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関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
学者・科学者達は、国民の責任・義務と技術者の好奇心・探究心で、戦争に勝つ為に軍部に協力して敵に打ち勝つ最新兵器開発に協力していた。
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昔の日本人と現代の日本人は別人のような日本人である。
昔の日本人は、敗走に次ぐ敗走で、全滅に次ぐ全滅で、今にも負けて降伏するかもしれないという時に、敗北主義に落ちる事なく、卑屈にならず、勝つ事だけを考えて奇抜なアイデアを実現するするべく邁進していた。
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アメリカは、日本の兵器産業の中でも航空産業を最も怖れていた、それ故に日本を占領するや造船業は許したが航空産業は破壊した。
そして、敗戦国日本の原子力開発とロケット開発も認めなかった。
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PA02 1/72 日本海軍 局地戦闘機 試製 秋水
|製品情報
秋水は世界でも珍しいロケット推進式の無尾翼戦闘機でドイツのMe163ロケット戦闘機を基に陸海軍共同で開発されました。高度1万mまで3分半で一気に上昇し、時速800kmの高速でB-29爆撃機に接近、大口径30mm機関砲での攻撃後、滑空して帰還するという壮大な計画でしたが、1944年にドイツから伊29潜水艦によって持ち帰られた資料は、機体とエンジンの簡単な設計図とロケット燃料の製造方法・説明書だけでした。設計陣は苦心の末、翌年に1号機を完成させましたが、1945年7月に行われたエンジン搭載での初飛行は失敗に終わり大破、そのまま終戦を迎えました。
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2023年10月12日 YAHOO!JAPANニュース 乗りものニュース「速いしめっちゃ飛ぶ!「ロケット戦闘機」なぜ廃れた? その“当然すぎる理由”とは
味方にとっての「恐怖の彗星」
史上初で現状史上で唯一の実戦経験のあるロケット戦闘機Me163「コメート」(画像:アメリカ空軍)。
宇宙に打ち上げる飛行物体には、液体もしくは固体の推進剤(燃料)が使われます。こうした推進剤は、燃料と酸化剤を化学反応させて飛ぶため、空気中の酸素を必要としません。そのため真空の宇宙での航行だけでなく、同じサイズのジェットエンジンと比べ地球の高高度での高速飛行にも適しており、短時間で高高度に達することができます。
【え…人が乗るの!?】これが、有人ロケット戦闘機が搭載したヤベえエンジンです(写真)
そうした特性がありながら、ロケット推進が戦闘機として使われない理由はどこにあるのでしょうか。実は一時期試みられたときがありましたが、メリットよりもデメリットがかなり大きかったことから、開発されることがなくなってしまいました。
数あるロケット飛行機の中で、実戦に投入されたのは、第二次世界大戦中に特攻機として使用された日本の「桜花」をのぞけば、大戦中の1943年に迎撃戦闘機として運用が開始されたMe163「コメート」だけです。これが2023年現在も、唯一の実戦を行ったロケット戦闘機になっています。
確かに同機は、実戦投入当初は圧倒的な上昇力とそれを利用した一撃離脱戦法で戦果を挙げましたが、戦闘機としての装備をつけると、推進剤積載量が少なくなり、上昇までに推進剤を大量に使うため、極端に航続距離が短くなることが問題でした。上昇のために燃料をほぼ使ってしまうので、飛行時間は数分しかなかったとされています。後は得られた高度を利用してなるべく長時間滑空するのみです。
当初、同機の高高度からの一撃離脱戦法に連合国軍の爆撃機隊は手を焼いていたものの、同機が飛行場の周辺でしか防空戦闘ができないことが露見すると、同機の配備された飛行場を避けて通るようになり、じきに目立った戦果は挙げられなくなってしまいました。
さらに「コメート」は、推進剤の燃料としてヒドラジンなどの劇物を搭載しており、これが非常に爆発性と腐食性が高く、少しでも燃料漏れを起こすとパイロットや整備員は命の危険にさらされました。
また離着陸の問題も大きく、離陸時には少ない燃料を節約する必要から車輪を切り離してしまうため、ソリのようになった胴体で滑るように着陸させる必要がありました。しかも、燃料は上空で使い果たす程度しか搭載しなかったため、ただの操作性の悪いグライダーになった状態での着陸です。
当然、事故は多くなり、結果として味方から「恐怖の彗星」という異名で呼ばれてしまいます。もちろん、恐怖を与えられるのは敵ではなく味方です。
戦中・戦後とロケット戦闘機は研究されるが…
初めて音速を超えた航空機のX-1はロケットエンジンを使用していた(画像:NASA)。
ドイツの敗戦間際には、Ba 349「ナッター」というロケット戦闘機も登場しました。同機は戦闘後、エンジンを分離して再利用し、パイロットは脱出するというシステムでしたが、部隊配備されたのは1945年4月だったために実戦参加はなかったとされています。
また、旧日本陸軍でも「コメート」の図面を参考に、局地戦闘機「秋水」の開発が行われましたが、実戦投入されることはありませんでした。
第二次世界大戦後も、アメリカやイギリス、ソビエト連邦ではロケット戦闘機の研究が続けられました。さすがにヒドラジンで飛ぶことはなくなりましたが、推進剤の内容物が変わってもトラブル時にエンジンが爆発、炎上する危険性などはロケット推進剤の特性として残りました。
さらに航続距離の問題も改善できずにいたため、イギリスではロケットエンジンの推力の高さでいち早く高度を確保し、ジェットエンジンで飛行するという混合動力機を搭載したアブロ 720という機体も1950年代に考え出されますが、実用化には至りませんでした。
結局、ロケットエンジンを搭載した実験機の研究は、1960年代以降になるとジェットエンジンが発達、より高高度かつ高速になってきたこともあり行われなくなります。
ちなみに、初めて音速の壁を超えた飛行機であるベルX-1は、ジェットエンジンではなくロケットエンジン搭載機でした。また、2023年6月29日に商用宇宙飛行を実現した、「スペースシップツー」は、宇宙旅行向けの機体ですが、弾道飛行スペースプレーンという、ある程度の高度で親機から射出するタイプであるため、形状としてはロケット飛行機に近い見た目をしています。
乗りものニュース編集部
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10月13日 時事ドットコム「【特集】日本の海軍機 Xfacebookhatena-bookmark
局地戦闘機「秋水」
遺棄されていた残骸を基に、製造元の三菱重工業が復元した秋水量産型。現在は愛知県にある同社の名古屋航空宇宙システム製作所史料室に展示されている。全長6.1メートル、全幅9.5メートル、全備重量はおよそ4トン【時事通信社】
ドイツのメッサーシュミットMe163を参考にしたロケット推進の戦闘機で、米軍の高高度重爆撃機B29を迎撃する切り札として、珍しく海軍と陸軍が協調して開発に取り組んだ。試作機は三菱重工業が機体、エンジンの両方を製作した。ロケットエンジンの巨大な推力で高度1万メートルまで3分半という驚異的な上昇力を発揮、時速600~800キロでB29に近づくと、両翼に搭載した30ミリ機銃で攻撃するという構想だった。ただ、ロケット燃料は上昇でほとんど使い切ってしまい、B29の巡航高度に滞空して戦闘可能な時間は1分半から3分しかなく、その後は滑空して帰投しなければならなかった。
Me163の技術情報は1944(昭和19)年7月にドイツから帰還した潜水艦によってもたらされた。実物ではなく、機体とエンジンの設計説明書、ロケット薬液の組成説明書などの文献資料だけだったが、三菱は同年8月から試作機の製作に着手した。過酸化水素水やメタノール、ヒドラジンなどの化学反応で推進力を得るロケット機は、ジェットエンジンに比べれば構造が単純な上、燃料に石油を必要としないため、短期間で大量生産ができると軍部は大いに期待した。しかし、未知の分野だけに開発は難航し、何とか実用に耐えるものが完成したのは45(昭和20)年の6月だった。試作1号機は7月7日に初飛行を実施、ロケットエンジンへの点火には成功したものの、構造上の問題から離陸直後にエンジンが停止してしまい、不時着して機体は大破した。
その後、別の試作機の準備を進めたが、エンジンの整備ができないうちに終戦を迎えたため、秋水がどれだけの実力を持っていたのかは分からない。仮に実用化できたとしても、ロケット機は航続距離があまりに短く、B29の予想進路上に大量配備し、順次攻撃を仕掛けるといった戦術が必要で、日本の工業力を考えれば、実現することは不可能だった。
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2023年3月22日 歴史人「わずか1度ながら動力飛行を実施:ロケット局地戦闘機【秋水】
「日の丸」をまとった幻の試作機 ~ 日本が誇る技術陣が生み出した太平洋戦争における最先端航空機たち【第2回】
白石 光
太平洋戦争も中盤を過ぎて末期に近づくにしたがって、敗色が濃くなった日本。苦境に立つ皇国(こうこく)の起死回生を担う最先端の航空機を開発・実用化すべく、日本が誇る技術陣は、その英知と「ものづくり」のノウハウの全てを結集して死力を尽くした。第2回は、「橘花(きっか)」と同じくドイツの技術を参考にして日本の陸軍と海軍、それに民間企業が協力して開発を進めたのが、実用化を目前にして敗戦を迎えた「秋水(しゅうすい)」である。
アメリカ軍によって接収された「秋水」。ジェット機の「橘花」と同様に、ドイツのMe163の詳細な設計図が入手できなかったため、日本の技術陣が概念図などを元にして改めて独自に設計・開発した。
ドイツと日本の間の連絡と輸送に従事した遣独潜水艦(けんどくせんすいかん)の伊号29潜は1944年4月、ドイツ占領下のフランス・ロリアンまで赴き、同年7月中旬、日本占領下のシンガポールに帰着した。同艦は、ジェット戦闘機メッサーシュミットMe262シュヴァルベ(後の「橘花」)と同Me163Bコメートの資料など、貴重なドイツの技術情報多数を搭載していた。
そして、さらにシンガポールから日本本土に向けて出港したが、途中のバシー海峡でアメリカ潜水艦ソーフィッシュに撃沈されてしまった。しかし、ごく一部の概説的な資料が、駐独日本海軍武官で伊号29潜に便乗して戻って来た巌谷英一(いわやえいいち)海軍技術中佐の手で空輸されて日本本土に到着。これに基づき、「橘花」同様に開発が推進された。
そのため、当初はMe163と称されていたが、ある海軍下級士官が詠んだ短歌にちなんで、滑空試験の成功後に「秋水」と命名されている。なお、この名称は当時の日本の陸・海軍の航空機命名規則に関係なく採用されたものだった。
「秋水」の開発に際して、陸軍と海軍はやっと協力し合うこととなったが、これは戦時下の兵器の開発と生産の観点からすれば、あまりに遅い決定といえた。さらに民間企業として、三菱航空機も加わっている。
しかし、巌谷が持ち帰った資料は既述のごとく概説的なものにすぎなかった。そのため陸・海軍と三菱は、機体とロケット・エンジンの設計開発を日本独自で進めなければならなかった。
機体のほうは、海軍の主導により比較的容易に開発できた。だが、陸軍が主導したロケット・エンジンの開発は、その燃料の開発と並行的に行わねばならず、いろいろと苦労があった。
同じ噴射式エンジンながら、空気を取り込んで燃料を燃焼させるジェット・エンジンとは異なり、ロケット・エンジンは、外部から空気を取り込むことなく、燃料に化学剤を添加して燃焼させる構造だった。過酸化水素がメインの酸化剤に、メタノール、水化ヒドラジン、水から成る燃料を混ぜて化学反応させるのだが、酸化剤が「甲液」、燃料が「乙液」と称された。だが両液は毒性がきわめて強く、作業員は、取り扱い時には相応の防護が必要だった。
開発が先行していた機体の滑空試験は1944年12月26日、犬塚豊彦海軍大尉の手で行われた。この滑空用機体は「秋草(あきぐさ)」の海軍名称を付与されて練習機とされ、60機以下が生産されたといわれる。
終戦を約1か月後に控えた1945年7月7日、横須賀海軍航空隊追浜飛行場で「秋水(三菱第201号機)」の初動力飛行が実施された。しかしエンジンの不調で整備しなければならず、予定より遅れた17時前に離陸。操縦桿を握るのは犬塚である。
ところが離陸後に上昇を始めたところで、突然エンジンが黒煙を吐き出し停止してしまった。犬塚は、無動力となった「秋水」を滑空飛行によって滑走路に着陸させようとしたが、失敗して機体は大破。頭部に致命傷を負って翌日に殉職した。
事故の原因は、燃料タンクの欠陥だった。その後、「秋水」2号機を千葉県の柏飛行場で陸軍が飛ばすことになったが、ロケット・エンジンが間に合わず、結局、「秋水」の動力飛行は1度きりで終戦を迎えることとなった。
ドイツ空軍は、燃料生産の困難さとMe163の滞空時間の短さを問題視し、より効率のよい機体へと労力をシフトしたが、もし日本が「秋水」の実用化に成功したとしても、当時の国情を考慮すれば、ドイツの場合と同様の事態となった可能性が高いと思われる。
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2022年7月7日 MicrosoftNews 乗りものニュース 「›› ミリタリー ›› 日本唯一のロケット戦闘機「秋水」初飛行-1945.7.7 陸海軍がタッグ組んだ激レア機
日本唯一のロケット戦闘機「秋水」初飛行-1945.7.7 陸海軍がタッグ組んだ激レア機
乗りものニュース編集部
tags: 航空, 軍用機, 戦闘機, 秋水, Me163「コメート」, 旧日本海軍, 旧日本陸軍, 三菱重工
七夕の日にたった1回の飛行に成功。
開発期間わずか1年、短期間で誕生した戦闘機
太平洋戦争末期の1945(昭和20)年7月7日。三菱航空機(現三菱重工業)が開発したロケット推進戦闘機「秋水」が初飛行しました。
「秋水」は「局地戦闘機」、いわゆる迎撃機として誕生した飛行機で、開発に際しては、1944(昭和19)年7月にドイツから潜水艦によって運ばれてきた、メッサーシュミット製Me163「コメート」ロケット戦闘機の資料が基になっています。ただ、ドイツから来た資料は機体外形の3面図と、ロケット燃料の成分表、取扱説明書などしかなかったため、日本の独自開発の部分も多々あります。
そのため、機首部分やキャノピーの形状は異なるほか、主翼は木製に変更されており、翼幅も延長され大きくなっています。
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旧陸軍と旧海軍が共同開発した試作ロケット推進戦闘機「秋水」(画像:サンディエゴ航空宇宙博物館)。
また特筆すべきは、日本の軍用機としては極めてまれな陸海軍共同開発だという点です。旧陸軍と旧海軍は、各種新兵器の開発において共同で行った例はほぼなく、軍用機に関しても同じような機体を別々に開発・生産していました。
そのようななか、「秋水」については比較的早い段階から合同で研究を始めており、機体製作は海軍主導で、ロケットエンジンについては陸軍主導で開発することを決めています。
ちなみに、実機の試験飛行を行う前に、全木製の軽滑空機「秋草」が造られ、滑空テストが幾度となく実施されます。1945(昭和20)年1月にはロケットと武装がない以外、「秋水」とほぼ一緒の重滑空機が造られ、こちらも試験や乗員養成などに用いられました。
初飛行に成功、でもトラブル発生で不時着・大破
なお、陸海軍共同開発とはいえ実験部隊の創設などを進めていた海軍が、陸軍に先んじて試験飛行を行う栄誉を獲得。こうして「秋水」は、1945(昭和20)年7月7日、横須賀海軍航空隊の追浜飛行場(現在の日産自動車追浜工場)で試験飛行を迎えることとなります。
当日の午後4時55分、試製「秋水」は滑走を開始。滑走距離約220mで離陸し、初飛行に成功しました。ただ、高度350mほどで機体後部から出る炎が黒煙になり、エンジンが停止。滑空して滑走路に戻ってきたものの、飛行場の手前を流れる鷹取川の川岸に接地し、バウンドしたのち飛行場西端に不時着します。
機体は大破、エンジンは爆散したため、機体自体は2号機以降も造られていたものの、それらは飛行せずに8月15日の終戦を迎えています。
旧陸軍と旧海軍が共同開発した試作ロケット推進戦闘機「秋水」(画像:サンディエゴ航空宇宙博物館)。
そのため、日本唯一のロケット戦闘機「秋水」が空を舞ったのは、7月7日の初飛行ただ1回にとどまりました。
なお、機体は終戦までに三菱航空機で4機、日本飛行機で3機の計7機が完成しています。これらのうち何機かはアメリカ本土に送られ、調査に供されています。そして2022年現在、カリフォルニア州チノにあるプレーンズ・オブ・フェイム航空博物館に、世界で唯一となる「秋水」が保存・展示されています。
ほかにも、名古屋市港区の三菱重工大江工場内にある「大江時計台航空史料室」に、復元された機体が展示されています。
【了】
※誤字を修正しました(7月7日18時35分)。」
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ウィキペディア
秋水(しゅうすい)は、太平洋戦争中に日本陸軍と日本海軍が共同で開発を進めたロケット局地戦闘機である。ドイツ空軍のメッサーシュミット Me163の資料を基に設計を始めたが、試作機で終わった。
概要
正式名称は試製秋水。海軍の略符号はJ8M、陸軍のキ番号はキ200である。「十九試局地戦闘機」と称されることもあるが、1943年(昭和18年)の兵器名称付与標準の改訂に伴い、1944年(昭和19年)には年式を冠称した機体開発は行われなくなっていた。計画初期には「Me163」の名で呼ばれていた。
秋水の名称は、岡野勝敏海軍少尉の『秋水(利剣)三尺露を払う』という短歌に由来する。1944年12月、飛行試験成功後の搭乗員・開発者交えた宴会で横須賀海軍航空隊百里派遣隊から短歌が提出され、満場一致で「Me163」から変更された[2]。この名称は陸軍、海軍の戦闘機の命名規則には沿っていない(軍用機の命名規則を参照)。
歴史
開発まで
第二次世界大戦中、日本とドイツの技術交流は、独ソ戦によってシベリア鉄道ルートが閉ざされ、英米との開戦により水上船舶ルートも困難になってしまった。両国の人的交流、物的交流は、インド洋を経由した潜水艦輸送に限定されるようになった(遣独潜水艦作戦)。日本側は酸素魚雷や無気泡発射管、水上飛行艇などの海軍技術情報と、生ゴム、錫、タングステンなどの戦略物資を、ドイツはジェットエンジンやロケットエンジン、ウランなどの兵器の技術情報を日本に供与した。
1944年4月、日本海軍の伊号第二十九潜水艦は ロケット戦闘機 Me163Bと ジェット戦闘機メッサーシュミット Me262の資料を積んでドイツ占領下フランスのロリアンを出発し、7月14日に昭南(シンガポール)に到着したものの、出港後バシー海峡でアメリカ海軍のガトー級潜水艦「ソーフィッシュ」に撃沈されてしまった。
しかし、伊29潜に便乗した巌谷英一海軍技術中佐が昭南から零式輸送機に乗り換え、空路で日本へ向かっていたために「噴射機関」資料の完全な損失は避けられた。だが、もたらされた資料は本機のコピー元であるMe163Bの機体外形3面図と、ロケット燃料の成分表と取扱説明書、燃料噴射弁の試験速報、中佐直筆の実況見分調書のみであった。そのため、設計そのものを完全にコピーすることはできなかった。
1945年に入り、高度1万メートル以上を飛来するアメリカ軍のボーイングB-29の邀撃に、高々度用の過給機を装備していない従来の日本軍レシプロ戦闘機では高度を維持することすら困難で、邀撃しても1撃から2撃を行うのが限度であった。レシプロ戦闘機と異なり、ロケット戦闘機は酸化剤と燃料を全て内部に搭載し、酸素を外気に求めなかった。したがって高高度の希薄な大気に影響されない特性を持つ。そこで、邀撃機としてB-29の飛行高度まで加速度的に達し、1撃から2撃をかけるだけならば、数分の飛行時間しかないロケット戦闘機でも「局地的な防衛には十分に有効」との判断が下され、陸軍、海軍、民間の三者の共同によって開発が急がれた。
手に入ったMe163Bの設計資料が不十分であるため、日本の技術で補完する必要があった。同機の機首部に見られる発電用プロペラは搭載せず、無線装置とその蓄電池搭載のために機首部は延長されており、内部の桁構造やキャノピーなども日本独自の設計となる。主翼も木製になり左右が10 cm程度ずつ延長されている。機体の特徴である無尾翼はすでに東京帝国大学航空研究所で木村秀政研究員が同様の機体の設計を手がけており、またロケットエンジンの研究は1940年(昭和15年)より陸軍航空技術研究所で開始されていた。この陸軍のロケット研究は後に三菱重工によってイ号一型甲無線誘導弾、乙の液体ロケットエンジン「特呂一号」に発展している。
さらに巌谷資料が届く以前より三菱重工長崎兵器製作所においては酸素魚雷に次ぐ魚雷の駆動力として回天二型向けに高濃度過酸化水素と水化ヒドラジンの化学反応による駆動の研究が完成段階にあり、同じ化学反応を利用したロケットエンジンの研究も進められていた。
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2021年8月18日 MicrosoftNews 東京新聞「父はロケット戦闘機「秋水」搭乗員だった…75年目に息子が偶然知った死の任務 「生き残ったから私の命がある」
父弘一さんの写真を眺める伊東信也さん=埼玉県川口市で
終戦間際、米軍の爆撃機B29迎撃の切り札として開発されたロケット戦闘機「秋水」。埼玉県川口市の会社員伊東信也さん(65)は、20年前に亡くなった父が搭乗員だった事実を、昨年知った。エリートパイロットだったことを誇りに思う半面、死と隣り合わせの任務と分かり、複雑な思いにかられた。「父は命を懸ける気持ちで搭乗員の仕事に就いたのだろうか」 (垣見洋樹)
◆同僚から「それ、秋水じゃないですか」
海軍時代の伊東弘一さん(伊東信也さん提供)
父の弘一さんの任務を知ったのは偶然だった。昨年末、再就職先で会った同僚との雑談で、父が海軍で特殊な戦闘機に乗っていたことを話した。軍事に詳しい同僚が「それ、秋水じゃないですか」と指摘した。
関連する本を読みあさると、父の名前や写真が出ていて驚いた。ある研究者からは「隊員はエリート中のエリートだった」と言われ、誇らしくも感じた。
秋水は1944年、日本軍がドイツから持ち帰ったロケット戦闘機の図面を基に、陸海軍と三菱重工業が協力して製作した。高濃度過酸化水素を推進剤とし、B29が飛行する高度1万メートルまで約3分半で到達できる能力が特徴。欠乏する石油を使わないことから、形勢逆転を目指す軍が目の色を変えて開発したとされる。
2001年に復元、公開されたロケット戦闘機「秋水」=愛知県豊山町の三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所で
◆「生還」する想定も「敵機の餌食になるのでは」
弘一さんは大阪出身で、名古屋高等工業学校(現名古屋工業大)で学び、海軍の飛行兵を志願した。44年8月、秋水に搭乗する部隊への配属を言い渡され、訓練に明け暮れた。
秋水は急上昇した後は短時間で推進剤を使い果たし、その後はグライダーのように滑空して「生還」する想定だった。伊東さんは資料を読むうち、疑問に突き当たった。秋水がB29を攻撃できたとして、推進剤のない滑空状態では敵機の餌食になってしまうのではないか。
弘一さんの同僚パイロットだった男性の著作には、上官から隊員に説明があったと記されていた。「機首に爆薬を搭載し、敵編隊の真ん中でボタンを押して自爆する戦法を採る」。伊東さんは衝撃を受けた。
◆実戦に使われることなく終戦
お国のために命をささげるのが当然の時代ではあった。それでも、20代だった父の心境は想像がつかない。「なぜ海軍の飛行兵を志願したのか」「生きて帰ってこられるとは思っていなかったんじゃないか」
秋水は45年7月、初の試験飛行にこぎ着けたものの、不時着して大破。実戦に使われることなく終戦を迎えた。
弘一さんは戦後、埼玉県内で市会議員を務め2001年に81歳で死去した。戦争体験を話すことはなく、子育ては自由放任だった。
「父が生き残ったからこそ、私の命がある」。その幸運は偶然にすぎないのだと、父の経歴を知った今はより強く感じている。
秋水 ドイツのメッサーシュミットMe163Bロケット戦闘機の設計図を基に、旧日本軍が開発した日本初のロケット戦闘機。推進剤は過酸化水素とヒドラジンなど。乗員1人、全長9・9メートル。最高速度時速800キロ。30ミリ機関砲2門を備え、B29迎撃のため高度1万メートルまで上昇し、上空で5分半の動力飛行が可能という仕様だった。
【関連記事】幻の戦闘機と学校の歴史探る 「秋水」実験場だった長野の高校生 横須賀で取材、映像に」
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