📉47】─1─2020大学入試改革。日本の入試はなぜ「知識偏重」から抜け出せないのか。~No.99No.100 4

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 このままではヤバい「2020大学入試改革」
 2020年、日本の教育はターニングポイントを迎える。教育改革という旗印の下、大学入試センター試験に代わって、「大学入学共通テスト」の導入が決まったからである。知識を詰め込むだけの受験勉強では乗り切れなくなるとのことだが、あの看板倒れに終わった「ゆとり教育」と同じ轍を踏むことにならないか。

 大改革なんてモノじゃない、大迷惑ばかりの「大学新テスト」
 『おおたとしまさ』
 おおたとしまさ(育児・教育ジャーナリスト)
 大学入試改革の本丸は個別の大学の入学者選抜の方法である。ペーパーテストだけに頼らず、面接・論文・高校時代の活動の記録を評価するなど、多様な方法で入学者を選抜することを当初の目的とした。改革のもう一つの目玉がセンター試験の見直し。高校で学ぶべき事柄の達成度を見る「基礎レベル」のテストと大学で学ぶための素養が身に付いているかをたしかめる「発展レベル」のテストの2種類の「達成度テスト」に分けるとした。
 個別の大学入試選抜方法についてはまだ不透明な部分が多い。基礎レベルの達成度テストについては本格実施を2023年度以降に先送りすることが決まっている。2020年度以降実質的にセンター試験の後継テストになる発展レベルの達成度テストは現在「大学入学共通テスト(新テスト)」と呼ばれており、現時点ではこのテストの行方に注目が集まっているので、今回ここでは、新テストについて中心的に述べる。
 新テストについて2013年の時点では、「年複数回の実施」「1点刻みではなく段階別の結果」「外部検定試験の活用」などのビジョンが示されていた。しかし具体的な検討に入ると途端にトーンダウンした。年複数回実施するということは現状1月に実施されているセンター試験よりも早いタイミングでの受験が可能になるということ。「それでは教科書の履修範囲を終えられない」というのが高校の現場からの声だった。年複数回実施は当面見送られることになった。
 そのような声が上がることは十分に予測できた。それでも「一発勝負の大学入試文化」を改めるために、やるのか。そこに今回の改革の本気度が表れると思って議論の行方を見守っていた。しかし変わらなかった。結局「新テスト」とは、共通一次試験以来の「国を挙げての壮大な一発勝負」の概念を改めるものではなくなり、現行のセンター試験に多肢選択問題・記述式問題を含めるだけのいわば「アップデート版」になってしまった。ここに今回の大学入試改革全体のスケール感が規定されてしまったような気がしている。要するに、それほど変わらない。
 文部科学省の担当者が悪いわけではないだろう。もともと広げられた大風呂敷が、どだい無理筋だったのだ。「それでは教科書の履修範囲を終えられない」という声が現場から上がるのは、日本の大学入試が学習指導要領と検定教科書にがんじがらめにされているからだ。入試問題と学習指導要領と検定教科書が三つどもえになっている限り、高校の授業の進度と内容に入試が縛られるのは宿命である。
 アメリカの大学を受験するときに必要になる標準学力テストSATは、年複数回実施されている。学習指導要領も検定教科書もないので、高校の授業の進度はバラバラという大前提。SATで早くいいスコアを取りたければ、自分で勉強しなさいということだ。
 学習指導要領と検定教科書を入試から切り離す。そこまで腹をくくらなければ、年複数回実施などできるわけがない。そうでもしなければ、学習指導要領に定められた検定教科書の内容を「試験範囲」とする「教科書絶対主義」「知識偏重型教育」からいつまでたっても離れられないと私は思う。そこまでやるつもりなのかと、2013年当初は期待したが、そうはならなかった。現実的には非常に難しいことはわかっていたが、それでも一縷(いちる)の望みが消えたときにはがっかりした。
 念のため付け加えるが、学習指導要領や検定教科書の内容が悪いといっているわけではない。その影響が強すぎることが大学入試改革のネックになっているという指摘だ。
 2017年12月、数学と国語について、新テストの試行テストが公開された。地方の公立進学校の教員に評価を聞くと、「今回はかなり頑張ってつくった良問だと思う」「例えば数学は、単なる計算力では太刀打ちできないようになっている」と、おおむね好評だった。ただし「問題のレベルが、一部の上位層にはちょうどいいが、それ以外の高校生には難しすぎるのではないか」という声も聞いた。関西の私立中高一貫校の校長も「うちの生徒にはいいが、一般論としたら難しすぎるのではないか」と懸念を示した。さらに国語の問題については「あれが国語の読解力なんですかね」とも。思想の練り込まれた長文を立体的に読む力というよりは、雑多な文字情報の中から必要な情報だけをパッとすくい取る能力を試すような問題が目立つからだ。
 今回の試行テストと従来のセンター試験を比べたとき、見た目上の一番の違いは、問題文や課題文の体裁である。従来のテストであればほんの数行で終わっていたはずの問題文が、何行にもおよぶ会話文になっていたりする。日常生活や実社会を意識させるために、会話文や図表などを多用し、ストレートに問いを投げかけてはこないのである。その手法は、公立中高一貫校の適性検査にそっくりだ。
 まわりくどい問題文をわざわざ読ませることには課題発見能力も測るという意図があるのだとは思うが、問題文が長く婉曲(えんきょく)的になればなるほど、文章を速く正確に読み取るのが得意な受験生に有利になる。要するに読解力あるいは速読力の勝負になり、教科そのものの能力が見えづらくなる。例えば驚異的な数学センスをもっている受験生でも、読解でつまずいてしまうかもしれない。それは教科のテストとしてはいかがなものか。テストの体裁を変えることを目的化して、本来測るべき能力が正確に測れなくなるようなことのないように、今後の調整を行ってほしい。
 さらに先の校長はこんなことも懸念していた。「記述式の採点は専門の業者が行うというが、いくら専門の業者でも、50万人分の答案を採点できるほど専門の職員がいるとは思えない。実際は大量のアルバイトに採点させることになるのではないか」。結局は素人に機械的に採点させるのなら、記述式問題を出す意味があるのかという、もっともな疑問だ。
 また「日本テスト学会」は試行テストに見られた「5つの選択肢の中から適当なものをすべて選べ」というような多肢選択問題について、実際は選択肢ごとにそれが適切か否かの二者択一をしているにすぎず、「より深い思考力」を求めていることにはならないと指摘する。さらに「テスト理論」の観点から、5問正答のみを正答とし4問以下の正答は0問正解と同じとみなしてしまうことについて、「貴重な個人差情報を捨てる」と批判的な声明を出している。
 以上を総合すると「だったら記述式問題も多肢選択問題もなしにして、現行のセンター試験のままでいいじゃないか」という結論になりかねない。
 報道によると、テスト理論の専門家がすでに再三にわたって問題点を指摘したにもかかわらず、軌道修正がされないまま今回の試行テストが実施されたとのこと。だとすると、今回の試行テストは「見せ球」の可能性が高い。「このままではGOできない」とわかっているが、一見していままでとは明らかに違う案を見せておいて、公に批判を浴びる中で現実的な案に収斂(しゅうれん)していくのが文部科学省の作戦なのかもしれない。無理筋な改革を押しつけられたときにとるべきプロセスとしては間違ってはいない。ただしそれは、最終的な着地点が現行のセンター試験を「お色直し」した程度のものになることを見越しているからこその作戦だと言えなくもない。
 英語の試行テストについても始まり、全国の158高校で順次実施される。英語に関しては民間資格・検定試験の活用も同時に検討されており、それとの兼ね合いも論点になる。現時点で英検やGTEC、TEAPなどが名乗りを上げており、審査の結果が3月に発表される。
 改革によって得られるものと、生じる混乱のどちらが大きいか。
 新テストの実施まで、すでに3年を切っている。早めに混乱を回避する十分な策がとられなければ、新テストを回避しようとする思惑が、受験生の志望校選びに影響を与えかねない。
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 2020年大学入試改革は「ゆとり教育」の二の舞にはならない
 『石川一郎
 石川一郎(香里ヌヴェール学院学院長)
 「ゆとり教育の二の舞になるのでは?」2020年度からの大学入試改革について、多くの教育現場で講演をする機会を今日いただいておりますが、「ゆとりの時も変わらなかったのに、今回は本当に変わるのですか」という質問を現場の先生方からされることがあります。そんな時は、「今回の教育改革は社会的要請です」とお話をします。
 社会的要請とは何か。ゆとり教育の議論から約20年間の社会の変化を考えてみると、主に3つの変化が挙げられると思います。
「①グローバル化が加速をつけて進んでおり、日本国内で生活を続けていく上でも海外との関係を無視することはできない状況となっている
 ②インターネットの普及によって情報に対するアクセス方法が変化するとともに、情報の活用という新しい産業が生まれてきている(IOT)
 ③人工知能(AI)が今後飛躍的に進化することが予想されており、2045年にはAIが人類の知能を超える転換点(技術的特異点)、「シンギュラリティ」に到達すると予想されている」
 これからの20年から30年で社会は大きく変化し、産業や働き方も今までと全く異なったものになることが予想されているのです。となると、未来社会で求められるコンピテンシー(資質)は、現在求められているものから大きく変化することは間違いありません。
 ゆとり教育は、1990年代以前からもあった「落ちこぼれ」や「不登校」の問題が深刻化する中で、21世紀の教育はかくあるべき、という話からスタートしたのではないかと思います。社会的には、反対ではないものの、そこまで大きな変化を教育には求めていなかったのではないでしょうか。
 1996年の中央教育審議会の答申には、教育の考え方について「これからの子供たちに必要となるのは、いかに社会が変化しようと、自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し・・・」とあります。今回の教育改革の狙いである「主体的、対話的で深い学び」は、ゆとり教育が目指すものの延長線上にあると言ってもいいと思います。
 そして、ゆとり教育と並行して教育現場で行われた施策は、学校週5日制でした。5日制を実施するにあたり、授業時間は当然削減しなければなりません。そこで文部科学省は、授業時間が減って学力低下が起きないように、教育の中身の「質的転換」を目指したのです。その目玉となったのが総合学習の導入でした。「量的転換」と「質的転換」セットの改革であり、5日制を導入することで教員の働き方改革も狙いとしては当然あったと思います。
 そんなゆとり教育は、なぜは進まなかったのか。最も大きな原因は、大学入試改革を行わなかったことだと思います。大学入試の内容の「質的転換」がないまま、小中高の現場で扱う知識量が減ることで、「ゆとり」カリキュラムでは大学入試に対応できず、学力低下が起きるという議論が巻き起こったのです。
 また、「質的転換」の目玉である総合学習も中身は現場に丸投げされ、現場は大混乱に陥ったのです。この時に、総合学習の内容が評価方法も含めて具体的に現場に提示され、それに沿って現場が教えるだけであれば、ずいぶん違ったのではないかと思います。
 ゆとり教育の話題が出てきた当時は、現状の教育に行き詰まりを感じていた教師も多く、教育改革に夢を持ったものでした。しかし、思ったような方向に教育が変わっていくことがなく徒労感に襲われたことも事実です。
 では2020年の大学入試改革はどのようなものか。例えば、「もし、地球が東から西に自転していたとしたら、世界は現状とどのように異なっていたと考えられるか、いくつかの観点から考察せよ」(2014年度東京大学理科Ⅰ類「外国学校卒業生特別選考」といった大学入試問題があります。実は、この問題は海外の学校教育を受けたいわゆる帰国子女や留学生を対象にした問題であり、2020年に向け文科省が実現を目指す教育改革の中で、生徒に身につけさせようとしている力を問う問題なのです。
 今回の教育改革で文科省が特に意識しているのは、教育のグローバル化です。発表されている文章を読むと、認知心理学教育心理学の研究者である米国のベンジャミン・ブルームのタキソノミー(思考レベルの分類)の学習理論が背景にあると強く感じます。ブルームのタキソノミーは6段階でさまざまな解釈がありますが、私は「知識」「理解」「応用」「論理的思考」「批判的思考」「創造的思考」に分類されると理解しております。前述した東大の問題は「批判的・創造的」思考を問う問題です。
 この6段階で考えると、従来の日本の教育は「知識」「理解」「応用」「論理的思考」を、欧米の教育は「批判的・創造的思考」を重視してきたのではないかと思います。前述した東大の問題は、「批判的・創造的思考」を問う問題なのです。
 激変する未来は、今までとは全く違う価値観が求められると思います。そんな時必要な力は何か。「もし、あなただったら地球温暖化をどのように阻止しますか?」といった問題に立ち向かう若者を育成するためには、今回の改革をやらないといけないのです。
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 日本の入試はなぜ「知識偏重」から抜け出せないのか
 『物江潤』
 物江潤(著述家、学習塾塾長)
 私は1989年に改定され、小学校に新たな学習指導要領が実施された1992年に入学し、「ゆとり一期生」と呼ばれる世代に当たります。特に2008年、ゆとり世代の大卒生が初めて入社するということで、私たちはさまざまなレッテルを貼られました。
 「ゆとり教育=悪」の空気に端を発した、荒唐無稽なゆとり批判を経験した私は、いかに日本の教育政策が空気に左右され、支離滅裂であるかを痛感しました。そして、その支離滅裂な状況は、2020年度から実施される大学入試改革も例外ではありません。
 2020年の大学入試改革の目的を簡単にまとめると、「受け身から主体性の教育への転換」といえます。変化の激しい時代に求められる人材は、既存の知識を詰め込んだだけの「学校秀才」ではなく、未知の課題に対して自分の頭で考え行動できる主体性を持った人材だと考えたわけです。
 入試改革を検討するにあたり、特に問題視されたのは大学入試センター試験マークシートでした。受け身の姿勢で暗記をすれば攻略できてしまうからです。そこで、マークシートの試験に加え、記述試験を導入することにしました。記述試験は単純な暗記だけでは解けないと考えたのでしょう。知識偏重の入試から、思考力・判断力・表現力・主体性といった、さまざまな能力が必要となる入試を目指したわけです。従来のマークシート試験に記述試験を加えたセンター試験は、「大学入学共通テスト」と名称を改め、2020年度から段階的に実施される予定となっています。
 しかし、これは少し調べれば分かることですが、センター試験の前身である共通一次試験が導入される前から、日本の大学入試は知識偏重だと批判され続けてきました。後述するように、暗記科目からほど遠いように思われる数学の記述試験でさえ、知識とテクニックを頭に詰め込めば攻略できるのです。だから、センター試験マークシートは、日本の大学入試を知識偏重にしている原因ではありません。いま記述試験を導入するため、膨大な時間と労力をかけているわけですが、なぜここまで記述試験の導入にこだわるのか、率直に言って理解に苦しみます。
 このような首をかしげざるを得ない現象の原因として、二つのことが考えられます。ひとつは教育問題の語られやすさです。誰もが教育を受け、そして多くの人は誰かを教育したことがあるのですから、皆がこだわりのある教育理念を持っています。しかも、この教育理念は各人の経験に基づいているので、皆が自信をもって意見を表明できます。一方、語られやすいがゆえに、今回の改革のようにきちんとした検証を踏まえず、政治家や有識者の思い込みが政策に反映されやすいわけです。
 もうひとつの原因が「社会の空気」です。山本七平は、著書『空気の研究』で日本は空気に支配されていると看破しましたが、教育政策でも特に空気が強い力を持つようです。ここでは、荒唐無稽なゆとり教育批判を簡単に振り返ることで、いかに日本の教育政策が空気に左右されるかを見ていきたいと思います。
 まずは教育政策に大きな影響を与えた「PISAショック」を振り返ります。PISAショックとは、経済協力開発機構OECD)が世界の15歳を対象に実施した学習到達度調査(PISA)の順位が、2003年に大きく低下した現象を指します。2003年はゆとり教育が始まって間もないこともあり、ゆとり教育のせいで学力が低下したとする論調が支配的になりました。また、「脱ゆとり」の方針を鮮明にした後に実施した2012年度の調査結果が好転した際に、文部科学省が脱ゆとりの成果であると強調し、改めてゆとり教育学力低下をもたらしたとする印象を社会に広めました。
 しかし、ジャーナリストの池上彰氏も主張しているように、この結果からゆとり教育を批判するのは無理があります。ゆとり教育の象徴とも言える総合学習が段階的に導入されたのは2000年度からであり、教科書の内容が3割削減されたのが2002年度からです。つまり、PISAショックが起きた2003年の調査に参加した子供たちは、ほぼゆとり教育を受けていません。
 また、結果が好転したとされる2012年にPISAを受けた世代は、小学校ではすべてゆとり教育を受け、中学校では脱ゆとり教育への移行期間中でした。移行期間では数学・理科の一部前倒しなどの変化があったものの、中学校の総授業時間はゆとり教育の時と全く同じなので、ほぼゆとり教育しか受けていない世代となります。脱ゆとりの成果などと、どうやっても言えないはずです。
 確かに、統計学のような専門的な知識を使って検証しているわけではありません。でも、ゆとり教育と脱ゆとり教育の導入時期を知っていれば、ごく簡単に理解できることです。しかし、国民のみならず、教育政策のエキスパートであるはずの文科省でさえ「ゆとり教育のせいで学力が低下した」とする空気に従ってしまったのです。
 その一方で、文科省はPISAショックに対し、順位が低下したとはいえないとする見解を表明しています。文科省のホームページにも掲載されている「OECD生徒の学習到達度調査(PISA)2003年調査国際結果の要約」によれば、数学的リテラシーと科学的リテラシーについては、2000年と2003年ともに1位と有意差のない得点(1位グループ)です。また、読解力に関しても、両年ともに1位と有意差のある二位グループだとしています。つまり、統計学的な見地からは順位変動が認められないと発表しているわけです。
 しかし、「ゆとり教育=悪」の空気が形成されるや否や、先述のとおり文科省は脱ゆとりの旗印を鮮明にし、当時の馳浩文科相が「ゆとり教育との決別」を発表するに至りました。文科省の言い分を振り返ると「ゆとり教育によって学力が低下したとはいえないけど、ゆとり教育は悪いからやめる」という話になり、あまりにも支離滅裂です。これほど非論理的な振る舞いをしてしまえば、日本の教育政策は論理ではなく空気で動いているといわれても仕方ないでしょう。非論理的としか言いようのない安易な教育改革が繰り返されるのも、空気に従っていると考えれば納得できます。
 今回の入試改革も、マークシートではなく記述試験ならよいだろうという、非常に安直な発想からスタートしています。もし、受け身の姿勢で攻略できてしまう知識偏重の入試を改善したければ、なぜ入試は知識偏重になってしまうかを徹底的に検証しなくてはならないはずです。でも、そうした作業は不十分なまま改革の議論は始まり、今日に至ってしまいました。
 では、なぜ入試は知識偏重になってしまうのでしょうか。まずは知る人ぞ知る在野の天才、社会学者の小室直樹氏の入試分析を紹介し、知識偏重になってしまう理由を考えていきます。
 「だが、この種の難問は、とうてい一般向きの入試用には役立ち得まい。初等幾何(筆者注:図形問題)の難問に取り組んだことがある人なら、だれでも思い出すように、その解決のためには、実に、ただ一本の補助線を思いつくかどうかが決定的となって、短期間の試験においては、あまりにも大きな偶然に左右されやすいからである。
 このような本格的難問が入試には不向きであるため、入試のためには、「平易な難問」が人工的に用意されなければならないことになる。「平易な難問」とは、きわめて平易な事項が複雑にからみ合って合成されて出来てくる問題のことをいう。このような問題を解くためには、インスピレーションによってすばらしい補助線を思いつくといったような、発見的な頭脳活動は少しも要求されない。そのかわりに要求されるのは、平易な事項を多く暗記して、条件反射的にこれらを組み合わせる能力である。このような理由から、入試に出題される「平易な難問」を解くためには、数学的訓練とはほとんど無関係な訓練――暗記と特定の形式の盲目的適応――が要求されるようにならざるを得ない。『週刊朝日』1978年6月2日号」
 「平易な難問」こそ入試を分析するうえでのキーワードです。そこで、もう少し具体的に説明を加えるため、多くの人が挫折してしまう高校数学ではなく、女優の芦田愛菜さんが合格したことでも話題になった慶応義塾中等部の入試問題を題材とし、平易な難問を解説したいと思います。
 この問題は、足し算と掛け算の筆算さえ理解していれば解けるので、内容そのものは平易です。しかし、いざ解こうとすると厄介な問題であることに気づきます。また、この2問に使える時間はせいぜい10分しかありませんが、じっくり考えれば解けるはずの大人でも、この2問を10分以内に解くのは容易ではありません。内容そのものは平易であるにもかかわらず、小細工と制限時間が加わることで「平易な難問」に変わってしまうわけです。
 (1)の問題について、簡単に解法を紹介します。最も小さいABCDを求める問題なので、まずはAに1を入れてみます。Aに1が入れば、Bは2と考えるのが自然です。同じようにCには4、Dには8が入りそうです。しかし、Dに8が入るとおかしなことが起きます。一の位で繰り上がりが発生するため、十の位の答えは8ではなく9になってしまい、うまくいきません。そこで、試しにDを9として計算してみます。すると、先ほどの繰り上がりの問題もうまくクリアできることが分かります。正解は1249です。
 Dに9を入れるという作業は、一見豊かな発想力が要求されているように思えます。しかし、繰り上がりのせいで、Dに当てはまる数字はひとつに限らないというコツさえ知っていれば、それほどてこずることなく解答できるでしょう。頻出問題をすべて解けるよう繰り返し練習したうえで、解くためのテクニックやコツを理解し、使いこなせるレベルに到達することで、「平易な難問」を攻略できるわけです。
 大学入試も基本的に平易な難問です。特に学力上位の受験生は、高校で習う内容を簡単に理解してしまうため、普通に出題すると平均点が非常に高くなってしまいます。その結果、受験生の間で点数の差がつかず、適切な選抜ができません。だから、素直な問題ではなく、慶応義塾中等部の問題のように小細工を加え、適切な平均点となるよう難度を調整しなくてはなりません。
 こうして、内容そのものは初歩的な確率や微分積分といった平易なレベルなのに、受験専用のトレーニングをしないと数学の専門家でさえ解答困難という摩訶(まか)不思議な問題ができあがるわけです。今年のセンター試験で話題になったムーミンの問題のように、あの手この手で小細工を加えなければならない事情が浮かび上がってきます。
 このような平易な難問は、センター試験の国語においても見られます。センター試験は資格試験ではなく選抜試験であるため、適切な平均点が求められます。しかし、センター試験はさまざまな学力を持つ高校生が受験するため、難解な文章は基本的に出題できません。そこで、文章そのものではなく、選択肢をややこしくすることで難度を調整することになります。その結果、正答として疑わしいと評されるような、質の悪い選択肢が再三出題されてしまいました。例えば、次のような専門家の指摘があります。
 「問5 問題文の全体を通した設問であり、また「地球儀」という題名からもここを問うのは妥当だが、1の「ふがいない自分」や「息子」にかかわる記述は正答として疑わしい。誤答の選択肢も凝りすぎており、問題としての質を下げた。
大学入試センター『平成25年度大学入試センター試験問題評価委員会報告書』2013年」
 こうして、問題文は平易なので読解できても、選択肢が凝り過ぎているため正解できないという平易な難問が完成します。そして、この受験専用に作られた平易な難問に対し、受験産業は頻出問題を網羅した問題集やさまざまなテクニックを開発します。当然ながら、少しでも偏差値の高い大学に合格しようとする受験生は、こうした受験専用の知識・テクニックを頭に詰め込むので、特別な策を講じない限り、受験は知識偏重の入試に行き着いてしまいます。より正確に言えば、受験しか使えない知識偏重の入試のせいで、受験生は不毛な努力を強いられることになるのです。
 それでは、次に平易な難問を避けるための方法を示します。各教科によって具体的な方法に違いはあるでしょうが、おおよそ次の三つが考えられます。
 まずは、各大学が自由に試験範囲を設定することが必要です。特に数学や物理については、学力上位の受験生にとって出題範囲が簡単すぎるため、平易な難問にならざるを得ません。だから、もっと難しい範囲まで広げて、素直な作問でも選抜試験として機能するように工夫すればよいわけです。「平易な難問」から「難解な基本問題」への転換です。引き続き、知識偏重の試験にはなってしまいますが、大学受験しか使えない平易な難問を攻略するための知識より、格段に有益なことを学べます。一方、試験範囲を各大学が自由に設定してしまうと、学校の教科書だけでは入試を突破できないという批判もあるでしょう。でも、それは現行の入試でも全く同じことが言えますので、新たに起こる問題ではありません。
 次に、大幅な試験時間の延長と専門職員(アドミッションオフィサー)の養成が必要になります。問題数が少ない数学の試験でさえ、1問あたりに与えられた時間は10分程度です。これでは、本格的な難問は出題できず、やはり平易な難問になってしまうからです。また、これらに対応できる専門職員も足りません。
 何より資格試験にすればいいのではないでしょうか。資格試験は、必要な能力を習得しているかどうかを判定するための試験ですので、平均点の調整が不要です。したがって、素直に作問すればいいわけで、平易な難問とは似ても似つかない問題になります。
 2020年度から実施される大学入学共通テストでは、試験結果はABCDといった具合にランク分けされて評価される見通しです。一見資格試験のようですが、受験生は少しでも偏差値の高い大学に合格するため、より高いランクに入ろうと努力しますので、その性質は選抜試験と同じです。1問でも多く正解するため、今までのようにさまつな知識・テクニックを詰め込むことになります。もちろん、適切な平均点が求められますので、またしても平易な難問ができあがるでしょう。
 最後に、2017年5月に公開された国語の例題を簡単に紹介しながら、平易な難問が今後も続くことを改めて示したいと思います。この例題では、景観ガイドラインに関する広報文書と、その文書に関する父と娘の会話文が登場しました。広報文書と会話文なので、センター試験で出題されている評論文や小説よりも平易な文章です。したがって、適切な平均点にするためには、センター試験と同様に問い方や選択肢といった部分で難度を調整せざるを得ず、平易な難問となってしまいます。大手予備校でも、試験の作問方法に対して疑問を呈しています。
 本問では、「会話文中の傍線部『一石二鳥』とは、この場合街並み保存地区が何によってどうなることを指すか」という文言が含まれているが、「街並み保存地区が何によってどうなることを指すか」という条件付けは、本来なら平易な問題を故意に問題を複雑化し、いたずらに難易度を上げようとしているように見える。ここはもっとシンプルに「会話文中の傍線部『一石二鳥』とは、どういうことか」と問えば、生徒はそこで自ら思考力を働かせるはずであり、逆にこのような条件付けをすることでかえって自然な思考力の発露が妨げられてしまうのではないかと考える。
 「平易な問題を故意に問題を複雑化し、いたずらに難易度を上げようとしているように見える」とありますが、まさにこれは平易な難問の特徴そのものです。思考力・判断力・表現力・主体性といったものを評価するためには、記述試験や実用的な場面を想定した問題を課せばよいと安易に考えているため、平易な難問を克服できないわけです。残念ながら、大学入試は受験にしか使えない知識偏重の入試であり続けます。
 今回の改革では、その他にもアクティブ・ラーニングや、面接・プレゼンテーション・エッセーなどによる多面的な評価が導入される予定ですが、これらについても問題が山積みです。一度仕切りなおしたうえで、きちんとした議論を新たに始めるべきではないでしょうか。いい加減な教育政策と世論によってあらぬレッテルを貼られる世代は、私たちで最後にしてほしいと切に願います。
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