🗡29〗─4─陸軍100式重爆撃機「呑龍」。東條英機陸軍次官兼陸軍航空総監。~No.97 

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 インベンション
 昭和10年頃 1,000円程度の金があれば東京都内で家が建てられた。
 戦闘機1機、7万円、爆撃機1機、20万円、戦車1台、35万円。
 戦車は高額な特殊鋼を大量に使う為に値段が高かった。
 日本陸軍が、戦車ではなく航空機を主力兵器としたのは正しい判断であった。
 陸軍主力戦闘機「隼」の製造を許可したもは、東條英機であった。
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 乗り物ニュース
 旧陸軍一〇〇式重爆撃機「呑龍」の誤算 計画上は護衛機いらずの最強爆撃機 実際は…?
 2020.07.17 斎藤雅道(ライター/編集者)
 初期段階の計画書は夢のようなプランが書いてあることはよくあります。一〇〇式重爆撃機「呑龍」も当初はこれに応えるべく開発が開始されました。ある部分では応えられるも、全体的に見ると優れているとはいいにくいものでした。
 「呑龍」が目指したものは「護衛機を必要としない高速重武装爆撃機
 旧日本陸軍が運用した爆撃機といえば、第2次世界大戦中を通して数の上では主力爆撃機だった九七式重爆撃機や、「飛竜」という愛称で大戦後期に量産化した四式重爆撃機などがありますが、どうしても旧海軍の一式陸上攻撃機といった陸上攻撃機の印象が強く影に隠れがちです。
 そしてその陸軍爆撃機のなかでもさらに影の薄い爆撃機があります。前記した九七式重爆の後継機として開発され、「呑龍」の愛称をつけられた「一〇〇式重爆撃機」です。現在でこそ影が薄いですが、元々は日本陸軍の野心的な戦法の実現のため、開発された爆撃機でした。
 一〇〇式重爆撃機は元々対ソ連戦、つまり大陸で運用することを想定して、1938(昭和13)年に中島飛行機が陸軍に命じられ開発を始めた爆撃機です。その性能指示は、戦闘機を引き離す500km/h超の高速と、新開発の20mm機関砲の搭載や尾部機関銃など防御火器の充実、さらに航続距離3000kmという長大な航続距離を合わせ持つという、高速かつ超重武装を要求するものでした。
 高速性と重武装を両立させることになると、当然、爆弾の搭載量は限られてしまうのですが、陸軍の要求は1000kg程度とあったため、同機は爆撃機でありながら爆弾倉を持たず、かわりに燃料タンクなどを守る防弾装備を重視しました。
 「呑龍」に関する陸軍の思惑は…?
 同機の計画が立ち上がった当時、陸軍は日中戦争中華民国を相手に中国奥地の都市などを爆撃していましたが、その時代はまだ陸軍の一式戦闘機「隼」や海軍の零式艦上戦闘機零戦)といった長距離を護衛できる戦闘機はなく、爆撃に臨んだ九七式重爆撃機などは敵機の待ち伏せに遭い、かなりの損害を負っていました。そこで当時の陸軍は、高速で戦闘機を振り切ることができ、捕捉されても大量の防御火器で撃退できる護衛が不要な爆撃機の実現、という野心的発想に至ったわけです。
 特に陸軍は当時、ソ連との戦いを想定して「航空撃滅戦」という、開戦と同時に敵飛行場に爆撃機で先制攻撃をかけ、前線の航空戦力を麻痺させる戦法を最重要としていました。そのため、カタログスペック通りに作られれば「単独で敵陣に乗り込むことができる戦闘機不要の爆撃機」になる同機には大きな期待を寄せていました。
祝賀ムードの中特別な名前を授けられた「呑龍」だが…
 試作機が初飛行したのは1939(昭和14)年。制式採用されたのは1941(昭和16)年8月となっています。本来ならば開発完了し制式採用されたのが皇紀だと2601年であったことから「一式重爆撃機」と命名するところを、前年が皇紀2600年で全国的に祝賀ムードだったことにあやかろうと、「一〇〇式重爆撃機」とした経緯があります。
 「子育て呑龍」の呼び名で知られる群馬県太田市大光院(斎藤雅道撮影)。
 愛称の「呑龍」は勇ましそうな名前ではありますが、実は当時、中島飛行機の工場があった群馬県太田市に「子育て呑龍」と呼ばれる寺院、大光院があったことから、これにちなみ名付けられたそう。「呑龍」は同寺院を開山(創設)した江戸時代初期の実在人物の名で、多くの子どもが間引かれていたことを悲しみ、弟子として引き取り育てたとされています。
 こうして名誉な名前をもらった一〇〇式重爆撃機でしたが、制式採用され運用の始まった1941(昭和16)年から早くも問題が出始めます。
 まず、速度が九七式重爆撃機とそれほど大差ありませんでした、確かに陸軍爆撃機として初めて搭載した20mm機関砲1門のほかに、7.92mm機関銃5挺を備える重武装と防弾性の高さは評価されましたが、一番肝心なエンジン「ハ-41」の信頼性が悪く、故障が頻発してしまい、旧式機の方が現場では好まれるという状況になってしまいました。
 それでも陸軍では、運用しているあいだにエンジンを改良し、ほかの部分も改良していくことで、同機をやがて主力にしようと考えていましたが、その目標は早くも制式採用年末に行った真珠湾攻撃で、根底から覆ることになります。
 「呑龍」は太平洋での戦いへ…現場の評判は?
 新たに太平洋やインド洋方面で対米、対英戦が始まると、本来の目的である、ソ連との戦いを想定した大陸を長距離飛行する爆撃機というプランはどこかにいってしまいます。ただでさえ信頼性の悪いエンジンで、慣れない長距離での洋上飛行を行うことはかなり困難でした。
 昭和天皇行幸されたことのある、中島飛行機(現、スバル)の本館社屋(斎藤雅道撮影)。
 そして、一番の売りだった重武装に関しても、戦闘機の進歩や、そもそも人力操作による照準では限界があることから、対米戦が始まると結局、戦闘機の護衛がないと危険という判断になりました。いまでこそ、いくら武装しても爆撃機にとって戦闘機が天敵なのは万人の知る事実ですが、当時はまだ、防御火器さえ充実していれば戦えるかもしれないという淡い信仰があり、あのアメリカ軍ですら防御火器に自信がある「B-17」や「B-29」に護衛をつけず爆撃作戦に投入し、決して少なくない損害を出しています。
 現場の評判も芳しくなかったようで、九七式重爆撃機から乗り継いだパイロットには「『呑龍』の名前の通りどん重」と揶揄する人もいたそうです。結局、早々に後継機である四式重爆撃機「飛竜」にその座を譲ることに。なお、四式重爆撃機「飛竜」に関しては三菱製双発爆撃機の完成形といわれ、当時の人からも四式戦闘機「疾風」と共に「大東亜決戦機(大東亜決戦号)」として期待されていました。
 一〇〇式重爆撃機が参加した爆撃作戦のなかで最も有名なのが、オーストラリアのポートダーウィン爆撃です。同作戦で同機は2機が墜とされるものの、残り16機が「スピットファイア」戦闘機の猛攻を耐えきり、爆撃を成功させ帰還しています。ただ、当初陸軍が夢見た爆撃機隊単独での殴り込みではなく、一式戦闘機「隼」の護衛つきでした。
【了】」
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日本陸海軍機大百科 第96号一〇〇式重爆撃機 呑龍二型
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 ウィキペディア 
 一〇〇式重爆撃機(ひゃくしきじゅうばくげきき)は、第二次世界大戦時の大日本帝国陸軍の重爆撃機。キ番号(試作名称)はキ49。愛称は呑龍(どんりゅう)。略称・呼称は一〇〇式重爆、百式重爆、一〇〇重、百重、ヨンキュウなど。連合軍のコードネームはHelen(ヘレン)。開発・製造は中島飛行機
 開発
 機名の由来
 開発年は皇紀2600年にあたる1940年で、陸軍に制式採用されたのは1941年である。原則的には制式採用年に因み、一式重爆撃機命名するのが慣例だが、1940年はめでたい年で全国的に祝賀ムードだったこともあり、皇紀2600年の数字を冠して一〇〇式重爆撃機命名された。「呑む龍」とは勇ましい愛称だが、実際には江戸時代に貧乏人の子弟を養育した心優しい浄土宗の僧「呑龍」の名前からとったものである。これは製造会社の中島飛行機の工場があった群馬県太田市に「子育て呑龍」と呼ばれた大光院があったことから名づけられたという。
 開発思想
 九七式重爆撃機の後継にあたる本機は、戦闘機の護衛を必要としない高速性能と重武装を併せ持った重爆撃機として設計された。対ソ戦において、敵飛行場を攻撃する航空撃滅戦に用いる構想であった。しかし、結果として同時期に出現した敵戦闘機に比較して高速と言える程の性能を持つには至らず、実戦においては常に味方戦闘機の護衛を必要とした。
 開発史
 1938年(昭和13年)に帝国陸軍は、中島飛行機に対して新型重爆撃機キ49の開発を命じた。同時に三菱重工業に対しても、重爆撃機キ50の試作を命じたが、こちらは計画だけで中止となった。陸軍からの指示は、
 戦闘機の擁護を必要としないため500km/h超の最高速度を有すること。
 防御武装の強化。具体的には、20mm機関砲(ホ1)の搭載と尾部銃座の設置。
 航続距離3,000km以上。
 爆弾搭載量は1,000kg。
 で、いずれも九七式重爆を上回る性能を要求されることとなった。
 中島ではこの過酷な要求に各種の工夫をもって取り組み、1939年(昭和14年)8月に試作第1号機を完成させた。翌月から審査が開始されたが、その後エンジンの強化を含む各種の改修を施した試作機2機と増加試作機7機が完成した。そして、1941年(昭和16年)3月に一〇〇式重爆撃機(一型:キ49-I)として制式採用された。
 後継機は四式重爆「飛龍」。
 機体・武装
 双発機であり、レシプロエンジン(空冷複列星形)を左右両主翼に搭載している。燃料タンクは防弾式であり、機銃も6門搭載している。胴体後上部に20 mm 機銃を装備し、他に機銃座は、機首、胴体左右、胴体後下部、尾部にあった。防御力に加え、最大速度もI型で470 km/h と優速であり、同時期の一式陸上攻撃機より優れている部分があった[1]。爆弾搭載量は750 kg から1,000 kg。
 実戦
 運用
 陣地爆撃を主目的として太平洋戦争(大東亜戦争)中の中国戦線及び南方方面で活躍した。また輸送機としても使用されたほか、内地での飛行訓練用としても用いられた。
 実戦における評価
 実戦運用における問題
 本機は、性能的に見て武装が強化されたこと以外は九七式重爆とあまり差が無く、またエンジンであるハ41は信頼性に乏しかったことから、それならば以前から配備されていた九七式重爆の方が信頼性があると言われ、実戦部隊での評判はあまり良く無かった。九七式重爆と比べ性能に大差ないことは、試作審査の段階で陸軍も把握していたが、既に性能的な限界にある九七式重爆に比べて、重武装である事や将来的な発展性を期待され制式採用された。
 しかし、その後行われた改良後も全ての面において飛躍的な性能向上はなく、換装したハ109もまた決して信頼性が良くなかったため、九七式重爆と比べると目立つ活躍することも無いまま終わった。これは本機の性能以外に、多くの機体が対ソ連戦を見越して満州や中国北部に配備されたため実戦参加の機会が少なかったことも理由であった。元来陸軍の重爆は対ソ戦専用に適応させた機種であったこともあり、またエンジンに信頼が置けない本機は比較的長距離の侵攻や洋上飛行を伴いがちな南方戦線では特に使いどころに乏しかった。生産数も2000機を越えた九七式重爆と比べると、各型あわせて813機(832機説もあり)と伸びなかった。
 重武装による生存性の限界
 重武装することにより敵戦闘機の攻撃を撃退するという戦術思想は、爆撃機の防御火力の有効性を過大に評価したことから生まれた(これは「屠龍」等の複座戦闘機の後部旋回機銃に対する過大評価と同根である)。当時の爆撃機の防御火力は、本機も含めて全て人力操作・照準であり、高速で軽快に動き回る単座戦闘機に対して命中率はきわめて低かった。結局のところ、当時の技術では、戦闘機の護衛なしで活動できる爆撃機は実現不可能で、机上の空論に過ぎなかったと思われる。
 圧倒的な高性能を誇り、動力銃座をも装備し日本の戦闘機を寄せ付けないとまで言われたB-29戦略爆撃機ですら、護衛戦闘機を付けていない時期には少なくない数が撃墜されている。
 1943年(昭和18年)6月20日のポートダーウィン空襲では一式戦闘機「隼」の護衛があったとはいえ、出撃した18機中16機が46機のスピットファイア隊の攻撃を耐え切って帰還している。そのため、戦闘機との連携が良い状況では、一〇〇式重爆の防御火力と防弾装備の有効性は高く評価されることもある。しかし実際は帰還した機体の多くが大破しており、修理不能として現地で廃棄され、一〇〇式重爆のポートダーウィン空襲はこの一回きりしか行われなかった。
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 ピクシブ百科事典一般社会軍事兵器軍用機爆撃機一〇〇式重爆撃機
 中島 一〇〇式重爆撃機
 一〇〇式重爆撃機 ひゃくしきじゅうばくげきき
 第二次世界大戦時の大日本帝国陸軍の重爆撃機。愛称は呑龍(どんりゅう)。開発・製造は中島飛行機
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 1 概要
 2 諸元(キ49-Ⅱ)
 3 関連タグ
 概要
 開発年は1940年で、制式採用されたのは1941年(皇紀2601年)である。原則的には一式重爆撃機命名するのが慣例だが、皇紀2600年の祝賀ムードに乗って一〇〇式重爆撃と命名された。
 九七式重爆撃機の後継機とされたが、いざ実戦投入したところ、「武装は強化されたのはいいけど、それ以外は九七式とあんま変わんないじゃん」とか「エンジンがすぐイカれる。九七式のエンジンの方がよっぽどまともだ」という言われ具合。そのエンジンの信頼性のせいで洋上作戦には使えず、ほとんどが満州に配備されていたため実戦の機会が少なかった。また武装を強化したところで戦闘機にはやはり敵わない、という点も浮き彫りになった。
 「九七式はもう限界が見えているけど、一〇〇式は発展余裕があるだろう」ということで生産されたわけだが、結局四式重爆撃機に取って代わられることになってしまう……。
 愛称は『呑龍』。中島飛行機の工場があった群馬県太田市にある寺院・大光院が『呑龍様』と呼ばれていたことに由来する。大元の由来は浄土宗の名僧の名前。
 九七式、四式と乗り比べたパイロットは自伝の中で「どん龍は名前の通りどん重」などと揶揄している(一方、四式重爆については「操縦していて本当に気持ちのよい飛行機」と称賛している)。
 なお連合軍のコードネームはHelen(ヘレン)。
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