🍙13〗─3─1935年 農学者・稲塚権次郎は「小麦農林10号」(ノーリン・テン)を開発した。〜No.53No.54No.55 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・  {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博} ・   
 男系天皇の一子相伝による皇室祭祀・宮中祭祀は、皇祖皇宗に対する五穀豊穣を祈願する農業祭祀である。
 その象徴的儀式が、即位における大嘗祭であり、毎年の新嘗祭である。
 農業祭祀ができる天皇は、特殊な血統・血筋を正統とする特別な家系・皇統だけである。
 女系天皇や非皇室の一般人天皇では、伝統的農業祭祀はできない。
 つまり、天皇とは誰もが即位できる地位ではない。
 故に、藤原氏、源氏、足利氏、織田信長豊臣秀吉徳川家康日本民族日本人であれば誰も天皇に即位したいとは思わなかったし、即位できないと自覚していた。
 天皇に即位したいと望んだ人間は、中国及び朝鮮の渡来人、キリスト教徒、マルクス主義者・共産主義者など非日本民族日本人である。
   ・   ・   ・   
 伊沢多喜男は蓬莱米を開発。
   ・   ・   ・   
 戦前日本の農業技術・種子開発や科学技術が、稲・コメと麦の品種改良を行い世界的人類的「食糧革命」の端緒を開いた。
 1960年代に起きた水稲・小麦の高収穫量品種によるの「緑の革命」は、戦前の日本があってこその快挙である。
 同様に、現代の種子産業の原点の一つは戦前の日本である。
   ・   ・   ・   
 種子学において、戦前の日本は欧米を抜いて世界のトップランナーであった。
 現代日本で、「戦前までの日本は科学技術を軽視していた」と主張する日本人、特に高学歴出身知的エリートは信用しない事である。
 何故か、それは日本民族日本人が飢えを実感として持ち、「ひもじさ」を恐怖していたからである。
 世界の常識では、食べ物がなくなって餓えたら、プライドを捨てて食べ物を持つ者に恵んで為に奴隷になるか、名誉を守る為に食べ物を持つ者を襲い殺し食べ物を奪った。
   ・   ・   ・   
 戦前の日本人と戦後の日本人、特に1980年代以降の日本人は別人と言ってもいいほどに違った日本人である。
 戦前の人道貢献などの功績は、戦前の日本人の功績であって、戦後の日本人とは無関係である。
   ・   ・   ・   
 映画『NORIN TEN~稲塚権次郎物語
 劇場公開日 2015年9月19日
 解説
 世界の小麦の70%以上の基となった「農林10号(ノーリン・テン)」の育種者で、第2次世界大戦後の世界的な食糧危機を救い、「農」の神様と呼ばれた稲塚権次郎の半生を仲代達矢の主演で描く。農学校卒業後、農家の跡取りとして農作業に勤しむ権次郎だったが、彼の向学心がやむことはなかった。親戚の応援を受け、東京で育種家の道を歩んだ権次郎は、その生真面目な性格から、周囲からは変人扱いされながらも研究に没頭した。のちに妻となるイトとの出会いや、世界を救うこととなる「小麦農林10号」育種の成功など、稲塚権次郎の生涯と彼が生きた時代が描かれる。監督は「仲代達矢『役者』を生きる」などのドキュメンタリー映画を数多く手がけ、稲塚氏の遠戚でもある稲塚秀孝。
 2015年製作/110分/G/日本
 配給:アークエンタテインメント」
   ・   ・   ・   
 公益社団法人農林水産・食品産業技術振興協会
 〒107-0052 東京都港区赤坂1丁目9-13 三会堂ビル7階
 世界を変えたノーリン・テン
 -稲塚権次郎、小麦と故郷に捧げた生涯-
 ~現在50カ国で500品種を栽培~
 稲塚 権次郎
 麦秋の季節である。といっても、20万ヘクタールほどしかない最近の我が国の麦作では、この季語もあまり実感を伴わない。
 だが、目を世界に転ずれば、小麦は依然として超大物作物である。なにしろ80ヶ国で栽培され、2.3億ヘクタールの栽培面積を誇る。ここ20年間に、収量もヘクタール当り1.5トンから2.6トンへと躍進した。 世にいう緑の革命の成果である。
 ところでこの緑の革命の発端が、日本の育種家と彼が創った小麦にあったことをご存じだろうか。「世界の農を拓いた人」の名は稲塚権次郎、 品種は小麦農林10号といった。
 農林10号は昭和10年、当時岩手県農試にあった国の指定試験地で育成された。「まるで当時の日本の農民のような小麦だったな。背が低くて、頑丈で、骨太っていうのかな。 とにかく、いくら穂をつけても倒れないんだ」稲塚自身が農林10号を、こう評している(NHK「日本の条件7」)。だが、この国の多雨条件下ではやや病害に弱いことが災いし、 あまり普及しなかった。
 「日本の農民のような品種」の真価は、皮肉なことに海外で発揮された。戦後、アメリカに渡ったノーリン・テンは多肥条件でも倒伏せず、多収品種として注目された。 メキシコにある「国際とうもろこし・小麦改良センター」ボーローグ博士らによって、この短稈品種の血を導入した品種がさかんに育成され、世界の各地に送り込まれていった。
 とくに、インド・パキスタンなどでは小麦生産量が4倍にもなり、飢餓克服に大きな力となった。アメリカ・ECなど主要小麦生産国の生産性の躍進にも寄与している。
 現在、農林10号の血を引く品種は世界中で500以上に及び、50ヶ国で栽培されている。これらの品種が人類の食糧確保にいかに貢献したかは、 ボーローグ博士が昭和45年のノーベル平和賞を受賞したことでもわかる。翌年、稲塚も勲三等瑞宝章を受賞した。
 昭和32年、稲塚は官職を退き、故郷の富山県城端(じょうはな)町に帰る。それからの活躍がまためざましい。「地域のお役に立ちたい」と、 構造改善事業に地区委員長として取り組む。協業化の指導など地域の農業振興にも貢献した。
 「リュックのゴンジロさん」と噂されるほど、いつもリュックを背に、バイクで走り回っていたという。故郷を愛した稲塚の尽力に、城端町も地元の農家も、 誠意をもって応えている。57年には名誉町民に推挙し、また胸像を建てて、長年にわたる彼の労に報いた。
 昭和63年、稲塚は享年91才で亡くなった。平成2年、ボーローグ博士は城端町の稲塚の生家を訪れ、稲塚を偲ぶ記念講演をした。その博士の言葉を刻んだ新しい顕彰碑が生家の跡に建っている。
 20万ヘクタールにまで減った麦作を稲塚はどんな想いでみているだろうか。
    (西尾 敏彦)
    「農業共済新聞」 平成7年6月28日より転載」
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア
 稲塚 権次郎(いなづか ごんじろう、1897年(明治30年) - 1988年(昭和63年))は、日本の農学者。
 緑の革命以降、世界に流通することになった小麦品種「ゲインズ」の親品種である「小麦農林10号」(ノーリン・テン)の育成者として知られる。
 経歴
 1897年(明治30年)、現在の富山県南砺市で誕生
 高等小学校卒業後、富山県立農学校に入学
 1914年(大正3年)3月、農学校を首席で卒業し、東京帝国大学農科大学入学
 1918年(大正7年)、大学を卒業、農商務省の農事試験場に就職
 1919年(大正8年)、秋田の陸羽支場に赴任。 のちに「陸羽132号」完成
 「水稲農林1号」(コシヒカリササニシキあきたこまちの先祖)完成
 1926年、岩手県農事試験場に転勤
 1929年(昭和4年)、「小麦農林1号」完成
 1935年(昭和10年)には「小麦農林10号」を完成
 1938年(昭和13年)、北京の華北産業科学研究所(義和団の乱の賠償金還元目的に外務省が設置)に転任
 1947年(昭和22年)、日本に帰国
  ・  ・  
 小麦農林10号(こむぎのうりん10ごう)は、1935年(昭和10年)に日本で育成されたコムギ品種。後に、アメリカ合衆国のコムギ品種ゲインズ(Gaines)の親となり、多収性を持つ品種として注目を集めた。さらにはメキシコ系コムギとの交配に用いられ、コムギの緑の革命の原動力となった。
 概要
 岩手県農事試験場において、フルツ達磨とターキーレッドの交配組合せから育成された。交配年次は1925年(大正14年)、1935年に小麦農林10号として登録された。育成者は稲塚権次郎。
 麦や稲は、草丈が長いと風雨や台風で倒伏する被害が多発する。この品種は、日本在来品種の「白達磨」から由来する背が低くなる遺伝子(半矮性遺伝子、Rht1,Rht2)を持ち、十分な養分を与えられても背丈が高くなりすぎないため、風雨に耐えて倒れにくく、多収になる利点を持つ。後世では、茎が短いことは収穫の機械化にも有利となった。一方で病害に弱く、日本国内では東北地方を除いて広くは普及しなかった。
 この品種が注目を集めるきっかけになったのは、第二次世界大戦後のGHQによる遺伝資源収集である。アメリカ合衆国農業省天然資源局のS.C.サーモンが、日本において有用と考えられる品種の種子をアメリカ合衆国に持ち帰り、アメリカ合衆国の育種家はそれを用いた育種を行った。1961年には、小麦農林10号を親としたコムギ短稈多収品種ゲインズが育成された。
 同時期のメキシコにおいても、後に国際トウモロコシ・コムギ改良センター(CIMMYT)の主体となる研究グループによって、小麦農林10号を親とした育種が開始された。ノーマン・ボーローグらは小麦農林10号とメキシコ品種の交配から、草丈90センチメートルから120センチメートルのBevor14系の品種群を育成した。これら短稈多収品種は、インド・パキスタン・ネパールを始め世界各国で栽培されるようになり、コムギの生産性向上に大きな貢献を与えた。この現象は、後に緑の革命と呼ばれることになり、ボーローグらはこの功績により1970年にノーベル平和賞を受賞した。
   ・   ・   ・   
 農林水産省 maff  6月17日 ·
 【食糧難を救った小麦農林10号】
 初夏は小麦の収穫期ですので、今回は、稲と小麦に生涯を捧げた育種家の稲塚権次郎氏が、1935年に育成した「小麦農林10号」をご紹介します。
 戦後、農学者のノーマン・ボーローグ氏がこの小麦農林10号と交配した新しい品種を誕生させ、食糧難を救ったことから、後に「緑の革命」と呼ばれるようになりました。小麦農林10号は、草丈が低いので倒れにくい、成長が早い、収量が多いといった特徴があり、その遺伝子を受け継いだ新しい品種は多くの国や地域で栽培され、小麦の飛躍的な増産が実現したのです。
 稲塚権次郎氏の生涯は、「NORIN TEN “農の神”と呼ばれた男 稲塚権次郎物語」という映画になっています。麦秋の季節に、美しい小麦畑を想いながらの映画鑑賞もいいかもしれませんね。
   ・   ・   ・  
 NiPPN 日本製粉株式会社
 小麦ワールド
 第10回目は「日本の小麦のお話」です!
 今回は日本の小麦のお話です。
 小麦は中国から朝鮮半島を経由して日本に伝わりました。
小麦は奈良時代において西日本を中心に本格的に栽培されるようになりましたが、当時の多くの農民は、小麦が実をつける前に苗を青刈りして、馬のえさとして売っていました。時の政府は「青麦の売買禁止令」を発布、「大小麦は夏の食糧不足の助けになる。だのに後の窮乏を省みず、青刈りをして失ってしまう。よって今より以後断固青刈りを禁止する」というお達しを出しています。
 室町中期から安土桃山期にかけて茶道が成立します。お茶につきものなのが茶菓子です。 信長、秀吉という二人の天下人に使え、茶聖と称された千利休。利休が最も好んだ茶菓子は「麩のやき」という麩菓子だったといいます。「麩のやき」とは小麦粉を水で溶いて鍋で薄く焼き、片面に味噌を塗り、巻いた菓子です。秀吉を招いた茶会でもたびたび供されており、利休は後に秀吉に切腹を命ぜられるのですが、秀吉との最後の茶会でも「麩のやき」は出されています。
 江戸は徳川幕府によってまったく新しく作られた新興都市です。江戸幕府が開かれ、全国各藩の藩屋敷が築かれ城下町が形成されました。武家だけで江戸市内の6割を占めます。残った土地の半分を寺社が領し、残り半分は商売人や職人でした。それから400年、この新しい都市で様々な文化が生まれました。
 江戸っ子といえば蕎麦、ざるに盛られた蕎麦をそばつゆに3分の1だけ浸して一気にすすりあげる、これを3回半で食べ終わるため、この食べ方を「三つ箸半」といい、江戸っ子特有の粋な食べ方とされていました。 落語のオチで「最後に思い残したものは無いか。」の問いに「そばつゆに全部浸して食べてみたかった。」というのがあります。粋とやせがまんは紙一重だったみたいですね。
 しかし江戸の初期の蕎麦はすべてそば粉だったのでゆでるとポロポロと形が崩れるためせいろで蒸しあげていたそうです。もちろん一気にすすりあげるなんてことはできません。
小麦粉のつなぎを入れて打つようになるのは、江戸幕府誕生から約100年後享保年間(1716~36)のことです。3代続いたら江戸っ子といわれたそうですから、この時期ちょうど3代目、4代目のあたりの人々がのどごしの良い蕎麦に江戸っ子らしさを見出そうとしていたのかもしれません。
 うどんは歴史が古く、奈良時代に小麦の塊だけではなかなか火が通らないのでひも状にしたものをうどんと呼びました。足で踏んで腰を出すのは当時から行われていたそうです。
 コムギ豆知識
 「農林10号」と緑の革命
 「小麦農林10号」。昭和10年、日本国内の小麦生産量を増やそうという目的で開発された小麦の品種です。開発者は稲塚権次郎。
 「背が低くて、頑丈で、骨太。とにかくいくら穂をつけても倒れないんだ。」稲塚さんは自身の農林10号をこう評しています。
 稲塚さんの品種改良で当時の小麦はほぼ国内産で自給できるようになりました。
 戦後すぐに「農林10号」はアメリカに渡り、アメリカの品種と交配した新品種が各地で大きな成果をあげました。
 成果を聞いたアメリカの農学者ノーマン・E・ボーログ博士は、すぐさま実践に入り、小麦の病害に悩むメキシコで品種改良に成功したのを皮切りに、積極的に発展途上国の農業技術者を呼び寄せ、技術指導とともに「農林10号」から改良した種子を贈りました。
ボーログ博士は1960年代に予測された食糧危機から「緑の革命」で世界の人々を救った功労者として1970年にノーベル平和賞を受賞しました。
 現在アメリカとオーストラリアで生産されている小麦の3割から4割は「農林10号」の子孫です。小麦の多くをこの両国から輸入している私たちは稲塚権次郎さんの育てた小麦を毎日のように食べているのです。
   ・   ・   ・   

 歴代天皇と日本(軍部・陸軍)は、自己犠牲的に幾つもの人道貢献を行っていた。
 その証拠が、靖国神社である。
 中国・朝鮮そして共産主義者は、一つとして人道貢献をした事がなく、数多くの虐殺と強奪を繰り返していた。
   ・   ・   ・   
 日本の歴史は、飢え死にしない為に食べ物を確保するという「飢餓の歴史」であった。
 つまり、日本民族日本人はコメや小麦など五穀を生産する為に生きていた。
 歴代天皇は神の裔・祭祀王の責務は、特殊な血筋・血統を根拠として五穀豊穣・国家の平和・民族の安寧を皇祖皇宗に祈る事であった。
 キリスト教は、人はパンの為に生きるのではなく信仰の為に生きるべきだと、説いている。
 儒教は、信義の為には、武器と食糧を捨てるべきだと力説していた。
 日本文明・日本文化は、農作物を生産して「食する事」は神聖な行為であるとしている。
 それは、黄河文明ではなく長江文明の流れ仕組んでいる。
   ・   ・   ・   
NORIN TEN 稲塚権次郎物語: 世界を飢えから救った日本人
伊沢多喜男と近代日本