⛻12〗─3─平和な江戸時代でも、武士は常在戦場として鉄砲を注文し軍事力を維持していた。〜No.58No.59No.60 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   

 平和な江戸時代でも、武士は常在戦場として鉄砲を注文し軍事力を維持していた。

   ・   ・   ・   
 日本のもの作りとは、鉄砲、刀、鎧兜などの武器生産(軍事生産)であった。
 伝統工芸的な武器生産(軍事生産)が、明治の近代化である殖産興業と富国強兵の原動力となり、現代日本の経済成長・経済発展をもたらし富・豊かさを築き上げた。
   ・   ・   ・   
 軍事力を維持してきたお陰で、ロシアの日本侵略に備えることができた。
   ・   ・   ・   
 2019年4月19日 産経新聞「堺の鉄砲鍛冶、平和な江戸時代も活況だった
 井上家で所蔵されていた資料に描かれていた鉄砲の図面
その他の写真を見る(1/2枚)
 近世の鉄砲生産の中心地の一つだった堺で、江戸時代にも盛んに鉄砲が製造されていたことがわかった。鉄砲鍛冶(かじ)屋敷「井上関右衛門(せきえもん)家」(堺市堺区)に所蔵されていた資料を分析して判明したもので、「江戸時代に堺の鉄砲産業は斜陽化した」という通説を覆すことになる。調査関係者は「さらに精査して、知られざる鉄砲ビジネスの全容を明らかにしたい」と意気込んでいる。(古野英明)
 堺市関西大学が、井上家に残された2万点を超える資料を4年間にわたって共同調査。鉄砲の注文数が江戸後期になるにつれて増加していた。天保10(1839)年には280丁を超える鉄砲を受注し、天保13(1842)年には関東から九州までの大名・旗本232家から注文があった。
 また、幕府の軍事拠点だった大坂城の鉄砲の維持・管理に井上家が深く関わっていたことも判明した。関西大の藪田貫(ゆたか)名誉教授(日本近世史)は「大坂城には1万丁以上の鉄砲が備蓄されていたことはわかっていたが、誰がメンテナンスしていたのかとの視点がまったくなかった」と、井上家の大きなビジネスになっていた可能性を指摘する。
 そのうえで「戦はなくても、有事の備えとして鉄砲は必要だった。農民たちも獣害対策として鉄砲を使っていた。外国船が来航した幕末には、沿岸警備の需要もあった。資料だけでも『平和が続いたから鉄砲産業が衰退した』という定説を覆すに十分な証拠になる」と評価している。」
・・・