🌌49}─4・E─前回の南海トラフ巨大地震から316年が経過しているという「恐るべき事実」。~No.247 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本書紀などの国史天皇史そして日本民族心神話を否定する日本人には、民族的な伝統力・文化力・歴史力・宗教力がなく、本当の歴史が理解できない。
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 日本の自然災害において、科学的想定外などなく、全てが想定内で科学的根拠が存在する。
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 日本列島とは、同時多発的に頻発する複合災害多発地帯である。
 日本の自然は、数万年前の旧石器時代縄文時代から日本列島に住む生物・人間を何度も死滅・絶滅・消滅させる為に世にも恐ろしい災厄・災害を起こしていた。
 日本民族は、自然の猛威に耐え、地獄の様な環境の中を、家族や知人さえも誰も助けずに身一つ、自分一人で逃げ回って生きてきた、それ故に祖先を神(氏神)とする人神信仰を受け継いで来た。
 日本人は生き残る為に個人主義であり、日本社会は皆で生きていく為に集団主義である。
 日本の宗教・文化・言語は、こうして創られてきた。
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 日本民族人間性である価値観・人格・気質を作り出したのは、人間(他国・異民族・異教徒)の脅威ではなかったし、唯一絶対神(全智全能の創り主)の奇蹟と恩寵ではなく、自然の脅威と恩恵(和食)である。
 つまり、日本人と朝鮮人・中国人は違うのである。
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 2024年4月10日 MicrosoftStartニュース 現代ビジネス「じつは前回の「南海トラフ巨大地震」から、すでに316年が経過しているという「恐るべき事実」
 山村 武彦
 今後30年以内に高い確率で発生が予測されている「南海トラフ巨大地震」。果たしてその実態はいかなるものなのだろうか。その巨大な災害はどのようなメカニズムで発生し、どのような被害をもたらすのだろうか。そして、われわれはその未来にどう備えればよいのか。防災・危機管理アドバイザーの山村武彦氏に解説してもらった。
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 日本書紀に書かれた地震
 過去を振り返ると、古事記と並び伝存する日本最古の歴史書である「日本書紀」には、地震の記述が複数みられる。それらの記述の中で、日本最古の地震記述といわれるのは、日本書紀の允恭(いんぎょう)天皇5年7月14日の項に記されている「五年秋七月丙子朔、己丑、地震」。西暦に直すと416年8月23日になる。当時は「地震」と書いて「なゐふる」と読んだ。「なゐ」は大地を表し「ふる」つまり振れる(揺れる)の意味で、読み方は異なっても大地が震える地震(じしん)を表している。
 しかし、この允恭の地震について規模や被害程度などは何も記されていない。被害の模様を記したものは、推古7年4月27日、西暦599年5月28日に起きた大和の地震。「建物がことごとく倒壊し、四方に令(のりごと)して、地震の上を祭(いの)らしむ」と書かれている。当時の人々は地震(なゐふる)を、神によって引き起こされたものと考えていたようだ。ただこの地震も大和の国で甚大被害があったことが記述されていても、それ以上規模や被害の詳細記述はない。
 白鳳時代南海トラフ巨大地震
 時代が進み、40代天皇天武天皇(在位:673年3月~ 686年10月1日)の御代になると、諸国から中央へと情報が集まりやすくなっていく。中央集権・律令国家の基礎が築かれ、各地で起きた紛争や災害などの情報が、速やかに大和の朝廷に届くようになった。記紀日本書紀古事記)編纂に着手したのもこの時代といわれる。
 日本書紀天武天皇13年10月14日に白鳳地震の記述がある。「壬辰(みずのえたつのひ)に、人定(いのとき)に逮(およ)んで、大きに地震(なゐ)ふる。国挙(こぞ)りて男女(おのこめのこ)叫び唱(よば)ひて不知東西(まど)ひぬ。則(すなわ)ち山崩れ河涌く。諸国(くにぐに)の郡(こおり)の官舎(つかさやかず)、及び百姓(おおみたから)の倉屋(くら)、寺塔(てら)神社(やしろ)、破壊(やぶ)れし類(たぐい)、勝(あげ)て数(かぞ)ふべからず。是に由(よ)りて、人民(おおみたから)及び六畜(むくさのけもの)、多(さは)に死傷(そこな)はる。時に伊予湯泉(いよのゆ)、没(うも)れて出でず。土左国の田菀(たはたけ)五十余万頃(いそうよろずあまりしろ)、没(うも)れて海と為(な)る。古老(おいひと)の曰(い)はく、『是(かく)の如(ごと)く地動(なゐふ)ること、未だ曾(むかし)より有らず』といふ」と。これが詳細に記録された最古の大地震といわれる。記録に残る南海トラフ地震と推定される白鳳地震である。
 現代訳にすると「684年10月14日、夜10時ごろ大地震があった。国中のみんな叫び合い逃げ惑った。山は崩れ、川は溢れた。諸国の郡の官舎や住宅、倉庫、社寺の破壊されたものは数知れず、人も多数死亡し家畜の被害も多かった。伊予(いよ・愛媛県)の道後(どうご)温泉の湯が出なくなり、土佐の国では田畑五十余万頃(約千町歩・約12平方キロメートル)が埋まって(沈下して)海となった。古老は『このような地震はかつて無かったことだ』と云った。
 さらに、「この夕、鼓(つづみ)の鳴るような音が東方で聞こえた。『伊豆の島(伊豆大島)の西と北の二面がひとりでに三百丈あまり広がり、一つの島が出来た。鼓の音のように聞こえたのは、神がこの島をお造りになる響きだったのだ』と云う人があった。土佐の国司(こくし)が言うことには『高波が押し寄せ、海水が湧き返り、調税を運ぶ船がたくさん流失した』と報告した」と続く。
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 高波が押し寄せ、海水が湧き返り、船が多数流失するほどの大津波が押し寄せたとある。中には海底隆起か噴火を思わせるような記述もあり、地震地殻変動)×大津波×噴火という複合大災害だったのではないかという推測もある。いずれにしても、激甚さや被害範囲などを勘案すると、白鳳地震は「白鳳南海トラフ巨大地震」と考えられる。
 地震は一度で終わらない場合
 その白鳳地震からの1339年間に、南海トラフでは主な大規模地震が13回発生している。単純計算すれば平均103年に1回の割合で南海トラフ地震が発生していることになる。その13回のうちの8回(約60%)は、東海地震などの後に南海地震が連続して起きている。たとえば永長(東海)地震の2年2か月後に康和(南海)地震、正平(東海)地震の同日か2日後に正平(南海)地震安政(東海)地震の翌日に安政(南海)地震、昭和(東南海)地震の2年後に昭和(南海)地震が発生している(1-(4) 図参照)。
 じつは前回の「南海トラフ巨大地震」から、すでに316年が経過しているという「恐るべき事実」
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 このことから東海地震などの固有地震が起きると、同じ南海トラフ沿いの南海地震などの別の固有地震を連動又は誘発してきたものとみられている。つまり、南海トラフで起きる地震によっては、一度で終わらない可能性もあるということ。ただ、最初の地震から次の誘発又は連動地震までの時間差には幅があり、必ずしも一様ではない。
 一方で、1854年の安政東海地震以降169年間、その固有領域で東海地震が発生していない。その間に、安政東海地震の90年後に昭和東南海地震(1944年)が、92年後には昭和南地震(1946年)が発生している。東海地震の169年間に及ぶ沈黙はいったい何を意味するのか、今後、東海地震が引き金となって、他の地震が誘発させたり、南海トラフ全体で巨大地震が連動して引き起こす可能性も否定できない。
 関連するビデオ: 宮崎・日南市で震度5弱津波の心配なし (日テレNEWS NNN)
 大地震×大津波×噴火
 過去の南海トラフ地震では、一つの地震が次の地震を連鎖的に誘発してきただけでなく、南海トラフ全体が同時又は短い時間差で連動してずれ動いたこともある。1707年の宝永地震は、南海トラフ全体が同時又はわずかな時間差で動いた「江戸時代の南海トラフ巨大地震」と推定されている。固有地震の多くは一つあたりM7.9~8.5のエネルギーであるのに対し、宝永地震はM8,6~9.3の超巨大地震だったと推定されている。となると、前回の超巨大地震(宝永地震)からすでに316年間、南海トラフ全体では動いていないことになり、次の南海トラフ巨大地震はすでにカウントダウンが始まっているとする説もある。
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 過去の南海トラフ地震で共通しているのは、日本書紀の白鳳地震の記載にもあったように、大揺れの後に大津波が押し寄せることである。そして、犠牲者の多くが津波によるとされている。中でも宝永地震東海道沖から南海道沖の広い範囲を震源とした南海トラフ全域のプレート間断層が破壊された日本最大級の超巨大地震と推定され、想定されている南海トラフ巨大地震の被害想定を見ると、最悪の場合は宝永地震の再来ともいわれる大惨事になる可能性がある。その宝永地震の49日後には富士山が宝永の大噴火を起こし江戸にも降灰があった。次の南海トラフ巨大地震発生時に富士山が連動して噴火しないという保証はない。最悪の複合災害への準備も必要になる。
 歴史に学ぶ
 三重県伊勢市伊勢神宮・外宮境内にあった「子良館(こらかん)」に勤務する歴代の神官たちが当番制で書き継いだ(1661年~1812年)日記がある。その「外宮子良館日記(げくうこらかんにっき)」から、現代意訳で宝永地震を見てみる。「宝永四年丁亥十月四日壬午の未上刻」は、西暦にすると1707年10月28日14時前、畿内東海道および南海道諸国が激しい揺れに襲われる。この地震の有感範囲は非常に広大で、家屋潰倒の激震範囲は約200里(約790キロメートル)にも及び、蝦夷を除く日本国中、五畿七道に亘って大揺れとなった」と記されている。被害の範囲は現在の南海トラフ巨大地震震度分布図(1-(5) 図参照)に重なるようにも思われる。
 じつは前回の「南海トラフ巨大地震」から、すでに316年が経過しているという「恐るべき事実」
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 1707年10月28日13時45分頃、東海道沖から南海道沖を震源域として、推定M8.6~9.3の宝永地震が発生した。最大震度は現在の震度階でいうと震度7とされ、太平洋沿岸に大津波が押し寄せ高知県土佐久礼で最大約25.7メートルの津波高と推定されている。宝永地震の被害は東海道と伊勢湾・紀伊半島・四国が最も大きく、東海道の宿駅の一つ袋井(現在の静岡県袋井市)は町が全壊(ちなみに袋井宿は安政地震の折も全焼)している。特に津波被害が甚大で「宝永地震」の犠牲者の大部分が津波によるものと推定されている。死者は5千人~2万人と言われている。当時の日本の人口が推定約2800万人として類推すると、現在の人口からすると約2万2500人~9万人に匹敵するような被害である。
 宝永地震の時、地震の影響で道後温泉愛媛県松山市道後湯之町)では145日間も湯が止まったという記録が残っている。地震道後温泉の湯が止まったのは、その1033年前に発生した白鳳地震(684年)時の日本書紀の「時に伊予湯泉(いよのゆ)、没(うも)れて出でず」という記載とも一致する。白鳳地震と宝永地震道後温泉の湯に異常をきたしたということは、南海トラフ巨大地震では地殻変動が同じ場所で繰り返し起きることを示している。歴史は繰り返す。過去の地震で地盤が沈下したり、液状化が起きた場所でも警戒が必要になる。
 南海トラフ巨大地震の被害想定(液状化)では、愛知県名古屋市三重県四日市市・津市、和歌山市大阪府堺市大阪市徳島市などが「液状化の可能性が大」とされている。こうした地域では過去に液状化があった場所かどうか確認しておく必要がある。液状化現象は同じ場所で繰り返されることが特徴。企業であれば、被害想定やハザードマップにより立地リスクアセスメントの再確認をすべきである。
 「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」(オットー・フォン・ビスマルク)。南海トラフ巨大地震対策は、災害史なども参考にしてその後に何が起きるか多角的に展開予測し、現代の社会状況や科学的知見を取り入れた準備と対策が求められている。
 さらに続きとなる<「最大34メートルの津波」「東日本大震災の14.5倍の犠牲者」…「南海トラフ巨大地震」の「驚愕の被害想定」>では、阪神・淡路大震災東日本大震災との比較から南海トラフ巨大地震について語る。
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 4月10日 MicrosoftStartニュース NEWSポストセブン「【山口組能登半島地震】「48時間以内に現地入り」「300人前の豚汁、うどんの炊き出し」テレビ・新聞では報じられない「ヤクザとボランティア」
 © NEWSポストセブン 提供
 発生から3か月が経過した能登半島地震。石川県内ではいまだ8000人以上が避難生活を続けていて、自治体、そして多くのボランティアが1日も早い復興にむけて力を合わせている。
 【関係者しか見られない新聞の中身】山口組が作った豚汁 誕生日を迎えた司組長の紋付き袴姿など 
 大災害が起きるたびに、いち早く被災地に入り救援活動を行なうのが暴力団だ。
 「1995年の阪神・淡路大震災で神戸に本部がある山口組は大規模なボランティア活動を行ない、メディアも好意的に取り上げるなど一躍脚光を浴びました。災害時の救援活動は山口組にとって存在意義を示す場でもある」(実話誌記者)
 六代目山口組が傘下組織に対して発行する機関誌『山口組新報』の最新号で、能登半島地震における六代目山口組のボランティア活動がレポートされていることがわかった。
 大阪に本部を置く六代目山口組・二次団体の若頭の寄稿によると、地震発生直後、この二次団体の組長が「全力でやれ」と組織に号令をかけ、この若頭を含めた多くの組員が地震発生48時間以内に被災地入り。詳細は記されていないが、救援物資の搬入、炊き出しを行なったという。今回の地震では道路が寸断されたため、民間のボランティアが現地入りすることについては様々な意見が生じていたが、〈賛否の声は世の常、私も現地に入りそれ以上に必要とする声を聞き、成すべき事を成すまでの事、これもヤクザとして誇りに思う所であります〉と締めくくっている。
 さらに、六代目山口組・司忍組長と盃を交わしている直参組織の組長も手記を寄せ、被災地で救援活動に従事していたことを明かしている。この組長は1月8日夕方、友人たちと食事をしながらテレビのニュースを見ていて被災地入りを決意。近くのドラッグストアやスーパーで購入したトイレットペーパー、マスク、生理用品、防寒具、水、菓子、炊き出し用の食材をハイエース、2トンキッチンカー、ジープに積み込み、10日朝に滋賀県大津市から震源地に近い珠洲市に向かったという。
 途中のサービスエリアでさらに食材などを買い足したが、インターチェンジでの検問で救援車両以外の車は通行できず、一般道で穴水町入り。海沿いの国道249号は道路の損傷が激しく、時速20キロほどでの通行となったとのことで、記事には亀裂が入った道路や潰れた民家の写真が掲載されている。
 出発から7時間ほど経った15時に穴水町の小学校に到着。救援物資を届けたところで、知人から「珠洲市の小学校で炊き出しをできないか」という連絡が入ったという。避難者は30人ほど。珠洲市までは道路の損壊にくわえ、倒壊した家屋や土砂崩れにより思うように車を走らせられなかったが、山道を経由するなどして19時頃に到着。
 関連するビデオ: 能登半島地震から100日 今なお6328人が避難生活 珠洲では全域で断水続く (テレビ金沢ニュース)
 組長らは休むもなく、大きな寸胴2つで豚汁を炊き、うどんを300人分ほど振る舞ったという。小学校に避難している人だけでなく、近隣住民まで食べに来たことが記されていた。
 避難者から要望を受け、寸胴や調理器具も置いていった組長たちは、避難者に何度も頭を下げられながら小学校を去ったという。
 「記事にするのは勘弁してくれ」
 今回の能登半島地震暴力団が救援活動を行なっていたことについては大手メディアのみならず“専売特許”であるはずの実話誌も取り上げていない。一体なぜか。
 「被災地の石川県に六代目山口組が直参組織(二次団体)を置いておらず、組織的な支援を行なっていないことも大きいでしょうが、全国的な暴排の気運もあり、地元自治体が表立ってヤクザの救援物資を受け取るのが難しくなってきている。メディアも取り上げづらいし、暴力団もこうした事情を知っているため、ひっそりと活動しているようだ。ヤクザの幹部たちも『ボランティアを記事にするのは勘弁してほしい』と漏らしている」(前出・実話誌記者)
 前出・組長は手記の最後に〈疲れたけど行って良かったな。本当にそう思った〉と吐露している。
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