アメリカでも戦艦を同じ海域に大量投入する事は難しかったため、この考えはそれなりに説得力がありました。
 大和型が活躍出来なかったのは何故?
 しかしながら、大和型建造が大艦巨砲主義によるものではないとしても、大和型はさして戦果を挙げていません。この事実は、大艦巨砲主義の欠陥を説明する上で、よく根拠として出されているものです。トラック泊地に投錨したままの状態が多かった大和は、「大和ホテル」とアダ名されたと言われています。ソロモン諸島ニューギニアで熾烈な海戦が行われ、アメリカの新戦艦サウスダコタ、ワシントンに戦艦霧島が撃沈される戦艦同士の砲撃戦も発生していましたが、大和はそれに加わりませんでした。
 この原因として、城西国際大学の森雅雄准教授はいくつかの説を挙げています。
・大和には聯合艦隊司令部が置かれているので容易に移動できない
・燃料の不足(宇垣纏第一戦隊司令、淵田美津雄航空参謀ら)
・怯懦(きょうだ)のせい(御田俊一)
 このように推測出来る理由は複数ありますが、だからと言って戦艦が活躍出来なかった訳ではありません。森准教授・澄川2佐共に、日本が保有する戦艦で最も古い金剛型4隻が忙しく太平洋を行き来し、戦艦同士の戦闘から陸上砲撃、艦隊護衛と幅広い任務で活躍を見せている事を指摘しています。最古参の金剛型でこれですから、最新の大和型が活躍出来ない道理は無いのですが、結局のところ、日本海軍は大和型に活躍の場を与えることが出来なかったのです。これは上述の理由の通り、大艦巨砲主義に由来するものではありませんでした。
 国民が望んだ大艦巨砲主義敗北論
 さて、ここまでで日本海軍は大艦巨砲主義のように凝り固まった思想で大和を建造したのではなく、むしろ航空戦力への投資に重点を置きつつ、それなりの妥当性を持って大和の建造に臨んだ事がご理解頂けたと思います。
 しかしこうなると、なんで大艦巨砲主義を信奉した日本海軍は敗れた、という言説がこれまでまかり通って来たのでしょうか?
 このような戦後の「大艦巨砲主義批判」について、森准教授は「この批判はイデオロギーであると断じる」と結論付けています。
 森准教授は最も早い1949年に出された日米戦回顧録である高木惣吉「太平洋海戦史」に着目し、その中に書かれた日本が初戦の勝利に驕って航空軍備拡張に立ち遅れたという記述が、「太平洋海戦史」の1年半後に出版された淵田美津雄・奥宮正武「ミッドウェー」で「戦艦中心主義の時代錯誤」が加えられ、それがベストセラーとなった事を指摘しています。「大艦巨砲主義」を理由とした敗戦は、物量に負けたという実感的な理由よりも、「より周到であり反省の契機もあって、より上等で良心的で服従するに足りるように見える」(森准教授)ので、国民に受け入れられたのです。
 一方、澄川2佐はもっと容赦の無い結論を導いています。
 戦前の戦争計画では、侵攻してくるアメリカ海軍の戦力を削りつつ、最終的に日本の委任統治領である南洋諸島で決戦を行って撃滅する想定でした(漸減作戦)。戦中の日本海軍はその為に航空戦力・空母戦力の整備に注力し、1944年にほぼ企図した通りにマリアナ沖海戦が展開され、その結果日本は一方的に敗北しました。このように澄川2佐は、日本海軍の想定通りに進んだけど負けた事を指摘しており、アメリカに戦争を挑んだ事自体が敗因だと結論付けています。対アメリカを想定して戦争準備してきたのに、アメリカに戦争を挑んだ事自体が敗因だとすると、大艦巨砲主義・航空主兵思想以前の問題です。
 大和建造が間違いだったのではなく、日本人が選んだ道である対アメリカ戦争そのものが間違っていたという結論は、日本人にとって、残酷で不都合な真実でもありました。敗戦の理由を知りたがっていた日本人にとって、「航空戦力を軽んじた大艦巨砲主義」というのは、自分が傷つかない心地よい敗因だったのです。戦後に「大艦巨砲主義批判」を行った人も同様で、批判者に南雲艦隊の源田実航空参謀や、先述の淵田・奥宮両氏のような航空参謀出身者が多い事からもそれが伺えます。敗因を大艦巨砲主義のせいにすれば、航空参謀としての自分の責任を回避でき、自分は傷つかずに済みます。
 戦艦大和ウィキメディア・コモンズより)
 間違った戦争のおかげで大した活躍も出来ず沈んだ大和は、日本人にとって「間違った選択」の象徴として祀り上げるには都合の良い存在だったのです。本当はもっと根本部分で間違えていたにも関わらず、です。
 日本国民にとって、なんとも歯がゆい結論に至ってしまいました。しかし、戦後70年を経た今、これを読んでいるほとんどの方は、大戦の問題からは自由なはずです。そろそろ本当の敗因を見つめ直し、誤った選択を繰り返さないために考えてみるべきではないでしょうか。そして、大艦巨砲主義の象徴のような不名誉かつ誤った扱いから、彼女らを解放してあげてもいいと思うのですが……。
 記事に関する報告
 dragoner
 Webライター(石動竜仁)
 dragoner、あるいは石動竜仁と名乗る。新旧の防衛・軍事ネタを中心に、ネットやサブカルチャーといった分野でも記事を執筆中。最近は自然問題にも興味を持ち、見習い猟師中。
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