⚜50】51】52】─1─江戸時代、同時期に300余の財政改革策・財政再建策が並行して行われていた。〜No.99No.100No.101No.102No.103No.104 ⑫ 

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   ・   ・  {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 世間は金である。
 地獄の沙汰も金次第である。
 金は、社会の潤滑油である。
 金がなければ何も始まらない。
 金を不浄として最も嫌ったのが、中華の正統派儒教であった。
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 財政改革・財政再建に成功して豊かになった雄藩は、例外なく勤皇派・尊皇派の中心となって天皇家・皇室を守り盛り立てた。
 雄藩は、倒幕派となって徳川幕府を倒して近代的天皇制度国家日本を建国し、廃藩置県封地返還をして世襲的藩を消滅させ、特権を持った武士の時代を終わらせた。
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 2019年9月19日号 週刊文春出口治明のゼロから学ぶ『日本史』講義
 〔近世篇〕
 「雄藩」の改革は商工業重視
 田沼意次政権の頃に、拝借金というお金を、幕府が出ししぶるようになったという話をしました。災害や引っ越しで緊急のお金が必要となった藩が、幕府から無利子で借りられたお金で、いわば現在の地方交付税のようなものでした。
 これは幕府の財政悪化のためで、『ない袖は振れない』わけですが、見方を変えれば、『幕府は地方の苦境についてはもう面倒見ないで』。つまり幕府は公のポジションを放棄した宣言ともいえるわけです。
 米沢藩上杉鷹山の改革に代表されるように、各地の大名は『幕府にはもう頼れへんで』と独自の藩政改革に取り組みはじめました。
 幕府による『寛政の改革』や『天保の改革』は失敗に終わりましたが、同時期に行われた諸藩の改革は成功しています。両者を分けたのは、農業か商業かの選択でした。
 財政再建・専売・軍備
 薩摩(鹿児島)藩は、73万石という大大名でしたが、1820年代には500万両もの負債を抱えていました。
 その財政改革を主導したのは、下級武士出身の調所広郷でした。
 調所は、江戸や大坂の商人から借金証文を取り上げ、250年賦の無利子償還への書き換えを一方的に通告します。実質的には踏み倒したわけです。裁判沙汰になりますたが、幕府に手を回して乗り切ります。
 また、奄美大島などの砂糖の専売制によって10年間に200万両以上の収益を上げます。
 それから琉球を通じて清(中国)との密貿易を大々的に行いました。
 薩摩藩は幕末に製鉄、造船、紡績などの各種の工場を藩内につくりますが、こういう殖産興業策が実行できたのも、調所広郷が財政を再建していたからです。
 長州(萩)藩は表向き37万石でしたが、新田開発などを進めた結果、19世紀前半には、実質100万石以上の大藩になっていました。
 にもかかわず1838年には9万貫の負債に苦しみ、そこで藩主毛利敬親の信任を受けて、家老、村田清風が財政改革に乗り出します。
 長州藩では、各藩で行われていた専売制度強化とは逆の方向をとり、蠟(ろう)の専売を廃止して『自由に商売してええで。その代わりオレがピンハネするで』と運上銀を取りました。
 また、下関という海上輸送のキーになっている港で越荷方(こしにかた)という金融倉庫業を興します。そこは必ず船が通りますから、倉庫があれば貨物を預けるし、お金も借りますよね。この商売は上々で、4年で負債の3分の1を返済できたそうです。
 佐賀藩(36万石)も、1820年代には銀2万貫以上の負債がありました。
 そこで藩主鍋島直正と中堅家臣団が改革に乗り出しました。
 まずリストラを刊行して、鍋島直正と側近たちに権限を集中しました。藩士たちの役職も減らし、その分人件費を削減します。一方で商人たちへの借金の返済は、長期年賦に切り替え、『献金』を強要し、薩摩藩同様、実質的に踏み倒しました。
 さらに白蠟、陶器、石炭を佐賀藩の専売としました。
 佐賀藩の改革のもう一つの特徴は、軍備の強化です。
 長崎に近い佐賀藩は、長崎警備の役目をになっていました。しかし1808年に連合王国(イギリス)船フェートン号が長崎に入り、人質をとって薪(たきぎ)や食料を要求する事件が起きると、佐賀藩はまともに対応できない失態を演じ、幕府から譴責(けんせき)されてしまいます。
 これをきっかけに、佐賀藩は西洋の軍備を研究するようになります。
 長崎経由でネーデルランド(オランダ)から西洋の蒸気船や武器弾薬を輸入し、藩主一族の中には、長崎の西洋式砲術の研究者、高島秋帆に弟子入りする者も現れました。
 佐賀藩では、1850年に大規模な反射炉を建てて日本で最初の鉄製大砲を製造します。それまで日本には、鉄製より砲身の弱い青銅製の大砲しかありませんでした。
 1853年のペリー来航で、幕府は佐賀藩に大砲鋳造を依頼します。このとき日本で鉄製大砲を作れるのは佐賀藩だけだったのです。
 こうした経緯もあり、幕末には、佐賀藩は日本でも指折りの軍事大藩となっていました。
 脱獄犯による改革
 四国の宇和島藩(10万石)では大坂商人からの借財が20万両にのぼり、ついに藩主伊達宗紀(仙台の伊達藩の親戚です)は1828年、『20年以上前に借りた分は時効やで、残りは無利息200年賦や』という荒技でこれを解消します。
 藩士を農学者の佐藤信淵に弟子入りさせ、朝鮮人参の栽培をはじめ、紙、木綿、木蠟を専売制にします。この殖産政策が成功して、44年に宗紀が隠退したときには6万両の蓄財ができていました。
 次の藩主伊達宗城蘭学を取り入れ、軍事の近代化を図ります。
 弓組を鉄砲組に改編し、47年に宇和島藩初の洋式軍事訓練を行い、新式火縄銃の製造をはじめます。
 10年後の59年には純国産としては日本初の蒸気船の試運転に成功しています。
 宇和島藩には1852年に種痘所が設けられたほどで、西洋医学を学んだ蘭医が数十人もいました。その一人が連れてきたのが、蛮社の獄で捕らえられ、脱獄した高野長英です。
 高野長英は藩主宗城の知遇を得ていて、宗城が密かに宇和島へ招いたものと思われます。
 長英は1年ほぢ宇和島に滞在して蘭書の翻訳と蘭学教育に従事したほか、砲台の設計図も書いています。
 周防({すほう}山口東部)出身の村田蔵六大村益次郎)も蘭学者として宇和島藩に雇われ、2年半の滞在中に軍艦雛形の試運転に成功しています。
 存在感をます改革成功藩
 この時期には、御三家の一つ、水戸藩でも改革の動きがありました。
 水戸藩は、光圀が編纂をはじめた『大日本史』以来、朱子学神道や日本の古典研究から生まれた国学などを統合した『水戸学』が盛んな地でした。これは多岐に渡る学問の総称でしたが、18世紀の後半には、学者たちは藩政改革や日本の対外関係に関心を大きく寄せています。
 1824年に、水戸藩内で連合王国捕鯨船の船員が上陸する事件がおきると、海岸防衛への関心が高まりました。
 そんななかで1829年、徳川斉昭が藩主に就任し、藩政改革に取り組みはじめます。
 まず全領地を再検地して、収入源の整備を行いました。領内に学校を建てて、教育にも力を入れます。
 斉昭は軍備にも力を入れていました。大砲の製造を命じ、高島秋帆の砲術を取り入れ、独自の戦術を採用しました。
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 さて、いくつか代表的な雄藩改革を見てきました。
 諸藩の改革に目立つ成功のポイントは、まず負債をリセットすることとともに、商工業を重視してお金を稼ぐことに積極的だったことです。
 幕府の『寛政の改革』や『天保の改革』は、ともに農業重視で、商業の発展をできるだけ抑える方向に向かっていました。ですが財政の再建は、農業振興だけではうまくいきません。
 商工業を重視し改革に成功した藩は、ほかの藩から抜きん出た存在の『雄藩』となり、幕府も彼らを無視できないようになっていいきます。」
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 昔の日本・日本人が賢く優れているからといって、現代の日本・日本人も賢く優れているとは限らない。
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 日本人と漢族系中国人と朝鮮人とは、別系統のアジア人である。
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 世襲制封建領主であった大名・藩主・武士は、現代の高学歴出身知的エリートの政治家・官僚よりはるかに賢く優れていた。
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 現代のリベラル派・革新派そして一部の保守派は、江戸時代では役に立たない。
 人権派非武装中立派、非暴力無抵抗派や反戦平和市民、人口数回復不要論や経済成長無用論なども、有害無益なだけである。
 彼らは現実が理解できない為に、日本を再生も復興もできず、気力を奪い衰退させるだけである。
 彼らに教育を受ける子供は不幸としか言いようがない。
 当然、彼らが書いた歴史教科書は捏造・歪曲・改竄が多く、その歴史教科書で教えている歴史教育は無意味である。
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 江戸時代で成功した諸藩の財政改革策・財政再建策は、人口増加と経済発展であった。
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 諸藩の財政改革・財政再建を行ったのは、才能ある下級武士出身や庶民から金で武士になった金上侍であった。
 日本には、中国や朝鮮の様な科挙に合格した超エリート官僚・士大夫はいなかった。
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 江戸時代、強制的に租税を徴収されていたのは百姓や部落民で、町人や賤民は基本的に無税であった。
 幕府や諸藩は、納税者である百姓や部落民を助けたが、無納税者の町人や賤民は助けなかった。
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 幕府の幕閣である老中や若年寄は、家柄は良いが中小藩主が単年任期で就任していた。
 領地経営に失敗した無能藩主は、野心や向上心があり、大金を賄賂として使っても老中や若年寄にはなれなかった。
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 江戸時代は十年一日の如く行われていたように言われているが、それは嘘である。
 江戸時代は現代日本とは違って、前例主義、事勿れ主義、問題先送り、責任逃れはなかった。
 忖度発言、ウソの報告、報告書の改竄・捏造・歪曲は許されなかった。
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 江戸時代の日本は、生きるも死ぬも自己責任のブラック社会であっり、手厚い公助や共助などの相互扶助は望めず、立ち直るも立ち直れないも自助努力や自力救済が大原則であった。
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 江戸時代、「誰かが何とかしてくれる」はあり得なかった。
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 御上はもちろん誰も助けてくれない社会が、江戸時代であった。
 極少数の篤信家が、損を承知で私財を投げ出して救済した。
 誰も助けてくれない社会である為に、人々は助け合った。
 江戸時代の日本は現代の日本とは違って、「甘え」は存在しなかった。
 日本の神や仏は、霊験を持って奇跡を起こして人々を助けはしなかった。
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