🍙23〗─2─女達は戦時下でも希望・夢として美を求めた。~No.139No.140No.141 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 戦前の日本を革新官僚と軍人が軍国主義で支配していたが、世界に通用する天皇ファシズムは存在しなかった。
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 戦前の日本は、暗い面もあったが明るい面もあり、男性は深刻で陰鬱であったが、女性は楽観的で陽気であった。
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 何時の時代でも日本文化にも、男性中心の儒教に毒された中国文化や朝鮮文化とは違い、女性の文化が存在する。
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 2021年2月18日号 週刊文春「私の読書日記
 戦時下の希望  酒井順子
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 コロナ時代となって、諸外国と比べ、国が発する号令に従いやすい日本人といえば、『家にいろ』『マスクしろ』といった要請に素直に応じる人と、そうでない人がいる。
 国からの号令に従いやすい日本人、と私が抱くイメージは、第2次大戦時の日本人の姿に基づいている。国が掲げる様々な標語に、当時の日本人は皆従っていた、と思っていたのだ。
 『非国民な女たち 戦時下のパーマとモンペ』(飯田未希 中公選書 1,700円+税)は、そのようなイメージ形成に一石を投じる書。
 ドラマ等で見る戦時中の女性は皆、大人であればひっつめたモンペ姿だが、そうではない女性達もかなりのボリュ-ムで存在したことを描き出す。『華美』『浮薄』『奢侈』ということで、パーマネント禁止が国民精神総動員中央連盟にて決議されたのは、日中戦争が始まった昭和12年(1937)のこと。しかし、既に流行に火がつていたパーマネント(以下、パーマ)をかけようとする女性は、跡をたたない。電力規制が為さると木炭でパーマをかける道具を開発され、女性達は貴重な木炭を持参して、パーマをかけた。今で言う〝自粛警察〟的な人々から石を投げられ、罵声を浴びせられても、女性達はパーマを求めたのだ。
 モンペは、昭和17年(1942)に婦人標準服とされるも、やはり皆が着ていた訳ではない。それは、あまりにも不恰好(ぶかっこう)だったのであり、戦争中であっても、スカートで生活していた人達も多かったのだ。
 パーマをかけると短い髪でもまとまりが良く、長い髪よりよほど時局に合ってい、という事情もあったようだ。が、パーマをかけることもモンペを着ないことも、女性にとっては『気持ちを上げる』ために必要だったのではないか。
 今の世においても、誰にも会わないのに化粧をし、新しい服を買う女性達は多い。それは、先の見えない時代に自分を奮い立たせるための行為。戦時中の女性達も、何かに逆らうためではなく、難局を生き抜くための自助行為としてパーマをかけたのだろう。
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 『お上の言いつけ』に縛られない女性達の存在は、『「細雪」とその時代』(川本三郎 中央公論新社 2,400円+税)を読むと、さらに実感することができる。
 谷崎潤一郎の『細雪』を読む時、4姉妹の動静にはばかり気を取られ、それが太平洋戦争前夜の話であることを、読者はあまり意識しない。昭和11年(1936)から同16年(1941)にかけての物語であるにもかかわず、谷崎は迫りくる戦争の影については詳述しないが、本書では背景となる時代を読み込むことにより、物語の側面を提示する。
 『細雪』は船場の商家に生まれた姉妹の話だが、主な舞台となるのは、次女の幸子、三女の雪子、末娘の妙子が住む芦屋。大阪の都市化が進み、商家の居住地が阪神間に移り、その地に『阪神間モダニズム』と言われる女の文化が育まれたことが指摘される。
 谷崎が戦争について筆を省くのは、その『女文化』を緻密に描くことに重きを置いたせいもある一方、
 『昭和12年前後は、日本の国民のなかでは、まだ戦争が拡大してゆく危機感が薄かったためではないか』とも、筆者は記す。
 花見での姉妹の着物姿は、人目をひくほどに華やか。美容院には頻繁に通い、パーマネントもかける。末娘の妙子は、洋装を極めるべくフランス留学を目指す。・・・という姉妹達は、昭和15年(1940)になっても、東京に出て銀座は資生堂へ。パーマネント禁止の決議がなされた後の物語と思えぬほど、彼女達は女性としての生活を愉しんでいるのだ。
 谷崎が、自身の家族をモチーフとして『細雪』を書き始めたのは、太平洋戦争の開戦後である。なぜ谷崎は、戦争の空気に浸りながら、戦争を感じさせない物語を書いたのか。・・・と考えると、非国民と言われても木炭パーマをあてずにいらえなかった女性達のことが思い浮かんだ。
 『細雪』は『中央公論』に掲載されるのも、時局にそぐわないとして途中で掲載を止められる。戦時中に『細雪』を書くことはお上へ逆らう行為だったが、しかし谷崎は国への反抗というよりも、自身のために書いていたのではないか。美しくものしたたかな、自身が愛する女達の世界を書き残すことに、谷崎は難局を生きのびる希望を託したのではないか、という気がしてならない。」
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 日本人男性は、学問の知識はあってもバカであった。
 日本人女性は、実生活の智慧で賢かった。
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 日本人男性は、潔く諦める。
 日本人女性は、割り切りが良い半面、執念深く、諦めが悪い。
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 日本人の楽しみとは、ないいならないなりに考えて智慧を絞り、身近にあるあるものを創意工夫で利用して代用する事であった。
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 江戸時代は、建前では儒教による男社会であったが、本音では自然による女性社会であった。
 江戸文化は武士の文化ではなく庶民の文化であり、男文化と女文化が表裏一体として日本文化を形作っていた。
 その意味でも、日本文化と中国文化・朝鮮文化は違う。
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 日本人女性は、昔の女性は現代の女性に比べて賢く強かである。
 江戸幕府奢侈禁止令で女性が華やかな着物を着る事を禁止すれば、女性はその裏をかいて華やかな着物の襟元に黒い布を縫い合わせて誤魔化した。
 御上のお達しを、日本人男性は御法として額面通り従ったが、日本人女性は都合の良い様に解釈して日々を楽しんでいた。
 日本人女性は、融通が利かず頑固で愚鈍な日本人男性より、賢く機転を利かせてその日その日を楽しんでいた。
 つまり、日本人男性は死ぬまで働きアリであり、日本人女性はバカの一つ覚えの様に働く日本人男性から言葉巧みに金を巻き上げて後悔しない人生を送るキリギリス(セミ)であった。
 現代の日本人女性は、昔の日本人女性に比べて国内外での情報を数多く知識として知っていても、生活における現実的実践的合理的な教養を活用する賢さは少ない。
 つまり、狡猾な老婆の智慧現代日本人女性にはない。
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