⛻15〗─1─国際観光都市・京都。明治天皇の東京行幸。水路閣。和服。応仁の乱と西陣。~No.73No.74No.75 @ ⑨ 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本を代表する製造業は、京都を中心とした近畿地方から生まれた。
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 宮本又郎(大阪大学名誉教授)「江戸期の両替商と近代の銀行は、運用資金の源泉に大きな違いがあります。両替商の運用資金の中心は自己資本であり、銀行の運用資金の中心は預金です。
 一般的にいえば、両替商は質屋などのように自分のお金を貸し付ける『金貸し』的色彩が強く、運用先も御出入りの大名などへの貸し付けが主でした。
 一方、顧客のお金を預金して集めて第三者に貸し付ける銀行は『金融仲介業者』であって、運用時には貸し付け相手を見る審査能力も問われます。洋式帳簿も早くから導入されていましたし、銀行業務に習熟した人材を確保できるかも、初期の銀行の大きな問題だったでしょう」
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 「京人10代、江戸ッ子3代、大阪人1代」。
 井上章一国際日本文化研究センター教授)「京都市の嵯峨で育った私は自分の事を『京都人』だと想っていません。嵯峨は行政上、京都市右京区編入されていますが、かっては京都府愛宕郡に属していた。洛中の人たちは京都とはみなさないのです。京都府民で自分の事を〝京都出身だ〟と屈託なく言えるのは洛中の人たちだけです」
 「洛中に住む京都人の優越感の源流は南北朝時代にまで遡ります。南朝を打倒し室町幕府を開いた北朝足利尊氏の頃から京都人の〝選民意識〟は根付いています。この風土は一朝一夕では変わるものではない」
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 応仁の乱で、商工業者が生活する下京は焼かれずに残った。
 西軍が陣を敷いた西陣にいた織物職人達は、堺に避難して中国渡来の最新技術を身に付け、乱後に西陣に戻り、高級織物「西陣織」を編みだした。
 京都は、武家ではなく町衆の力が強かった。
 戦乱で荒廃した京都を嫌った公家と連歌師能楽師は、各地に疎開し京風文化を広めた。
 各地の領主は、領内に室町御所風の建物と京都風の街並みを再現し、小京都を出現させた。
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 「メイド・イン・ジャパン」は、戦後の優秀な日本製造業を証明するものではなく、明治の初期からすでに日本の製造業に与えられていた。
 明治の製造業を支えてた基盤は、江戸時代の名もなき職人が培った匠の技であった。
 職人の匠は、中央の江戸ではなく地方の京を中心とした畿内にあった。
 「メイド・イン・ジャパン」は、戦後の日本が作り出したのではなく、江戸時代から存在していた。
 現代の「メイド・イン・ジャパン」の賞味期限は、高度成長からバブル崩壊までの約50年と短かく、バブル崩壊後「メイド・イン・ジャパン」の復活の目処が立っていない。
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 京都商人の多くは、天皇家・皇族・公家を相手に商売をしていたが、天皇が東京に移るや皇族・公家も東京に移ってしまい、唯一のお得意先がなくなり多くが廃業した。
 多くの商家が廃業して京都の町は衰退した。
 元会津藩士・八本覺馬は京都市長となり、京の町を復興させる手段として国際的観光都市化に力を入れた。
 貧しい日本人が京都に関心を持たず訪れないのなら、日本文化に関心がある金持ちの外国人観光客を呼び込むべくあらゆる手段を推進した。
 京都市民達も、より多くの外国人観光客を呼び込み大金を使わせる為にあの手この手と工夫をこらした。
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 町衆の古都・京都。
 人口減少は、技術革新のキッカケとなり、新たの文化を生み出した。
 禁門の変によって、市中の約6割が焼け野原となり、約35万人の人口が23万人に急減した。
 明治天皇が東京に行幸してそのまま留まり、都が京都から東京に移されるや、京都の人口は20万人に減った。
 亰の街が奈良のように廃れて田舎の町になるとの危機感から、公共投資などによる政府の官需ではなく、町衆による民需を行った。
 東京や外国からの借金・投資に頼らず、亰の資金を掻き集めて資本として使った。
 先ずは子供への近代的教育が重要であるとして、政府の学校制度が出来る2年前に、地域ごとに小学校を開校し、中華思想に基づく古典的観学を廃して西洋の合理的実学を採用した。
 売るべき資源はないが、京都市の75%を占める豊かな森林、1000年以上受け継いできた多種多様な文化と芸術、雅を極めた高度な伝統技術、があった。
 ないモノを嘆くより、今あるモノを感謝して最大限に利用する。
 理屈で考えるのではなく、出来ない事ばかり数え上げて言い訳をせず、自信を持ち、直感を信じ、発想・閃きを大事にし、柔軟に行動した。
 変化を恐れず、時代を取り込み、巧みに使って利用しきる。
 京の街に閉じ籠もるのではなく、広く世界を見渡して取り入れるものは取り入れる。
 原動力は、知的好奇心であった。
 西洋の科学と技術を、職人の世界に移植した。
 文系も理系も、思想哲学も科学・化学も、基礎も応用も、ありとあらゆるモノを、区分けする事なく垣根を外して、貪欲に飲み込んだ。
 見えない所で変わる、変える。
 誰も手がけていない分野を開拓し、今までになかった商品を研究・開発し、如何に年月を掛けても大金を注ぎ込んでも諦めずにものにした。
 社会が必要とする商品。社会が求める商品。
 社会の為に役立つ商品。
 自分の為ではなく社会の為の商品。
 画期的な商品。
 驚き与える商品。
 他を差別できる付加価値のある商品。
 とにかく客に買って貰える商品。
 小金を使って楽をして大金を稼ぐより、大金を使い苦労して小金を稼いだ。
 目先の利益ではなく、10年先、20年先を見据えて商いをする。
 費用対効果を度外視したところに、京都の生き残る道があった。
 国家の為ではなく、京都の為に商いをした。
 短期的に大金を稼ぐ事は「薄利を追う」事として避け、長期的に暖簾を守り店を畳まない事に徹した。
 日本は世界的に老舗が多く残っている。
 問題は、お客様に満足してもらい、買って頂く。
 客は、売り上げの金額を表す数値化された消費者ではなく、商品の数を減らしてくれるお得意様である。
 その結果。衰退の窮地に陥った京都や大阪は、東京以上に新たな産業を興して豊かになった。
 近代産業の大半が、中央の東京ではなく、地方の京都・大阪・名古屋などで創業している。
 日本の強みは、中央ではなく地方、グローバルではなくローカルにあった。
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 京都は、古い伝統を守りながら常に新しいものを取り入れて生きてきた。
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 衰退した京都は、昔の賑わいを取り戻す方策として、外国人の間に広がっていた日本文化プームに目を付け「観光振興」に力を入れた。
 京都市民は、京都で開催された日本博覧会を見に来た外国人観光客を市内に呼び込むための工夫をこらした。
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 1885年 水路閣(疎水橋)。京都府知事・北垣国道は、青年技師・田辺朔郎を担当者にして琵琶湖から水を引く疏水計画を発意した。
 田辺朔郎は、水路閣の一部が名刹臨済宗南禅寺境内を通過する為に、景観に配慮して欧州の水道橋を参考にしてデザインした。
 琵琶湖疏水を、琵琶湖と京都を結ぶ船運としてもちろん、京都市内の上水・工業用水として利用した。
 蹴上(けあげ)に、我が国最初の水力発電所を設置し、路面電車を走らせた。
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 1904年(〜64年) 西郷菊次郎京都市長に就任する。
 京都近代化の為の3大事業。第二琵琶湖疎水(第二疎水)開削。上水道の敷設。道路拡築および市電敷設。
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 2016年2月15日号 AERA「検証・京都 古都の実力
 唯一無二の都市の磁力を解明
 1000年の都、ぶぶ漬け、『そうだ、京都、行こう。』・・・
 歴史の古さと敷居の高さで、インテリ外国人も、女磨きのおひとりさまも眩惑する古都の実力を徹底検証。
 京都って、そんなにすごいんですか?」
 京都は世界的観光地なのか
 ……
 一見さんお断りの精神
 予想を上回るハイペースで、観光客数が伸びている。それに対し、(京都市産業観光局)観光MIC推進室は『満足度を上げ、リピーターを増やしたいと思っています』と話す。
 単に数を増やすのではなくリピーターを増やす。なるほど、『一見さんお断り』の精神か。目先の利益より、信頼関係の構築が先。受け入れてもらうには、まずは京都観光のいろはを知る必要があるのだろう。京都は、関西でも大阪に比べて、欧米から訪れる観光客がもともと多い。そうした地域からの旅行者はリピーターが少なくない。
 英語圏で最も読まれているガイド『ロンリープラネット』では、京都は一生に一度は訪れるべきで、パリやロンドンと同じランクだと絶賛されている。しかし、夏は暑くて冬は寒い盆地で、道も渋滞しがち。決して快適な環境とはいえない。それでも観光都市としてゆるぎない地位を保つ続けるのはなぜか?
 クラブツーリズム京の旅デザインセンター顧問で、京都文教大学でツーリズム論を教えている宮本茂樹さんはこう話す。
 『ヨーロッパか来られる方の中には、学生よりも日本文化に造詣が深い方もいる。海外の庭園やデザインを楽しむのでしょうが、禅寺の庭には思想が表れているので、鑑賞するというより洞察するといってもいい。そこに何かを見つけたい、隠された何かを見破りたいと、もう一度、訪れたくなるでしょう?』
 また、和菓子は季節や月ごとに種類があり、31日と翌月1日では並ぶものが異なる。たった1日の違いで昨日買ったものが季節外れになってしまうのだ。
 『何度も訪れて、歴史と文化の奥深さを味わうのが京都の旅の楽しみ方なのです』(宮本さん)
 平城京から平安京めで6回都を移してきたが、1000年続いた地域は京都だけだ。京都府内の世界遺産の数は17ヶ所に上り、事実、観光の対象となる場所や文化の集積がみられる。
 しかし、一般に『イメージ』や『ブランド』は、自然に作られるものではない。古都・京都のイメージも、看板の規制や、花街の電柱を地中に埋めるといった行政の取り組みが功を奏し、JR東海の『そうだ 京都、行こう』の印象的なCMやポスターの影響も大きいだろう。
 その善しあしは別として、外の人から見『こうあってほしい』てという期待や幻想をうまく取り込んで、発展する。それが観光都市として成長する秘訣なのかもしれない。
 京料理は本当においしいのか
 歴史や文化は、神社仏閣だけではない。ユネスコ無形文化遺産の『和食』、その中心にあるのが京料理だ。濃い味付け舌が慣れている関東人の中には『何だかものたりない』という人もいる。
 京料理のおいしさとは一体何なのか。誰もが納得できる答えを探しに、京都の料理人らと研究会を開いている大学研究室のドアをたたいた。
 『京都には何もなかった。海に面していないから、新鮮な食材が手に入りにくい。だからテクニックで補う必要があり、料理人が育ったのでしょう』
 龍谷大学農学部教授で、食の嗜好研究センター長の伏木亨さんは言う。加えて影響しているのは宮廷料理の存在だ。
 『味にうるさい人が多く、品質を落とさないという緊張感がありますよ。いつ食べても同じ味で完成されている』(伏木教授)
 ただ、食通が多いのは東京も同じ。しかも飲食店の料理人も星の数ほどおり、競争原理が働いてレベルは上がるはず。
 『日本料理は出汁(だし)がベース。水の料理なんです。京都の水の硬度は約40度。関東は60度。昆布は京の水のほうが早く柔らかくなるし、イモのゆで加減も違う。水によって料理のさまざまなタイミングが変わってきますね』(伏木教授)
 つまり、日本料理は京都の水に合わせて発展したのだという。京都は地下水が豊富で琵琶湖に匹敵するといわれている。
 ……
 おいしさを科学する
 多くの料理人と接してきた伏木教授はこう語る。
 『京料理は時代とともにどんどん変化する。世界中のいいものを取り入れているから京料理は常においしいのです』
 例えば牛肉。昔は京料理の食材として使われることはほとんどなかったそう。スペインのレストランが発祥といわれる液体窒素を使った現代的な調理法も、一時的、どこの調理場でも試されたとか。京都人は意外にも、新しいもの好きのよう。
 『新しいものが入っているから今がある。でも、時間のフィルターにかかって、必要なものしか残らない。100年後をつくるのは今。そういう気持ちで料理人は日々研鑽していると思います』(才木さん)
 また、『いけず(意地悪)』の印象が強い京都人だが、意外にも料理人同士は仲がよく、技術はオープンにしているという。伏木教授とともに研究を重ねる龍谷大学農学部の山崎英里准教授は、この点にも注目する。
 『積み重ねが、一代限りではないことも大きい。京都の料理人は自分の息子が修行する時、他の店に預けます。すると関係性が深まりますよね。ライバルであっても敵ではない。それに、単純なものまねは末代までの恥。だからお互いの技術をオープンにし、研鑽できるのです』
 いま、伏木教授や山崎准教授と料理人らは新しいテーマに取り組む。食材や技術が変わり続けるならば、和食を和食たらしめている要素は何か。料理の国境線を探るという試みだ。
 ……
 京都企業はなぜ元気なのか
 ……
 家電をはじめ日本の製造業の元気がないが、京都にはキラリと光る企業が多い。しかし、なぜ、伝統産業が息づく古都、京都で企業が育つのだろう。
 『個性があって、非常にユニークですよね。各社、独自の技術を持ち、汎用製品を作っていないのが特徴です』
 京都大学大学院経営管理研究部の川北英隆教授は、京都企業の特徴をこう話す。
 技術力とオリジナルティーは、グローバル社会で競争力になる。それは数字に表れているという。
 製造業に賭けて成功
 ……
 京都企業という括るでは当たる外れが小さい。
 『簡単にはまねできない技術で世界シェアを確保している。日本電気のモーターがいい例。新規の参入が難しく、これからも京都企業は生き残り、活躍するのではないか』
 と川北教授はみている。
 では、そもそも、なぜ独自の技術で勝負するようになったのか。京セラ、任天堂んど京都企業の大株主は、京都銀行だ。相談役の柏原康夫さん(76)に企業育成の秘話を聞いてみた。
 『先見の明があったとか、育てたなんておこがましい。最初のきっかけは、我々が仕方なしに、という部分もあったんです』
 と柏原さんは明かす。 
 もともと京都銀行は、本店が市内になかった。福知山市から本店を京都市内に移したのは昭和28(1953)年。当時、市内は滋賀銀行や関西発祥のメガバンク、信用銀行が強かった。当然、西陣、室町を中心にする繊維産業からは、よそ者である京都銀行は、最初は相手にされなかったという。
 『営業行って「丹和銀行(京都銀行の前身)って名刺渡したら、相手に「なんや、三和銀行かと思ったわ」と言われた、なんて話は先輩からようけい聞きました』(柏原さん)
 そこで取引先を製造業の中小企業で開拓したのだという。それが、後に大きく花開いたのだ。
 伝統と革新と
 時代背景もある。戦後復興は重厚長大の産業が中心。京都市は海に面していんしため、そうした産業には適さなかった。代わりに、軽くて小さい部品製造で強みを発揮していった。
 『ものづくりの素地があった。1000年の都にあらゆる技術が集積していたから。奈良は75年なので集積が難しかったんでしょうな。京都には「しょうもないものはつくらない」という精神が根付いています』
 京都は街がコンパクトで、経営者同士の仲がいいのも特徴。経済や観光の会議にはじまり、飲み屋でもいつも同じ顔ぶれだとか。立ち話が情報交換の場になり、経営者の手腕を磨くことにつながっていたという。
 『いいものでも、需要層にマッチしていないとダメ。そこが経営者の手腕が問われるところ。いい例がワコール。価格が高いと言われるが、でも買えない高さじゃない。ちょっとぜいたくしてみようかってなるでしょう』
 歴史と伝統を重んじる気風と、技術など常に新しさを求める革新の姿勢。どちらが京都の本当の姿なのだろうか。
 『ベネディクトの「菊と刀」を読んだことがありますか。外国人による日本研究の本ですよ』
 と柏原さんは意味深なヒントをくれた。本を開いてみると、こんな一節が目に入る。
 ・・・矛盾はいずれも日本に関する書物の縦糸と横糸であった、すべて真実である。……保守的であると同時に、新しいやり方を歓迎する・・・(『菊と刀光文社古典新訳文庫) 『日本』を『京都』に置き換えてみるとすっきりする。伝統と革新。京都を織り成すのはきっと、その両方なのだ」
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 欧米人と日本人の感性は異なる。
 日本人は、風光明媚な自然に感動し、タダほうけたように鑑賞し、我を忘れて癒やされる。
 欧米人は、人が叡知と卓越した技術で造り上げた造形物に感動し、造形物を観察し、美を感応し、技に魅了される。
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 世にも珍しい奇石であっても、生命感も霊感もなく、人を魅了し惹きつける所がなければ、タダの死んだ石ころでしかない。
 京都が、単に歴史が古く、昔ながらの伝統文化があるから特別なのではない。
 問題は、生きているかどうかである。
 京都は、伝統と伝承を欠かさず続けている。
 「おもてなし」とは、相手に媚びを売る事ではない。
 京都は、客を「もてなす」が、決して金儲け・利益の為に媚びない。
 京の魅力は、そこにある。
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 京都が昔の都大路を保たれたのは、太平洋戦争で東京・大阪・名古屋などの無差別絨毯爆撃されなかったからである。
 何故、無慈悲な非戦闘員殺傷の爆撃がされなかったのか?
 軍事施設がなかったからではなく、由緒ある寺社仏閣や人類文化史的な貴重な文化財があったからではなく、日本人の精神的な拠り所で有ったからでもない。
 原爆投下実験による原爆の破壊力を調べるに丁度よかったから、京都空襲を禁止したに過ぎない。
 東京が原爆投下実験の目標に成っていたというのは、あり得ない事である。
 戦争を終結させる為には、昭和天皇や政府・軍部の首脳を生かしていく必要があった。
 東京にいる昭和天皇や政府・軍部の首脳陣を皆殺しにする目的で、東京に原爆を投下すれば、昭和天皇を守る為に玉砕や特攻を行う日本人が怒り心頭に発して最後の一人が死に絶えるまで戦いを止めない事態となる。
 アメリカ、自由と民主主義陣営が最も恐れたのは、日本でロシア革命のような暴力的共産主義革命が起きて、天皇制度を破壊して共産主義国家になる事であった。
 宗教的白人至上主義のアメリカ人にとって、キリスト教文化でもないローカルな日本文明に愛着もなければ、価値すら認めてはいなかった。
 不寛容で厳格なキリスト教からすれば、異教の日本文化を残すほどの価値を見出してはいなかった。
 事実。人類史・世界史に於い、数多くのローカルな民族文化や土俗宗教・信仰そして民族言語は、グローバルなキリスト教価値観の正義によって消滅している。 
 京都を守ったのは、神の裔・昭和天皇であり、神代から続く日本皇室である。
 日本国語も、日本神道も、日本皇室同様に、危うい状況ではあるが今なを生き延びている。
 反天皇反日的日本人は、その歴史的事実を知り理解した上で、天皇の戦争責任及び戦争犯罪を訴え、天皇制度を廃止し、日本皇室を廃絶しようとしている。
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 2016年4月5日号 ニューズウィーク誌日本版「レッドカーペットに『本物』の着物を マリソン・マクナーニー
 ファッション 正統流の着物で世界市場に殴り込みをかける 京都の着物メーカーと日本人スタイリストの挑戦
 東京出身で現在はアメリカに住む着物スタイリストの浅井の夢は、よくある『着物テースト』を取り入れた服ではなく、伝統的な着物が高級ファッションとして世界に認められること。ハリウッド女優が、着物姿でレッドカーペットに登場するようになることだ。
 『着物を日本の伝統文化の一つとして見せるだけなら、もっと簡単かもしれない。でも私は、着物をファッションとして受け入れてもらいたい』と浅井は語る。『ショーでは日本の音楽もモチーフも使わない。欧米の舞台で着物の魅力を見せる』
 ショーを現実にしたのは、浅井の個人的な夢だけではない。需要不足と後継者不足に悩む和装業界は、世界市場に活路を見いだそうとしている。京都の着物メーカー11社から成る『きものアルチザン京都』の那須修・副代表によると、80年は約200億ドルだった和装市場は、昨年は30億ドル程度に縮小。職人の高齢化も進み、伝統的な職人技が失われかねない状況にある。
 新しい着方を試す若者も
 そこで浅井は『アルチザン京都』と組んで、ニューヨーク・ファッションウイークでのコレクション発表を目指すことを決意。クラウドファンディングのサイト『キックスターター』で資金を調達した。
 初のコレクション発表後、浅井は『(プロジェクトの成功に)自信があった』と語った。まだハリウッド女優からの問い合わせはないが、いずれは世界に着物店を開きたいと言う。
 着物に別の活路を見る声もある。ジャーナリストで、『キモノ・ナウ』という著書がある岡粼真奈美によると、日本の若者は今も和装を大切に考えている。彼らは着物を前後逆に着てきたり、スニーカーと合わせてみたりと、新しい着方を試しているという。
 伝統的な手描きではなく、レーザープリントした絵柄の着物もある。最近ではデニムの着物も登場した。これなら着やすい上に、洗濯機で洗えるなど手入れも簡単だ。着物は美しいが扱いにくいと敬遠される部分があるから、手軽さが重要だ。
 それでも浅井は、あくまで『本物の着物』にこだわる。誰もが手織りの反物でできた絹の着物を買えるわけではない。しかし、だからこそ着物をオートクチュールとして見てもらえる可能性があるというのだ。
 『手作りの着物の素晴らしさを伝えるべきだと思う』と浅井は語る。『それでこそ世界に着物ファンを増やせるはずだ』
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 2017年3月7日 産経ニュース「112カ国10万人「ベストシティは京都」 満足度96%…初の1位に
 祇園甲部「始業式」を終え、会場を出る芸舞妓ら=1月7日、京都市東山区祇園甲部歌舞練場(寺口純平撮影)
 イギリスの旅行専門雑誌「Wanderlust」(ワンダーラスト)は読者投票による2017年の「Travel Awards」を発表し、ベストシティ(都市別)部門で京都市が1位に選ばれた。これまで京都市は2009年と2012年の2位が最高で、1位は初めて。
 同誌は1993年創刊で発行部数は約9万部。ホームページなどによると、世界112カ国で約10万人の読者がおり、旅慣れしている人たちをターゲットにしているという。
 読者が昨年1年間の旅行での満足度を投票する形式でランキングを実施。京都市は、神社仏閣など歴史的景観が残る街並みと現代的な街並みとの違いを楽しめることなどが評価され、96・47%の満足度を獲得した。2位はトルコ・イスタンブール(96・36%)、3位はベトナムホイアン(95・33%)だった。
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■「ベストシティ部門」のランキング■
 1位 京都(日本)          96・47%
 2位 イスタンブール(トルコ)    96・36%
 3位 ホイアンベトナム)      95・33%
 4位 クスコ(ペルー)        94・67%
 5位 サンクトペテルブルク(ロシア) 94・48%
 6位 ボストン(アメリカ)      93・94%
 6位 ブタペスト(ハンガリー)    93・94%
 8位 ケープタウン南アフリカ)   93・67%
 9位 エジンバラ(イギリス)     93・57%
 9位 クラクフポーランド)     93・57%」
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 8月2日 産経ニュース「「都市」としての古都の魅力 養老孟司さん「京都の壁」
 解剖学者・養老孟司さん
 400万部を超すベストセラー『バカの壁』から14年、解剖学の碩学養老孟司さん(79)が日本の古都にメスを入れた『京都の壁』(PHP研究所)を刊行した。鎌倉生まれの鎌倉育ち。長く勤めたのは、東京大学という根っからの関東人。「よそ者が見た京都論も、視点が変わって面白いかなと思って」と執筆の動機を話す。
 今回、京都の壁をひもとくキーワードに選んだのは「都市」。都市というものは、インドでも中国でもヨーロッパでも、大陸では必ず城郭で囲んでいた。しかし、不思議なことに京都には、街全体を城壁で囲むような城郭がない。城郭とは本来、「結界」。ここから先は別の世界だ、と示す区切り。なぜ、京都には城郭は存在しないのか−。考察の先に示されるのは、かつて日本の街に必ず存在した「よそ者は入れない」という地域共同体の心理的な壁。「京都にはそれが色濃く残っている。『いちげんさんお断り』もそう。京都の面白さは、形式の大切さを知っていること」と指摘。若いうちは形式をバカにするが、年齢を重ねるとその意味がわかってくる。それが京都の壁であり、魅力と分析する。
 本書の根底にあるのは、好き・嫌いではなく「あるものはしようがない」という、養老流のものの見方。「京都のいけず」も「ぶぶ(お茶)漬けでも…」も、批判するのではなく、背景に視点を移し、浮かび上がるものをすくい取る。「でも土地の雰囲気は、訪れないとわからない。それを懐かしむか嫌うかは、京都に行って考えてみてください」(服部素子)」
   ・   ・   ・   
 8月19日・26日号 週刊現代「合併特大号 特別対談
 磯田道史×福岡伸一
 厄介でいけずな街 京都をディープに楽しもう
 この2人、実は京都に深い縁がある。なぜ京都は長きにわたって人を引き寄せ続けるのか?この街は決して閉鎖的ではない。生き物なのだ──。生物と歴史の両方から、深い楽しみ方を提案する。
 ……
 『動的平衡
 ……
 磯田 京都学派の大家である西田に福岡さんが挑んだ『福岡伸一 西田哲学を読む』(明石書店)をとても面白く読みました。私は『生物と無生物のあいだ』などで福岡さんの『動的平衡』という考えに触れたときに、すぐに『これは西田哲学だ!』と思ったんですよ。
 私も福岡さんも京都にゆかりがありますが、私は京都を『動的平衡』だと思っています。
 福岡 興味深い指摘です。動的平衡の話を簡単にしておくと、生命は生きるために、常に細胞を入れ替えています。たとえば去年の自分の体と今の自分の体を比べると、それを構成するタンパク質などは、その間に取り入れたものによって入れ替わっている。『別のもの』に入れ替わっているんだけど、自分は自分でしょう。動的に形を変えながあら、存在としては平衡を保っているんですね。
 磯田 京都の都市、建築物はまさしくそういう生命論に引きつけて語ることができるんです。その観点で言いますと、『京都は閉鎖的だ』『よそ者を排除する』と言われますが、実は違う。動的平衡なんです。京都が京都であり続けるためには一番京都的ではない何かを取り入れ続けないといけない。
 福岡 京都を作り上げている中身は入れ替わり続けているわけですよね。
 磯田 前近代の都会は外から人を受け入れなくては人口を維持できなかった。周辺地から人が流入し都に吸われて死ぬ。歴史人口学者・速水融(あきら)の『都市蟻地獄』説です。抗生物質のない時代、都市は疫病等で死亡率が高い。
 現在の京都の古い住人たちにも、京都より北、北陸地方や近江・丹波・丹後・但馬からの移住者の血が色濃く入っている。
 北陸から来るのは、同地方で信仰されていた浄土真宗と関係があります。浄土真宗は子どもの『間引き』を特に忌むので、人口が増えすぎる。余った子が都市に出ます。
 彼らは敬虔で勤勉、道徳があって、おく働く。ありがたがるのは京都の東西本願寺など信仰対象の巨大建築物。『会いに行ける宮殿』に憧れる。
 『ありがたみ』の仕組み
 福岡 なるほど、『会いに行けるアイドル』ではなく、会いに行ける宮殿。
 磯田 京都の大寺院に行けば、江戸の大名屋敷や田舎の城よりも大きな広間がみられる。皇室の親戚の門主・僧侶にも会える。会いに行ける『皇族』ですよね。
 それに京都にはお芝居もあれば落語もある。京文化に憧れを持って移り住み、『憧れの京都』を再生産する人たちが集まり維持された。
 福岡 京都的でないものを次々取り入れながら、京都的なものを再生産していく。まったく閉鎖的ではないですね。
 磯田 京都は各方面からアクセスしやすく人が集まる。だからこそ『都』たりえたわけです。京都観光の象徴の一つは嵐山の渡月橋ですが、施工の監督をしたのは、当時京都市役所の職員だつた岡山出身の『よそ者』、私の祖父です。
 福岡 たとえば京都大学でも、京大を代表するような面白い先生って京大出身の人ではないんですよ。私が学んだ頃は森毅(つよし)という数学の先生がいたけれど、東大から来た人でした。動物行動学の日高敏隆あって東京から来た先生だし、変わらないために変わり続けている。
 一方で、井上章一さんの『京都ぎらい』にもあったような、『いけず』の文化がありますよね。あれがどうして醸成されているのか。
 磯田 『京都ではこうや』と、京都人に言われ、よそ者が、それに納得したり傷ついたりする。私の郷里は岡山ですが、『岡山ではこうする』と東京人に言っても、相手にもされません。でも、『京都では』と言われると、東京の人も凹むことがある。
 福岡 それ、京都はすごく強いですよね。こういうものだと言われると、『ははあ』となる。
 磯田 しかも、京都のなかでも洛中があるように、空間的に真ん中にいくほど、中華思想のごとくその濃度が濃くなる。
 福岡 あれ、なんでなんだろう。
 磯田 一つは、非暴力で物を吸収し続けてきた伝統があると思うんです。京の朝廷や公家はたいした武力を持っていない。それなのに、律令国家の租庸調とか荘園年貢は都に納め続けられました。
 福岡 地方の人たちは、飢えていようが年貢を納めていたんですね。
 磯田 お供え物のような、どちらかというとお賽銭のように払ってきたと思うんです。
 なぜ払うかというと、もう『ありがたみ』しかない。京都の天皇が、ありがたみの中心です。中心にいくほど、ありがたみが大きくなる仕組み。
 流れる川のように
 磯田 そこで、天皇の脇に住んでいるだけの京都人も『我々は価値・しきたりの中心だ。ありがたがられて当然』と思い始めると『いけず』が発生しやすくなる。
 福岡 そうして京都は1000年の都になったわけですど、そのままの形を保ってきたわけではなくて、破壊と構築を繰り返してきた。生命論と重ねて京都を語る時、私はこの破壊に注目したいんです。
 20世紀の科学、もっというと生物学は、『構築すること』を一生懸命研究してきました。細胞のなかでどうやってタンパク質が形を作るのか。DNAがどうやって複製されるのか。でも、それは実は一通りしかなかったんです。どんな生物でも、大腸菌から、一通りの方法で一生懸命、生命を作ってきたんです。
 磯田 構築はシンプルな営みだったと。
 福岡 対して、今わかってきたのは、生命を生命たらしめる大事な部分は『壊す』ほうだということ。使えなくなったら壊すんじゃなくて、新品ほやほやでも、どんどん壊す。壊すことによって作る。『予め壊すことが決定されている』んです。
 京都の都市ってそういう感じがするんです。古いものを保存しているようであるけれども、ずっと同じ建材があるわけじゃない。
 磯田 そう。部材の取り換えがあるんです。京都ではないけど、法隆寺もそうですよね。
 福岡 世界最古の木造建築というけれど、多分、木材がどんどん更新されていくので、あり方はとても生命的なんです。
 磯田 近代西洋的なものは『ステップアップ』型で、階段を上がっていく。
 ……」
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