🗡20〗─1・D─最前線の米英軍兵士が恐怖した日本陸軍89式重擲弾筒。~No.62 

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 2024年4月10日 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「最前線の米英軍兵士が恐怖したミニ砲兵【89式重擲弾筒】
 投射姿勢をとる89式重擲弾筒。1門は3名の手で運用されたが、投射時は2名または時に1名ということもあった。
 かつてソ連スターリンは、軍司令官たちを前にして「現代戦における大砲の威力は神にも等しいと語ったと伝えられる。この言葉はソ連軍のみならず、世界の軍隊にも通用する「たとえ」といえよう。そこで、南方の島々やビルマの密林、中国の平原などでその「威光」を発揮して将兵に頼られた、日本陸軍の火砲に目を向けてみたい。
 歩兵が自ら携行できる戦闘用爆発物の代表的存在が手榴弾だ。敵と接近した際のさまざまな戦況における有用な兵器として高く評価されているが、基本的には歩兵自身の腕力で投擲する「飛び道具」なので、その到達距離は最大でも50m前後とされる。
 そこで「そのちょっと先」に爆発物(砲弾)を送り込むための兵器として、外国では小銃擲弾(しょうじゅうてきだん)が開発されており、日本陸軍も小銃で投射可能な擲弾(手榴弾)の開発を試みたが、小銃擲弾は発射時に小銃本体に大きな負荷をかけて命数を縮めることもあって、専用の砲弾に加えて既存の手榴弾も投射できる擲弾筒(てきだんとう)を開発した。
 また、やはり外国では軽便な小型迫撃砲も考案されたが、砲自体の重量と専用の砲弾を必要とすることから、言うほどに「軽便」とはいえない、まさに字のごとく「砲」のがわに傾いた兵器とならざるを得なかった。確かに、手で投げる手榴弾よりも遠くまで届くものの、砲本体とその装備の規模がやや大袈裟にならざるを得ず、射撃準備にも少々手間がかかった。
 これに対して擲弾筒は、突発的に生じる「白兵戦」への参入または離脱の際の、やや遠距離に向けて「爆発物」の投射を速やかに行えるので、白兵戦を十八番とする日本陸軍には重宝な兵器といえた。
 加えて、工業力に乏しく兵站(へいたん)能力も脆弱(ぜいじゃく)なため、多種にわたる砲弾それぞれの大量生産と大量供給が苦手な日本にとって、専用の砲弾がない場合は射距離こそ短くなるが代用として手榴弾を投射できる擲弾筒は、大きな強みであった。
 こうした背景により、日本陸軍1921年に10年式擲弾筒を仮制式化したが、1年後の1922年から同擲弾筒の弱点を解消した新型擲弾筒の開発が開始され、1929年に完成したため89式重擲弾筒(じゅうてきだんとう)と命名された。
 89式重擲弾筒は、専用の89式榴弾なら約650m、10年式手榴弾や91式手榴弾なら約200mの最大投射距離を備える。日中戦争や太平洋戦争で活躍し、特に各種砲弾の補給がストップした島嶼戦では、手榴弾が利用できるおかげで弾薬不足に大きく悩まされることもなく、近接戦闘や白兵戦で連合軍将兵を苦しめた。
 擲弾筒のあまり大きくない投射音は、激しい銃声やそれこそ手榴弾の炸裂音、鬨(とき)の声など戦場の喧騒にかき消されてしまうことも間々あり、敵(日本軍)は手榴弾の投擲距離より離れているにもかかわらず、砲撃音もなく突然に頭上から塹壕に落ちてくる擲弾筒弾(手榴弾)は恐怖の的であったという。
 またアメリカ軍では、擲弾筒後端の台座の湾曲が腿にぴたりとはまるので「ニー・モーター(Knee mortar 。「膝撃ち迫撃砲」の意)」と称し、鹵獲(ろかく)した89式重擲弾筒をかような射撃姿勢で試射して、腿を骨折するなど負傷する兵士が多発。そのため、日本軍からの鹵獲兵器の使用方法を解説したマニュアルで、膝撃ちを厳禁する旨が周知されることとなった。
 白石 光
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