🐡6〗─5─天保の大飢饉。飢餓被災者は蝦夷地へと移住した。〜No.26No.27No.29 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 鎖国して国外に避難できなかった当時の唯一の移住先は、蝦夷地(現・北海道)だけであった。
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 ロシアは、日本との交易とアジアへの領土拡大の為に侵出してきていた。
 幕府は、蝦夷地と北方領土を軍事力で守るべく東北諸藩に派兵を命じていた。
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 天保の大飢饉は江戸時代後期の1833年天保4年)に始まり、1835年から1837年にかけて最大規模化した飢饉である。1839年天保10年)まで続いた。1836年(天保7年)までと定義する説もある。
 寛永享保天明に続く江戸四大飢饉の一つで、寛永の飢饉を除いた江戸三大飢饉のひとつ。単に天保の飢饉とも言う。
 概要
 主な原因は天保4年(1833年)の大雨による洪水や冷害による大凶作であった。東北地方(陸奥国出羽国)の被害が最も大きく、特に仙台藩の場合は盛んに新田開発を行い、実高で100万石を超える石高を有していたが、米作に偏った政策を行っていたため被害が甚大であった。50年前の天明の飢饉と比較して、凶作対策が行われたため死者の数は少なかった。商品作物の商業化で農村に貧富の差が拡大したため、貧困の百姓が多く餓死した。各地で餓死者を多数出し、徳川幕府は救済のため、江戸では市中21ヶ所に御救小屋(5800人収容)を設置したが、救済者は70万人を超えた。米価急騰も引き起こしたため、各地で百姓一揆や打ちこわしが頻発し、天保7年6月に幕府直轄領である甲斐国一国規模の百姓一揆となった天保騒動や、天保8年2月に大坂で起こった大塩平八郎の乱の原因にもなった。特に大阪では毎日約150人-200人を超える餓死者を出していたという。
 一方、犠牲者を一人も出さなかったと伝えられる藩もある。たとえば田原藩では、家老の渡辺崋山が師であった佐藤信淵の思想をもとにした「凶荒心得書」を著して藩主に提出し、役人の綱紀粛正と倹約、民衆の救済を最優先すべきことと説き、給与改革や義倉の整備を実行して成果をあげた。また米沢藩でも天明の大飢饉の教訓を生かして義倉の整備や「かてもの」という救荒食の手引書を作成して配布するなどの事前対策が取られていた。
 大飢饉の名残
 主に東北から北陸や山陰の日本海側や、近畿から四国などまで広い地域で、「てんぽな」または「てんぽ」という形容動詞・形容詞が用いられる。大変な、とんでもない、とてつもない、途方もないなどの広い意味を表す。天保の飢饉に由来するともいわれ、現代まで言葉に残る大飢饉の名残と言える。まれにさらに強調した意味で「天明天保な」とも使われる。
 鳥取藩では「申年がしん」としてこの飢饉の悲惨さが伝説となって近年まで語り継がれていた。また飢饉の犠牲者を慰霊するための叢塚(くさむらづか)が東北地方を中心に現在も残っている。
 人口の変化
 当時の日本の推計人口は1833年からの5年間で125万2000人減少しており(後述の参考資料参照)、人口減少幅の規模としては天明の大飢饉に匹敵する。
 当時の日本の推計人口
(「江戸後期から明治前期までの年齢別人口および出生率・死亡率の推計」高橋 眞一)
 1833年天保4)  3,198万
 1838年天保9)  3,073万
 1843年(天保14) 3,177万 
 箱館方面への人口移動 
 餓死を免れようと密かに蝦夷地へ渡る人がでて、箱館方面の人口が増えた。渡来した者は、一時これを保護しておいて、1人につき米1升、銭200文を与えて帰らせるという対策などもとられたが、密かに住み着くものもいたためにこのようになった。
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 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
 1833~1837年(天保4~8)に起こった大飢饉。享保(きょうほう)、天明(てんめい)の飢饉と並ぶ江戸時代三大飢饉の一つ。1833年春から夏にかけ、西国を除く各地が冷害にみまわれた。このため東北・北関東地方で極端な不作となり大飢饉となった。米価は高騰し、村の貧農や、都市貧民の生活を圧迫した。幕府や諸藩は御救い小屋を設けたりして救済に努めたが、それでも膨大な餓死者や病人を出した。また商人らの米価つり上げに対して、値下げを求める一揆(いっき)や打毀(うちこわし)が各地で続発した。そのため、諸藩では米穀の領外搬出を禁止したりして飯米確保に努め、秋田・南部藩などは、加賀・越後(えちご)などから米を買い入れて一揆の再発防止に努めた。
 1834年と1835年の夏は、比較的天候に恵まれたが、餓死者と病人による労働力減少などで、生産が回復しなかったところに、1836年ふたたび冷害にみまわれ大凶作となり、米価が暴騰した。しかも、都市で食糧品以外の購買力が減退したので、特産物生産地などでは、米価暴騰と生産減という二重の不況となり、人々を苦境に陥れた。このため、各地の都市と農村で打毀が続発した。とくに甲斐(かい)(甲州一揆)や三河(加茂(かも)一揆)では大騒動に発展し、「世直し」を求めるに至ったので、武士のなかから幕藩の政策を批判する者が出た。とりわけ1837年の大塩平八郎の乱は、同年のモリソン号事件とあわせて幕藩権力を動揺させ、天保(てんぽう)の改革の契機となった。[青木美智男]
 [参照項目] | 秋田藩北浦一揆 | 大塩平八郎の乱 | 加茂一揆 | 飢饉 | 甲州一揆 | 南部藩一揆
 天保の飢饉
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例 
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 農民の生活をおびやかした飢饉
 天保年間の大飢饉
 天保3年より同10年にかけても連続的な大凶作であった。特に4年(1833)の俗称「巳の年のけがじ」の惨状は、最も甚だしく、当時の状況は、今なお語り伝えられ、又記録にも数多く残されている。まず、天保4年のこの年の天候について古記録によれば「この年、春より水不足にて、田畑の耕起もできず。各地に雨乞いが統くも、田植の時には水不足となり、田植ができぬ地が領内3割以上にも及ぶ。しかるに明日より土用という時に、天候一変し、さながら寒中の如き寒さとなり、除草の際には綿入れを着てはたらく。土用より30日間、連続の大降雨となり、鳥海山は、雪におおわれて見えないこと30日にも及ぶ。
 7月18日にいたり、ようやく、ねずみの尾の如き出穂あり。更に9月26日には、三尺余りの降雪あり。猿倉辺にいたりては、六尺以上も積る。斯く大雪にありても稲穂のみのりがないために直立してたおれず。」とあり、又、別の記録には「8月2日、あられ降る。下直根は軒場四寸積る。岡田代の加兵衛沢には、大笠程積る。お上においては、役人をもって検査の結果一粒三匁。」と記されてある。
 農民は、稲刈りの時になってもみのりはなく、直立した稲を雪の中からかきわけて刈り取ったが、食糧とすることもできず、その後天侯の回復をまって、皆きそって野山に出て、木の実、草の根を掘り求め、食物をあさりとった。
 時の藩主は、11代親愛であった。長年の江戸在勤の任もとけて帰国し、藩主みずから藩の政治をっかさどった時であった。藩においては、全力をあげてこの難民救済にあたった。まず小役米、年貢、畑年貢を半ば通り御免、利米を一割御免、又は諸年貢にも御免等の恩恵をあたえ、又、貧困の者に対しては、利息なしに米の貸しつけを行ったり、米の値段を十文安にして貧民に食わせるなど、特に貧困の者に対しては米味噌、うどん、みがきにしんなどの食糧をほどこした。
 酒田の本間家より金子を借用して米殻買い入れの資とし、特に土田近信を越後、酒田の間につかわして米の買い求めのためにほん走させた。豊前(大分県)中津藩より米千俵、伊賀(三重県)の藤堂家より500俵をかりうけて領民に施した。又、たびたび諸事倹約のおふれを出し、又政令をもって向かう3年間は質流しをしないこと、室を封じて酒造を禁ずるなどのことを実施した。しかし、農民の生活はますます窮追にせまられ、ついには家、屋敷、田畑を捨てて、知らぬ他国へ流浪する者が続出した。しかもその途中飢餓にたおれる者の数多く、領内だけでも日に7、8人を数えたといわれている。
 山寺、水上の両所に非人小屋を設けて、自領他領をとわず難民を収容し、食をあたえ医療を施して救済にあたった。後に帰村する者には、非人1人について、そうめん2把、みがきにしん10本と塩から一升づつをめぐみあたえた。その数は凡そ140人ぐらいと記されている。かかる藩の懸命の努力にもかかわらず、その被害は実に多く「笹子、宿、法内、蔵村合わせてつぶれ家51軒、死者208人。」の記録もある。如何に大きなぎせいがあったか推察されよう。伝えに残る「かぎの縄」まで食して懸命に生き長らえたのもこの時のことであった。もとここに部落があったと話だけが残されている箕輪、金ケ沢、大倉等の廃村のあとは、当時の人達の死に絶え又は離村したあわれなあとである。
 天保5年11月17日、領内の各寺院において無縁の餓死者の供養を行なったが、この時供養した無縁仏は、竜源寺151人、高建寺40人、祥雲寺42人、泉秀寺(老方)175人、蔵立寺(蔵)198人、慈音寺(笹子)338人、正重寺(直根)128人合わせて1,075人となっている。
 最近、当時の人達が書き残こした起請文が鳥海村赤沼集落より発見された。これは飢饉も峠を越したかと思われた天保5年8月5日、生き残った村人12名の者が、村の秩序を保ち、たがいの生活を護るために血判して神前に誓い合った文書である。これによれば、稲盗人、土蔵破り、畑盗人、野菜盗人等飢饉の時にもっとも罪の重いものを定めて、もしこの犯行をおかした者に対しては、それぞれの科金とその処理の方法を定め、その「右箇条郷中一統烈座之上誓相立決議致侯上は少しも違肖有是間敷侯若盗賊いたし者は当所鎮守天照皇太神宮鳥海山大権現罰明罰可蒙侯者也仍御神文血判如件」と書き、最後に村人の名を書き連ね、その下に指を切っての血判がなされている。赤黒く残る血こんのあとの未だに歴然たるものがあり、真に悲壮きわまるものである。当時の人達が未曾有の難をいかにして生きぬき、村の秩序をたもとうとしたかを知る貴重なる史料であろう。
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