🦋3〗─3・A─現代日本人の劣化と経済大国日本の衰退は「挫折をさせない子育て」が原因であった。〜No.7 

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 日本を没落させた元凶は、平成時代の超エリート層である高学歴の政治的エリートと進歩的インテリ達であった。
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 2022年12月14日 MicrosoftStartニュース 東洋経済オンライン「日本の社会全体に蔓延る「挫折不足」の大問題 「安全地帯」は子どもにとって本当に良いこと?
 原 晋 の意見
 日本社会全体が「挫折不足」であると原監督は話します(写真:silakan/PIXTA
 © 東洋経済オンライン
 原晋監督就任から5年後の2009年に33年ぶりに箱根駅伝出場、そして2015年には初の総合優勝。そこから2018年にかけて4連覇を果たし、2022年には大会新記録を更新して優勝するなど、今や押しも押されぬトップ校の仲間入りを果たした青山学院大学陸上競技部
ですが、原監督はある不安を抱えているといいます。それは、「部としての体制が整ってきたがゆえに、多くの学生が「挫折」を知らないまま社会に出てしまっているのではないか」ということです。いったいどういうことなのでしょうか? 新著『「挫折」というチカラ 人は折れたら折れただけ強くなる』を一部抜粋し再構成のうえお届けします。
「挫折」なき「挑戦」はない
今の青学の選手たち、ひいては日本社会全体が「挫折不足」であると私は考えています。
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 そう言うと、「そんなことはない!」という声が選手たちから聞こえてきそうです。 たしかに、箱根駅伝で優勝を逃した、出走メンバーに選ばれなかった、目標タイムに届かない……そういった悩みは多かれ少なかれ選手みんなが抱えています。
 ですが、私はそういったことは挫折のうちには入らないと考えています。 誤解のないように付け加えておけば、彼らの悩みは小さく、意味がないというのではありません。
 一言でいえば、彼らは恵まれている。
 スポーツの一流校になればなるほど、その内実は実業団やプロチームと大きく変わりません。監督やコーチがいて、トレーナーやマネージャーがいて、スカウトマンがいる。そうした専門家に支えられて、言うなればすでにレールは敷かれているのです。
 そこまでお膳立てされた環境の中で上手くいかないといっても、そんなものは挫折ですらないのです。
 そういう意味では、いわゆるスポーツエリートではない普通の部活としてスポーツをしている学生たちのほうが、はるかに挫折を経験しているかもしれません。
 大学はモラトリアムなどと言われますが、彼ら彼女らの世代にとっては、さまざまな土地から来た人たちと集まって、異なる価値観の集合体の中で物事を進めていく初めての機会になります。
 やる気がある人もいれば、ない人もいるはずです。活動資金を得るためにバイトをしたり、友人関係や恋愛関係でぶつかったりもするでしょう。
 しかし、大学の強化部として集まった学生は競技に集中できるよう、整えられた環境で、限りなく純粋な空間で暮らすことになるのです。その結果、上手くいかないことを過度に恐れたり、自分以外の環境のせいにしたりしてしまう。それでは、自らの成長を得るための挫折や、本当の意味での成功を体験することはできません。
 学生たちが真の挫折を知らずに社会に出てしまうとすれば、それは私たち大人の責任でもあります。 挫折経験が足りなくなっていることの原因は明白です。
 それは、社会全体が失敗をさせない風潮にあることです。失敗をさせないためには、挑戦もさせない。挑戦をするにしても、できるだけ周りが経験則や知恵を授けて、失敗を最小限にとどめている。つまり、リスクヘッジばかりの人生を歩ませているということです。
 その結果、若者は敷かれたレールの上を歩くことに慣れてしまうのです。
 「安全地帯」は子どもたちにとって本当に良いこと?
 今、都心部に住む家庭では小学校から塾に通わせ、中学受験をさせることが多くなっていると聞きます。早い段階から優れた教育環境を与えて、いい大学、いい企業へ就職してほしい。できるだけ不安要素を除いた場所で、のびのびと好きなことに集中してほしい。そういう親心は理解できますが、果たしてその「安全地帯」は子どもたちにとって本当に良いことなのでしょうか?
 世の中は理不尽なことばかりです。どれだけ正しいことをしていても、予期せぬ障害に出くわすことも多々あります。そんな「世の中にまかり通る不条理な不運」、「自分の努力ではどうにもできない外圧」があると知りつつ、未来に続く道を石ひとつ落ちていない綺麗な道として舗装する親が増えてきていると思います。
 親が子どもに失敗をさせないよう、すべてに手を差し伸べてしまう。その結果、子どもたちも何か失敗をしたら怒られるんじゃないかと気にしてしまう。さらには、学校までもが学業成績そのものだけでなく「生活態度」を評価した内申点を重視するようになっており、生徒をより萎縮させている。まるで社会全体が挑戦しないことを奨励しているかのようです。
 原晋監督(©マガジンハウス)
 © 東洋経済オンライン
 あえて生活態度に基準を作る必要があるのでしょうか。大人にとって都合のいい基準を作り、大人の仕事がしやすい環境を作っているに過ぎない気がします。
 「可愛い子には旅をさせよ」と言いますが、ここにおいての「旅」とは、未知の領域をもあえて挑戦させる、といった意味です。しかし現代においての「旅」は、行き先もルートも移動手段もすべて備わった、いわばパックツアーとしか言えません。
 私は、その風潮を変えなければならないと真剣に考えます。挑戦する人間が多く現れなければ、これからの日本社会は決して良くならないでしょう。
 では、挫折とは何か。
 挫折とは、自分で目標を立て、そこに向けて必死に努力したけれども「外的要因」 に打ちのめされて、それを達成できなかった経験だと私は考えます。頑張っても頑張っても、どうにもならないことに打ちのめされる。つまり挫折とは「相当の努力」と「自分ではコントロールしえない外圧」、そして「未達成」の3つの要素がそろった逆境の経験です。
 それに対して「失敗」とは、現状に甘んじて行動を起こさない、あるいは何も考えず前と同じことをして、結果が出ないことを指します。 表面的にはどちらも「上手くいかなかった」ということですが、人生においてその意味は大きく異なります。
 例えば、「赤信号では横断しない」というルールを教えたのに、それを守らない。 他人と約束したことを守らず、迷惑をかけてしまう。そういう「失敗」に対しては、親は子どもを叱り、二度と起こさないようにするべきです。
 しかし、人生はそう単純なルールで決められることばかりではありません。すべて親に言われたとおり、社会が決めたとおりに生きているようでは、ロクな人間になれないでしょう。大人になれば、自分でルールを定めていくこと、つまり自分の軸を持ち挑戦することが求められます。
 挫折経験なしに社会に出た人間は挑戦に臆病になる
 ただ、挑戦がいつも上手くいくとは限りません。どうしても他の人から理解してもらえない、考えが突飛すぎるので容認できない、と言われることも多々あります。自分としては真剣に考え、答えを出した上での行動であったにもかかわらず、受け入れられず、夢破れることもあるでしょう。それが挫折です。
 裏庭でこんなものが見つかるとは夢にも思いませんでした!
 挫折は苦しいものですが、また新たなルールを作る機会でもあります。それが次の成功へとつながるかもしれないという意味において、挫折と失敗は違うのです。
 挫折にせよ失敗にせよ、そんな経験はないほうが幸せな人生だと思いますか? でも、これだけは言えます。挫折経験なしに社会に出た人間は挑戦に臆病になる。成功と失敗の経験値の振れ幅が小さいと、心の柔軟性がなく、肝心な時にポキッっと折れてしまうからです。
 人間はみな平等であるべきだという理念は、そのとおりです。しかし、残念ながら現実の社会はそうではなく、エゴや差別が渦巻いています。世の中には、人種差別もあれば、男女差別や学歴差別も残っています。会社という狭い単位の中ですら、派閥的な争いがあることは、多くのビジネスパーソンが経験していることでしょう。
 人生とは、そうした逆境があっても跳ね返しつつ、自分の思いを実現していくことに他なりません。
 また社会とは「努力」がそのまま「結果」に変わるものでもありません。勉強したらテストの点数が良くなった、練習したらいい記録が残せた、という努力と結果がある程度比例するのは学生まで。社会人ともなればさまざまな人の思惑や利害関係で、自分の意図しない方向に進まなくてはいけない場面も多くあります。
 「頑張っても認められない」「評価が正当ではない」と自己肯定感が低くなり、自分を信じられなくなる状況に追い込まれることもあります。そんな気持ちが硬直した時、人は心の柔軟さをなくし、小さなことにも臆病になり、前に進む気持ちが削れてくるのです。
 しかし一度なりとも挫折を経験した人間は強い。挫折という逆境は自分の弱さに対峙することであり、自分の弱さを認めた人間は、それを乗り越える術はないか、じっくり考えて行動するようになります。
 たとえ解決しないことがあっても、一度その難題に向き合った経験は、いつしか思考の血肉となり、次のステージに押し上げてくれる力となります。ですから挫折とは強い精神、折れないマインドを作るためのストレッチだと思ってほしいのです。
 高く跳ぶためのバネを作る
 失敗を何度も経験すると、挑戦すること自体をあきらめてしまう人が多いように思います。特に今いる場所で多少の評価や金銭的な安定を得られた場合はなおさらでしょう。
 しかし、ある分野で失敗したからといって、他の分野でも失敗するということはありません。むしろ大切なのは、挫折の経験から、自分が勝てるフィールドを見つけ出すことです。
 私に青学陸上部の監督になってくれないかという話が来た時、誰もが反対しました。
 せっかくビジネスマンとして成果を出して周囲からも認められてきたのに、いくらかつて陸上選手だったとはいえ、まったく指導経験がないのでは無謀だというのです。
 そこで失敗すれば、どん底から築いてきた評価も、中国電力のビジネスマンという安定した地位も失ってしまうかもしれない。まして、私はマイホームを買ったばかりでした。そんなリスクを冒す必要がどこにあるのか、と考えるのは当然のことです。
 しかし実を言うと、青学監督のオファーを受けた時点で、私にはある種の「勝算」 がありました。「一度グラウンドに来てください」と言われて視察に行った時に、「これは勝てる」と思ったのです。私は選手を引退してから10年間、陸上と無縁な生活を送っていました。指導なんてしたこともなければ、毎年の箱根駅伝をテレビで見てさえいませんでした。
 その私がグラウンドに入った瞬間、 10年前と練習環境は何も変わっていないことが分かったのです。「ああ、陸上の文化は遅れている」と感じたと同時に、ビジネスの視点を応用して、それを変えれば勝てる組織は作れるはずだと直感したのです。
 自分が勝てるフィールドを見分ける嗅覚は重要です。私は、ビジネスマンとして成績を上げていた時代に、ある生命保険会社からヘッドハンティングを受けたことがありますが、私の得意なフィールドではないと思い、すぐにお断りしました。
 もちろん提示された給料も良いもので、条件を考えると喜ばしいお誘いでしたが、勝算がない挑戦は結果が出にくいこと、そこでは自分は輝けないということを自然と感じ取っていたのです。
 人生における挫折の経験は、こうした嗅覚を鍛えることにつながるのです。」
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