🍠21〗─3─磐梯山噴火と世界初、平時の災害救護。昭憲皇后と日本赤十字社。明治21(1888)年。~No.65 

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   ・   ・{東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本赤十字医療センター
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 国内災害救護
 世界初、平時の災害救護
 当センターの災害救護は、1888年明治21年)7月、福島県磐梯山の噴火に際し、皇后陛下(のちの昭憲皇太后陛下)の思し召しを受け医師3名を猪苗代へ急派したのが始まりです。当センターの前身である博愛社病院が設立されて1年半後のことでした。もともと、日本を含め世界の赤十字の救護活動は戦地における傷病者の手当(戦時救護)を目的としていたのですが、この磐梯山噴火災害の救護は、世界の赤十字で初めて「平時の災害に対する救護活動」を実践した先駆的事例として、国際的な注目を集めました(これを記念して、裏磐梯五色沼のほとりに「平時災害救護発祥の地」の碑が建立されています)。その後も、エルトゥールル号遭難事件(1890年)、濃尾地震(1891年)、三陸津波(1896年)、関東大震災(1923年)など、近代日本史に刻まれた数々の災害は、まさに当センターの救護の歴史でもあるのです。群馬県御巣鷹山日航機墜落事故(1985年)では、部分的にしか残っていないご遺体を新聞紙や段ボール、さらし布などを用いて五体揃った形に整えた上でご家族にお返しする「整体」という技法を編み出すなど、赤十字の精神を余すところなく体現した救護活動が高く評価されました。
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 展示紹介 Vol,  2010.7.15
 初の災害救護活動~磐梯山噴火
 1888年明治21年)7月15日、福島県磐梯山が噴火し、麓の村落の住民500人以上が死傷しました。戦時を想定した当時の日本赤十字社社則には、自然災害時の活動の規定はありませんでしたが、皇后陛下(昭憲皇太后)から、救護班を派遣したらよかろうとの内旨(内々の沙汰)がありました。
 7月21日に現地に入った救護員はのべ15人で、地元の医療関係者と協力してのべ105人の患者に手当てを施しました。
 磐梯山噴火と三上剛太郎
 この災害での日本赤十字社の活動を東京で広く伝えたのが、読売新聞の社会部記者で青森県佐井村出身の三上剛太郎でした。三上はその後家業の医業を継ぐため新聞社を退社し、日露戦争に軍医として従軍しました。
 コサック兵に包囲された野戦病院に負傷者を保護するため、急造の赤十字旗を掲げた逸話は有名です。
 三上が赤十字への認識を深めたのは、磐梯山噴火での日赤の活躍だったといわれています。
 三上剛太郎 手製の赤十字旗の逸話については、下記の日本赤十字社青森県支部ホームページをご参照ください。
 http://www.aomori.jrc.or.jp/mikami00.htm
 赤十字情報プラザ   日本赤十字社
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 2021年2月7日 産経新聞小菅信子さん『日本赤十字社と皇室 博愛か報国か』
 【聞きたい。】小菅信子さん『日本赤十字社と皇室 博愛か報国か』
 令和への御代替わり後、皇后雅子さまの初の単独ご公務先は、全国赤十字大会だった。献血などの医療活動で一般になじみ深い日本赤十字社だが、歴代皇后が同社の名誉総裁を務めるなど、歴史的に皇室との縁がきわめて深い組織であることは案外知られていない。
 「日赤は皇室を中心に日本が国民統合する際に重要な装置となり、特異な発展を遂げました」と語る著者は、戦後和解の研究などで知られる政治学者だ。
 赤十字運動は、19世紀半ばの欧州諸国の国民国家化と社会の民主化を背景に、同胞たる傷病兵が置かれた悲惨な状況を改善する「戦場の人道化」を目指して誕生。日本でも明治10年の西南戦争時、日赤の前身となる博愛社が設立された。
 当初は十字の標章に代表されるキリスト教性への抵抗感も大きかったが、明治中期には社員(拠金者)の急速な広がりをみる。本書はこの要因として、赤十字が皇室の保護を得たことで「報国恤兵(じゅっぺい)」と「博愛慈善」が結合する形で受容されていった過程を詳述。日赤が持つ国際主義と国家主義とのバランスが、近代史の中でどう推移したかを描き出す。
 特に赤十字事業に熱心だったのは昭憲皇太后明治天皇の皇后)だった。桐竹鳳凰(ほうおう)模様が赤十字を包み込むという近代日本の欧化政策を象徴するかのような日赤の社章も、昭憲皇太后のかんざしに由来するとされる。「江戸時代のように御簾(みす)の奥にいるのではなく、自ら表に立ち戦時には包帯を作って負傷者に贈った。近代の皇后の役割を創出する際にも、赤十字は大きな役割を果たしました」
 もともと、戦争と人道の問題に関心があった。今作も、長年抱いてきたテーマの結実だという。「戦場の人道化は簡単にはいきません。不幸にして極限状況が生じた際、どう人間の尊厳を守るかは平時のうちに考えておかなければ。災害大国の日本であれば、なおさらです」(吉川弘文館・1700円+税)
 磨井慎吾
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 2021年8月27日 MicrosoftNews zakzak「【週末、山へ行こう】明治の大爆発で出現、絶妙な色合い 五色沼福島県) 標高830メートル
 【週末、山へ行こう】明治の大爆発で出現、絶妙な色合い 五色沼福島県) 標高830メートル© 産経新聞社 【週末、山へ行こう】明治の大爆発で出現、絶妙な色合い 五色沼福島県) 標高830メートル
 「宝の山よ」と歌われる会津の名峰・磐梯山。山体崩壊によって作り出された、独特の荒々しい山容が目を引く。明治21(1888)年、磐梯山の大爆発により、岩なだれで川がせきとめられ、たくさんの沼や池が出現した。五色沼湖沼群もその一部だ。沼が5つというわけでも、色が5色というわけでもない。大小多くの沼が点在し、沼の色もエメラルドグリーンやコバルトブルー、あるいはやや赤みがかっていたりとさまざまだ。
 【週末、山へ行こう】明治の大爆発で出現、絶妙な色合い 五色沼福島県) 標高830メートル© 産経新聞社 【週末、山へ行こう】明治の大爆発で出現、絶妙な色合い 五色沼福島県) 標高830メートル
 数年前の夏休み、NHK『ブラタモリ』の「会津磐梯山」の回を見た家族が「磐梯山を見に行きたい」と言い出した。家族は登山をしないので、あくまでも観光だ。せっかくなら、五色沼のハイキングコースを歩いてみようと思い立った。歩行時間は1時間半程度、歩き慣れていない家族でも、いくつもある沼を眺めながら、楽しく歩けそうだ。
 裏磐梯ビジターセンターから歩き始めた。天気はよく、広葉樹の樹林が心地よい。道は歩きやすく整備されている。それぞれの沼に立ち寄り、一息つく。毘沙門沼では高台の展望地から眺めを楽しんだ。手こぎボートに興じている人も多かった。
 どの沼も絶妙な色合い。陽光の加減によっても色の見え方は異なるのだろう。弁天沼では周りの山々が湖面に映り込み美しかったし、青沼は引き込まれるような青色に魅了された。展望台から沼を眺めていると、ときおり爽やかな風が吹き抜け、風が木々を揺らす音も心地よい。
 ハイキングコースを歩き終え、改めて磐梯山の崩壊壁を眺めた。すざまじい爆発のあと、長い年月をかけて植物が育ち、今の景観が作り上げられた。一方で、自然の景観は未来永劫(えいごう)続くものではない。植生で見える景色は変わりうるものだし、ひとたび自然災害が起これば地形ごと変わってしまうこともある。だからこそ…、今、見ることができる景色を尊いと思うし、山を楽しめることに感謝したいと思うのだ。
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 登山にあたっては、入山可能か(来訪・入山自粛要請が出ていないか)、登山道の状況、バスの運行などを最新のデータでご確認ください。山行中は、歩行時に他の登山者との間隔をあけるなど新型コロナウイルス感染予防を心がけましょう。
 ■五色沼おすすめルート 裏磐梯ビジターセンター…毘沙門沼…弁天沼…裏磐梯高原駅バス停 歩行時間 約1時間30分/難易度★(最高難易度★★★★★)
 ■コースガイド 裏磐梯ビジターセンターから桧原湖に向けて五色沼自然探勝路を歩くコース。ゆるやかな登りになるが、木道や広い砂利道が中心で歩きやすい。それぞれの沼には解説の看板やベンチがあるので休んでいくとよい。
 ■おすすめシーズン 新緑は5~6月、紅葉は10月上旬~下旬。12月~3月は積雪があり、ガイドツアーなどでスノーシューハイキングができる。磐梯吾妻レークラインなど裏磐梯周辺の観光道路は11月中旬~4月上旬は冬季通行止め。
 ■西野淑子(にしの・としこ) オールラウンドに山を楽しむライター。日本山岳ガイド協会認定登山ガイド。著書に「東京近郊ゆる登山」(実業之日本社)、「山歩きスタートブック」(技術評論社)など。NHK文化センター「東京近郊ゆる登山講座」講師。」
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 昔の日本は、現代の日本とは違い、天皇の大御心・御稜威に添うべく如何なる時も如何なる状況でも本気で手を抜く事なく行動していた。
 昔の日本は、天皇主権で、天皇国家元首大元帥であった。
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 近代天皇である明治天皇昭和天皇は、血の神話・民族宗教由来の世襲制正統男系父系天皇である。
 リベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者が目指している科学・法律由来の非世襲制正当性女系母系天皇は、正統な近代天皇の偉大な歴史的功績を否定する事である。
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 現代日本歴史教育は、天皇軽視認識から、歴代天皇が行った人道貢献や平和貢献を表に出さず歴史の闇に消し去っている。
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 明治神宮。御祭神は明治天皇昭憲皇太后。大正4(1915)着工、5年後に完成。
 神の子孫である天皇は、神聖不可侵の神=現人神とされた。
 神宮の森は、人工林で自然林ではなかった。
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 赤十字 名所紀行 vol.4
 ニッポンの赤十字ゆかりの地を巡る
 2021年7月号
 福島・磐梯山の大噴火。国内初の災害救護の記念碑
 先人の救護への情熱と偉業をしのぶ記念碑
 写真提供:裏磐梯観光協会
 1888年明治21年)7月15日、磐梯山の大噴火により土砂や火砕流が押し寄せ、ふもとの地域では500人*以上の死傷者を出す大惨事となりました。日本赤十字社は医師3人を送りこみ、昼夜を問わず被災者救護にあたりました。平時の災害救護活動は、当時、各国でもほとんど行われていなかったことから、先駆的な例として国際的な注目を集めました。そもそも日本を含め世界の赤十字の救護活動は戦地における傷病者の手当て(戦時救護)を目的としており、自然災害に対する規定はありませんでしたが、昭憲皇太后(当時、皇后陛下)の思(おぼし)し召しにより、初の戦争以外の救護活動が実現したのです。平成元年、毘沙門沼のほとりに噴火百周年記念として、碑を建立しました。
 *日本赤十字社社史稿(明治44年)による
 写真提供:裏磐梯観光協会
 この記事は赤十字NEWS 2021年7月号の掲載内容をオンライン用に編集したものです。
 赤十字NEWS紙版は下記からPDFでご覧いただけます。
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 2021年2月5日 産経新聞「100年の森 明治神宮物語
 皇后(下)時代を先取りした救護の精神
 【100年の森 明治神宮物語】皇后(下)時代を先取りした救護の精神
 明治10年3月、九州で西南戦争が勃発した翌月の「昭憲皇太后実録」には、次のような記述がある。
 「皇后並(ならび)に皇太后は戦闘によりて生じたる多数の負傷士卒に深く御哀憐の情を垂れさせたまひ、其(そ)の治療に用ふる綿撤糸(編注・ガーゼ、以下同)を御手づから製したまひ、又(また)女官をも之に従事せしめらる」
 美子(はるこ)皇后(昭憲皇太后)と英照皇太后は、ガーゼ100反分のほか、白木綿、ぶどう酒などを負傷した兵士に届け、さらに「傷つきて病床に在る者には官賊(敵味方)の別なく用ひしめよ」と指示したという。
 美子皇后が情熱を注いだ対象の一つに社会福祉への支援がある。「明治日本のナイチンゲールたち」(今泉宜子著、扶桑社)などによると、西南戦争の際、後に日本赤十字社となる博愛社が兵士救護のために設立され、美子皇后はこの支援を一貫して続けた。戦時に限らず、災害時の救護や平時の備えにも目を配った点が時代を先取りしており、例えば21年の磐梯山噴火では被災者救護を日本赤十字社に命じ、同団体による天災救護活動の始まりとなった。
 貧しい人々の医療のため設けられた有志共立東京病院(東京慈恵医院)の総裁にも就任した。国際的に有名なのは「昭憲皇太后基金」だ。45年にワシントンで第9回赤十字国際会議が開かれた際、「平時における赤十字救護事業を奨励するため」と10万円(現在の約3億5千万円)を寄付した。これらも、奈良時代光明皇后が施薬院で示した皇室の伝統を受け継ぐものだった。」
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 磐梯山(ばんだいさん)
 宝の山「磐梯山
 豊かな湖沼と清らかな川の流れ、緑あふれる山々。
 北塩原村は美しい自然に囲まれ、そのほとんどが磐梯朝日国立公園に含まれる国内屈指の高原リゾート地です。
 その中心を成しているのが、宝の山「磐梯山」と「裏磐梯」です。
 1888年明治21年磐梯山頂北側、小磐梯を含む部分が水蒸気爆発によって山体崩壊を起こしました。
 岩なだれが川をせき止め、数百もの湖沼がこの時に形成されます。桧原湖、秋元湖、小野川湖をはじめ、
 それらに挟まれるように位置する数十の湖沼群が「五色沼」です。
 五色沼は2016年、ミシュラン・グリーンガイド1つ星の評価を受けました。
 様々な湖沼の色を楽しめる五色沼、エリア内あちこちで見られる雄大な風景、温泉など、磐梯山は数々の恵みの宝を与えてくれました。
 元は「いわはしやま」と読み、「天に掛かる岩の梯子」を意味します。
 磐梯山の南側が表磐梯、北側が裏磐梯と呼ばれており、表磐梯から見る山体は整った形をしていますが、裏磐梯から見ると、一変して山体崩壊の跡の荒々しい姿を見せます。
 2007年には日本の地質百選に選定、また2011年には日本ジオパークに認定されました。
 二度の山体崩壊を起こした火山
 磐梯山は約5万年前と西暦1888年の少なくとも二度、大規模な山体崩壊・岩なだれを起こしました。
 5万年前の山体崩壊は表磐梯側で起き、川をせき止めて猪苗代湖ができたと考えられています。猪苗代湖唯一の島である翁島は、その時生じた流れ山の一つです。
 1888年の山体崩壊は裏磐梯側で起き、水蒸気爆発により小磐梯を崩壊、消滅させ、岩なだれが川をせき止め、桧原湖などの多くの湖沼群を作りました。「噴火」というとマグマが流れ出してくるというイメージがありますが、この磐梯山の噴火は水蒸気爆発による山体崩壊です。熱い溶岩流に覆われたわけではないので植生の回復は意外に早く、植林事業の努力もあって今では風光明媚な観光地となっています。
 磐梯山では崩壊壁に成層火山の断面がはっきり見えます。ふつう成層火山の内部は見えないため、世界的に貴重なジオサイトです。
 山体崩壊・・・火山の爆発や地震によって起きる大規模な山崩れのこと
 岩なだれ・・・山体崩壊により大量の岩石や土砂が流れ下る現象
〒969-2701 福島県耶麻郡北塩原村大字桧原字剣ヶ峯1093-1055
 TEL:(0241)32-2349 受付時間:9:00~18:00まで
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 内閣府
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 報告書(1888 磐梯山噴火)
 災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 平成17年3月
 1888 磐梯山噴火
 報告書の概要
<概要>
 明治21年(1888年)7月15日7時30分ごろから発生した噴火。水蒸気爆発型の噴火に伴う岩屑なだれ、土石流、爆風により、現在の福島県猪苗代町の周辺に多大な被害が発生した。死亡者477名、負傷者28名。また噴火に際して移動した大量の土砂が融雪期に洪水被害をもたらした。
<教訓>
 現代の科学技術によっても容易なことではないが、噴火の前兆をとらえて警報を出すべきである。また、二次被害を防ぐために、現地の自然条件に合わせた対応をする必要がある。
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 日本の火山 vol.15 磐梯山 [福島県]
 郷土のシンボル「会津富士」
 「会津磐梯山は宝の山よ」と民謡にも歌われる磐梯山は、標高1819m、福島県猪苗代湖の北に位置する活火山である。
 南麓の表磐梯の穏やかな山の姿は、北麓の裏磐梯では一変。噴火による山体崩壊で生じた荒々しい山肌をみせる。
 1888年の噴火では、水蒸気爆発で発生した岩屑なだれによって北麓の村落が埋没し、死者477名を出す大災害となった。この噴火は、近代日本を襲った最初の大規模自然災害といわれる。観測体制がない当時は予知情報もなかった。そのため一週間程前から続いていた震動や遠雷のような音が噴火の前兆とは認識されず、予め避難することなく多くの住民が犠牲となった。
 この時、火口にあった長さ8.2m、高さ3mあまりの岩の巨塊が火山性泥流によって約5㎞離れた場所まで流された。この岩は「見み祢ねの大石」と呼ばれ、火山性泥流が遠距離まで巨石を運ぶ事実を示す学術的にも貴重なものとされている。一方、桧原湖五色沼等、裏磐梯景勝地として知られる数々の湖沼がこの噴火によって誕生している。
 所在地 〒100-8914 東京都千代田区永田町1-6-1 電話番号 03-5253-2111(大代表)
 内閣府政策統括官(防災担当)
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日本赤十字社と皇室: 博愛か報国か (歴史文化ライブラリー 505)
磐梯山破裂セリ―記録写真集
磐梯山爆発 (シリーズ日本の歴史災害)
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 ウィキペディア
 1888年磐梯山噴火は、1888年明治21年)7月15日に発生した磐梯山の噴火である。噴火に伴い山体崩壊が発生し、磐梯山を構成する成層火山の峰の一つであった小磐梯は全面的に崩壊し消滅した。そして北麓に岩屑なだれが流れ下り3つの集落が埋没した。その後、岩屑なだれは水分を含み泥流化して長瀬川流域に大きな被害を出した。更に磐梯山東麓を襲った火砕サージによる爆風、土石流によっても被害が出た。この噴火によって477名が死亡したとされ、これは明治以降の近代日本において最も多い犠牲者が発生した火山災害である。
 負傷者の治療
 負傷者治療のために猪苗代町内に設けられた治療所。
 負傷者の治療については、噴火当日の7月15日夕方までに救出された人たちは猪苗代警察分署と猪苗代小学校の校舎の一部に収容され、猪苗代小学校校舎に設けられた治療で治療を受けた。また負傷者が多かった磐瀬村長坂にも仮病室が設けられ、緊急治療が施された。負傷者の多くは裂傷や骨折、打撲などを負っており、まず地元の開業医が治療に当たったが、災害発生当初は治療に携わる人員と治療に必要な医薬品や医療機器の不足から、対応は困難を極めた。
 やがて福島県域の病院、そして日本赤十字社、東京帝大からも医師が来援し、被災後しばらくの間、負傷者の親族に任されていた看護も、7月25日以降は看護師が行うようになった。治療の結果、症状の軽快、在宅療養への切り替えが進み、7月25日には日新館に治療所が移された。更に8月14日には重傷者は福島病院に転院となり、軽症者は在宅で地元の医師が診察を行うことになって治療所は閉鎖された。治療中に伝染病にかかり隔離される患者も出るなど、治療所の運営には多くの困難が伴った。また治療中に12名の負傷者が亡くなり、障害が残った者もいた。
 磐梯山噴火によって負傷した人を救護する日本赤十字社社員。
 なお、この噴火災害に対して日本赤十字社が行った災害派遣は、これまで赤十字社の活動が戦時の救護に限定されていた中で、災害救護の先駆けとなる事例となった。派遣に際しては被災地の現地視察を行った折内福島県知事から山縣有朋内務大臣に宛てた被災地の医師不足を伝える電報が、山縣から宮内大臣の土方久元を通して皇后の耳に届いた。皇后は7月19日、宮内省を通して日本赤十字社に対して医員の派遣を行うよう要請し、日本赤十字社社長の佐野常民は早速派遣を決定した。
 日本赤十字社の活動は災害発生から6日後の21日からとなった。派遣が皇后の意向で決められたという経緯から、活動は福島県など現地関係者の全面的なバックアップのもとで行われた。災害当初は整備されていなかった支援体制も21日になると整備されつつあり、患者数も徐々に少なくなっていた。そのため、派遣に実際的な意味が無かったとする見方もあるが、派遣医師が持参した医薬品や医療機器は大いに歓迎され、現地で活動中の地元医師と協力しながら救援体制の整備に一定の役割を果たし、24日で支援活動を終了した。
 また皇后の派遣要請を受けて日本赤十字社の医師が救援活動に従事したことは、地元において磐梯山噴火の負傷者に対する見方を好転させ、全国的に活動が報道される中で、災害時の人命救助、負傷者支援の重要性を知らしめる機会となった。そして日本赤十字社の活動についても広く知られる機会となった。
 そして後述のように1888年磐梯山噴火は広くマスコミによって報道され、学術的な研究や支援を行いたいと、現地入りを希望する人たちが大勢現れた。その中で帝国大学医科大学も医師の派遣を計画し、福島県に打診を行ったが、現地は医師が足りているとのことで派遣は断られた。しかし医科大学大学院生であった芳賀栄次郎は会津若松出身であり、是が非でも故郷の災害救援に携わりたいと願い、同じく大学院生であった三輪徳寛とともに、帝国大学総長名の福島県知事あての紹介状を携えて現地に向かい、ボランティアで医療活動に従事した。これは日本における災害時ボランティアの先駆的な試みとなった。
 炊き出し、避難所の設置
 土石流によって被災した見祢集落の家屋。
 住居を失うなど困窮した人たちのために炊き出し、そして避難所の設置も行われた。炊き出しは主に長瀬川流域方面で行われ、集落が全滅状態であった檜原村方面では少なめであった。炊き出しは10日間実施され、その後20日間は救助米が支給された。
 そして檜原村の被災集落の住民でたまたま集落を離れていたために難を逃れた人々のために、猪苗代町新堀の民家を借り上げて避難所を開設した。避難所には世話人を2名配置して事務や被災者の支援に当たった。檜原村のほかに被害が大きかった磐瀬村長坂、磐瀬村見祢の被災者もまず猪苗代小学校に設けられた避難所に入所したが、その後に猪苗代町新堀の避難所に統合された。避難所の入居者は、家族が亡くなり取り残されて身寄りが無くなった者や、両親を失った子どもたちが多かった。なお、避難所が開設されていた期間については明らかになっていない。
 そして家を失った人たちのために、家屋の再建費用に当たる小屋掛け費用の補助も行われた。1888年磐梯山噴火災害の場合、岩屑なだれや土石流で集落が埋まってしまったケースが発生したため、前住宅地の近隣に集落を再建することをも考慮しながらの支給となった。
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 磐梯山福島県耶麻郡猪苗代町磐梯町北塩原村にまたがる山である。会津盆地側からは、綺麗な三角の頂が見えることから会津富士(あいづふじ)、あるいは民謡にあるように会津磐梯山(あいづばんだいさん)とも呼ばれている。日本百名山に選定されており、福島県のシンボルの一つとされている。
 1888年の噴火
 詳細は「1888年磐梯山噴火」を参照
 噴火当時は、まだ現地で撮った写真をそのまま新聞紙面に印刷することが難しかったため、報道の手段として錦絵や版画が用いられていた。
 1888年明治21年)7月15日の水蒸気爆発により、小磐梯が山体崩壊を起こし、発生した爆風と岩屑なだれにより北麓の集落(5村11集落)が埋没する被害を出し477人の死者を出した。なお、マグマ由来物質は検出されていないためマグマ水蒸気噴火ではない。
 この噴火は明治になってからの近代日本初の大災害であり、大日本帝国政府が国を挙げて調査、救済、復旧を実施した。調査は関谷清景や菊池安らにより行われた。学術的調査としては、当時としては珍しいアンケートの手法が採られており、かなり詳細な噴火の経過や被害状況、写真が収集され、論文としてまとめられている。
 のちに磐梯型との噴火形式名称が残るほど、世界的に有名な噴火となった。復旧に当たっては義援金は3万8,000円(現在の貨幣価値で約15億円に相当)が集まり、復興を支えた。また、噴火前年の1887年に結成された日本赤十字社初の災害救護活動となり、さらに赤十字活動における世界初の平時救護(それまでは戦時救護のみ)ともなった。
 現在、五色沼近くに「平時災害救護発祥の地の記念碑」が建立されている。この山体崩壊で生じた土地の多くは、当時の官有地であったため、民間の資金と労力を利用した植林事業が行われ、泥流堆積地の7割を31年かけ緑化した。
 崩壊の推定規模 12 - 15*108m3。
 噴煙の推定高度 800m。
 噴火の経過
 噴火前の6月末頃から地鳴りなどの前兆現象があったが、当時は噴火との関連性の認識がなく、対処も行われなかった。
 噴火当日の午前7時頃地震が発生し、地震はその後も続いた。
 7時45分頃 小規模な噴火が始まる。住民証言、スケッチ、写真から水蒸気爆発を生じた地点は、小磐梯山頂西麓と銅沼付近であった。
 最初の爆発から15から20回程度の爆発の後、小磐梯山北側の水平方向への爆発的噴火で大規模な山体崩壊が発生した。この山体崩壊により長瀬川とその支流がせき止められ、土石流や火山泥流下流域に被害を与えている。このせき止めにより桧原湖、小野川湖、秋元湖、五色沼をはじめ、大小さまざまな湖沼が形成された。裏磐梯の景観は、この時に形成された。また、かつての会津藩の財政を支えていた檜原金銀山の史跡も湖底に没した。
 主な活動は、2 - 3時間で終了した。
 噴火以前の山体
 米地(1988)の調査以前は、噴火前の山体形状を記録した資料はほとんど存在せず、山頂部の等高線、絵画やスケッチが知られているだけであった。米地は、会津若松市の刊行した写真集から噴火以前の写真を見い出し、江戸時代後期の絵図と合わせて山体の復元を行い地形模型を作成した。また、小磐梯山の山頂付近は傾斜40度程度の急峻な斜面であることを示し標高を1,760mと推定した。
 山体崩壊とラハール
 1992年に東山麓のスキー場で行われた崩壊斜面のトレンチ調査によれば、ラハールの堆積物の下層に噴火初期に発生した火砕物重力流堆積物と泥質の降下火砕物重力流堆積物が層になっており、爆発により山体崩壊が生じた後に上昇していた噴煙柱から水分の多い火山灰が豪雨の様に降り注ぎ、ラハールが東山麓の琵琶沢沿いを約4km流下したと考えられている。
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