🗡28〗─3・A─日本海軍。幻のB29迎撃用革新的戦闘機[震電]。~No.93 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 世界第2位の科学技術・経済大国日本が衰退し先進国から断トツ最下位に転落したのは、バブル経済で傲慢になった現代の日本人が「野狐禅(生禅)」に陥ったからである。
 間違った「本質」とは一点豪華主義である。
 1990年以降の現代日本人は、科学技術至上主義で、神がかった宗教的職人の「志=魂」と伝統的匠=モノ作りの「心=精神」を捨てたが故に一点豪華主義の何たるかが理解できない。
 つまり、歴史を教訓として歴史から学ぶ事ができない。
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 震電(しんでん)は第二次世界大戦末期に日本海軍が試作した局地戦闘機である。前翼型の独特な機体形状を持つ、最高速度400ノット(約740km/h)以上の高速戦闘機の計画で、1945年(昭和20年)6月に試作機が完成、同年8月に試験飛行を行い終戦を迎えた。略符号はJ7W1。
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 2022年7月14日 毎日新聞「幻の戦闘機」震電、実物大模型展示始まる B29迎撃用に開発
 常設展示が始まった「震電」の実物大模型。手前のプロペラがある方が後ろ
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 福岡県筑前町の町立大刀洗平和記念館で6日、旧日本海軍が開発した局地戦闘機震電」の実物大模型の常設展示が始まった。
 震電は海軍が太平洋戦争末期に米軍爆撃機「B29」の迎撃を目的に開発を進め、福岡市の九州飛行機が試作機を製造した。全長9・7メートル、幅11・1メートル。高高度を飛ぶB29を攻撃する性能を追求し、機首付近に小翼、胴体後部にプロペラを配した特異な形状が特徴。試験飛行をしたが、実戦では使われずに終戦を迎えたため「幻の戦闘機」と呼ばれている。
 九州飛行機は太刀洗航空機製作所の兄弟会社だったこともあり、町は分解された機体を所有する米スミソニアン博物館からの購入を検討したが実現せず、東京の映像制作会社が作った実物大模型を買い入れた。購入や設置にかかる費用は約2200万円で、町は500万円を目標にクラウドファンディングを実施している。
 展示披露セレモニーで田頭喜久己町長と夏休みにボランティアガイドをする三輪中2年、古川文萌さん(14)らがテープカットした。田頭町長は「当時の航空技術の真価を紹介したく、以前から展示したかった。真実を伝えながら平和を訴えていきたい」、古川さんは「多くの人に来館してもらい、展示を通して戦争の怖さを知ってほしい」と話した。 【桑原省爾】
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 8月3日 YAHOO!JAPANニュース 乗りものニュース「プロペラ後ろ向き! 革新的すぎた旧海軍の試作戦闘機「震電」初飛行-1945.8.3
 異形の前翼機、対B-29の切り札として誕生
 旧日本海軍が開発した局地戦闘機震電」(画像:サンディエゴ航空宇宙博物館)。
 1945(昭和20)年の8月3日は、旧日本海軍局地戦闘機震電」が初飛行した日です。局地戦闘機とは、言葉のとおり「局地」すなわち限定されたエリアで用いる戦闘機という意味で、いわゆる迎撃機のことです。
 【デカッ!】日本で見られる「震電」を前から後ろから
 1941(昭和16)年12月8日に太平洋戦争が始まりましたが、アメリカを始めとした連合軍との戦いが激しくなるにつれ、敵の戦闘機を凌駕できる高性能を持つ新型機として、従来の戦闘機とは異なる形状の飛行機も研究されるようになりました。そのようななか生まれたのが「震電」です。
 「震電」の研究開発は1943(昭和18)年から本格化し、同年8月に海軍航空技術廠で前翼機模型の風洞実験を実施、それを基に翌1944(昭和19)年1月末には、実験用小型滑空機を用いた高度約1000mからの滑空試験にも成功しています。
 こうして実機の開発に一定の目途が立ったことで同年2月には試作機の開発が決定、主契約会社として九州飛行機に白羽の矢が立ちました。なお当初、試作機の製作は内々のものでしたが、5月に「十八試局地戦闘機」の名称で正式発注となっています。
 これを受け、九州飛行機は技術者を結集し会社一丸となって製図作業にあたった結果、1944年11月には設計を終わらせました。
 ただ、このように機体開発の方は順調に進んだものの、搭載予定であった「ハ43」エンジンの開発を担当していた三菱重工名古屋工場が、1944(昭和19)年12月から翌1945(昭和20)年1月にかけて断続的にアメリカ軍の爆撃を受けたことで、スケジュール通り進まなくなり、結果、開発は遅延しています。
 アメリカでは実機の胴体が、日本では実物大模型が展示
 旧日本海軍が開発した局地戦闘機震電」(画像:アメリカ海軍)。
 1945(昭和20)年6月に「震電」の試作1号機が完成、蓆田(むしろだ)飛行場(現福岡空港)へ機体が運ばれます。翌7月には、設計者である鶴野正敬技術大尉による滑走試験中、機首を上げ過ぎたことにより、機体後部のプロペラ端が地面に接触してしまうという事故を起こしました。なお、このときプロペラを試作2号機用の物へと換装するとともに、以後プロペラが接地しないよう左右の垂直尾翼の下側に小輪を付けるという改修が行われています。
 こうして機体修復を終えた「震電」は同年8月3日、初飛行に成功。続く6日と8日にも試験飛行を実施したものの、エンジン不調が発生したため、予備部品を三菱重工から取り寄せている最中に終戦となり、結局「震電」が空を舞ったのは前出の3回で終わりとなりました。
 なお、終戦後「震電」の試作1号機はアメリカ軍に接収されたのち、10月には調査・研究のためにアメリカ本土に船で送られています。その後、複数のパーツに分解され、アメリカ国立航空宇宙博物館へ収容。長らく眠っていましたが、現在は機首部分のみ開梱のうえ、公開展示されています
 また、福岡県筑前町にある町立大刀洗平和記念館には「震電」の実物大模型も展示されています。ほかにも同館では旧海軍の零式艦上戦闘機零戦)三二型や、旧陸軍の九七式戦闘機乙型の実機も展示しているため、それらと「震電」を見比べることで機体サイズや構造の違いなどを実感することが可能です。」
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 8月5日 MicrosoftNews 産経新聞「九州〝深〟探訪 幻の戦闘機「震電」模型展示 福岡県筑前町立大刀洗平和記念館
 © 産経新聞 筑前町立大刀洗平和記念館で展示されている震電の実物大模型
 終戦前、プロペラを機体後部に付けるという斬新な航空技術を駆使した旧日本海軍の戦闘機「震電(しんでん)」が、現在の福岡市博多区にあった蓆田(むしろだ)飛行場(現福岡空港)を飛び立った。米爆撃機B29の迎撃のため開発された最新鋭機だったが、すぐに終戦を迎え「幻の戦闘機」として歴史の片隅に追いやられた。福岡県筑前町の町立大刀洗平和記念館では「航空技術発展のシンボルに」と、この震電の実物大模型を購入して7月から展示、ユニークな機体が人気を集めている。
 九州飛行機が開発
 米軍は昭和19年6月の北九州空襲を手始めに爆撃機B29による本格的な都市爆撃を開始、戦況は一段と重苦しさを増した。B29は高度1万メートルを最速570キロで飛行、航続距離も9千キロというスーパー爆撃機だ。
 「なんとかB29を迎撃できないか」。そうした中、海軍は個性豊かな航空機の製作で知られた九州飛行機(福岡市)に、B29迎撃の切り札となる局地戦闘機の開発を指示。こうして誕生したのが震電だった。当時の戦闘機は高度8千メートル、最高速度は600キロ台がやっと。これに対して震電の目標は高度1万2千メートルまで上昇、最高速度は時速750キロという超高速戦闘機だった。
 機体後部にプロペラ
 こうした高性能を達成するため震電は、既存の戦闘機とは全く逆のスタイルになった。
 空気抵抗を減らすためプロペラは機体後部に取り付けられ、主翼は後方に移動した。「エンテ型」(エンテはドイツ語で鴨の意味)と呼ばれ、機体を小型・軽量化することが可能という。
 昭和20年8月3日、試作機の震電は蓆田飛行場から試験飛行に飛び立った。試作機は3機製造され、8月6日、8日と試験飛行が続けられ、飛行能力の高さが確認された。だが、そのまま15日の終戦を迎えてしまった。
 震電は米軍に接収され、1機は分解され、ワシントンのスミソニアン博物館に運ばれ、他の2機は破壊されたため、震電は国内では実物を見ることができない「幻の戦闘機」となってしまった。
 零戦とともに展示
 平成21年に開館した筑前町立大刀洗平和記念館は大正8年に陸軍によって建設された大刀洗飛行場の跡地に立っている。同館は飛行場の歴史や空襲、特攻などを紹介してきたが、展示のもう一つの大きなテーマは「航空技術の発展」。このため、マーシャル諸島のジャングルから回収し、修復した零式艦上戦闘機零戦)や博多湾で発見され、引き揚げられた九七式戦闘機のほか、機体の長さが約30メートルもあるB29の骨組みオブジェも常設展示してきた。
 大刀洗飛行場の周辺には、かつて陸軍機の修理や製作を担当してきた「太刀洗航空機製作所」があり、前身は九州飛行機と同じ「渡辺鉄工所」だった。こうした背景もあって同記念館では震電が離着陸する短い映像や小型模型、震電に使われたのでないかと見られる航空羅針器を展示。スミソニアン博物館に実物の里帰り展示を要請したこともあったが、断られたという。だが、今年になって東京の映像制作会社が震電の実物大模型を製作したことを知り、輸送費などを含め2200万円で購入。7月6日から展示を始めた。
 機体後部に付けられたプロペラ© 産経新聞 機体後部に付けられたプロペラ
 展示された震電の実物大模型は全長9・76メートル、両翼の幅は11・11メートル。頭部がジェット戦闘機のような形をしており、後部に直径3・4メートルもの大きなプロペラが取り付けられているのが目につく。
 ジェット化も計画
 同記念館では2200万円の模型設置費用の一部をクラウドファンディングによる寄付金を充てようと募金を始めたところ、当初の目標だった500万円を突破。8月26日の最終日までに1000万円の寄付を募ることにした。同記念館には「幻の震電に会える」と訪れる航空機ファンも増えた。
 第一次世界大戦では、偵察機の役割しかなかった航空機は、先の大戦になって戦争の行方を左右する重要な存在に発展。開戦後、米国の航空機生産技術の急成長によって日本は窮地に陥った。
 震電開発に携わった技術者によると、震電は将来、ジェットエンジンを搭載する計画だったという。予想通り、震電が飛んだ5年後の朝鮮戦争はジェット戦闘機の戦いとなった。
 戦後、徹底的に解体された日本の航空産業は近年、ようやく復活しつつある。国土を防衛する上でも、ますます重要性を増す宇宙、航空技術の革新。今後、震電開発で発揮された九州のチャレンジ精神が大きく花開くことに期待したい。(永尾和夫)
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 【永尾和夫(ながお・かずお)】 福岡県生まれ。昭和46年に九州大学法学部を卒業後、西日本新聞社に入社。鹿児島、熊本、大分県などで取材活動。整理部、特集担当部長などを歴任後、定年退職。産経新聞契約記者などを経て、現在フリーライター。福岡マスコミOBネット講師。」
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