⚜10〗─1─1940年体制。先端研教授野口悠紀雄。~No.26No.27No.28 

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 「1940年体制について」
 野口悠紀雄 先端研教授
 十月五日、本学先端科学技術研究センターで行われた学術講演会で、野口悠紀雄教授は「一九四〇年体制」という題で講演を行った。「一九四〇年体制」が、今の日本経済の閉塞の原因になっている、という非常に興味深い内容である。今回は、この講演要旨を紹介する。
 新分野で活躍できない
 日本の経済制度
 一九四〇年体制とは妙な言葉だ、と考える人もいるかもしれないが、これは、戦時体制のことである。これは、一九三〇年ころ、日本が第二次大戦に向け様々な準備をしていた時に導入された制度で、現在の日本経済の基本構造をなしているものである。
 産業構造を高 度化すべき時
 本論に入る前に、私たちの身近で起こっている変化の話を、パソコンを例に話してみよう。
 数年前まで、研究室には日本製のパソコンがほとんどであったが、最近は外国製が増えてきている。外国のパソコンのほとんどは、アメリカ製品のものであるが、実際は、アジアで作られており、それが激しい勢いで日本のマーケットに入ってきている。昨年の統計を見てみるとパソコンの輸入が、前年に比べて七割以上も伸びてきている。ここ数年、日本の経済成長はほぼゼロ成長であるから、これは驚くべきことだ。
 このように、ハイテク産業の分野において、アジアのニーズ(NIEs)諸国が伸びてきている。製造業の大量生産の分野は、もともと日本の得意分野であり、高度成長期を通じて地位を高めてきた要因であるから、これは日本に大きな影響を与えている。実はニーズだけでなく、今一番伸びているのはアセアン(ASEAN)諸国であり、新興工業国として成長してきている。
 このような変化に対し、日本は産業構造を従来の構造よりも高度なものへ変え、アジア諸国の中で、適切な分業活動を進めていく必要がある。しかし、今の日本では難しい。パソコン業界をみるとそのことがよくわかる。
 しばしば、現在のパソコンはWINTEL体制に支配されているといわれる。WINとは「ウインドウズ」で、パソコンを動かす基本的なソフト。TELとは「インテル」を表わしており、これはパソコンの心臓部・頭脳部にあたる演算装置「ペンティアム」を作っている会社である。
 現在、日本で作られているパソコンのほとんどがこの「WINTEL」に依存せざるをえない状況である。本来であれば、このような分野に日本が入っていかなければならないのに、それができないのである。このことは、将来発展する可能性のある産業にも顕著に現われてきており、たとえば、新しい情報通信、インターネットという分野でも、リードしているのはアメリカの企業なのだ。
 講義の様子
 新事業妨げる 日本の制度
 なぜ、日本は新しい分野で活躍できないのだろうか。これは個人一人一人の問題ではないと私は考える。日本人は、「創造性がない」「外国の技術の模倣だけをしている」と言われるが、けっしてそんなことはないはずである。個人のレベルで見れば、創造性は世界第一級であろう。問題は、日本では、新しいアイデア・考え方を実現していくための社会的制度がないことだ。
 パソコンを例に挙げるとよくわかる。パソコン産業で活躍しているアメリカの企業は、ほとんどがもともとはベンチャー企業、つまり、数人の技術者で始めたものである。例えば、マイクロソフト社のビル・ゲイツ氏も大学時代に友人と始めたものである。インターネットの「ネットスケープ」もスタンフォード大の先生ともう一人で、数年前につくった会社である。それから、情報の検索ソフトの「ヤフー」も、スタンフォードの大学院の学生が、趣味として始めたものである。
 このように、少数の人間の新しい考え方が、そのまま事業化するような仕組みがアメリカの場合には非常によく機能しているのだ。
 ところが、日本の場合、特に、パソコンを製造している会社はほとんど例外なく大企業である。アメリカの場合、昔からの大企業は、おそらくIBM一社である。
 なぜこのような差がでてきたのか。いくつかあると思うが、特に重要な二つの理由を挙げてみる。
 一つは、日本の企業の仕組みである。日本の大企業では、終身雇用制、年功序列が普遍的にみられる仕組みであるが、この中で新しい事業をやろうとして企業から飛出すのは、あまり得策とはいえない。企業の中にいれば地位も上がっていくわけで、途中で飛出すのは非常に危険なことである。また、労働市場が流動的ではないので、もし事業に失敗した場合、別の企業に入ることは難しい。
 もう一つは、銀行が産業の資金を融資する、間接金融という仕組みである。もともと銀行は保守的で、安全な融資を重視する。融資先の企業が成長しようがしまいが、あまり重要ではなく、リスクのある分野に対してはなかなか資金を供給できないのである。
 ところが、アメリカは、さきほど述べたベンチャー的な企業の多くは、ほとんどが直接金融である。企業が社債を発行し、直接に金融市場から資金を調達する仕組みなのである。
 人為的に導入 した戦時体制
 実は、戦前日本では企業の構造、労働者の企業間の移動という点から言うと、労働者は、一つの企業に定着しないで、企業から企業へと移り歩くことが普通だった。それから、株主の影響が非常に大きかった。
 このような体系が、戦時体制の中でかなり変わってしまった。戦争遂行を目的に、軍事産業の生産性を高めようと労働者の企業への定着を促し、職場の中での訓練を行う。もう一つは、株主の権利が制約する。これにより、企業は株式で資金を調達する仕組みから、銀行からの借入から資金を調達する仕組みになっていく。
 他方、政府が積極的に金融機関の育成をする。特に、日本興業銀行をはじめとする、長期信用金庫を積極的に助成して、そこから資金供給するようにしたのである。このように金融構造を変える必要があったのは、戦時経済の要請で、経済を軍事産業に集中させる必要があったからである。
 このように日本型の仕組みと考えられているのは、戦時経済の中で、人為的に導入されたものであり、これが現在にいたるまで、日本経済の中核をなしている。
 それを象徴的に表わしているのが、一九四二年に制定された日銀法である。
 第一条には、「日本銀行は、国家経済総力の適切なる発揮をはかるため、国家の政策に即し、通貨の調整、金融の調整、及び信用制度の保持育成を目的とする」、第二条には「国家目的の達成を使命として運営されるべし」と書いてある。経済の教科書には、中央銀行の機能は、「通貨価値の安定」となっており、日銀法はまさに40年体制そのものなのである。
 高度成長支え た戦時体制
 日本の高度成長の基本的な要因は様々に議論されているが、一般的には、占領軍が持ちこんできた経済の民主化政策がきっかけといわれる。
 しかし、私はそれよりむしろ高度成長をなしたのは「戦時体制」だと考える。企業に対して強い帰属意識を労働者にもたらす。企業は、株主の利潤の追求ではなくて、従業員の共同体であり、企業が成長することは、株主のためではなく、自分のためになる。働けば働くほど、自分に戻ってくる、ということである。労働組合も、企業別になっており、新しい技術の導入に対して、労働組合が強く抵抗しない。日本が戦後の技術革新のたびに、上手に乗り越えてきたのは、このような企業構造が大きな要因になっている。
 しかし、これは考えてみれば当然で、戦時体制は戦争の遂行という目的のために全体が協力してきた。高度成長期は、先進国という目的のために全員が協力していったのである。
 体制見直し逃 した七〇年代
 さて、高度経済成長は一九七〇年代の初めでほぼ終わっていく。本来であれば、その頃経済の仕組みを見直すべきだ、という議論が出たはずだった。実際に環境問題に対する関心の高まりなど、これまでの高度成長を支えてきた経済体制に批判が強くなってきたのである。何も事件が起きなかったら、おそらく経済体制が変わったであろう。
 ところが、オイルショックという大きな事件が起きたのである。これにより日本経済は大混乱に陥り、経済的に生き残るのが、最優先になっていった。
 ここで四〇年体制がうまく機能していくことになる。欧米諸国では、オイルショックによって、賃金が上がり、インフレ率が加速したが、日本での賃上げはゆるやかであった。それは、石油価格の上昇が賃上げに結びつかなかったからである。日本の企業は、労働者の利益共同体で、企業が潰れれば、自分も潰れてしまう。賃上げを要求することは、舟に水が入ってきて、自分もおぼれるようなことになることを知っていたからである。
 このように、本来、七〇年代に変わるべき体制が変わらず、むしろ日本人は四〇年体制に自信をもってしまったのである。
 「競争」の評 価を変える時
 話の最初に戻るが、現在、日本経済は大きな曲り角にきている。これに対する解答は経済の体制を変えていくしかない。しかし、これは難しい問題だ。単に制度の問題だけでなく、人間の考え方の問題にも影響しているからである。
 典型的に現われているのは、「競争」という言葉に対する評価である。日本人の多くの人は、「競争」というのをあまりよく思っておらず、それより「協調」が望ましいと考えている。どちらが良いかは一概には言えないが、本来「競争」が必要とされる分野にも、協調が言われていることが問題である。
 今は、高度成長の時のように目的がはっきりしていない。一つの目標にむかって全員でやっていく、という感覚とは大きく違う。試行錯誤の過程が必要な時である。「競争」という言葉に対する考え方、これを変えていかなくては、今の閉塞的な状況は抜け出せないであろう。    (文責編集部)」
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 ウィキペディア
 野口 悠紀雄(1940年12月20日 - )は、日本の元大蔵官僚、経済学者。専攻は、日本経済論、ファイナンス理論。一橋大学教授、東京大学教授、青山学院大学大学院教授、スタンフォード大学客員教授早稲田大学教授を経て、早稲田大学ビジネス・ファイナンス研究センター顧問、一橋大学名誉教授。
 行政法学者の野口貴公美一橋大学教授は実子。
 主張
 1940年体制
 1990年代以降に続いた長期不況に関して、その原因が戦時中に構築されたシステム(「1940年体制」)の非効率さにあると主張した。1940年体制とは、日本的な企業、経営、労使関係、官民関係、金融制度など日本経済の特徴とされる様々な要素が、1940年頃に戦時体制の一環として導入されたとする概念である。
 野口は、
 高度経済成長は、戦時体制によって実現された。戦時体制は、敗戦後も生き残り、高度経済成長を実現する上で、本質的な役割を果たした。
 日本経済の特徴とされる要素は、戦時経済の要請によって導入されたものであり、日本の歴史の中では比較的新しいものである。
 としており、「戦時体制からの脱却(構造改革)」を主張している。
 著書の『1940年体制』は、いわゆる「構造改革論」のバイブルと目されている。野口らの提議した構造改革論に対しては、岩田規久男や野口旭らから痛烈な批判が寄せられたが、2004年以降の景気回復局面においては、議論は一時期雲散霧消してしまった感が否めない。なお、「1940年体制」に対して、堺屋太一は「昭和十六年体制」と呼称した理論を展開している。
 「構造改革#1940年体制」も参照
 TPP
 TPPについて「TPPがGDPを増加させる効果は、ほとんどない」、「日本の輸出に与える影響はきわめて小さい」、「関税以外の点での日本開国も、TPPによらなくともできる。」といった主張をした。
 デフレーション
 通貨が減価し、東アジア諸国の価格競争力が高まりつつあった2009年当時のデフレーションにおいて、次の様に主張した。「東アジア諸国と日本企業が競争しようとしても、勝ち目はない。対応しようとすれば、生産拠点の海外転を促進するしかない。日本国内で見た輸入品の価格は安くなる。これを利用した経済活動に転換することが重要である。」、「『よいデフレ』とか『悪いデフレ』と言われることがあるがそうした区別は存在しない。立場によって評価が異なるだけである」 「必要なのは、『デフレからの脱却』ではなく、『所得低下からの脱却』である。、工業製品の価格低下は、実質所得をさらに引き上げる望ましい現象として、歓迎されることになるだろう」と述べている。
 食料自給率
 比較優位の観点から「日本の食糧自給率が低くても何の問題もなく、むしろ豊かな食生活をおくっている証拠である」という趣旨のことを主張している。
 ウィキペディアへの批判
 野口はウィキペディアについて“ブリタニカにも匹敵する”と激賞しつつ、自身の項目に事実に反したことが書いてあったことに不快感を示し“誤りに対する責任の所在も明確ではない。ウィキペディア日本語版の管理者は誰であるのか、明確にされていないからである。さまざまな問題が指摘される「2ちゃんねる」でさえ、管理責任者が誰であるかは明確にされている。それと比べると、ウィキペディア日本語版の信頼性は「2ちゃんねる」以下と言わざるをえないのである”と批判している。
 仮想通貨
 野口はビットコインについて「通貨史上の大きな革命であるばかりでなく、まったく新しい形の社会を形成する可能性を示した」と評価している。また、同氏は著書『仮想通貨革命』において「ビットコインは始まりにすぎない」と主張し、Googleが出資を行い各国の銀行が実証実験に参加しているリップルビットコインの仕組みを貨幣以外の対象に拡張しようとする試みのイーサリアムは大きな可能性を秘めると述べている。更に、現在の通貨と共存しうるリップルビットコインより使いやすく、「リップルが広く使われるようになれば、ビットコインは不要になるかもしれない」とも述べている。
 消費税
 2015年10月に予定されていた消費増税について「景気に関係なく上げるべきである。消費税が経済に悪影響を与えるのは当たり前であるが、増税しないと財政に対する信頼が失われ、金利が高騰する。その方が日本経済にとってはるかにダメージが大きい」と指摘した。しかし、2014年12月に消費税再増税延期を決定した後も、長期金利は低水準の状態が続き、2016年2月には初めてマイナスを記録した。
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 構造改革とは、現状の社会が抱えている問題は表面的な制度や事象のみならず社会そのものの構造にも起因するものであり、その社会構造自体を変えねばならないとする政策論的立場。「改良主義」を批判するマルクス主義の側からは、「構造改良」と呼ばれることもある。
 1940年体制
 「野口悠紀雄#1940年体制」も参照
 「日本的システム=構造問題」という議論は、日本国内に広範な支持基盤を持っている。その最大の想源は、経済学者の野口悠紀雄の1995年の著書『1940年体制-「さらば戦時経済」』であり、この書は1990年代の日本において、構造改革主義のバイブルの役割を果たした。
 野口悠紀雄は、戦後の日本経済を高度成長へと導く基盤となった日本的雇用・間接金融システムが成立したのは、日本経済の戦時経済への移行が完成した1940年ごろのことであり、戦後日本の経済システムは1940年代の戦時統制経済を引き継いで形成されたとしている。野口悠紀雄は、「日本的システム」は日本経済が欧米への『キャッチアップ』の段階にあったときには機能したが、その段階を終えた日本にとっては成長の障害となっており、そのためには「構造改革」が必要であると主張している。
 経済学者の原田泰は「日本経済の構造問題とされるものは、1980年代からすでに存在していた。1990年代の経済停滞は構造が原因だとする議論は成り立たない」と指摘している。
 経済学者の伊藤修は「戦時統制が戦後に影響を与えたことは否定できないが、戦後のシステムが固まってしまったとする議論は言い過ぎである。戦後の各時点において、その仕組みが選択され続け機能していたと考えるべきである」と指摘している。
 経済学者の野口旭、田中秀臣は「『体制』『システム』という言葉によって、思考の単純化ステレオタイプ化には大きな問題がある」と指摘している。野口旭、田中秀臣は「『金融護送船団方式』は結果として、膨大な社会的非効率性を生んだ。重要なのは、こうした政府介入による社会的非効率性は、明確な経済学的根拠に基づくものであり、『体制』『システム』という言葉によって曖昧化されるべきではないという点である。金融護送船団方式が非効率だったのはバブル崩壊よりも昔からであり、突然そうなったわけではない。それは、日本のマクロ的状況とは無関係に生じていたのである」と指摘している。
 野口旭は「科学は反証可能であるが、『1940年体制』というイデオロギーは反証不能である」と指摘している。
 田中秀臣は「1940年体制テーゼでは、資源の誤った配分というミクロ的な非効率性と、資源の遊休(失業)によるマクロ的非効率性を区別する視点が欠如している」と指摘している。
 2007年10月19日、渡辺喜美行政改革担当大臣は経済同友会の会員懇談会で「現状を続けることが日本の最大の不幸である。民主導による競争原理を導入することが、1940年体制のDNAを変えることになる」と指摘し、1940年体制の打破の必要性を強調した。渡辺は、競争をやってはいけないというDNAは、企業を国家目的に奉仕させる目的で1940年に確立した国家総動員体制が生み出した、という持論を持っている。
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1940年体制(増補版)