⛻25〗─1─国宝の名城は祖先が起こした奇跡、偶然、幸運で後世に残された。~No.106 

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 現代日本人には、祖先の日本民族の心、志、まごころが理解できない。
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 2022年12月9日 YAHOO!JAPANニュース プレジデントオンライン「いま国宝・彦根城を見られるのは奇跡に等しい…取り壊しが決定していた城を救った大隈重信のひと言
 彦根城(写真=Martin Falbisoner/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)
 かつて日本には300もの城があったが、現在まで天守が残る城はわずか12しかない。歴史評論家の香原斗志さんは「明治政府が出した廃城令により、多くの城は壊されてしまった。12の城が残っているのは、どれも奇跡といえる」という――。
 【画像】旧福井城天守の場所に福井県庁がたつ
■なぜ日本には城が残っていないのか
 日本では、大きな都市は城下町であることが多い。代表的な例でいえば、47都道府県庁の所在地のうち31は、かつての城下町である。明治の廃藩置県後、地域の中心都市に都道府県庁が置かれたケースが多かったが、当時はそれなりの都市といえば、たいていが城下町だったのだ。
 都道府県庁所在地だけではない。日本には天守が現存する城が12あるが、そのうち弘前城(青森県)、松本城(長野県)、丸岡城(福井県)、犬山城(愛知県)、彦根城(滋賀県)、姫路城(兵庫県)、備中松山城(岡山県)、丸亀城(香川県)、宇和島城(愛媛県)は、県庁所在地にはない。
 明治維新を迎えるまで、日本にはいかに城下町が多かったか、ということである。だが、そのわりには、日本には城が残っていない。
 そもそも県庁所在地にあった城でいまも天守が残るのは、松江城(島根県)、松山城(愛媛県)、高知城(高知県)だけで、城跡の面影すら失われている都市が多い。
 たとえば、群馬県庁がある前橋市にあった前橋城はほとんどが市街化され、関東七名城と謳われたこの城を偲ぶ遺跡は、一部を除いてほとんどが失われている。だいたい、県下一の高層であることが自慢の群馬県庁舎が、前橋城の本丸跡に立っているくらいで、群馬県には史跡を保護する意識などさらさらなさそうだ。
 あるいは、福井城は本丸跡に県庁などが立ち並ぶが、一辺が200メートルを超える正方形に近い堀に囲まれ、城跡はよく保存されているように見える。しかし、それはかつての福井城のごく一部。もともとは東西と南北がそれぞれ2キロ前後もあった大城郭で、3重、4重の堀に囲まれていたが、それらの堀はみな埋められ、城跡は市街化されてしまった。
■ヨーロッパの街並みとの違い
 ヨーロッパに行くと、こうした日本との違いを強烈に感じさせられる。多くの街で旧市街は中世や近世の姿をとどめ、城も、権力者の宮殿も、それらを取り囲む街並みも、残されていないほうが珍しい。
 一方、日本では少なくとも近年まで、経済合理性に反する過去の構築物は、平気で壊されてきた。木造と石造の耐久性の差、という単純な話ではない。過去の景観に価値を見いだすかどうか、という話だと思う。
■明治政府が出した「廃城令」
 日本の城が残っていない最大の原因は、明治6年(1873)に明治政府が出した「全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方」、いわゆる廃城令だった。
 明治維新を迎えた時点で、日本には193もの城があり、城持ちでない大名の本拠地だった陣屋を加えれば、事実上の城は300を超えていた。それらはとくに明治4年(1871)の廃藩置県以降、もはや封建時代の遺物とみなされ、壊されていったが、そのスピードが「廃城令」で一挙に加速したのだ。
 廃城令では、全国の城が43(数については諸説ある)の「存城」と、それ以外の「廃城」に分けられた。「廃城」になった城は、天守や櫓(やぐら)はもちろんのこと、城門や土塀、さらには城内の立木までが競売の対象となった。
 城門などの移築しやすい建物は、寺社や民家に払い下げられ、使われたからまだよかったのだが、天守のような大きな建物は、壊すのも運ぶのも大変なので買い手がつかず、薪になってしまったケースも珍しくなかった。城内の土地も払い下げられて住宅になったり、畑になったりし、堀は埋め立てられていった。
■城を文化財とする発想はまったくなかった
 では、「存城」に決まると守られたのかというと、まったくそうではなかった。維新後、全国の城はいったん陸軍省の所管財産になっていたが、それを引き続き陸軍の兵営地などに使う城と、所管を大蔵省に移して普通財産として処分する城に分けただけで、城を文化財として保存するという発想は、かけらもなかった。
 だから、「存城」となった城でも、陸軍の施設を設置するうえで邪魔なら、建物であろうと石垣であろうと、なんら遠慮なく破壊されたのだ。
 欧米に追いつくことだけを考えていた明治政府だが、歴史的遺産を継承して活用するという欧米の基本的な姿勢には少しも気づかず、かけがえのない遺産に、たんなる旧弊という烙印(らくいん)を押して否定した。薩長の下級武士、すなわち文化への理解度が低い人たちが政権を握った弊害としかいいようがない。
■姫路城は23円50銭で落札された
 だから、じつは、いまではユネスコ世界文化遺産にも登録されている姫路城とて例外ではなかった。
 大阪鎮台の歩兵第十連隊が駐屯することになると、三の丸にひしめくように立っていた御殿はみな取り壊され、大手門や、その周囲の複数の櫓も競売にかけられた。
 それだけではない。あの美しい天守でさえ、存城と決まった後に、維持が大変だという理由で競売にかけられ、姫路市内の金物商の神戸清一郎という人物が、わずか23円50銭で落札している。これはいまの貨幣価値に換算すると、10万円から20万円程度のようだ。繰り返すが、のちの世界遺産を、冷蔵庫程度の値段で売り払っていたのである。
 ただ、姫路城は江戸時代から名立たる名城だったこともあり、明治10年(1877)、陸軍で姫路城を管理する工兵第四方面提理代理だった飛鳥井雅古少佐が、陸軍卿代理の西郷従道に修理を要請。
 翌年には陸軍省第四局長代理の中村重遠大佐が、山縣有朋陸軍卿に、姫路城と名古屋城について修理保存の建白書を提出。
 それらが受理されて、かろうじて姫路城と名古屋城は、主要部分が残されることになったのだ。
天皇に直訴した大隈重信
 それ以外の城が残ったのは、それぞれが偶然に、としかいいようがない。たとえば、天守が国宝に指定されている彦根城も、「存城」にはなっていたものの、明治11年(1878)9月に解体が決まり、10月には解体用の足場まで掛けられている。
 ところが、そこに運命のめぐり合わせがあった。北陸巡幸を終えて京都に向かっていた明治天皇が10月11日、彦根の近郊に宿泊した。その翌日、天皇随行していた大隈重信彦根城に立ち寄り、城が解体されるのを知って惜しいと思い、天皇に「保存すべきだ」と奏上。それに天皇が同意して保存が決まったのだ。
 たまたま天皇がそのタイミングで彦根城の近くに宿泊することがなければ、彦根城は国宝になる前に失われていた可能性が高いのである。
 また、いまは国宝の松本城も、廃城と決まる前年の明治5年(1872)には天守以下の建物が競売にかけられ、民間の所有になってしまっていた。これに驚いたのが、その当時、城下の下横田地区の副戸長だった市川量造で、みずから創刊した「信飛新聞」で松本城の落札を報じるとともに、「松本城は博覧館として活用すべきだ」と主張した。
 そして、量造は松本城を博覧会の会場として活用し、その収益で天守を買い戻すことを計画。当時の筑摩県に、松本城の10年間の破却延期と旧本丸の貸与を認めさせ、明治6年11月に第1回博覧会を実現。それが成功し、松本城天守は晴れて買い戻されたのだ。
■「廃城」にされた城の末路
 松本城のように救世主でも現れないかぎり、「廃城」とされた城の扱いは、じつにひどいものだった。
 天守のほか、ランドマークとなっていた櫓なども軒並み取り壊された。そういう城の多くは明治、大正、昭和と破壊が重ねられ、長岡城(新潟県)のように、城があった痕跡すら残っていないケースもある。
 城を中心に形成されていたかけがえのない景観も、一部の例外を除いて失われてしまった。たとえば、海に面した「海城」として知られた高松城(香川県)。城の前の海を埋め立てないでおけば、ヴェネツィアのような景観が維持され、内外から多くの観光客を集めただろう。
 湖に浮かぶ城も、かつてはたとえようもない美しさだったようだ。しかし、諏訪湖に突き出すように築かれ「諏訪の浮き城」と呼ばれた高島城(長野県)は、周囲を無残に埋め立てられ、琵琶湖に浮いていた膳所城(滋賀県)は、石垣すらほとんど残っていない。
 ヨーロッパでは多くの場合、旧時代から継承された景観が積極的に守られてきた。片や日本では明治以来、西洋化を試みて、日本古来の景観の価値が忘れられることが多かった。ほんとうは、伝統的な景観を守ることこそ西洋的であるにもかかわらず。
 西洋化というベクトルは、いつしか経済合理性に置き換えられて、「邪魔な石垣」は撤去され、「無駄な堀」は埋め立てられていった。
 だから日本では、城下町に城があまり残っておらず、あっても無残な姿であることが多い。だが、昨今の城ブームを受け、城の整備に取り組む自治体も増えている。それが、単なるモニュメント作りに終わらず、ヨーロッパのような城をふくんだ歴史的景観の形成に結びつくといいのだが。

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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。小学校高学年から歴史に魅せられ、中学時代は中世から近世までの日本の城郭に傾倒。その後も日本各地を、歴史の痕跡を確認しながら歩いている。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。著書に『イタリアを旅する会話』(三修社)、『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)がある。

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歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志」
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