🍚173}─2─三河地震。戦争終結を早めた自然災害。昭和20年。~No.565 

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 2018年1月7日 YAHOOJAPAN!ニュース「東南海地震三河地震、空襲、そして敗戦、さらに台風、地震、噴火。震災後の大混乱。
福和伸夫 | 名古屋大学減災連携研究センター、センター長・教授
 一回前の南海トラフ地震東南海地震は、1944年12月7日午後1時36分に発生しました。死者・行方不明者は1223人と言われています。太平洋戦争開戦から 3 年の式典を翌日に控えた日で、戦時下だったため地震状況ははっきりせず、国民にも知らされませんでした。地震翌日の中部日本新聞の朝刊は、軍服姿の昭和天皇の写真が 1 面トップにあり、 3 面の片隅に「天災に怯まず復旧 震源地点は遠州灘」という見出しで小さな記事が報じられただけで、それ以降は全く報じられていません。
 ラジオ放送は、1925年に始まっていましたが、震災に関する報道があったとは聞きません。徹底的な情報統制で、国民には、地震の規模や震源、震度、被害量など、なんの情報も示されませんでした。被害状況の写真を撮ることも許されませんでしたから、被害写真も僅かしかありません。1か月後に発生した三河地震についても翌日の中部日本新聞の一面はルソンの戦況が記されているだけでした。
 一方、欧米紙では日本で起きた地震は大きなニュースになりました。ニューヨーク・タイムズは 1 面に「JAPANESE CENTERS DAMAGED BY QUAKE」の見出しを掲げ、「1923年の大地震関東大震災)よりも大きい」とか「日本列島では激しい揺れと津波が起きたはず」などと報じました。世界各地の地震計に基づいたデータが分析され、連合国には巨大地震の発生を隠すことができなかったようです。連合国の勝利間違いなしとの報道もされました。国内の状況とは対比的です。
 地震直後に名古屋の軍事拠点を狙った空襲
 東南海地震の翌週12月13日に、三菱重工業名古屋発動機製作所大幸工場が大規模な空襲を受けました。この工場は日本の航空機エンジンの4割を生産する最重要拠点で、330人の死者がでました。この場所には現在、ナゴヤドーム名古屋大学医学部などが立地しています。これが名古屋を襲った初めての本格的な空襲でした。この日には、東洋一の動物園と言われていた東山動物園の猛獣が殺処分になりました。ただし、象は生き延び、戦後、全国から象さん列車に乗った子供たちが東山公園に訪れました。ちなみに東京の最初の空襲は前月の11月24日でした。
 名古屋は我が国随一の軍需都市だったため、軍需施設への空襲は、12月18日に三菱重工名古屋航空機製作所大江工場、12月22日と翌年2月15日の名古屋発動機製作所と空襲が続きます。私が卒業した小学校は工場から比較的近くにあり、名古屋で最も古い鉄筋コンクリート校舎が使われていましたが、当時の銃弾の後が多数残されていました。
 誘発地震三河地震の発生
 東南海地震の37日後の1月13日、三河地震が発生しました。未明の3時38分過ぎに、深溝断層や横須賀断層で発生したマグニチュード6.8の地震で、東南海地震の誘発地震だと考えられます。愛知県三河地方南部の旧幡豆郡碧海郡額田郡宝飯郡などで甚大な被害となりました。現在の西尾市安城市碧南市幸田町蒲郡市に当たります。死者は2,306名と東南海地震の倍にもなりました。
 地震発生時間が未明だったこと、東南海地震で損壊した建物が補修前に強烈な揺れが作用したことなどが原因したようです。また、集団疎開していた国民学校の学童50人以上が、疎開先の寺院の倒壊によって犠牲になりました。東南海地震で、学徒動員されていた中学生や女学生たちが名古屋や半田の軍需工場の倒壊で犠牲になったことを合わせ、戦時下故の痛ましいできごとです。
 大都市を襲った度重なる空襲から敗戦へ
 米軍の空襲は激烈を極め、市民を巻き込んだ中心市街地への空襲が始まりました。3月10日には、東京大空襲によって約10万人という1923年関東地震を上回る犠牲者を出し、再び首都は焼け野原になりました。名古屋も、東京大空襲の翌々日の3月12日には名古屋駅が炎上した名古屋大空襲、その後3月24日、5月14日、6月9日、6月21日と大規模空襲がありました。5月の空襲では、国宝・名古屋城天守閣や本丸御殿が焼失します。名古屋市は、全体で、63回の空襲を受け、被害は死者7,858名、負傷者10,378名、被災家屋135,416戸に及んだと言われます。
 東南海地震の被災地だった四日市は6月18日に、豊川市は8月に豊川海軍工廠への大規模空襲がありました。このように、東南海地震三河地震に見舞われた被災地は、震災復興も儘ならない中、戦災の渦中へと巻き込まれていきました。
 3月26日に始まった沖縄戦も6月23日に終結し、日米両軍合わせて20万人もの犠牲者を出しました。その後、全国各地が激しい空襲を受けます。その間、4月30日にはドイツのヒトラーが自殺、5月7日にドイツが降伏文書に調印します。そして、8月6日に広島市に、8月9日に長崎市原子爆弾が投下され、8月15日正午に昭和天皇による終戦詔書がラジオ放送され、敗戦を迎えました。
 1946年に台風と南海地震が追い打ち、そして、噴火、台風、地震
 翌1946年には、9月17日に三大台風の一つ・枕崎台風が襲来し、死者2,473人、行方不明者1,283人の犠牲者を出しました。特に、原爆被災地・広島で大きな被害を出しました。
 11月3日には、日本国憲法が公布され、新しい時代への準備も進みはじめましたが、12月21日には、昭和南地震が発生し、死者1443名の死者を出しました。東南海地震とペアの南海トラフ地震です。戦後の混乱期だったこともあり、被害実態は十分に分かっていません。
 1947年8月には浅間山の大爆発が、さらに、9月にカスリーン台風の来襲があり、利根川が決壊して首都圏が広域に浸水し、1000人を超す犠牲者を出しました。そして、1948年6月28日に福井平野を福井地震が襲い、3000人を超える死者を出しました。
 まさに泣きっ面に蜂という状況でした。
 震災と戦災の復興
 焼け野原と化した名古屋市は、精力的な都市再建が図られました。とくに、道路整備に力が注がれ、名古屋市中心部にあった18万9千基の墓や寺社を郊外に移し、焼け止まりのため日本の100m道路久屋大通若宮大通)を作りました。久屋大通の南に続く新堀川と合わせて、十字型の延焼防止帯になります。100m道路を中心に、縦横に広幅員の道路が整備され、その後のモータリゼーションを見据えた都市計画の優等生になりました。戦災、震災、洪水に見舞われた福井市も見事に復興し、不死鳥の町と言われています。
 震災や戦災は都市再生の大きな機会でもあります。我が国の多くの都市は、震災と戦災の後、見事な都市復興で、「仙台防災枠組」が位置づけた「より良い復興(ビルド・バック・ベター)」成し遂げたと言えます。
 福和伸夫
 名古屋大学減災連携研究センター、センター長・教授
 建築耐震工学や地震工学に関する教育・研究の傍ら、地域の防災・減災の実践に携わる。民間建設会社の研究室で10年間勤務した後、名古屋大学に異動し、工学部、先端技術共同研究センター、大学院環境学研究科で教鞭をとり、現在に至る。行政の防災・減災活動に協力しつつ、防災教材の開発や出前講座を行い、災害被害軽減のための国民運動作りに勤しむ。減災を通して克災し地域ルネッサンスにつなげたいとの思いで、減災のためのシンクタンク・減災連携研究センターを設立し、アゴラ・減災館を建設した。著書に、「次の震災について本当のことを話してみよう。」(時事通信社)、「必ずくる震災で日本を終わらせないために。」(時事通信社)。」
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 報告書(1944東南海地震 1945三河地震
 災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 平成19年3月
 1944 東南海地震・1945 三河地震
 報告書の概要
 はじめに
 1944(昭和19)年12月7日午後1時に発生した東南海地震は、海洋プレートの沈み込みに伴い発生したマグニチュード7.9の地震で、授業・勤務時間帯に重なったこともあり、学校や軍需工場等を中心に死者1,223人の被害が発生した。その37日後、1945(昭和20)年1月13日午前3時に内陸直下型の三河地震が発生し、死者は2,306人に達した。
 第1章 東南海地震の災害の概要
 1944年東南海地震は、歴史上繰り返し発生してきた駿河トラフと南海トラフ沿いを震源域とする地震であり、震度6弱相当以上となった範囲は、三重県から静岡県御前崎までの沿岸域の一部にまで及び、津波伊豆半島から紀伊半島までを襲った
 第2章 東南海地震の被害と救済
 三重県においては、熊野灘沿岸の津波被害、愛知県においては、埋立地である軍需工場が集中する地区での被害、静岡県においては、軟弱な泥質からなる沖積平野地区において住家被害が見られるなど、被害の様相はさまざまであった。
 第3章 東南海地震インパク
 東南海地震は、宝永地震安政東海地震震源域と比べると、地震空白域があることが指摘され、割れ残し部分(想定東海地震域)について地震予知を前提とした対策が進むこととなった。当地震震源の広がりについては、想定東海地震に備えるために今後とも検討を要する課題である。
 第4章 三河地震の災害の概要
 三河地震は、プレート内活断層から発生した地震の典型例で、明瞭な地表地震断層の出現、多数の前震等が確認されており、岡崎平野南部や三ヶ根山地周辺に最大震度7の局地的な大被害をもたらしたが、東南海地震と同様、「隠された地震」であった。
 第5章 三河地震の被害と救済
 戦時下であったため、行政による援助物資は数量的にも乏しく、被災後の生活を支えるには不十分であったこともうかがえる。軍用物資の輸送路の確保が急がれたため、復旧を支える緊急輸送路の確保は早く、軍による倒壊家屋の処理等も実施された。被災状況を撮影した写真が残されており、立て続けに起こった地震による被害を知ることができる。
 第6章 戦時下での地震
 東南海地震及び三河地震による被害は甚大で、軍需生産力にも大きく影響したため、地震に関する資料は極秘とされ、戦時報道管制の下、被害に関する報道は厳しく規制された。地元紙においては、物資配給・住宅対策といった被災者の生活支援に関する記事についてできうる範囲での報道が行われた。
 おわりに
 ・東南海地震での諏訪の被害等のように、震源から遠方であっても軟らかい堆積物が厚く積もる地域では、大きな揺れに見舞われることを物語っており、長周期地震動による高層建築物などの被害と共通の課題である。
 ・三河地震による地表地震断層は、ほぼ原状のまま残っている地点が残されており、地形・地質・測地・地震学的データを検証できる数少ない実例のひとつであるので、研究対象としてだけでなく、大地震発生を示す貴重な題材として今後、活用が期待される。
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 RIA
 三河地震から70年。いつ起きてもおかしくない東南海地震に備えて。
 1945年1月13日 1,000名を超す死者を出した大地震三河地震
 {震源地は三河湾 北緯34度42分06秒 東経137度06分48秒、深さ11km。三重県津市で震度5を記録したが、震源に近い現在の西尾市などでは震度6(現在の震度階級では7)であったといわれる。
 1ヶ月前の1944年12月7日に発生した昭和東南海地震の最大規模の余震とする説があるが、同地震に影響を受けて発生した誘発地震とする説もある。地震発生当初は昭和東南海地震(第一次地震)に対して第二次地震と呼称された
(出典:フリー百科事典-Wikipedia三河地震)}
 今日、1月13日は三河地震からちょうど70年にあたります。まだ記憶に新しい東日本大震災では多数の方が犠牲になっただけでなく、津波原発事故など地震を起点として様々な災害が日本を襲いました。未だその傷跡の大きさが度々報じられる中、いつ起きてもおかしくないと言われ続けている東南海地震について少し。
 「今後数年から数十年のうちに起きる」東南海地震
 地震予測の技術が上がっているとはいえ、いつ・何時・どの程度の規模で起きるかわからない地震。もう長く起こっていない東南海地震は溜め込んだ地震のエネルギーが一気に吐き出されるために甚大な被害を引き起こす可能性があり、随分前から警戒を呼びかけられています。
 {東南海地震(とうなんかいじしん)は、紀伊半島沖から遠州灘にかけての海域(南海トラフの東側)で周期的に発生するとされている海溝型地震。規模は毎回M8クラスに達する巨大地震で、約100年から200年周期の発生と考えられている。東南海大地震(とうなんかいだいじしん)とも呼称される。
(出典:フリー百科事典-Wikipedia東南海地震)}
 紀伊半島から東西の広いエリアで影響を受けると言われるこの地震。愛知近郊も相当な被害が見込まれるということもあり、調べてみました。
 愛知県だけでも死者2万人超。
 揺れは県下全域にわたって震度5強以上とも!
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 6-3-1 三河地域における被害地震
 愛知県における主な被害地震を表6-3-1に示す。これらの被害地震のうち、三河地域における震度分布が詳細に求められている地震として、1707年宝永地震、1854年安政東海地震
 表6-3-1 愛知県に被害を及ぼした主な地震
 1891年濃尾地震、1944年東南海地震、1945年三河地震がある。図6-3-1-1、図6-3-1-2、図6-3-1-3に各地震の震度分布図を示す。また、1944年東南海地震における住家被害率分布を図6-3-2に示す。
 各地震三河地域における被害の概要は、以下のとおりである(愛知県防災会議, 1977; 愛知県防災会議地震部会, 1978, 1979a, 1979b, 1981)。
(a) 1707年宝永地震
 渥美郡幡豆郡碧海郡宝飯郡に家屋の倒壊、死者多く、社寺・土蔵などの倒壊被害が夥しく、堤防も破壊した所が多かった。三河地方の震害が大きかったが、特に震源に近い渥美郡の震害が著しく、野田7郷、吉田(豊橋)、二川など内浜内陸部に被害が多かった。渥美の野田・田原は震度7に達した。
 渥美の太平洋岸に津波の被害が大きく、また三河湾・知多湾・渥美湾にも津波が浸入し、田原や一色・寺津・平坂にも大被害を及ぼした。
(b) 1854年安政東海地震
 渥美湾沿岸沈下した。豊橋の吉田城本丸の多門・やぐら・石垣等大破した。三河地方一帯多数の家屋が倒壊した。
 山地地域を除き大部分は震度6であるが、幡豆および渥美の一部に震度7のところがみられる。この地域の地震動が特に強く震害が大きかった。
 三河湾遠州灘の沿岸に津波が来襲し被害があった。渥美郡浜通り津波の高さ8~10mあった(愛知県防災会議地震部会, 1981)。
(c) 1891年濃尾地震
 幡豆郡の被害が最も大きく、震度7になった所があった。渥美郡でも若干家屋の倒壊があったが、東加茂郡・南北設楽郡ではほとんど被害がなかった。
 液状化現象が幡豆郡の平坂村、萩原村、松木嶋村でみられた。
(d) 1944年東南海地震
 碧海・幡豆郡方面の被害が大きく、なかでも一色町・福地村の被害が大きく、全壊率が福地村では46%にもなった。道路や海岸堤防の被害も大きかった。渥美では田原や福江に家屋の被害がひどく、遠州灘側では赤羽根村の被害が大きかった。渥美・幡豆郡では噴砂泥水箇所が多くみられ液状化現象が現われた。震度7西尾市の一部でみられた。
 三河湾で1mくらいの津波がみられたが被害はなかった。
(e) 1945年三河地震
 震源地に近い幡豆郡の被害がめだち死者1,170人、負傷者2,520人を出し、住家の全壊3,693戸、同半壊6,388戸を出した。これに次ぐのは碧海・宝飯郡である。碧海郡では死者851人、負傷者1,134人、住家全壊2,829戸、同半壊6,950戸であり、宝飯郡では死者237人、負傷者151人、住家全壊333戸、同半壊が1,443戸である(愛知県防災会議地震部会, 1978)。その他の県にも被害は多少あるが、この地震で出来た著しい延長28kmの主断層付近に被害が集中した。断層の落差の最大は2mで、たてずれの逆断層であり、隆起沈降の地変も現われた。
 全壊率30%以上の町村は6ヵ町村(桜井村、明治村、三和村、福地村、横須賀村、吉田町)であるが、福地村は最大で68%に達した。字別では震度7が42部落に達した。
 三河湾に1m内外の津波が発生したが被害はなかった。
 上記5地震地震被害状況および震度分布について、三河地域における特徴を列記すると以下のとおりである。
①河川流域や旧河川敷、旧湖沼ないしは旧海岸部では液状化現象がみられ、これらの地点では家屋被害率も大きくなっている。
碧海郡幡豆郡などの沖積平野に家屋の被害が大きく、洪積層の土地では家屋の被害は少ない。
③1944年東南海地震での住家被害率と沖積層厚との関係を図6-3-3に示すが、被害率は軟弱地盤の厚さと相関がよい。
④震度分布をみると、局地的に震度7となる範囲が現れる。地震断層およびその周辺以外では、沖積層厚の大きいところに顕著となることがあり、地震動と地盤の震動特性による地域性が認められる。
 1945年三河地震は、三河地域を震源とする極浅発の直下型地震であり、他の4地震とは異なっている。震源が近いため、地震被害への地下構造の影響だけを判断するのは難しいが、当地震による地震被害の特徴をまとめると以下のとおりである。
地震被害分布の範囲は比較的狭いが、地震被害は地震の規模に比べて極めて大きい。
②住家全壊率が30%以上を示したところの大部分は断層の上盤側の地域である。また、断層の延長方向にあたる地域で全壊率や被害率の大きいところが見られる。
矢作川および矢作古川流域の沖積平野の軟弱地盤で全壊率が大きく、液状化現象も見られる。
④臨海部の埋立地干拓地の軟弱地盤では、沖積層厚が大きくなるほど被害率が大きい。
⑤半壊住家数が全壊住家数よりもはるかに多い地域が、比較的硬い地盤で地震動が強かったところに見られる。
 愛知県防災会議地震部会(1978)では、1944年東南海地震と1945年三河地震での住家被害率と地盤の微動卓越周期との関係を調べている。1945年三河地震では被害率のピークが卓越周期0.4~0.6秒に見られるのに対して、1944年東南海地震では被害率のピークが卓越周期1.0~1.2秒と比較的長くなっている。1944年東南海地震は海域に発生した大地震であるのに対して、1945年三河地震は陸域の直下型地震であることから短周期が卓越し、家屋の周期と地盤の振動周期とが共振しやすかったことによると推察している。
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 三河地震は、1945年1月13日午前3時38分23秒に、愛知県の三河湾で発生したマグニチュード6.8(Mw 6.6)の直下型地震である。 また、1945年の終戦前後にかけて4年連続で1,000人を超える死者を出した4大地震鳥取地震東南海地震、南海地震)の一つである。
 概要
 震源地は三河湾 北緯34度42分06秒 東経137度06分48秒、深さ11km。三重県津市で震度5を記録したが、震源に近い現在の西尾市などでは震度6(現在の震度階級では7)であったといわれる。
 1ヶ月前の1944年12月7日に発生した昭和東南海地震の最大規模の余震とする説があるが、同地震に影響を受けて発生した誘発地震とする説もある。地震発生当初は昭和東南海地震(第一次地震)に対して第二次地震とも呼称された。
 断層
 深溝断層(ふこうずだんそう)と横須賀断層によって起こされた地震で、断層は陸上部で18km、総延長は28km、最大の高低差は約2m、横ずれ変異量は約1mである。この地震で形成された深溝断層は、1975年に愛知県指定天然記念物に指定されている。深溝断層は逆断層で、隆起側での家屋倒壊などの被害規模が大きく、沈降側での被害は断層からの距離が10m以内に集中した。2013年現在西尾市の妙喜寺には、当時の地割れ(地表地震断層)が保存されている。
 北北西方向への延長線上には1891年濃尾地震を引き起こした根尾谷断層帯が存在し、更にその延長線上には1948年福井地震を引き起こした福井地震断層が存在する。
 被害
 震源が浅く、マグニチュード 6.8と規模が比較的大きかったにも関わらず、被害報告はごく僅かしか残されていないために、現在に至ってもこの地震について詳しいことは判っていない。しかし震源域の三河地域では、昭和東南海地震よりも多くの死者が記録されており、死者1,180人、行方不明者1,126人、負傷者3,866人。家屋の全壊は7,221戸、半壊1万6,555戸、全焼2戸、半焼3戸、その他2万4,311戸とされる。なお、近年になって地震被害を報告した当時の帝国議会秘密会の速記録集が見つかっており、これによれば愛知県の幡豆郡碧海郡で死者2,652人に達したという。一方、碧海郡明治村の明治航空基地では顕著な被害は記録されていない。
 死者が多かったのは幡豆郡福地村(現・西尾市)234名、西尾町、三和村、横須賀村275名(以上現・西尾市)、碧海郡桜井町(現・安城市)、明治村325名(現・西尾市安城市碧南市)、宝飯郡形原町233名(現・蒲郡市)などで、平坂町(現・西尾市)では堤防が4メートル沈下して79ヘクタールの水田が海水に没したほか、矢作古川周辺では液状化現象も見られた。前述の被害が甚大な地区では、どの家族にも死者が出るほどの高い死亡率だったと言う。なお、震源を離れた葉栗郡や中島郡、名古屋市から一宮市付近でも一部で家屋の倒壊があった。また、三河湾で小規模な津波の発生が確認されている。
 局地的な被害はほかの直下型地震よりも深刻であった。被害状況は集落ごとに大きな差があり、ある集落は壊滅している一方で隣の集落はほとんど被害がないという状況も随所で見られたと言われている。37日前に発生した昭和東南海地震により構造上重要な「ほぞ」が外れた半壊状態の家屋が、物資及び人手不足から修理されず、新たな地震動により全壊に至った可能性が指摘されている。また、三州瓦の産地に近いことから、耐震性に欠ける瓦葺きの家屋が多く存在していた事も家屋の倒壊を促進したと考えられている。1日に40~50回の余震が発生していたため、家が無事な場合でも多くの被災者は屋内に戻ることが出来ない状態であった。
 救援活動
 地震が発生した当時は太平洋戦争中であり、当時の政府当局によって国民の戦意を低下させないことや軍需工場の被害を伏せるため(敵への情報流出も作戦へ影響する)報道管制が敷かれ、地震発生の報道はなされたものの被害規模やその後の状況などは多くが伏せられた。ただし、地元でもある中部日本新聞(現・中日新聞)は比較的多い報道を行なったほか、名古屋大学教授らからなる震害地学術調査団を現地に派遣している。 地震被害の報道がなされなかったことで、近隣地域からの救護団も無く更に、地震直後の行政による組織的な救援活動が実施されたとの記録は残っていない。しかし、明治航空基地や海軍基地の軍関係者による小規模な救助及び復旧活動が行われたとの証言が残っている。
 地震発生から2カ月後から行政(県)の手配による「工作隊」が組織され復旧活動が進められた。
 前後の地震活動および宏観現象
 1月7日頃から始まった前震活動は1月11日頃から活発化し、形原町西浦町では有感地震5〜6回を含む前震(マグニチュード5.9、5.2を含む)が発生していた翌13日には一旦沈静化した。余震活動も非常に活発であり、近年余震が特に多かったといわれる新潟県中越地震を凌ぐ数の余震が観測された。最大の余震は、本震発生後3日目に発生したM6.4の地震である。
 また前震や余震の前後に三ヶ根山周辺(地震断層の直上)で夜空が発光するなどの宏観異常現象が確認されたとの報告がある。当時は灯火管制が敷かれており、人工の灯りである可能性は低いとされる。
 江戸時代の三河地震
 1686年10月3日(旧暦・貞享3年8月6日)に遠江三河の沖合いでマグニチュード6.5〜7の地震が発生し、被害はこの2国におよんだ。遠江三河地震と呼ばれる。なお、1685年に記録されている三河地震は、根拠となった『渥美郡史』の誤字であり、発生はしていないと考えられている。また貞享3年の地震は1707年宝永地震の先駆的な地震として発生した可能性があり、広義の前震の可能性があるとされる。
 1861年2月14日 文久西尾地震 - M 6.0が発生。震源域は1945年三河地震と似ている。
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