🍙60〗─1─昭和の震災。福井地震。〜No.310No.311No.312 ㉑

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2019年8月21日 産経新聞「【主張】昭和の震災 埋もれた教訓掘り起こせ
 広島、長崎の原爆忌終戦の日が過ぎ、8月も残りわずかとなった。昭和を振り返り、命に向き合う時季でもある夏の終わりに、終戦の前後に日本列島を襲った「昭和の震災」のことも思い起こしたい。
 昭和18年から23年にかけて死者数が千人を超えるマグニチュード(M)7~8級の大地震が、立て続けに発生した。
 18年鳥取(M7・2、死者1083人)▽19年東南海(M7・9、死者・不明1223人)▽20年三河(M6・8、死者2306人)▽21年南海(M8・0、死者1330人)▽23年福井(M7・1、死者3769人)-の5地震である。
 これらの地震災害は、戦災にかき消されて記録と教訓が十分に伝えられていない。しかし、日本の地震防災、とくに次の南海トラフに備えるうえでは極めて重要な教訓をはらんでいる。
 埋もれた教訓を掘り起こし、命と生活を守るための備えと行動につなげなければならない。
 5つの地震のうち、東南海、南海地震南海トラフ震源域とする海溝型地震で、残りの3地震南海トラフの活動により誘発された地震と考えられる。
 南海トラフでM8~9級の地震が発生する確率は30年以内に70~80%とされ、終戦期のような地震活動のピークが迫っている。南海トラフの活動が海溝型巨大地震だけでなく、広い範囲で内陸直下型の大地震を誘発することを、強く認識する必要がある。
 海溝型地震津波対策はもちろん重要だが、直下型への備えがおろそかになってはならない。
 また、昭和の南海トラフ地震は東側の東南海と西側の南海地震の発生に2年の間隔があった。
 政府の中央防災会議は、このような「半割れ」のケースで割れ残った地域の住民に対して1週間程度の一斉避難を求めるとした。難しいのは「半割れ」状態が1週間を超えた場合の対応である。
 日常生活と生産活動を続けながら、いつ起きてもおかしくない大地震津波から命を守る態勢を築かなければならない。国の指針(ガイドライン)で一律に対応できる問題ではない。自治体、公共機関、企業、住民がそれぞれ最善の対応を考え、それを統合する必要がある。「昭和の震災」に学び、その一歩としたい。」
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 世界大百科事典 第2版の解説
 福井地震 ふくいじしん
 1948年6月28日福井平野に起こった大地震(マグニチュード7.3)で,この地方に死者3895人,負傷者2万2203人,家屋の全壊3万6184,半壊1万1816という大きな被害を生じた。家屋,施設,鉄道,橋梁,堤防などの被害は福井平野の南北40km,東西12kmの狭い範囲に集中したが,これはこの地域が厚い沖積層に覆われていたために震動が大きかった(最大震度6)のが原因である。地震直後に大火が起こり,3851戸の家屋が焼失した。 出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
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 ウィキペディア
 福井地震は、1948年(昭和23年)6月28日16時13分29秒に発生し福井県を中心に北陸から北近畿を襲った地震である。福井大地震ともいう。
 震源福井県坂井郡丸岡町(現坂井市丸岡町)付近。戦後復興間もない福井市を直撃した都市直下型地震。規模はM7.1(Mw 7.0)。

 被害
 死傷者数 死者・行方不明者 3,769人
 被害地域 福井県

 概要
 発生日時:1948年(昭和23年)6月28日16時13分29秒(当時はサマータイムが導入されており夏時間では17時13分)
 震源地:福井県坂井郡丸岡町(現坂井市丸岡町)付近(北緯36度10分18秒、東経136度17分24秒)
 震源の深さ:ごく浅い(30kmとする説もある)
 地震の規模:M7.1
 津波は発生していない。

 被害
 大正関東地震関東大震災)、兵庫県南部地震阪神・淡路大震災)、東北地方太平洋沖地震東日本大震災)などと並ぶ、日本の災害史上最悪クラスの震災となった。2015年現在も東日本大震災阪神・淡路大震災に次ぐ戦後3番目の規模の震災である。死者の大部分が、当時あわせて人口15万前後にすぎなかった福井市および現在の坂井市あわら市に集中しており、その被害率は、日本の近代史上でも類をみない。特に現在の坂井市部分では、死者が人口の5%という(同じ際の福井市が1%、後年の大震災時の神戸市が約0.3%)大惨禍となった。

 福井市の被害
 全壊率 79.0%
 出火件数 24件
 焼失面積 641,440坪、鎮火まで5日。

 救援活動
 福井県の救援本部から 福井市,全滅す,救援を乞う のラジオ放送が行われた[16]。翌日には大阪、京都からの救援物資と救援隊の派遣が行われた。また、災害救助法の適用が決定された。天理教「ひのきしん」活動などがあった。
 救援活動は体系的ではなかったが、GHQの給水活動なども注目される。また、この時、紅陵大学(現拓殖大学)の義援隊が、また東京学生同盟からは東大生の渡辺松美を中心とした救援隊が現地に入り、堤防復旧や、避難所での配食支援など今で言う災害ボランティア活動を行った記録がある。この時、渡辺が警察無線を借りて東京に送った内容は、渡辺の手記によると、「被害甚大。衣食携行、決死の覚悟で来い」と言うもので、被害の壮絶さを物語っている[要出典]。
 なお、1か月後の7月23日から25日にかけて発生した豪雨により復旧事業は障害を受けた。
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 内閣府 防災情報のページ
 みんなで減災
 報告書(1948 福井地震
 災害教訓の継承に関する専門調査会報告書
 1948 福井地震
第1章 福井地震災害の概要
 昭和23年6月28日午後4時13分(当時サマータイムで午後5時13分)、福井平野震源とするマグニチュード7.1の地震が発生した。地震動は強烈で、震源近傍では住家の全壊率100%の集落が多数出現し、3年前の福井空襲から復興途上にあった福井市でも全壊率は80%を超えるほどで、内陸で発生し都市を直撃した強い活断層地震である。内陸の地震は多いが、福井地震は被害が集中的に発生する都市直下型地震で、住家の全壊34,000棟を超えた。地震の直後から火災が多発し、福井市での2,407棟を含む4,100棟以上が焼失し、被害を拡大させた。人的被害では死者3,769人に及び、震度7(激震)を創設するきっかけとなった強い地震動は、鉄道、道路、河川堤防、橋梁、水道等の土木施設にも多大な被害が発生し、被災地の中央を東西に流下する九頭竜川では全ての橋梁が被災し、被災地への支援は北部を石川県側から、福井市を含む南部を県中南部滋賀県側から救援する事態であった。さらに、災害としては、戦時下及びGHQ軍政下という社会状況で、昭和20年の福井空襲、昭和23年6月の福井地震、同7月の豪雨水害と、復興途上や被災直後に災害が引き続き発生し被害を拡大させるという複合災害の様相を呈した。

第6章 福井地震と社会対応
 震災から1年間の災害対応活動を整理すると、九頭竜川で被災地が二分されたうえに通信途絶や情報不足が救援活動を大きく妨げたこと、緊急医療や物品給付等の活動は2週間〜1ヶ月と比較的短期間であったこと、堤防の沈下にともなう1ヶ月後の水害で道路・橋梁の復旧は遅れ、農業に大被害を与えたこと、資金不足に悩みながらも戦災復興を引き継いで福井市など復興の大略は1年で達成したことが挙げられる。
 戦後GHQの軍政下での地震で、災害救助法が初めて適用された大災害であったが、軍政部への月例報告として災害の総合報告がなされ、被災自治体の対応の遅れも軍政部主導の救援活動で補われた。しかし、治安維持のために全国初の公安条例を制定するなど戦後期の社会情勢を反映した特徴的な取り組みもあった。災害救助法の支援は衣料品・日用品の給付や医療で3/4の予算が費やされたが、長期化する災害の影響(とくに被災者や被災企業の復旧復興への支援)に対して災害救助法では対応できないという問題点は、軍政部からも指摘されていたし、新聞でも主張されていた。
 被災地の医療施設は壊滅的な状況となり、九頭竜川の北部と南部でそれぞれ緊急医療活動が展開された。緊急医療班が派遣され、重傷者は被災地以外に広域搬送がなされたが、戦時下で整えられていた緊急医療体制の取り組みや市民らの空襲時の緊急医療経験などが、医療者・市民・行政ともに、物資不足の中での医療活動を支えた。
 福井地震の強い地震動がもたらした壊滅的な家屋被害は、震度7を創設させるとともに、1950年の建築基準法制定にあたって鉄筋コンクリート造の耐震規定にも大きな影響を与え、長期の2倍とする短期許容応力度の新設や、現行と同じ設計震度0.2の規定が新定された。木造の耐震規定としても、現行法令での適用されている壁量計算の規定が取り入れられ、日本の耐震建築技術を向上させた。耐震規定の大きな改定は、十勝沖地震(1968)、宮城県沖地震(1978)の教訓で1981年に新耐震基準まで待たねばならなかった。
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