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2022年9月19日 YAHOO!JAPANニュース GQ JAPAN「日本の城の到達点を示す徳川幕府の城は、藤堂高虎を通じて世界とつながっていた──世界とつながっている日本の城 第19回
二条城も正方形を基準にした単純な縄張り(東南隅櫓と東大手門)。
“築城三名人”と呼ばれた藤堂高虎。彼の功績をあらためて振り返る。
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鉄砲伝来によって大きく変わった日本の城
天文元年(1543)、大隅国(鹿児島県)の種子島に漂着した異国船に2人のポルトガル人が乗っていた。島主の種子島時尭は彼らが所有していた2丁の鉄砲を入手し、家臣に操作法と製法を学ばせた。歴史の教科書でもおなじみの鉄砲伝来である。
伝来した年代については諸説あるほか、これより前に鉄砲は伝わっていた可能性も指摘されているが、細かい話はともかく、戦国時代の日本に鉄砲が伝わった影響はきわめて大きかった。それまでの日本では、戦争に使われるのは槍や弓が中心だった。とはいえ弓矢は使いこなすには訓練が必要なのに対し、鉄砲は遠距離から敵を狙え、あまり訓練しなくても使えて、殺傷力が弓矢の比ではない。
あるものが有効だとわかったときの日本人の対応力には、目を見張るものがある。戦国時代の中期から後期で、大規模な合戦が相次いだ時期だったため、大名たちは鉄砲の製造や確保を急ぎ、たちまち日本各地で使われるようになり、その間にいったい何十万丁が製造されたのかわからない。日本に存在した鉄砲の数は、当時のヨーロッパのどの国が保有していた数より多かった、という説まであるほどだ。
こうして、戦法も兵の一騎打ちから、鉄砲隊をそろえた集団戦法へと変わっていった。有名なのは天正3年(1575)の長篠の合戦で、織田信長が日本で初めて大量の鉄砲を組織的に使って、武田の騎馬軍団を壊滅させた。もっとも近年は、信長が大規模な鉄砲隊を組織したのは事実でも、それは決定的な勝因ではなかったという説が有力視されているが、戦術が大きく変化したことはまちがいない。
当然、城の築き方も変わる。戦国時代の中ごろまでは、城といえば、守りやすくて攻めにくい山城が中心だった。しかし、当時の火縄銃は鉛弾を銃口から入れる仕組みで、山の上から敵に銃口を向けると弾が落ちてしまうので攻撃できない。
それに、鉄砲を中心に据えた戦いでは大兵力が有効なので、多くの兵站を収容できるスペースと、それを囲む広い堀や高い石垣こそ役に立つ。石垣による防御線も、複雑に折れ曲がっているよりは直線的なほうが鉄砲で攻撃しやすい。このため、比較的まっすぐな塁上に土塀や多門櫓などを築き、壁面に鉄砲を撃つための狭間が設けられるようになった。
一方、鉄砲で攻撃されることを考えると、塀や櫓の壁を厚くする必要がある。また、広い堀や高い石垣は、敵を寄せつけなくても、門から簡単に侵入できるようでは仕方がない。そこで、敵がまっすぐ侵入できないように、門に非常に凝った防備をほどこすようになっていった。
いま各地で目にする近世城郭の多くは、こうして鉄砲の使用を前提に、急速かつ大規模に変化したのちの城だ。つまり、日本の城は鉄砲を通して「世界とつながった」ために、われわれが通常、城といわれて思い浮かべるような姿になったといえる。そして、こうしたスタイルを導入し、完成させたのが、築城の名人として名高い藤堂高虎(とうどう・たかとら)だった。
■長崎と朝鮮半島で学んだ藤堂高虎の築城術
高虎といえば、7人の主人に仕えた変節漢と揶揄されることもあるが、外様大名でありながら晩年の徳川家康が最も信頼を寄せた人物でもあった。その高虎が築城の名人となるに当たって重要だったと思われるのが、以下の2つの「世界とつながる」経験だ。
ひとつは天正15年(1587)。九州平定を終えた豊臣秀吉は、6月19日に突然、伴天連追放令を発布し、カトリックの宣教師たちに20日以内に国外へ退去せよと命じた。このとき秀吉は、イエズス会に寄進されていた長崎などを接収する役を負った上使として、弟の秀長の家老だった高虎を長崎に派遣。高虎はそこで毎日、夜話会を開いては外国人も呼び、西洋の新知識を吸収し、西洋の城のありようについても学んだようだ。
もうひとつは文禄元年(1592)の朝鮮出兵である。壱岐船奉行を命ぜられた高虎は、輸送船団の指揮と護衛、補給線や基地の警備にあたり、李舜臣の船団に攻撃されて被害を受けた。さらには慶長2年(1597)にふたたび出兵した際には陸上戦にも参戦し、加藤清正の救出にも貢献した。この実戦経験で水軍技術を学んだうえ、築城技術をたしかなものにしたと思われる。
そして、高虎は徳川家康、続いて二代将軍秀忠や三代将軍家光からも厚い信頼を得て、徳川幕府による築城を一手に引き受けることになる。江戸城の縄張りを任されたほか、豊臣家を包囲するために徳川家の命で築かれた丹波篠山城(兵庫県)や丹波亀山城(京都府)を設計した。名古屋城(愛知県)にも関わり、二条城(京都府)も担当し、豊臣家が滅ぼされたのちに、徳川大坂城(大阪府)を縄張りしたのも高虎だった。それは豊臣大坂城に盛り土をしたうえで、はるかに高い石垣と広い堀で囲んで築かれた。
ということは、鎖国政策を推し進めた徳川幕府による城は、高虎の「世界につながる」経験と識見を土台に築かれている、という皮肉な話にもなる。そして、高虎が「高虎流」というべき築城術の原型を構築したと考えられるのが、慶長7年(1602)に着工された今治城(愛媛県)だった。
■正方形をベースに高石垣と広い堀で囲んだ高効率の城
今治城は海岸部に築かれ、堀には海水が引き入れられた海城で、いまも堀にはコイではなく、タイやボラが泳ぐ。本丸と二の丸からなる主郭部は、ほぼ正方形に近いかたちで、広いところは60メートル近い広大な内堀で囲まれている。かつてはさらに中堀、外堀が囲んでいて、いずれも正方形が基準の単純な構造だ。
正方形を基準にした縄張りは、丹波篠山城や二条城、そして名古屋城にも継承され、徳川家が平地に城を築く際のスタンダードになった。要は先述したように、構造はむしろ単純にして、たくさんの兵站を収容できるようにしたほうがいい、という逆転の発想だ。構造が単純なら工期が短くて済み、コストも抑えられる。それでも、高い石垣と広い堀で囲めば敵は攻撃できない、というわけだ。
とはいえ、出入口が脆弱では敵の侵入を許してしまう。そこで高虎は、厳重な枡形虎口を導入した。枡形とは塁で囲まれた四角い平面を設け、そのうちの2辺に位置をずらして門を設けた出入口のこと。敵は城内にまっすぐ侵入できず、守る側とすれば、敵を枡形内に閉じこめて殲滅することができる
今治城の内郭の正門である鉄門は、枡形の4辺のうち3辺を多門櫓で囲んだ厳重な枡形虎口で、江戸城や徳川大坂城の城門の原型になった。
かつては、平地に築かれた城は軍事的に不利だとされた。しかし、高虎流の城なら不利になることはない。そう認識されたのだ。統一政権ができ、交通の要衝に城を築く必要がますます高まるなか、高虎はますます重宝された。そして、徳川大坂城の広大な堀と高い石垣が、高虎流の城の究極的な発展型といえるだろう。
豊臣大坂城を痕跡が見えなくなるまで埋め立てたうえで、その跡地に元和6年(1620)から寛永5年(1628)にかけて築かれた徳川大坂城。そのころ、すでに武家諸法度によって城の新築が原則禁じられていたばかりか、修理するだけでも届け出ることが義務づけられていた。以後、日本の城は発展を止めてしまう。「世界とつながって」いた高虎が設計した徳川大坂城は日本の城そのものの到達点だった。
香原斗志(かはら・とし)
歴史評論家
早稲田大学で日本史を学ぶ。小学校高学年から歴史オタクで、中学からは中世城郭から近世の城まで日本の城に通い詰める。また、京都や奈良をはじめとして古い町を訪ねては、歴史の痕跡を確認して歩いている。イタリアに精通したオペラ評論家でもあり、著書に「イタリア・オペラを疑え!」(アルテスパブリッシング)等。また、近著「カラー版 東京で見つける江戸」(平凡社新書)が好評発売中。」
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