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875年 後ウマイヤ朝の学者アッバース・イブン・フィルナスは、原始的なハンググライダーで飛ぼうとしたが負傷した。
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1490年頃 レオナルド・ダ・ヴィンチがヘリコプターのような航空機のスケッチを残す。ダ・ヴィンチは他にもパラシュートやオーニソプターの研究もしている。
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1785年夏 岡山の表具師浮田幸吉は、旭川に架かる京橋の欄干から滑空飛行に初めて成功し、河原で夕涼みをしていた町民を驚かせた。
岡山藩主池田治政は、世を騒がした罪で岡山所払いとして追放した。
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1793年5月15日 スペインの農夫ディエゴ・マリン・アギレラがグライダーで滑空したとされる。
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ニッポン放送NEWS・NLINE
あけの語りびと~こころを託す物語~
「日本最古の飛行機の設計図」も作成…国友一貫斎が築いたもの
By - NEWS ONLINE 編集部 公開:2020-04-08 更新:2020-04-08
ライフ上柳昌彦 あさぼらけ上柳昌彦
それぞれの朝は、それぞれの物語を連れてやってきます。
「国友一貫斎」という歴史上の人物をご存知でしょうか? 最近、新聞に「日本最古の飛行機の設計図が発見された」という記事が出て、話題を呼んでいます。
一貫斎が、近江国(おうみのくに)国友村…現在の滋賀県長浜市国友町に生まれたのは、1778年。江戸時代の後期に当たります。ここは、大阪の堺と並ぶ火縄銃の一大産地でした。「国友鉄砲ミュージアム」の館長、吉田一郎さんに伺うと…。
「江戸幕府から火縄銃の注文を受けると、鉄砲の部品を鉄砲鍛冶が分担して造り、最後に組み立てるという分業制でした。さらに鉄砲造りに欠かせないネジの開発や、銃の機関部には真鍮という新金属も使っています。言ってみれば日本の近代工業発祥の地で、ここで生まれた一貫斎は、鉄砲造りの名手として名をはせていたんです」
転機が訪れたのは39歳のとき。その腕を見込んだ彦根藩が、慣例を破って直接、一貫斎に大筒の鉄砲を発注します。それに怒ったのが、鉄砲鍛冶を束ねる4人の「年寄」。幕府に訴え、一貫斎は江戸に呼び出されます。
しかし一貫斎の高い技術力が認められ、訴えていた年寄側が敗訴に。江戸滞在は足かけ6年でしたが、一貫斎は無駄に過ごしません。
その間、オランダからの西洋文明に触れて、さまざまな発明をします。まずは、オランダから伝わった空気銃の玩具(おもちゃ)を元に、連発式の「空気銃」を造り上げます。
万年筆のような「懐中筆」…いわゆる筆ペンや、「玉燈(ぎょくとう)」というランプのような照明器具。また、アーチェリーに似た鋼の弓「弩弓(どきゅう)」や「水揚げポンプ」など、いろいろな発明をしています。
「一貫斎の発明は他にもまだあるはず」と、長浜市の調査団が生家に眠っていた文書を調べたところ、今回の「飛行機の設計図」が見つかったのです。
発見された10ページの冊子。そこには鳥の形をした飛行機のパーツが描かれ、「檜板を皮にて包也(つつむなり)」「板を次第に薄く削る也」などと、材質や加工方法も説明されています。
木馬に乗った人間が翼を羽ばたかせて飛ぶ構造で、現存する飛行機の設計図としては国内最古です。しかし、設計図の通りに造っても飛ぶことはできないそうです。
なぜ一貫斎は空を飛びたかったのか…。そこには、天体への憧れがありました。
一貫斎は、江戸の大名屋敷で目にした舶来の望遠鏡を元に、日本で最初の「反射望遠鏡」を造りました。太陽の黒点や月のクレーター、木星の縞模様、土星の環も観測しています。一貫斎の望遠鏡は、西洋の望遠鏡をしのぐ高性能でした。
天保7年。一貫斎が58歳になったこの年、全国的に天候不順で「天保の大飢饉」が起こり、国友村の村人たちも餓死寸前にまで追い込まれます。
一貫斎は晩年、天体観測に明け暮れていましたが、それを断念し、愛用していた望遠鏡を各地の大名に売り、村人を救いました。苦労して造った望遠鏡でしたが、村人たちの役に立ったことを喜びました。「天、遂に人の努力を無にせず」と叫び、神仏に感謝したと伝わっています。
63歳で亡くなった一貫斎。「宇宙まで夢を追った偉人」だと、吉田さんは言います。
「一貫斎がすごいのは発明だけでなく、設計図や解説書まで残していることです。それまでの職人は見て覚え、口伝えで技を残していましたが、一貫斎は設計図と共に文書化しているんですよ」
最後に、一貫斎の口癖があると吉田さんが教えてくれました。それは、『技は万民のためにある』。国友一貫斎こそ、技術大国日本の礎を築いた人物かもしれません。
■国友鉄砲ミュージアム
所在地:滋賀県長浜市国友町534
料金:大人300円、小中学生150円
営業時間:9:00~17:00(入館16:30まで)
定休日:年中無休(12月28日~1月3日のみ休館)
https://www.kunitomo-teppo.jp
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国友鉄砲ミュージアム TEL / 0749-62-1250
開館時間 / 9時から17時まで(入館は16時30分まで)
国友一貫斎の生涯と技術力
STORY
ホーム >国友一貫斎の生涯と技術力
国友一貫斎の生い立ち
夢鷹図(部分)国友一貫斎像(国友一貫斎家資料)
国友一貫斎は安永7年(1778)10月3日に、近江国坂田郡国友村(現在の長浜市国友町)に生れた。幼名は藤一、9歳となった天明6年(1786)には、家名を継いで藤兵衛と名乗った。自ら「一貫斎」、または「眠龍」と号し、「能当」の号も使った。彼が発明・考案した器物類へは、このいずれかの号をタガネで刻みこんでいる。
また、一貫斎がその科学的知識の多くを学んだ平田篤胤は、一貫斎を「国友能当」の号で呼んでいる。「能当」とは、鉄砲の弾が「能く当たる」の意味からきている。実名は、「重恭」で、書状の自署などに使用することが多い。
一貫斎の科学・技術における業績は多岐にわたるが、ここでは火縄銃と気砲、それに反射望遠鏡の製作と天体望遠鏡に限って、その事蹟を紹介する。
鍛冶師としての一貫斎
大小御鉄砲張立製作
従来、火縄銃の製作は、師匠から弟子へ伝える秘事として扱われ、弟子入りの時も決して技法を人に明かさないという起請文を提出するのを常としていた。この常識を打ち破ったのが一貫斎であった。彼は、前老中である松平定信の依頼に従って、文政元年(1818)『大小御鉄砲張立製作』という本を著している。松平定信は18世紀末以来、ロシア船をはじめとする外国船が日本近海に現れ、通商を望む他、小規模な衝突を繰り返すことを憂慮していた。日本の国防・海防のためには、何よりも火器の充実が必要と考えたのである。そこで、火縄銃の大量生産を行なえるようにするため、一貫斎へその製作方法の公開を求めたのである。
一貫斎はこの依頼に従って、『大小御鉄砲張立製作』を著した。この書物をもってすれば、鍛冶の心得さえあれば、如何なる大筒でも製作することが出来た。また、鉄砲製作方法は古来より伝わっているが、鍛冶によって様々であり一定しなかった。ここでは、火縄銃製作方法の統一を図っている。まさしく、火縄銃製作のマニュアルづくりであったと言えよう。この著作は、彼が優れた技術者であると同時に、文才・絵心にも恵まれた人物であったればこそ、実現できたことであった。この著作を、一貫斎は松平定信に献じ、翌年には金沢藩主前田家に献じている。
空気銃「気砲」の製作
一貫斎は、日本で初めて空気銃「気砲」を製作した。すでに、文化11年(1814)には、膳所藩に仕えた眼科医・山田大円より、オランダ渡りの空気銃の説明を受け、間もなくその模型の製作に成功していたと言われる。その後、江戸に出た一貫斎は、文政元年(1818)10月5日に、同様に江戸に出ていた山田大円から空気銃の実物を見せられた。この空気銃は破損していたが、修理する職人がなく放置していたものを、丹後峰山藩主京極高備(たかまさ)を通して、大円が借り受けたものだった。
一貫斎はその場で、空気銃の修理を依頼され、短期間でそれを果している。一貫斎は作業に当たり、修理した空気銃の詳細なスケッチや記録を残しているが、その性能は彼にとって物足りないものであった。そこで、より性能が優れた空気銃を製作することを思いたったのである。
一貫斎が考案した空気銃「気砲」は、同年11月1日をもって製作が始められ、翌年3月9日に京極高備へ納品された。同時に気砲の使い方を解説した『気砲記』を著している。当初は3匁5分玉の口径を考えていたようであるが、実際に納入された気砲は1匁5分玉の細口径(約1.1センチ)となっている。
文政2年(1819)5月24日には、若狭小浜藩主であった老中酒井忠進(ただゆき)の前で御前射撃を行っている。国友一貫斎家に残された文書には、この時の絵入り射撃記録があり、翌日には美濃岩村藩主であった老中松平乗保(のりやす)の前でも射撃を行っている。
「気砲」とその原理の普及
気砲記(生気之法)
以後、一貫斎への大名からの「気砲」注文は後を絶たなかった。最も早く気砲の注文を行った越前勝山藩主の小笠原長貴(ながたか)や、伊勢桑名藩主の松平忠尭(ただたか)、水戸藩主徳川斉脩(なりのぶ)、前老中松平定信、播磨姫路藩、伊勢津藩、近江水口藩、豊後岡藩主中川久教への納品などが確認できる。この内、桑名藩へ納品された「気砲」は、その代金が35両であったことが知られる。
当時、空気銃は一般に「風砲」と呼ばれていた。一貫斎自身も『気砲記』の冒頭に、「蘭名ウインドルウル 俗ニ風砲ト云」と記している。しかし、彼は「風砲」という名称は理論的ではないとして「気を込めて発する鉄砲」であるから、「気砲」の名称を付けたのである。「気」はすなわち空気であろう。単なる「風」の現象で弾が飛ぶのではなく、「気」の圧縮によって飛ぶこと。一貫斎は、この事実に気づいていた。
気砲弁記(国友一貫斎家資料)
天保5年(1834)に佐々木采女(うねめ)に納品した「気砲」を使って、彼は空気の重さを測っている。ポンプで100回込めて重さが6匁、500回で25匁5分、さらに75回込めて23匁5分、これで弾を1回放って11匁5分を使い、残りが12匁になったと記す。一貫斎は空気に重量があることに気がついた初めての日本人であった。この点、日本の科学・技術史の上で特筆できる存在であろう。
この「気砲」は、その後の日本の科学・技術に大きな影響を与えた。気砲開発直後の文政7年(1824)には、讃岐国(香川県)の久米通賢(みちかた)が、独自の空気銃「風砲」を製作している。膳所(ぜぜ)の金工師奥村菅次(すがじ)も、一貫斎に影響されて「気砲」の製作を行なった。また、空気圧を動力とする「気砲」の原理は、田中久重(ひさしげ)の「無尽燈(むじんとう)」や、奥村菅次の「からくり噴水器」に応用されていった。
反射望遠鏡の製作
反射望遠鏡(長浜市長浜城歴史博物館蔵)
天保3年(1832)6月20日、尾張国から帰国した一貫斎は、念願であった反射望遠鏡の製作に着手した。すでに和泉国貝塚の岩崎善兵衛が屈折望遠鏡を自作し、寛政5年(1793)に天体観測を行い、寛政8年(1796)には司馬江漢が『和蘭天説(オランダてんせつ)』を公刊し、コペルニクスの地動説を紹介していた。当時の知識人にとって、天体への興味はごく自然であり、彼も江戸滞在中に平田篤胤(あつたね)のグループから、天体に関する知識を得ていたと思われる。特に、尾張犬山藩主であった成瀬正寿(まさなが)の屋敷でオランダ製「テレスコフ御眼鏡」を見たことは、大きな刺激になった。それと同型のグレゴリー式反射望遠鏡を製作することは、彼の宿願となっていいた。
一貫斎の反射望遠鏡は、翌年の天保4年(1833)にほぼ完成した。これまでの日本では、岩崎善兵衛によって鏡を使用しない屈折望遠鏡は製作されていたが、鏡を使用する反射望遠鏡はこれが国産第一号であった。彼は天保7年(1836)に至るまで、反射望遠鏡の製作を継続し、その内の4基が現存している。
一貫斎が望遠鏡の製作において、最も苦労したのは、①反射鏡の鋳込み方法と②その研磨、そのれに③ガラス製レンズの研磨であった。国友一貫斎家に伝来した資料によれば、実際に天体観測を行ないつつ、この問題について改良を続けている。その結果、①については100年経過しても曇らないであろうと予測した鏡を製作し得た。②の研磨も反射鏡に必要な放物面を磨き出すことに成功していた。③については、太陽観測用のゾンガラスまでも開発していた。彼の望遠鏡は、幕府天文方(てんもんがた)に大きな影響を与えた他、大坂の民間天文学者・間重新(はざましげよし)をして、オランダ製の望遠鏡より、「もや付」が少なく星が倍大きく観測できると驚嘆せしめた程であった。
国友一貫斎の天体観測
太陽黒点観測図(国友一貫斎家資料)
一貫斎は望遠鏡完成と同時に、天体の観測を始めた。天保4年(1833)10月11日が最初の観測で、月と木星のスケッチをしているが、月のクレーターや木星の二つの衛星に気がついている。天保6年(1835)正月6日よりは太陽黒点観測を開始、翌年の2月8日に至る計216回(毎日、五つ時と八つ時の二回観測)に及ぶ日本人初の太陽黒点連続観測を行なっている。天保7年(1836)には、月・太陽・金星・木星・土星の見事な図面を残している。
幕府天文方の安立信頭(のぶあきら)は、一貫斎の観測記録を見て、日本にある望遠鏡では到底見えそうもないものまで書かれていると驚嘆している。この天体観測は、もちろん彼の並はずれた観察力と洞察力に負うところが大きいが、天体に関する多くの情報も集めていた。現在、国友一貫斎の家には、上方の銅版画家中(なか)伊三郎が出版した月・太陽図が残っており、彼の研究の足跡がたどれる。この図面は、大坂の間重新から譲り受けたものとみられる。
一貫斎の死とその後
毎年12月第一日曜日に行われる国友一貫斎碑前祭
天保11年(1840)12月3日、一貫斎は63歳の生涯を閉じた。その科学性と技術力は独創的で、近世日本の中でもひときわ大きな輝きとなっている。しかし、当時の近江国友の鉄砲鍛冶の中には、それを継承するだけの人物が不在であった。また、科学と技術を産業化できる、蘭癖(らんぺき)大名などパトロンも不在であった。
したがって、残念ながら彼の科学・技術は、地域で受け継がれることはなかった。しかし、日本近世の科学・技術力の水準を、総体として押し上げた人物として、その名は今以上に日本中で知られてもいいように思われる。
写真資料の申請について
本WEBサイト内の「国友藤兵衛(一貫斎)家資料目録」に掲載された資料について、研究目的に限り写真資料のご使用が可能です。
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ウィキペディア
国友 一貫斎(くにとも いっかんさい、九代目国友 藤兵衛(- とうべえ) 安永7年10月3日(1778年11月21日) - 天保11年12月3日(1840年12月26日))は鉄砲鍛冶師、発明家。幼名は藤一。号は一貫斎、眠龍。諱は重恭。能当(旧字では能當)と銘を切る。日本で最初の実用空気銃や反射望遠鏡を製作。その自作の望遠鏡を用いて天体観測を行った。
生涯
近江国国友村(滋賀県長浜市国友町)の幕府の御用鉄砲鍛冶職の家に生まれた。9歳で父に代わって藤兵衛と名乗り、17歳で鉄砲鍛冶の年寄脇の職を継いだ。
文化8年(1811年)、彦根藩の御用掛となり二百目玉筒を受注することとなったが、国友村の年寄4家は自分たちを差し置いてのこの扱いに異議を申し立て長い抗争に発展した(彦根事件)。しかし一貫斎の高い技術力が認められ、文政元年(1818年)に年寄側の敗訴となった。
文政2年(1819年)、オランダから伝わった風砲(玩具の空気銃)を元に実用の威力を持つ強力な空気銃である「気砲」を製作。その解説書として「気砲記」を著し、後には20連発の早打気砲を完成させた。
文政年間、江戸で反射望遠鏡を見る機会があり、天保3年(1832年)頃から反射式であるグレゴリー式望遠鏡を製作し始めた。口径60mmで60倍の倍率の望遠鏡は当時の日本で作られていたものよりも優れた性能であり、鏡の精度は2000年代に市販されている望遠鏡に匹敵するレベルで100年以上が経過した現代でも劣化が少ないという[1]。後に天保の大飢饉等の天災で疲弊した住人のために大名家等に売却されたと言われ、現在は上田市立博物館(天保5年作、重要文化財)、彦根城博物館に残されている。
その他、玉燈(照明器具)、御懐中筆(万年筆、毛筆ペン)、鋼弩、神鏡(魔鏡)など数々の物を作り出した発明家である。この他に人が翼を羽ばたかせて飛ぶ飛行機「阿鼻機流」を作ろうとしていた事もある[2]。また、彼は自作の望遠鏡で天保6年(1835年)に太陽黒点観測を当時としてはかなり長期に亘って行い、他にも月や土星、一説にはその衛星のスケッチなども残しており、日本の天文学者のさきがけの一人でもある。
天保11年(1840年)、国友村にて死去。享年63。
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