🗡20〗─1・E─仇敵B-29を全高度で迎撃可能にした3式12cm高射砲。~No.62 

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 2024年4月3日 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「仇敵B-29を全高度で迎撃可能にした【3式12cm高射砲】
 日本陸軍の火砲~太平洋戦争を戦った「戦場の神」たち~【第19回】
 かつてソ連スターリンは、軍司令官たちを前にして「現代戦における大砲の威力は神にも等しいと語ったと伝えられる。この言葉はソ連軍のみならず、世界の軍隊にも通用する「たとえ」といえよう。そこで、南方の島々やビルマの密林、中国の平原などでその「威光」を発揮して将兵に頼られた、日本陸軍の火砲に目を向けてみたい。
 砲座に据えられた3式12cm高射砲。ご覧のように固定陣地で運用するので、海軍の89式12cm7高角砲の陸軍用改修型とすれば、肝心の弾薬の互換性が確保できたのではないだろうか。
 第1次世界大戦中に急速な発達を示した航空機は、戦後も発達のスピードを落すことはなく、その性能向上は日進月歩を続けていた。
 特に地上軍にとっての脅威は爆撃機だったが、低高度で攻撃してくるそれには、短時間で多数の砲弾を撃ち出せる高射機関砲のような自動火器が有利であった。一方、水平爆撃を行う爆撃機も、航空機と爆撃照準器の性能向上によって爆撃高度が逐次高くなり、従前の高射砲では早晩、その飛行高度に届かなくなることは目に見えていた。
 このような動きのなかで、日本陸軍は急ぎ高射砲の大口径化を推進することとした。そこで、艦載高角砲(こうかくほう/海軍では高射砲を高角砲と称する)として、すでに高射砲としては大口径の89式12cm7高角砲を実用化していた海軍に、技術協力を仰ぐことになった。軍艦は、火砲のプラットホームとしては安定しており、弾薬の備蓄と供給も容易なので、高射砲の大口径化では先を行っていたからだ。
 大口径高射砲ゆえ、移動と展開が考慮された「野戦高射砲」ではなく、固定砲座に配される「高射砲」として開発されたにもかかわらず、海軍の89式12cm7高角砲の口径が12.7cmなのに対して、この陸軍の新型高射砲には12cmが選ばれた。そのため砲としての構造も異なり、弾薬の互換性もない。
 だがプリンタにとってのインクのように、銃砲にとっての「消耗品」である弾薬の互換性を考えなかったのは、完全に陸軍の落ち度といえる。
 操作の都合や設置の条件などにより、艦載高角砲と陸上高射砲では相違点はきわめて多い。しかしそのへんのある程度の不便は覚悟のうえで、せめて海軍と同じ砲身を採用し、同じ弾薬を使えるようにして、砲架や周辺装備などを陸軍式にすることで対応できなかったのか。
 世界でも珍しい陸海軍間での航空機関銃の弾薬の互換性のなさに象徴されるように、日本の海軍と陸軍は同じ国の軍隊であるにもかかわらず、まるで「ライバル同士」のようであり、これがただでさえ国力でアメリカに大きく劣る日本の、戦時下での生産と補給のネックとなったことは否めない。
 かように厳しい登場背景を持つ3式12cm高射砲ながら、それでも約150門未満が生産されて要地防空に重点的に配備された。その結果、ボーイングB-29スーパーフォートレスをほぼ全高度で迎撃可能な性能を発揮し、かなわぬまでも一矢を報いることができたのだった。
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🗡20〗─1・D─最前線の米英軍兵士が恐怖した日本陸軍89式重擲弾筒。~No.62 

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 2024年4月10日 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「最前線の米英軍兵士が恐怖したミニ砲兵【89式重擲弾筒】
 投射姿勢をとる89式重擲弾筒。1門は3名の手で運用されたが、投射時は2名または時に1名ということもあった。
 かつてソ連スターリンは、軍司令官たちを前にして「現代戦における大砲の威力は神にも等しいと語ったと伝えられる。この言葉はソ連軍のみならず、世界の軍隊にも通用する「たとえ」といえよう。そこで、南方の島々やビルマの密林、中国の平原などでその「威光」を発揮して将兵に頼られた、日本陸軍の火砲に目を向けてみたい。
 歩兵が自ら携行できる戦闘用爆発物の代表的存在が手榴弾だ。敵と接近した際のさまざまな戦況における有用な兵器として高く評価されているが、基本的には歩兵自身の腕力で投擲する「飛び道具」なので、その到達距離は最大でも50m前後とされる。
 そこで「そのちょっと先」に爆発物(砲弾)を送り込むための兵器として、外国では小銃擲弾(しょうじゅうてきだん)が開発されており、日本陸軍も小銃で投射可能な擲弾(手榴弾)の開発を試みたが、小銃擲弾は発射時に小銃本体に大きな負荷をかけて命数を縮めることもあって、専用の砲弾に加えて既存の手榴弾も投射できる擲弾筒(てきだんとう)を開発した。
 また、やはり外国では軽便な小型迫撃砲も考案されたが、砲自体の重量と専用の砲弾を必要とすることから、言うほどに「軽便」とはいえない、まさに字のごとく「砲」のがわに傾いた兵器とならざるを得なかった。確かに、手で投げる手榴弾よりも遠くまで届くものの、砲本体とその装備の規模がやや大袈裟にならざるを得ず、射撃準備にも少々手間がかかった。
 これに対して擲弾筒は、突発的に生じる「白兵戦」への参入または離脱の際の、やや遠距離に向けて「爆発物」の投射を速やかに行えるので、白兵戦を十八番とする日本陸軍には重宝な兵器といえた。
 加えて、工業力に乏しく兵站(へいたん)能力も脆弱(ぜいじゃく)なため、多種にわたる砲弾それぞれの大量生産と大量供給が苦手な日本にとって、専用の砲弾がない場合は射距離こそ短くなるが代用として手榴弾を投射できる擲弾筒は、大きな強みであった。
 こうした背景により、日本陸軍1921年に10年式擲弾筒を仮制式化したが、1年後の1922年から同擲弾筒の弱点を解消した新型擲弾筒の開発が開始され、1929年に完成したため89式重擲弾筒(じゅうてきだんとう)と命名された。
 89式重擲弾筒は、専用の89式榴弾なら約650m、10年式手榴弾や91式手榴弾なら約200mの最大投射距離を備える。日中戦争や太平洋戦争で活躍し、特に各種砲弾の補給がストップした島嶼戦では、手榴弾が利用できるおかげで弾薬不足に大きく悩まされることもなく、近接戦闘や白兵戦で連合軍将兵を苦しめた。
 擲弾筒のあまり大きくない投射音は、激しい銃声やそれこそ手榴弾の炸裂音、鬨(とき)の声など戦場の喧騒にかき消されてしまうことも間々あり、敵(日本軍)は手榴弾の投擲距離より離れているにもかかわらず、砲撃音もなく突然に頭上から塹壕に落ちてくる擲弾筒弾(手榴弾)は恐怖の的であったという。
 またアメリカ軍では、擲弾筒後端の台座の湾曲が腿にぴたりとはまるので「ニー・モーター(Knee mortar 。「膝撃ち迫撃砲」の意)」と称し、鹵獲(ろかく)した89式重擲弾筒をかような射撃姿勢で試射して、腿を骨折するなど負傷する兵士が多発。そのため、日本軍からの鹵獲兵器の使用方法を解説したマニュアルで、膝撃ちを厳禁する旨が周知されることとなった。
 白石 光
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🌌49}─4・E─前回の南海トラフ巨大地震から316年が経過しているという「恐るべき事実」。~No.247 

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 日本書紀などの国史天皇史そして日本民族心神話を否定する日本人には、民族的な伝統力・文化力・歴史力・宗教力がなく、本当の歴史が理解できない。
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 日本の自然災害において、科学的想定外などなく、全てが想定内で科学的根拠が存在する。
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 日本列島とは、同時多発的に頻発する複合災害多発地帯である。
 日本の自然は、数万年前の旧石器時代縄文時代から日本列島に住む生物・人間を何度も死滅・絶滅・消滅させる為に世にも恐ろしい災厄・災害を起こしていた。
 日本民族は、自然の猛威に耐え、地獄の様な環境の中を、家族や知人さえも誰も助けずに身一つ、自分一人で逃げ回って生きてきた、それ故に祖先を神(氏神)とする人神信仰を受け継いで来た。
 日本人は生き残る為に個人主義であり、日本社会は皆で生きていく為に集団主義である。
 日本の宗教・文化・言語は、こうして創られてきた。
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 日本民族人間性である価値観・人格・気質を作り出したのは、人間(他国・異民族・異教徒)の脅威ではなかったし、唯一絶対神(全智全能の創り主)の奇蹟と恩寵ではなく、自然の脅威と恩恵(和食)である。
 つまり、日本人と朝鮮人・中国人は違うのである。
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 2024年4月10日 MicrosoftStartニュース 現代ビジネス「じつは前回の「南海トラフ巨大地震」から、すでに316年が経過しているという「恐るべき事実」
 山村 武彦
 今後30年以内に高い確率で発生が予測されている「南海トラフ巨大地震」。果たしてその実態はいかなるものなのだろうか。その巨大な災害はどのようなメカニズムで発生し、どのような被害をもたらすのだろうか。そして、われわれはその未来にどう備えればよいのか。防災・危機管理アドバイザーの山村武彦氏に解説してもらった。
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 日本書紀に書かれた地震
 過去を振り返ると、古事記と並び伝存する日本最古の歴史書である「日本書紀」には、地震の記述が複数みられる。それらの記述の中で、日本最古の地震記述といわれるのは、日本書紀の允恭(いんぎょう)天皇5年7月14日の項に記されている「五年秋七月丙子朔、己丑、地震」。西暦に直すと416年8月23日になる。当時は「地震」と書いて「なゐふる」と読んだ。「なゐ」は大地を表し「ふる」つまり振れる(揺れる)の意味で、読み方は異なっても大地が震える地震(じしん)を表している。
 しかし、この允恭の地震について規模や被害程度などは何も記されていない。被害の模様を記したものは、推古7年4月27日、西暦599年5月28日に起きた大和の地震。「建物がことごとく倒壊し、四方に令(のりごと)して、地震の上を祭(いの)らしむ」と書かれている。当時の人々は地震(なゐふる)を、神によって引き起こされたものと考えていたようだ。ただこの地震も大和の国で甚大被害があったことが記述されていても、それ以上規模や被害の詳細記述はない。
 白鳳時代南海トラフ巨大地震
 時代が進み、40代天皇天武天皇(在位:673年3月~ 686年10月1日)の御代になると、諸国から中央へと情報が集まりやすくなっていく。中央集権・律令国家の基礎が築かれ、各地で起きた紛争や災害などの情報が、速やかに大和の朝廷に届くようになった。記紀日本書紀古事記)編纂に着手したのもこの時代といわれる。
 日本書紀天武天皇13年10月14日に白鳳地震の記述がある。「壬辰(みずのえたつのひ)に、人定(いのとき)に逮(およ)んで、大きに地震(なゐ)ふる。国挙(こぞ)りて男女(おのこめのこ)叫び唱(よば)ひて不知東西(まど)ひぬ。則(すなわ)ち山崩れ河涌く。諸国(くにぐに)の郡(こおり)の官舎(つかさやかず)、及び百姓(おおみたから)の倉屋(くら)、寺塔(てら)神社(やしろ)、破壊(やぶ)れし類(たぐい)、勝(あげ)て数(かぞ)ふべからず。是に由(よ)りて、人民(おおみたから)及び六畜(むくさのけもの)、多(さは)に死傷(そこな)はる。時に伊予湯泉(いよのゆ)、没(うも)れて出でず。土左国の田菀(たはたけ)五十余万頃(いそうよろずあまりしろ)、没(うも)れて海と為(な)る。古老(おいひと)の曰(い)はく、『是(かく)の如(ごと)く地動(なゐふ)ること、未だ曾(むかし)より有らず』といふ」と。これが詳細に記録された最古の大地震といわれる。記録に残る南海トラフ地震と推定される白鳳地震である。
 現代訳にすると「684年10月14日、夜10時ごろ大地震があった。国中のみんな叫び合い逃げ惑った。山は崩れ、川は溢れた。諸国の郡の官舎や住宅、倉庫、社寺の破壊されたものは数知れず、人も多数死亡し家畜の被害も多かった。伊予(いよ・愛媛県)の道後(どうご)温泉の湯が出なくなり、土佐の国では田畑五十余万頃(約千町歩・約12平方キロメートル)が埋まって(沈下して)海となった。古老は『このような地震はかつて無かったことだ』と云った。
 さらに、「この夕、鼓(つづみ)の鳴るような音が東方で聞こえた。『伊豆の島(伊豆大島)の西と北の二面がひとりでに三百丈あまり広がり、一つの島が出来た。鼓の音のように聞こえたのは、神がこの島をお造りになる響きだったのだ』と云う人があった。土佐の国司(こくし)が言うことには『高波が押し寄せ、海水が湧き返り、調税を運ぶ船がたくさん流失した』と報告した」と続く。
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 高波が押し寄せ、海水が湧き返り、船が多数流失するほどの大津波が押し寄せたとある。中には海底隆起か噴火を思わせるような記述もあり、地震地殻変動)×大津波×噴火という複合大災害だったのではないかという推測もある。いずれにしても、激甚さや被害範囲などを勘案すると、白鳳地震は「白鳳南海トラフ巨大地震」と考えられる。
 地震は一度で終わらない場合
 その白鳳地震からの1339年間に、南海トラフでは主な大規模地震が13回発生している。単純計算すれば平均103年に1回の割合で南海トラフ地震が発生していることになる。その13回のうちの8回(約60%)は、東海地震などの後に南海地震が連続して起きている。たとえば永長(東海)地震の2年2か月後に康和(南海)地震、正平(東海)地震の同日か2日後に正平(南海)地震安政(東海)地震の翌日に安政(南海)地震、昭和(東南海)地震の2年後に昭和(南海)地震が発生している(1-(4) 図参照)。
 じつは前回の「南海トラフ巨大地震」から、すでに316年が経過しているという「恐るべき事実」
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 このことから東海地震などの固有地震が起きると、同じ南海トラフ沿いの南海地震などの別の固有地震を連動又は誘発してきたものとみられている。つまり、南海トラフで起きる地震によっては、一度で終わらない可能性もあるということ。ただ、最初の地震から次の誘発又は連動地震までの時間差には幅があり、必ずしも一様ではない。
 一方で、1854年の安政東海地震以降169年間、その固有領域で東海地震が発生していない。その間に、安政東海地震の90年後に昭和東南海地震(1944年)が、92年後には昭和南地震(1946年)が発生している。東海地震の169年間に及ぶ沈黙はいったい何を意味するのか、今後、東海地震が引き金となって、他の地震が誘発させたり、南海トラフ全体で巨大地震が連動して引き起こす可能性も否定できない。
 関連するビデオ: 宮崎・日南市で震度5弱津波の心配なし (日テレNEWS NNN)
 大地震×大津波×噴火
 過去の南海トラフ地震では、一つの地震が次の地震を連鎖的に誘発してきただけでなく、南海トラフ全体が同時又は短い時間差で連動してずれ動いたこともある。1707年の宝永地震は、南海トラフ全体が同時又はわずかな時間差で動いた「江戸時代の南海トラフ巨大地震」と推定されている。固有地震の多くは一つあたりM7.9~8.5のエネルギーであるのに対し、宝永地震はM8,6~9.3の超巨大地震だったと推定されている。となると、前回の超巨大地震(宝永地震)からすでに316年間、南海トラフ全体では動いていないことになり、次の南海トラフ巨大地震はすでにカウントダウンが始まっているとする説もある。
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 過去の南海トラフ地震で共通しているのは、日本書紀の白鳳地震の記載にもあったように、大揺れの後に大津波が押し寄せることである。そして、犠牲者の多くが津波によるとされている。中でも宝永地震東海道沖から南海道沖の広い範囲を震源とした南海トラフ全域のプレート間断層が破壊された日本最大級の超巨大地震と推定され、想定されている南海トラフ巨大地震の被害想定を見ると、最悪の場合は宝永地震の再来ともいわれる大惨事になる可能性がある。その宝永地震の49日後には富士山が宝永の大噴火を起こし江戸にも降灰があった。次の南海トラフ巨大地震発生時に富士山が連動して噴火しないという保証はない。最悪の複合災害への準備も必要になる。
 歴史に学ぶ
 三重県伊勢市伊勢神宮・外宮境内にあった「子良館(こらかん)」に勤務する歴代の神官たちが当番制で書き継いだ(1661年~1812年)日記がある。その「外宮子良館日記(げくうこらかんにっき)」から、現代意訳で宝永地震を見てみる。「宝永四年丁亥十月四日壬午の未上刻」は、西暦にすると1707年10月28日14時前、畿内東海道および南海道諸国が激しい揺れに襲われる。この地震の有感範囲は非常に広大で、家屋潰倒の激震範囲は約200里(約790キロメートル)にも及び、蝦夷を除く日本国中、五畿七道に亘って大揺れとなった」と記されている。被害の範囲は現在の南海トラフ巨大地震震度分布図(1-(5) 図参照)に重なるようにも思われる。
 じつは前回の「南海トラフ巨大地震」から、すでに316年が経過しているという「恐るべき事実」
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 1707年10月28日13時45分頃、東海道沖から南海道沖を震源域として、推定M8.6~9.3の宝永地震が発生した。最大震度は現在の震度階でいうと震度7とされ、太平洋沿岸に大津波が押し寄せ高知県土佐久礼で最大約25.7メートルの津波高と推定されている。宝永地震の被害は東海道と伊勢湾・紀伊半島・四国が最も大きく、東海道の宿駅の一つ袋井(現在の静岡県袋井市)は町が全壊(ちなみに袋井宿は安政地震の折も全焼)している。特に津波被害が甚大で「宝永地震」の犠牲者の大部分が津波によるものと推定されている。死者は5千人~2万人と言われている。当時の日本の人口が推定約2800万人として類推すると、現在の人口からすると約2万2500人~9万人に匹敵するような被害である。
 宝永地震の時、地震の影響で道後温泉愛媛県松山市道後湯之町)では145日間も湯が止まったという記録が残っている。地震道後温泉の湯が止まったのは、その1033年前に発生した白鳳地震(684年)時の日本書紀の「時に伊予湯泉(いよのゆ)、没(うも)れて出でず」という記載とも一致する。白鳳地震と宝永地震道後温泉の湯に異常をきたしたということは、南海トラフ巨大地震では地殻変動が同じ場所で繰り返し起きることを示している。歴史は繰り返す。過去の地震で地盤が沈下したり、液状化が起きた場所でも警戒が必要になる。
 南海トラフ巨大地震の被害想定(液状化)では、愛知県名古屋市三重県四日市市・津市、和歌山市大阪府堺市大阪市徳島市などが「液状化の可能性が大」とされている。こうした地域では過去に液状化があった場所かどうか確認しておく必要がある。液状化現象は同じ場所で繰り返されることが特徴。企業であれば、被害想定やハザードマップにより立地リスクアセスメントの再確認をすべきである。
 「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」(オットー・フォン・ビスマルク)。南海トラフ巨大地震対策は、災害史なども参考にしてその後に何が起きるか多角的に展開予測し、現代の社会状況や科学的知見を取り入れた準備と対策が求められている。
 さらに続きとなる<「最大34メートルの津波」「東日本大震災の14.5倍の犠牲者」…「南海トラフ巨大地震」の「驚愕の被害想定」>では、阪神・淡路大震災東日本大震災との比較から南海トラフ巨大地震について語る。
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 4月10日 MicrosoftStartニュース NEWSポストセブン「【山口組能登半島地震】「48時間以内に現地入り」「300人前の豚汁、うどんの炊き出し」テレビ・新聞では報じられない「ヤクザとボランティア」
 © NEWSポストセブン 提供
 発生から3か月が経過した能登半島地震。石川県内ではいまだ8000人以上が避難生活を続けていて、自治体、そして多くのボランティアが1日も早い復興にむけて力を合わせている。
 【関係者しか見られない新聞の中身】山口組が作った豚汁 誕生日を迎えた司組長の紋付き袴姿など 
 大災害が起きるたびに、いち早く被災地に入り救援活動を行なうのが暴力団だ。
 「1995年の阪神・淡路大震災で神戸に本部がある山口組は大規模なボランティア活動を行ない、メディアも好意的に取り上げるなど一躍脚光を浴びました。災害時の救援活動は山口組にとって存在意義を示す場でもある」(実話誌記者)
 六代目山口組が傘下組織に対して発行する機関誌『山口組新報』の最新号で、能登半島地震における六代目山口組のボランティア活動がレポートされていることがわかった。
 大阪に本部を置く六代目山口組・二次団体の若頭の寄稿によると、地震発生直後、この二次団体の組長が「全力でやれ」と組織に号令をかけ、この若頭を含めた多くの組員が地震発生48時間以内に被災地入り。詳細は記されていないが、救援物資の搬入、炊き出しを行なったという。今回の地震では道路が寸断されたため、民間のボランティアが現地入りすることについては様々な意見が生じていたが、〈賛否の声は世の常、私も現地に入りそれ以上に必要とする声を聞き、成すべき事を成すまでの事、これもヤクザとして誇りに思う所であります〉と締めくくっている。
 さらに、六代目山口組・司忍組長と盃を交わしている直参組織の組長も手記を寄せ、被災地で救援活動に従事していたことを明かしている。この組長は1月8日夕方、友人たちと食事をしながらテレビのニュースを見ていて被災地入りを決意。近くのドラッグストアやスーパーで購入したトイレットペーパー、マスク、生理用品、防寒具、水、菓子、炊き出し用の食材をハイエース、2トンキッチンカー、ジープに積み込み、10日朝に滋賀県大津市から震源地に近い珠洲市に向かったという。
 途中のサービスエリアでさらに食材などを買い足したが、インターチェンジでの検問で救援車両以外の車は通行できず、一般道で穴水町入り。海沿いの国道249号は道路の損傷が激しく、時速20キロほどでの通行となったとのことで、記事には亀裂が入った道路や潰れた民家の写真が掲載されている。
 出発から7時間ほど経った15時に穴水町の小学校に到着。救援物資を届けたところで、知人から「珠洲市の小学校で炊き出しをできないか」という連絡が入ったという。避難者は30人ほど。珠洲市までは道路の損壊にくわえ、倒壊した家屋や土砂崩れにより思うように車を走らせられなかったが、山道を経由するなどして19時頃に到着。
 関連するビデオ: 能登半島地震から100日 今なお6328人が避難生活 珠洲では全域で断水続く (テレビ金沢ニュース)
 組長らは休むもなく、大きな寸胴2つで豚汁を炊き、うどんを300人分ほど振る舞ったという。小学校に避難している人だけでなく、近隣住民まで食べに来たことが記されていた。
 避難者から要望を受け、寸胴や調理器具も置いていった組長たちは、避難者に何度も頭を下げられながら小学校を去ったという。
 「記事にするのは勘弁してくれ」
 今回の能登半島地震暴力団が救援活動を行なっていたことについては大手メディアのみならず“専売特許”であるはずの実話誌も取り上げていない。一体なぜか。
 「被災地の石川県に六代目山口組が直参組織(二次団体)を置いておらず、組織的な支援を行なっていないことも大きいでしょうが、全国的な暴排の気運もあり、地元自治体が表立ってヤクザの救援物資を受け取るのが難しくなってきている。メディアも取り上げづらいし、暴力団もこうした事情を知っているため、ひっそりと活動しているようだ。ヤクザの幹部たちも『ボランティアを記事にするのは勘弁してほしい』と漏らしている」(前出・実話誌記者)
 前出・組長は手記の最後に〈疲れたけど行って良かったな。本当にそう思った〉と吐露している。
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🍞2〗ー9・Dー日本政府の売国法案。日本の食料安保を破壊する愚かな「平和ボケ」。~No.10 

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 2024年4月10日 YAHOO!JAPANニュース ダイヤモンド・オンライン「岸田政権がまた売国法案!日本の食料安保を破壊する「平和ボケ」「お花畑」な中身とは?
 岸田文雄首相 Photo:Sean Gallup/gettyimages
 岸田政権は、今国会に数々の売国・壊国法案とも呼ぶべき法案を提出している。その一つに、食料・農業・農村基本法改正案がある。この法案がどのような問題をはらんでいるかについて、簡単に解説したい。(政策コンサルタント 室伏謙一)
● 食料安全保障確保とは 正反対の改正内容
 1月26日に召集された第213回国会(常会)、冒頭から質疑の中心となったのは、自民党の派閥パーティー収入記載漏れ問題であった。ちまたでは自民党「裏金問題」とされ、さも汚い金を巡る問題かのように報じられ、論じられた。そして、政策集団として存続することとした麻生派および茂木派を除く各派閥が解散を決めるや、立憲民主党を中心とする野党は一層攻勢を強め、テレビ入りの衆議院予算委員会の審議は、この問題一色のような様相を呈していた。
 さて、そうした中で、岸田政権は、今国会に数々の売国・壊国法案とも呼ぶべき法案を提出し、また、今後も提出しようとしている。
 その一つに、食料・農業・農村基本法改正案がある。同法案は、2月27日に閣議決定、国会に上程され、3月26日に衆議院で審議入りした。大手メディアの報道では、今回の改正は我が国の食料安全保障の強化につながるものであるとされ、これに関心のある多くの国会議員や一般国民もそのように捉えているようである。しかし、その実態は、我が国の食料安全保障の確保とは正反対の改正内容なのである。
 そこで、本稿では、本法案がどのような問題をはらんでいるかについて、簡単に解説したい(なお、条文のレベルにまで落とし込んだ詳細な解説にご興味がある方は、筆者のオンラインサロン「月刊霞が関リークス」をご参照いただきたい)。
● 食料・農業・農村基本法を 根本的に変えかねない改正案
 この食料・農業・農村基本法について、同法は1999年に第145回国会(常会)において可決・成立し、公布即施行された、我が国の農政の基本的な枠組みを規定した法律である。それまでは農業基本法がその役割を果たしてきたが、同法の施行により廃止された。
 このように非常に重要な法律の改正ということであるが、今回の改正は、基本理念の見直しまで行うこととされている。つまり、同法の在り方を根本的に変えてしまうことにもなりかねない改正であるということである。
 したがって大改正なのであるが、それが我が国の農政を、我が国および国民にとって、発展させる方向に働くものであればいいが、むしろ衰退させるか国民のためにはならない、いびつな方向に持っていってしまう可能性が高いのである。以下で具体的に見ていこう。
 まず、今回の大改正の背景として、「世界の食料需給の変動、地球温暖化の進行、我が国における人口の減少その他の食料、農業及び農村をめぐる諸情勢の変化」が挙げられている。そして、我が国の農業、農政をこれに対応させるために、「食料安全保障の確保、環境と調和のとれた食料システムの確立、農業の持続的な発展のための生産性の向上、農村における地域社会の維持等を図る」こととしている。
 これらのことが同法の基本理念において規定されている。我が国の置かれた状況、取り巻く環境の変化を踏まえた基本理念の改正であればいいが、具体的な施策についての改正を見ていくと、どうもそういうわけではないようである。
 次に、その具体的な施策についての改正であるが、先にも挙げた(1)食料安全保障の確保、(2)環境と調和のとれた食料システムの確立、(3)農業の持続的な発展、および(4)農村における地域社会の維持を4本の柱としている。
 食料安全保障の確保については、特にウクライナ紛争以降の輸入食料の価格の高騰を受けて、我が国でも強く認識されるようになった。遅きに失してはいるものの、関係法令において、これについて具体的に規定すること自体は悪い話ではない。経済安全保障法制の制定時においても、その対象から農業・食料が除外されていることを問題視する声は党派を問わずあり、ある意味、それが別の法制において手当てされたとみることもできなくはない。
 しかし、それをどう担保しようとしているのかと言えば、我が国の食料供給能力を食料の海外への輸出によって維持することと、農産物や農業資材の海外からの安定的輸入の確保の、主にこの二つによって行うというのである。
 世界の食料需給事情が変動し、世界各国で食料価格の高騰や食料が入ってこないといった事態が起き、各国は食料自給をさらに強化しようと動き出しているというのに、輸出と輸入を食料安全保障の確保の手段として考え、それを法律に規定しようとは、我が国の政府、現政権はどこまで平和ボケでお花畑思考なのか。
 輸出促進という考え方自体は、我が国の農業を持続可能なものにするために、岸田政権ではなく菅政権下で具体的な施策として始められたものではあるが、それを食料・農業・農村基本法に規定するのは、論外であるとしか言いようがない。
● ビジネスベースに乗せれば 農業は持続可能なのか
 環境と調和の取れた食料システムの確立についても、「食料システムについては、食料の供給の各段階において環境に負荷を与える側面がある」とされ、「その負荷の低減が図られることにより、環境との調和が図られなければならない」とし、農業や食品製造業における環境への負荷の低減を促進させるための措置が規定されている。
 だが、我が国農業はそうした措置を講じなければならないほどに環境に負荷をかけているのだろうか?
 無論、農業は自然を利用し、自然にはたらきかけて生産活動を行うものであり、原野や山林を切り開いて農地を造成してきているのだから、全く環境負荷がないとまでは言わない。しかし、法律を改正してまで、環境負荷を低減させるための措置を新たに設ける必要があるとは到底思えない。何か別の意図があるのではないかと邪推したくなるが、少なくとも、この措置は農家に対して新たな負荷をかけるのは間違いないだろう。
 農業の持続的な発展については、総論としてはもっともであり、こちらも今更ではあるが、施策の方向性として打ち出すこと自体はいいことである。
 しかし、各論では、農業経営以外の多様な農業者による農地の確保、農業法人の経営基盤の強化といったように、農業を国の基(もとい)、インフラとして位置付け、戦略物資としての食料を生産する農業を持続可能にするという経済安全保障、食料安全保障の観点とは程遠い。というより真逆の、農業をよりビジネスベースに乗せれば持続可能になるという発想に基づくものばかりである。
 ビジネスベースに乗せるということは事業者の収益が最優先にされることになるので、国民に必要な食料の確保や、農業生産者の確保・育成、生産技術の向上や継承、さらには種の保護や改良、低廉な費用での提供といった、食料安全保障の確保に不可欠な機能、役割が蔑ろにされる可能性がある。
 本気で持続可能にしたいというのであれば、欧米諸国と同様に、国が各農家に補助金を交付したり、国が買い上げることによって価格を保証したり、海外から輸入される食料に対する関税を増やしたりすべきであろう。裏を返せば、スローガンとして食料安全保障を掲げてはいるものの、本気で考えていないということではないか。
 農村における地域社会の維持については、「地域社会が維持されるよう農村の振興が図られなければならない」とうたっておきながら、具体的な措置として挙げられているのは、農地の保全に資する共同活動の促進、地域の資源を活用した事業活動の促進、農村への滞在機会を提供する事業活動(いわゆる農泊)の促進等である。
 要は自分たちで共同活動を推進せよ、地域の資源を活用して事業活動をして自分たちで稼げと、地域社会の維持を農村の自己責任として押し付けている。裏を返せば、国として農村の地域社会を維持する責任を放棄するに等しい。食料の生産の現場である農村を事実上見捨てるような措置を規定して、何が食料安全保障だと言いたくなる。
 指摘しようと思えばまだまだ同法案の問題点はたくさんあるが、法案をしっかり読んで、一つ一つ指摘できる野党議員はどの程度いるのだろうか?少なくともこうした大枠の問題点ぐらいは指摘し、反対の声を上げてほしいものであるが。
 室伏謙一
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 4月9日 YAHOO!JAPANニュース GOETHE半導体LNG、牛肉、人材…を売ってもらえない! 日本企業の没落と不都合な現実
 かつては水産物の争奪戦で中国に敗れ問題になった「買い負け」。しかしいまや、半導体LNG液化天然ガス)、牛肉、人材といったあらゆる分野で日本の買い負けが顕著です。2023年7月26日発売の幻冬舎新書『買い負ける日本』は、調達のスペシャリスト、坂口孝則さんが目撃した絶望的なモノ不足の現場と買い負けに至る構造的原因を分析。本書より「はじめに」を抜粋してお届けします。第1回。
 「買い負け」が象徴する日本企業没落に至る体質
 TEXT=坂口孝則
 悲鳴は、2021年の初頭から入ってきた。
 絶望的なモノ不足について語ってくれたのは、私が仕事で関わりをもった機器装置メーカーの調達関連責任者だった。遅れて会議室に入ってきた氏は、社内中が大混乱していて、ついさきほどまで納期調整に奔走していたという。
 「電子部品を注文しているが、納期が2年先とか3年先とか言われています。現在は在庫を切り崩して対応したり、該当の部材を使わない製品を生産したりしているものの、すぐに行き詰まるかもしれない」
 当然だが、部材の一つでも手に入らないと完成しない。その他、何が足らないのだろうか。
 「何が足らないかと言われると……。あえて言うなら、すべて」
 先に上げた電子部品、材料、ハーネス、基板。そして労働者と、製品を運ぶ物流。それらすべてが不足する異常事態にあった。仕入先からの納期回答は日に日に後ろ倒しされていく。後ろ倒しされるくらいならまだマシで、大半が納入日未定になっていた。
 「仕入先に連絡すると、まったく生産の目処がつかないと言われます。理由を聞くと、彼らも生産に必要な部材を調達できていない。2次、3次の仕入先から納入されない状況で、もはや追いかけられないんですよ。入ってくる予定だった部材も、どっかに取られたとか、運べなかったとかで。ウチの分は『あと回しにされている』と正直に言ってきた仕入先もいましたね。そこから、価格は通常の100倍だけど中国のどこかの商社が部材をもっているといった話が聞こえてきて、ためらっていると在庫がなくなっていて途方にくれました」
 2019年末に発生した新型コロナウイルスは2020年に深刻な影響をもたらしていた。グローバルサプライチェーンは網の目のようにつながっている(サプライチェーン:供給連鎖。原材料・部品の購買から販売にいたる一連の流れ。上流から下流までの調達・加工・在庫・物流)。
 どこかの国の機能不全は、世界中の企業に影響をもたらした。従業員が出社できない、生産できない、モノを運べない。供給面での問題があった。
 そしてこのときは2021年。2020年初めに2万9000ドルほどを付けていたダウ・ジョーンズ工業株価平均は、コロナ禍で2万1000ドルほどに急落。消費低迷の懸念から企業業績を不安視する見方が広がった。
 しかし、その後、株価は急回復を見せ、2021年初頭には3万1000ドルを突破、半ばには3万6000ドルまで伸びた。巣ごもり需要や、コロナ禍で各国が積極的な財政政策を講じたことにより、中ごろから、それまで落ち込んでいた消費を刺激したためだ。
コロナ禍による影響が払拭できないなか、消費は旺盛になったが、供給面の制約があり世界中で限られたパイを巡って取り合いになった──。一般的にはこう説明されている。私は当時、本業のコンサルティングは客先との対面が叶わずに、ウェブ会議システムを活用していた。2020年初頭には、そもそも景気の先行きを懸念しコンサルティングのプロジェクトの延期が続いた。
 その後、景気の浮揚に伴いプロジェクトは急速に復活し、ほどなくすると「納期問題が大変でプロジェクトどころではない」とする声が相次いだ。
 この数年間、同じ発言を聞かされた。ウチはマイナーな産業だから、ウチは中小だから、ウチは購入量が少ないから、ウチは仕入先との関係が弱いから……。まるで「ウチ」以外は買う力が強いといわんばかりだ。ピラミッド構造の上部にいる企業は購入量が多いので、他企業よりも優先してもらえるため、支障なく生産を継続できる、と誰もが思っていた。しかし、それは幻想だった。
 2021年初頭には、自動車メーカーが相次いで工場を稼働停止させるニュースが飛び込んできた。理由は、部材不足。強固なシステムとして知られた、自動車産業サプライチェーンシステム──系列とジャスト・イン・タイムで必要な時期に必要な数量だけを調達し必要な量を生産し販売する仕組み──の神話が崩壊した瞬間だった。
 これまで「買い負け」とは、主に食料関連のニュースで使われてきた。他のアジア各国に魚類などを高値で競り落とされた報道に触れる機会が多い。しかし、その「買い負け」が食料だけではなく、さまざまな商品に広がり、さらに日本の多くの企業に影響を及ぼしていると、一体どれほどの人が気づいているだろう?
 この数年、さまざまなメディアの方から、昨今のサプライチェーンの混乱について解説してほしいと依頼を受けた。ある編集者はこう言った。
 「コロナ禍やロシアのウクライナ侵攻を背景とする外因をしっかり分析しなければなりませんね」
 しかし、外因だけが理由だろうか。もちろん、コロナ禍やロシアのウクライナ侵攻は重要な変化であったに違いない。しかし、それは外因であって、近年の買い負けは、日本の内因がついに表出したといえないだろうか。
 その内因とは、まず日本経済全体の凋落だ。もしいくらでもお金を払えるなら買い負けは多少なりとも緩和するだろう。そして企業の内因としては、冒頭で紹介した機器装置メーカーの調達関連責任者のコメントが象徴している。すなわち、多層構造ゆえに全体が見えていないこと、要求品質が過剰で仕入先から敬遠されていること、さらに決断の遅さ。
 これらはかつて日本企業が成長した特性ともいえた。しかし現在、それらは逆回転をはじめている。
 人びとは、大きな変化には気づく。しかし、ゆっくりとした変化にはなかなか気づかず、実感をもちにくい。かつて栄華を誇った日本企業群がもはや他国から積極的に売ってもらえなくなっているとすれば?
 見たくない現実を見続けないと、おそらく起死回生の一手を練ることも難しい。ならば、と思った。いま、見たくない現実を突きつける内容を書いてみようと。これは日本の「買い負け」を通じた日本企業論にほかならない。
 本書で書いた「買い負け」商品のなかで、読者が読むタイミングによっては落ち着いているものもあるかもしれない。需要の減少によっては、「買い負け」どころか、難なく調達できるかもしれない。しかし、個別商品の現状がどうかなど、私は究極的には興味がない。
 私が本書で描きたかったのは、「買い負け」事例を通じた日本企業の宿痾であり、世界経済のなかで30年ほど停滞し続けている日本企業の体質である。
 繰り返す。個別商品の現状がどうかなど、私は究極的には興味がない。
 現状を俯瞰しつつ、一つひとつの事象をすくい上げるとともに、その深層にもたどり着きたいと私は思う。買い負けの真因として日本企業の機能不全があり、それゆえに私たちにとって大きな危機が訪れていることを知るために。
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📉25】─2・C─働き方改革で生まれたゆるブラック企業とゆとり教育の失敗。〜No.53 

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 2024年4月4日 YAHOO!JAPANニュース プレジデントオンライン「このままでは「ゆとり教育の失敗」を繰り返す…経営学者が「ワーク・ライフ・バランス」に警鐘を鳴らすワケ
 楽しくイキイキと働くにはどうすればいいのか。京都先端科学大学ビジネススクールの名和高司教授は「ワーク・ライフ・バランスを過度に重視して『食べていくために我慢して働く』のはもったいない。やりがいのある仕事をこなし、達成感を得ることで、初めて本当の幸福を感じられる」という――。
 【画像】堀場製作所本社。ビルの社内愛称「おもしろおかしく館」は社是に由来する
 ※本稿は、名和高司『パーパス経営入門』(PHP研究所)の一部を再編集したものです。
働き方改革の結果、「ゆるブラック企業」が増えている
 「ゆるブラック企業」という言葉をご存じでしょうか。2021年に『日経ビジネス』で特集が組まれたので(11月15日号)、読まれた方も多いかもしれません。
 「仕事は楽だし居心地もいい。しかし、スキルはまったく身につかない。そんな企業で働き続けた結果、気がついたら自分の転職価値がまったくなくなっていた……」
 そんな企業を「ゆるブラック企業」と呼ぶそうです。昨今の働き方改革の結果、こうした企業が増えているということです。
 これについては私も、以前から警鐘を鳴らしていました。仕事がきつくてスキルも身につかないのは完全なるブラック企業ですが、働きやすくても力がつかない企業もまた、一種のブラック企業なのです。
 社会人になったばかりの時期というのは、一番成長できる時期です。かといって、力はついても超ハードワークという働き方は、今の時代にはそぐいません。現代の「ホワイト企業」は、「働きやすく、力もつく企業」でなくてはならないのです。
■「ワーク・ライフ・バランス」は時代遅れ
 そのために必要な発想の転換があります。「ワーク・ライフ・バランス」から「ワーク・イン・ライフ」へのシフトです。
 昭和の時代はまさに、仕事が人生の中心でした。誰もがプライベートなど顧みず、会社人間として生きることが求められました。ライフは仕事の中にほんの少しだけ存在する、というイメージです。
 私が社会人になって最初に勤めた企業である三菱商事も、まさにそうでした。生活の中心はすべて仕事。しかし、当時は他社も含めてそれが普通であり、私自身も強く疑問に思うことはありませんでした。
 平成になると、「ワーク・ライフ・バランス」という、ワークとライフを同等に扱おうという考え方が現れました。仕事は仕事、生活は生活ときっちり切り分け、どんなに忙しくても定時に帰り、プライベートには仕事を一切持ち込まない。
 この考え方は昭和的な「仕事中心の人生」から抜け出すためには意味があったと思います。しかし、私にはどうも「もったいない」と思えてしまうのです。
 仮に1日8時間働くとすると、それは1日の3分の1に当たります。そんな長い時間を「食べていくために我慢して働く」のは、とてももったいないのではないでしょうか。
 そもそも、仕事と生活とは完全に二律背反となるものなのでしょうか。仕事の中で自分が本当にやりたいことができれば、それは人生の一部となります。当然、仕事にも志高く取り組むことができます。
 このように、ライフの中にワークを入れるというのが、「ワーク・イン・ライフ」という発想であり、令和の時代にはこれこそが求められています。
■このままでは「ゆとり教育の失態」を繰り返す
 ワーク・ライフ・バランスなどという掛け声自体、ワークとライフが切り離されている20世紀的な考え方です。「自分の労働力をお金に変える」という意味で、19世紀のマルクス主義的な発想から抜け出せていないとすら言えます。
 アメリカの臨床心理学者フレデリック・ハーズバーグ氏は、仕事の満足度を上げるには「動機づけ要因」が必要になると言っています。やりがいのある仕事をこなし、達成感を得ることで、初めて本当の幸福を感じられるということです。
 社員が高いレベルで幸福感を得るためには、会社は社員が成長する環境を提供することです。そのためには、仕事と人生を切り分けるのではなく、その重なりを意識することが重要なのです。
 「人生の一番良い時期を過ごす『会社での日常』を自らの力で『おもしろおかしい』ものにして、健全で実り多い人生にして欲しいという前向きな願いが込められています」
 堀場製作所のホームページにある言葉です。まさに「ワーク・イン・ライフ」を具現化した言葉と言えるでしょう。
 日本企業がハードワークを否定して、ゆるブラック企業化してしまえば、かつてのゆとり教育の失態を繰り返すだけです。
■理想的な「ワーク」と「ライフ」の重なりは3割から7割
 「ワーク・イン・ライフ」の重要性に気づいてもらうために、私はよく研修で、自分のワークとライフを円で表現してもらうというエクササイズをやってもらいます。
 ワークとライフで同じくらいの大きさの円を描く人が多いのですが、中にはワークのほうが圧倒的に大きい人や、逆にライフのほうが大きい人などさまざまです。
 次に、その二つの円がどのように重なるかを描いてもらいます。ここは迷う人が多いのですが、あくまで感覚で描いてもらえればOKです。例えば自分の仕事が自分のやりたいことに直結していれば、その重なりは大きくなります。
 一方、円が完全に離れている人もいます。これはまさにワーク・ライフ・バランス、つまりワークとライフが完全に分離した「平成型」と言えるでしょう。
 一方、仕事ばかりでそれ以外の時間がまったく取れていない、という人もいるかもしれません。仕事の中に人生が取り込まれてしまっている「昭和型」です。
 私はこの二つはどちらも問題だと考えています。私がよく言っているのは、ワークとライフの重なり方は3割から7割ぐらいがいいということです。
 このエクササイズを受けたある人は、自分のワークとライフの円が完全に重なっていたことで、自分が完全に会社人間であることの恐ろしさに気づき、ワーク一辺倒な人生を改めたそうです。そして、いろいろなことに関心を持つようになったのですが、実はそれが仕事にも好影響を与え、後に会社の研究所の所長に出世しました。
■「仕事は所詮、仕事」という人を動かすには
 ワーク・イン・ライフ実現のカギを握るのも、「自分事化」です。会社の仕事と自分のやりたいことを重ねていくことで、仕事を人生の一部に取り込むのです。
 一つ、エピソードをご紹介しましょう。
 ある企業でワークショップを行った際、「仕事は仕事と割り切っている」という人がいました。
 その人の趣味はギターで、一刻も早く家に帰りギターを弾くことが何よりも大事だということでした。「なぜギターを弾きたいのですか?」と聞くと、「自分の演奏を聴いてもらうことで、多くの人に勇気や共感を与えたい」という返答でした。
 そこで、「今の仕事で人々に勇気や共感を与えることも可能なのでは?」と言うと、「そういうことか」と納得してくれたのです。
 あくまで一例ではありますが、これが「自分事化」です。
 一見、仕事と結びつかないことでも、その本質を抽象化してみることで、仕事と結びつけられる可能性が出てきます。
 「プラモデルが趣味」という人は、一つのことに集中し、道を究めるということに喜びを見出しているのかもしれません。ならば、今の仕事でも「ある分野のプロ」になることを目指すことで、ワークとライフの重なりを増やすことができるかもしれません。
 このワークは、あなた自身はもちろん、あなたのチームメンバーにもぜひやってみてもらってください。その結果、やる気がないとみなしていたメンバーのやる気を再び引き出すことも可能になるかもしれません。

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 名和 高司(なわ・たかし)
 京都先端科学大学ビジネススクール 教授、一橋大学ビジネススクール 客員教授
東京大学法学部卒、三菱商事(東京、ニューヨーク)に約10年間勤務、ハーバード・ビジネス・スクール修士(ベーカースカラー授与)。シュンペーターおよびイノベーションを主に研究。2010年まで、マッキンゼーのディレクターとして、約20年間、コンサルティングに従事。著書に『パーパス経営 30年先の視点から現在を捉える』『企業変革の教科書』(ともに東洋経済新報社)、『稲盛と永守 京都発カリスマ経営の本質』『経営改革大全 企業を壊す100の誤解』(ともに日本経済新聞出版)などがある。

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🏗5〗ー1ー南海トラフ地震や首都直下型大地震が日本株価やNISAとiDeCoに与える悪影響。~No.32 

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 政府は、被災民に対する保障の優先順位は、預貯金は高いがNISAとiDeCoは低い。
 ましてや、少子高齢化で人口激減して国力が低下し、2,000兆円の国家赤字を抱えればなおさらである。
 つまり、阪神淡路大震災時の日本と南海トラフ地震や首都直下型大地震時の日本とは全然違う。
 現代日本人は、まだ余裕のある現代日本の国力で南海トラフ地震や首都直下型大地を考えている。
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 2024年3月27日 YAHOO!JAPANニュース「南海トラフ地震や大災害時、日本株価はどうなる?NISA やiDeCoにも影響?
 今回の「FPに聞きたいお金のこと」は、地震など災害が起こった場合のことを考えると、つみたてNISAとiDeCoをためらってしまうという30代女性Fさんのご相談です。確かに大きな災害は経済や株価にも影響を与えます。資産運用において災害リスクはどう考えればよいのでしょうか。
 30代女性Fさんの相談内容
 最近地震が多いこともあり、もし南海トラフ地震が起こった場合、つみたてNISAやiDeCoの運用はどうなるのかが不安です。「元本割れする可能性が高くなるのか?」などと考えると、つみたてNISAとiDeCoを併用することをためらってしまいます。
 投資や資産運用にリスクは付きもの
Fさんの気持ちは良く分かります。できれば起きてほしくありませんが、南海トラフや首都圏など現時点で予想されている大地震の被害が生じた場合、つみたてNISAやiDeCoの運用がどうなるのか?そしてどのように対処すべきなのか?1つ1つ確認をしていきましょう。
 お金を管理・運用する上で最悪の事態を想定しておくことはとても大切です。iDeCoの場合、元本確保型の商品を選ぶことも可能ですが、ここでは投資信託で運用することを前提にお伝えします。
 つみたてNISAやiDeCoに限らず、投資を行う上ではリスクと上手に付き合う必要があります。景気が良い時は株価が上昇し、悪い時には下がる傾向にありますが、景気は循環するというのが経済の原則です。
 従って、ずっと悪い時期ばかりが続くとは考えにくいため、「長期投資にはこういうこともありうる」と落ち着いたスタンスで対応することが重要です。株価が大きく下落している局面はむしろ「割安に購入できる時期」と捉えることもできます。株価が割安のときに積立をやめる、投資額を減額するといった対応は避けたいところです。
 東日本大震災時の日経平均への影響
 2011年3月11日(金)14時46分に東日本大震災が発生しました。ちょうどその日の株式市場が閉まる時間帯でした。当時 1 万円台だった日経平均は、週明けの 14 日(月)には 1 万円を割り込み 9000 円台に、そしてその後も株価は冴えずその年は9000円台も割り込むこととなりました。年初から一時2割近く下落したことになります。
 日本経済の先行き懸念などが株価下落につながりました。中でも東京電力の株価は原発問題で急落し、株価が10分の1程度まで下落したのが最たる例です。
 日本国内への影響は甚大でしたが、その頃、世界各国の株価はどうだったのでしょうか?例えばアメリカの株価指数の代表格NYダウは震災発生後の影響は限定的で、2011年末時点で震災発生時よりもやや高い水準で取引を終えています。こういった発想や視点が、つみたてNISAやiDeCoを行う上で大きなヒントになりそうです。
 国際分散投資で「日本リスク」を軽減
 地震をはじめとした自然災害リスクに限らず、日本は少子高齢化、人口減少、財政問題など潜在的なリスクがいくつかあります。一方で、高い技術力などが世界から注目され、期待されている企業や産業もたくさんあります。これは他国も同様のことが言えます。国や地域、それぞれに特徴があり、またリスクも背中合わせなのです。
 投資の原則に「分散投資」がありますが、つみたてNISAやiDeCoでも分散を心がけ、特に「国際分散投資」を行うことで、日本が大きなリスクに直面した場合の影響を最小限に留めることができるかもしれません。Fさんがどうしても地震をはじめとする国内のリスクが気になるのであれば、海外株の投資信託を中心に運用するという考え方も1つだと思います。
 不安であればどちらか一方を選択
 税制面でのメリットから、つみたて NISA も iDeCo も両方行いたいと考える人も多いですが、もし不安が拭えないようであれば、どちらか1つにしておくのが賢明かもしれません。
 例えば、つみたてNISAなら60歳まで引き出せないiDeCoと違っていつでも換金できます。できれば下落時にすぐ売却するということはしてほしくありませんが・・・。
 逆にiDeCoだけを行った場合は、「どちらにしても60歳まで引き出せない」ため、慌てることなくどっしり構え、さまざまなリスクに寛容になれるかもしれません。どちらも行っている場合は、非課税枠や拠出限度額の上限いっぱいの金額を積み立てるのではなく、少し金額を抑えて取り組むことも精神的な余裕につながると思います。
 長期に渡り付き合っていくことになりますので、無理をしてまで制度をフル活用しようと考えるより、ストレスや不安を感じることなく取引をしていくことを優先してください。
 大地震が起きるかどうか、いつ起きるのかといった不確定な事項を意識し過ぎて、結局何もしない、ということは避けたいところです。
 災害で投資信託の金融機関が倒産してしまったら?
 ある金融機関のiDeCoの説明書には「自然災害等で、運用商品の購入および売却の執行・各種手続が遅延しまたは実行不能となった場合」は免責事項であると記載があります。つまり、金融取引が正常に行われず、売却したいのに売却できないという事態は想定しておかなければなりません。
 さらには金融機関の倒産という事態も考えられますが、投資信託は信託銀行等(受託会社)で分別管理されています。よって取引をしている銀行や証券会社、投資信託を運用している運用会社が破綻したとしても、原則として資産は守られるということが大前提となりますので、その点は安心してください。
 それ以上に、日本経済自体がマヒしてしまったら・・・などと心配は尽きないと思いますが、そういった最悪の事態は、おそらく戦時中の事例に近い状況になることが想定されます。その場合は、投資信託であれ預貯金であれ、大きな影響を受けると思われますので、iDeCoやつみたてNISAに限った話ではないでしょう。
 リスクと上手に付き合うことが大切
 これまでの歴史の中で、古くは世界大恐慌ブラックマンデーバブル崩壊リーマンショックなど、日本に限らず世界は大きなリスクに直面しています。しかしそれらを乗り越え、世界のGDPは概ね右肩上がりで上昇しています。つまり、世界経済は幾多の困難を乗り越えながら、それでも成長を遂げてきているのです。
 筆者は預貯金を「徒歩」に例えることがあります。一歩一歩ゆっくり歩き、車とちがって、交通事故を引き起こすことも、バッテリーが上がって立ち往生することもありません。ただし、目的地まで時間がかかります。
 一方、つみたてNISAやiDeCoで積極的に運用をすることは「車やバイク」に乗ることに匹敵します。運転中にトラブルがあるかもしれませんが、頻繁にトラブルに見舞われることはありません。むしろ多くのケースで徒歩より目的地に早く到着します。さまざまなリスクを想定することも大切ですが、過度に不安にならず、大きな目的達成のために必要な手段であると割り切って上手に付き合ってほしいと思います。
 ※資産運用や投資に関する見解は、執筆者の個人的見解です。投資に関する最終決定は、お客様ご自身の判断でなさるようお願いいたします。
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💫8}─1・D─700万年前にアフリカで生まれた化石人類。~No.68 

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 2024年3月31日 YAHOO!JAPANニュース 東洋経済オンライン「「アウストラロピテクスが最初の人類」は昔の話? 「人類のルーツ」の最新情報をアップデートする
 最古の人類は700万年前!?(写真:SNOWBOOTS/PIXTA
 「えっ?  最初の人類はアウストラロピテクスじゃないの?」。あなたの教養は30年前の常識のままかもしれません。
 【イラストで見る】ラミダス猿人「アルディ」
 2022年のノーベル医学生理学賞受賞で注目が集まっている進化人類学。急速に発展するこの分野の最新成果をまとめた『人類の起源』(中公新書)の著者、篠田謙一国立科学博物館長が監修を務め、同書のエッセンスを豊富なイラストで伝える『図解版 人類の起源』より、一部抜粋・編集してお届けします。
■最初の人類はアフリカで生まれた
 私たちサピエンス種が属する「ホモ属」は、一般に人類として括られるグループですが、ホモ属の誕生以前のはるか昔から、さまざまな化石人類が存在していました。
 DNA研究が推測する現代人とチンパンジーの分岐の年代は、およそ700万年前とされていますが、その時代の人類につながる化石がアフリカ大陸で見つかっています。2001年にチャドで発見されたサヘラントロプス属です。
 さらにケニアで発見された600万年前のオロリン属、エチオピアで見つかった2種のアルディピテクス属を総称し、「初期猿人」と呼んでいますが、現在のところ、これら3つの属の系統的な関係はほとんどわかっていません。
 次に人類進化のステージに登場するのが30年前の教科書にも載っていた「アウストラロピテクス属」。比較的早い段階でアフリカの広い地域に暮らしていたとされています。
■3つの属の「初期猿人」
 サヘラントロプス属をはじめとする初期猿人が、最初の人類と考えられる理由は骨格的な特徴にあります。人類の特徴である脳容積の増大に先立って「直立二足歩行」が完成しますが、それぞれの骨格の断片がその可能性を示しています。
 最古の人類は700万年前!?  サヘラントロプス属
 2001年にチャドでほぼ完全な形の頭骨の化石、サヘラントロプス・チャデンシスが発見されました。
 推定される身長や脳容積はチンパンジーと同程度。しかし、脊髄と脳がつながる大後頭孔(だいこうとうこう)の位置が前寄りにあることから、背骨の真上に頭骨が垂直にのる構造、すなわちヒトの特徴である直立二足歩行の可能性を示しました。
 また、犬歯が臼歯(奥歯)より小さいこともヒトの特徴で、前年にケニアで発見された600万年前の人類オロリン・トゥゲネンシスの大腿骨の形状なども、直立していた可能性を示しています。
 樹上と地上で生活か? アルディピテクス属
 エチオピアで発見されたアルディピテクス属のカダッバとラミダスという2つの種。カダッバのほうが580万~520万年前と時代は古く、ラミダスは約440万年前に生きていたと考えられています。
 数多く発掘されたラミダス化石の中で、「アルディ」と呼ばれる成人女性の化石は、全身骨格のかなりの部分が残っており、彼らの身体的な特徴が明らかになっています。
 他の初期猿人と同様に直立二足歩行の可能性を示しているほか、腕が長く、足の親指が離れているという、地上だけでなく樹上生活者としての特徴も複雑に入り混じっています。
 アルディピテクス・ラミダスの次に人類進化のステージに登場するのが、アウストラロピテクス属。このグループは、脳容積はゴリラやチンパンジーと同じくらいですが、二足歩行をしていました。最も新しい種は、初期ホモ属とも生存時期が重なっています。
■二足歩行のアウストラロピテクス
 アナメンシスの登場とその後を引き継ぐ「ルーシー」
 最も古い時代420万~370万年前に存在したとされる種は、ケニアで発見されたアナメンシス種です。また、最も有名な「ルーシー」と呼ばれる全身骨格は、その後の370万~300万年前に存在したとされるアファレンシス種に含まれます。
 アファレンシス種は、樹上生活をしていた頃の特徴(枝にぶら下がる能力が高い)が色濃く残り、性による体格差が大きいことなどもわかっています。
 300万年前より新しい種としては、南アフリカ共和国で発見されたアフリカヌス種や、250万年前に存在したエチオピアのガルヒ種があります。
 二足歩行の証拠は足裏の「土踏まず」にあり!? 
 アウストラロピテクス属の二足歩行が確実視される理由の1つとして考えられるのは、アファレンシス種の足裏に土踏まずの縦アーチがあることです。この足裏のアーチ構造が地面からの衝撃を和らげ、長距離の歩行でも疲れにくくするため、彼らが直立二足歩行に適応したと考えられています。
 また、タンザニアのラエトリで、370万年前のものと思われるアファレンシス種の足跡も見つかっています。この足跡は、猿人の行動の直接的な記録であり、身体構造や歩行の様子を知る手がかりとなっています。
 「猿人」である「アウストラロピテクス属」の次に人類進化のステージに登場するのがホモ・ハビリスなどの初期のホモ属です。しかし、最初のホモ属にどのように系統がつながっていくのかは、いまだ謎が多く残っています。
 さらに時代を190万~150万年前まで進めると、「原人」と呼ばれる体型や大きさが私たちに近い化石が、アフリカや西アジア、中国やインドネシアのジャワ島などで発見されるようになります。それが「ホモ・エレクトス」と呼ばれる種です。
 「北京原人」や「ジャワ原人」などもこのグループに含まれます。
 エレクトス種は、化石の出土状況から約200万年前にアフリカで誕生し、ほどなくしてアフリカを出たことがわかっています。つまり、最初にアフリカを旅立った人類というわけです。
 食用となる動植物を求めて移動するうちに、世界に拡散していったと考えられています。
■200万年前に誕生した「原人」グループ
 約200万年前にアフリカで誕生したホモ・エレクトス。食用の動植物などを求めて移動するうちにアフリカを出たとされ、ヨーロッパや中国、東南アジアなどに広く生息。北京原人ジャワ原人など、地域に適応した独自の進化を遂げました。
 200万年前にアフリカで誕生
 19世紀末にインドネシアジャワ原人の化石が発見され、その最古の化石年代は約150万年前とされています。また、中国で発見された北京原人が生息していたのは、80万~25万年前。
 地域ごとに骨格や顔つきが異なるなど独自の進化を遂げており、一部では別種と考える研究者もいますが、これらを総称してホモ・エレクトスと呼んでいます。
 カラダは現代人のサイズ感に近い
 ジャワ島などで発見されたホモ・エレクトスの化石から推定される成人の身長は、140~180cm、体重は41~55kg程度と、だいぶ現代人のサイズに近づいています。
 脳容積には幅があって、550~1250mLと推定されています。ジャワ島の初期の種と、最後のものを比較すると、脳容積は約1.5倍に増えており、このことからもホモ・エレクトスは、地域の環境にそれぞれ適応しながら、系統の中で独自の進化を遂げていたことがわかります。
■史上最初にアフリカを旅立った人類
 人類は、誕生から長い間アフリカ大陸の中で生活していましたが、180万年以上前に人類初の出アフリカを成し遂げたとされるのがホモ・エレクトスです。
 誕生から早い段階でたまたまアフリカを出たものが各地に広がり、生存期間が約190万年と長期にわたったとされています。
 誕生から早い段階で世界に拡散
 ホモ・エレクトスは、誕生から比較的早い段階でアフリカを出たものと考えられています。アフリカ以外で原人の最も古い化石が見つかっているのが、ジョージアにある「ドマニシ遺跡」です。
 そこで発見された化石の年代は約180万年前のものと推定され、遅くともその頃には出アフリカがなされたことになります。
 困難だった出アフリカを達成できたのは、当時のサハラ砂漠が現在のように発達しておらず、地理的な障害が少なかったことも理由の1つと考えられます。
 ホモ・サピエンスより圧倒的に長く生存していた! 
 ユーラシア大陸の各地に広がっていったホモ・エレクトスは、各地域の環境に適応しながら独自の進化を遂げていきました。
 1つの種としては、とても長く生存した種であり、ジャワ島では約10万年前のものとされる化石も発見されています。エレクトス種がアフリカで誕生したのが200万年ほど前ですから、約190万年も生存していたことになります。
 ホモ・サピエンスの歴史は約30万年とされていますから、私たちより約6倍も長く地球上に存在していたことになります。
 篠田 謙一 :国立科学博物館
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