🍠21〗─3─磐梯山噴火と世界初、平時の災害救護。昭憲皇后と日本赤十字社。明治21(1888)年。~No.65 

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 日本赤十字医療センター
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 国内災害救護
 世界初、平時の災害救護
 当センターの災害救護は、1888年明治21年)7月、福島県磐梯山の噴火に際し、皇后陛下(のちの昭憲皇太后陛下)の思し召しを受け医師3名を猪苗代へ急派したのが始まりです。当センターの前身である博愛社病院が設立されて1年半後のことでした。もともと、日本を含め世界の赤十字の救護活動は戦地における傷病者の手当(戦時救護)を目的としていたのですが、この磐梯山噴火災害の救護は、世界の赤十字で初めて「平時の災害に対する救護活動」を実践した先駆的事例として、国際的な注目を集めました(これを記念して、裏磐梯五色沼のほとりに「平時災害救護発祥の地」の碑が建立されています)。その後も、エルトゥールル号遭難事件(1890年)、濃尾地震(1891年)、三陸津波(1896年)、関東大震災(1923年)など、近代日本史に刻まれた数々の災害は、まさに当センターの救護の歴史でもあるのです。群馬県御巣鷹山日航機墜落事故(1985年)では、部分的にしか残っていないご遺体を新聞紙や段ボール、さらし布などを用いて五体揃った形に整えた上でご家族にお返しする「整体」という技法を編み出すなど、赤十字の精神を余すところなく体現した救護活動が高く評価されました。
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 展示紹介 Vol,  2010.7.15
 初の災害救護活動~磐梯山噴火
 1888年明治21年)7月15日、福島県磐梯山が噴火し、麓の村落の住民500人以上が死傷しました。戦時を想定した当時の日本赤十字社社則には、自然災害時の活動の規定はありませんでしたが、皇后陛下(昭憲皇太后)から、救護班を派遣したらよかろうとの内旨(内々の沙汰)がありました。
 7月21日に現地に入った救護員はのべ15人で、地元の医療関係者と協力してのべ105人の患者に手当てを施しました。
 磐梯山噴火と三上剛太郎
 この災害での日本赤十字社の活動を東京で広く伝えたのが、読売新聞の社会部記者で青森県佐井村出身の三上剛太郎でした。三上はその後家業の医業を継ぐため新聞社を退社し、日露戦争に軍医として従軍しました。
 コサック兵に包囲された野戦病院に負傷者を保護するため、急造の赤十字旗を掲げた逸話は有名です。
 三上が赤十字への認識を深めたのは、磐梯山噴火での日赤の活躍だったといわれています。
 三上剛太郎 手製の赤十字旗の逸話については、下記の日本赤十字社青森県支部ホームページをご参照ください。
 http://www.aomori.jrc.or.jp/mikami00.htm
 赤十字情報プラザ   日本赤十字社
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 2021年2月7日 産経新聞小菅信子さん『日本赤十字社と皇室 博愛か報国か』
 【聞きたい。】小菅信子さん『日本赤十字社と皇室 博愛か報国か』
 令和への御代替わり後、皇后雅子さまの初の単独ご公務先は、全国赤十字大会だった。献血などの医療活動で一般になじみ深い日本赤十字社だが、歴代皇后が同社の名誉総裁を務めるなど、歴史的に皇室との縁がきわめて深い組織であることは案外知られていない。
 「日赤は皇室を中心に日本が国民統合する際に重要な装置となり、特異な発展を遂げました」と語る著者は、戦後和解の研究などで知られる政治学者だ。
 赤十字運動は、19世紀半ばの欧州諸国の国民国家化と社会の民主化を背景に、同胞たる傷病兵が置かれた悲惨な状況を改善する「戦場の人道化」を目指して誕生。日本でも明治10年の西南戦争時、日赤の前身となる博愛社が設立された。
 当初は十字の標章に代表されるキリスト教性への抵抗感も大きかったが、明治中期には社員(拠金者)の急速な広がりをみる。本書はこの要因として、赤十字が皇室の保護を得たことで「報国恤兵(じゅっぺい)」と「博愛慈善」が結合する形で受容されていった過程を詳述。日赤が持つ国際主義と国家主義とのバランスが、近代史の中でどう推移したかを描き出す。
 特に赤十字事業に熱心だったのは昭憲皇太后明治天皇の皇后)だった。桐竹鳳凰(ほうおう)模様が赤十字を包み込むという近代日本の欧化政策を象徴するかのような日赤の社章も、昭憲皇太后のかんざしに由来するとされる。「江戸時代のように御簾(みす)の奥にいるのではなく、自ら表に立ち戦時には包帯を作って負傷者に贈った。近代の皇后の役割を創出する際にも、赤十字は大きな役割を果たしました」
 もともと、戦争と人道の問題に関心があった。今作も、長年抱いてきたテーマの結実だという。「戦場の人道化は簡単にはいきません。不幸にして極限状況が生じた際、どう人間の尊厳を守るかは平時のうちに考えておかなければ。災害大国の日本であれば、なおさらです」(吉川弘文館・1700円+税)
 磨井慎吾
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 2021年8月27日 MicrosoftNews zakzak「【週末、山へ行こう】明治の大爆発で出現、絶妙な色合い 五色沼福島県) 標高830メートル
 【週末、山へ行こう】明治の大爆発で出現、絶妙な色合い 五色沼福島県) 標高830メートル© 産経新聞社 【週末、山へ行こう】明治の大爆発で出現、絶妙な色合い 五色沼福島県) 標高830メートル
 「宝の山よ」と歌われる会津の名峰・磐梯山。山体崩壊によって作り出された、独特の荒々しい山容が目を引く。明治21(1888)年、磐梯山の大爆発により、岩なだれで川がせきとめられ、たくさんの沼や池が出現した。五色沼湖沼群もその一部だ。沼が5つというわけでも、色が5色というわけでもない。大小多くの沼が点在し、沼の色もエメラルドグリーンやコバルトブルー、あるいはやや赤みがかっていたりとさまざまだ。
 【週末、山へ行こう】明治の大爆発で出現、絶妙な色合い 五色沼福島県) 標高830メートル© 産経新聞社 【週末、山へ行こう】明治の大爆発で出現、絶妙な色合い 五色沼福島県) 標高830メートル
 数年前の夏休み、NHK『ブラタモリ』の「会津磐梯山」の回を見た家族が「磐梯山を見に行きたい」と言い出した。家族は登山をしないので、あくまでも観光だ。せっかくなら、五色沼のハイキングコースを歩いてみようと思い立った。歩行時間は1時間半程度、歩き慣れていない家族でも、いくつもある沼を眺めながら、楽しく歩けそうだ。
 裏磐梯ビジターセンターから歩き始めた。天気はよく、広葉樹の樹林が心地よい。道は歩きやすく整備されている。それぞれの沼に立ち寄り、一息つく。毘沙門沼では高台の展望地から眺めを楽しんだ。手こぎボートに興じている人も多かった。
 どの沼も絶妙な色合い。陽光の加減によっても色の見え方は異なるのだろう。弁天沼では周りの山々が湖面に映り込み美しかったし、青沼は引き込まれるような青色に魅了された。展望台から沼を眺めていると、ときおり爽やかな風が吹き抜け、風が木々を揺らす音も心地よい。
 ハイキングコースを歩き終え、改めて磐梯山の崩壊壁を眺めた。すざまじい爆発のあと、長い年月をかけて植物が育ち、今の景観が作り上げられた。一方で、自然の景観は未来永劫(えいごう)続くものではない。植生で見える景色は変わりうるものだし、ひとたび自然災害が起これば地形ごと変わってしまうこともある。だからこそ…、今、見ることができる景色を尊いと思うし、山を楽しめることに感謝したいと思うのだ。
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 登山にあたっては、入山可能か(来訪・入山自粛要請が出ていないか)、登山道の状況、バスの運行などを最新のデータでご確認ください。山行中は、歩行時に他の登山者との間隔をあけるなど新型コロナウイルス感染予防を心がけましょう。
 ■五色沼おすすめルート 裏磐梯ビジターセンター…毘沙門沼…弁天沼…裏磐梯高原駅バス停 歩行時間 約1時間30分/難易度★(最高難易度★★★★★)
 ■コースガイド 裏磐梯ビジターセンターから桧原湖に向けて五色沼自然探勝路を歩くコース。ゆるやかな登りになるが、木道や広い砂利道が中心で歩きやすい。それぞれの沼には解説の看板やベンチがあるので休んでいくとよい。
 ■おすすめシーズン 新緑は5~6月、紅葉は10月上旬~下旬。12月~3月は積雪があり、ガイドツアーなどでスノーシューハイキングができる。磐梯吾妻レークラインなど裏磐梯周辺の観光道路は11月中旬~4月上旬は冬季通行止め。
 ■西野淑子(にしの・としこ) オールラウンドに山を楽しむライター。日本山岳ガイド協会認定登山ガイド。著書に「東京近郊ゆる登山」(実業之日本社)、「山歩きスタートブック」(技術評論社)など。NHK文化センター「東京近郊ゆる登山講座」講師。」
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 昔の日本は、現代の日本とは違い、天皇の大御心・御稜威に添うべく如何なる時も如何なる状況でも本気で手を抜く事なく行動していた。
 昔の日本は、天皇主権で、天皇国家元首大元帥であった。
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 近代天皇である明治天皇昭和天皇は、血の神話・民族宗教由来の世襲制正統男系父系天皇である。
 リベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者が目指している科学・法律由来の非世襲制正当性女系母系天皇は、正統な近代天皇の偉大な歴史的功績を否定する事である。
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 現代日本歴史教育は、天皇軽視認識から、歴代天皇が行った人道貢献や平和貢献を表に出さず歴史の闇に消し去っている。
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 明治神宮。御祭神は明治天皇昭憲皇太后。大正4(1915)着工、5年後に完成。
 神の子孫である天皇は、神聖不可侵の神=現人神とされた。
 神宮の森は、人工林で自然林ではなかった。
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 赤十字 名所紀行 vol.4
 ニッポンの赤十字ゆかりの地を巡る
 2021年7月号
 福島・磐梯山の大噴火。国内初の災害救護の記念碑
 先人の救護への情熱と偉業をしのぶ記念碑
 写真提供:裏磐梯観光協会
 1888年明治21年)7月15日、磐梯山の大噴火により土砂や火砕流が押し寄せ、ふもとの地域では500人*以上の死傷者を出す大惨事となりました。日本赤十字社は医師3人を送りこみ、昼夜を問わず被災者救護にあたりました。平時の災害救護活動は、当時、各国でもほとんど行われていなかったことから、先駆的な例として国際的な注目を集めました。そもそも日本を含め世界の赤十字の救護活動は戦地における傷病者の手当て(戦時救護)を目的としており、自然災害に対する規定はありませんでしたが、昭憲皇太后(当時、皇后陛下)の思(おぼし)し召しにより、初の戦争以外の救護活動が実現したのです。平成元年、毘沙門沼のほとりに噴火百周年記念として、碑を建立しました。
 *日本赤十字社社史稿(明治44年)による
 写真提供:裏磐梯観光協会
 この記事は赤十字NEWS 2021年7月号の掲載内容をオンライン用に編集したものです。
 赤十字NEWS紙版は下記からPDFでご覧いただけます。
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 2021年2月5日 産経新聞「100年の森 明治神宮物語
 皇后(下)時代を先取りした救護の精神
 【100年の森 明治神宮物語】皇后(下)時代を先取りした救護の精神
 明治10年3月、九州で西南戦争が勃発した翌月の「昭憲皇太后実録」には、次のような記述がある。
 「皇后並(ならび)に皇太后は戦闘によりて生じたる多数の負傷士卒に深く御哀憐の情を垂れさせたまひ、其(そ)の治療に用ふる綿撤糸(編注・ガーゼ、以下同)を御手づから製したまひ、又(また)女官をも之に従事せしめらる」
 美子(はるこ)皇后(昭憲皇太后)と英照皇太后は、ガーゼ100反分のほか、白木綿、ぶどう酒などを負傷した兵士に届け、さらに「傷つきて病床に在る者には官賊(敵味方)の別なく用ひしめよ」と指示したという。
 美子皇后が情熱を注いだ対象の一つに社会福祉への支援がある。「明治日本のナイチンゲールたち」(今泉宜子著、扶桑社)などによると、西南戦争の際、後に日本赤十字社となる博愛社が兵士救護のために設立され、美子皇后はこの支援を一貫して続けた。戦時に限らず、災害時の救護や平時の備えにも目を配った点が時代を先取りしており、例えば21年の磐梯山噴火では被災者救護を日本赤十字社に命じ、同団体による天災救護活動の始まりとなった。
 貧しい人々の医療のため設けられた有志共立東京病院(東京慈恵医院)の総裁にも就任した。国際的に有名なのは「昭憲皇太后基金」だ。45年にワシントンで第9回赤十字国際会議が開かれた際、「平時における赤十字救護事業を奨励するため」と10万円(現在の約3億5千万円)を寄付した。これらも、奈良時代光明皇后が施薬院で示した皇室の伝統を受け継ぐものだった。」
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 磐梯山(ばんだいさん)
 宝の山「磐梯山
 豊かな湖沼と清らかな川の流れ、緑あふれる山々。
 北塩原村は美しい自然に囲まれ、そのほとんどが磐梯朝日国立公園に含まれる国内屈指の高原リゾート地です。
 その中心を成しているのが、宝の山「磐梯山」と「裏磐梯」です。
 1888年明治21年磐梯山頂北側、小磐梯を含む部分が水蒸気爆発によって山体崩壊を起こしました。
 岩なだれが川をせき止め、数百もの湖沼がこの時に形成されます。桧原湖、秋元湖、小野川湖をはじめ、
 それらに挟まれるように位置する数十の湖沼群が「五色沼」です。
 五色沼は2016年、ミシュラン・グリーンガイド1つ星の評価を受けました。
 様々な湖沼の色を楽しめる五色沼、エリア内あちこちで見られる雄大な風景、温泉など、磐梯山は数々の恵みの宝を与えてくれました。
 元は「いわはしやま」と読み、「天に掛かる岩の梯子」を意味します。
 磐梯山の南側が表磐梯、北側が裏磐梯と呼ばれており、表磐梯から見る山体は整った形をしていますが、裏磐梯から見ると、一変して山体崩壊の跡の荒々しい姿を見せます。
 2007年には日本の地質百選に選定、また2011年には日本ジオパークに認定されました。
 二度の山体崩壊を起こした火山
 磐梯山は約5万年前と西暦1888年の少なくとも二度、大規模な山体崩壊・岩なだれを起こしました。
 5万年前の山体崩壊は表磐梯側で起き、川をせき止めて猪苗代湖ができたと考えられています。猪苗代湖唯一の島である翁島は、その時生じた流れ山の一つです。
 1888年の山体崩壊は裏磐梯側で起き、水蒸気爆発により小磐梯を崩壊、消滅させ、岩なだれが川をせき止め、桧原湖などの多くの湖沼群を作りました。「噴火」というとマグマが流れ出してくるというイメージがありますが、この磐梯山の噴火は水蒸気爆発による山体崩壊です。熱い溶岩流に覆われたわけではないので植生の回復は意外に早く、植林事業の努力もあって今では風光明媚な観光地となっています。
 磐梯山では崩壊壁に成層火山の断面がはっきり見えます。ふつう成層火山の内部は見えないため、世界的に貴重なジオサイトです。
 山体崩壊・・・火山の爆発や地震によって起きる大規模な山崩れのこと
 岩なだれ・・・山体崩壊により大量の岩石や土砂が流れ下る現象
〒969-2701 福島県耶麻郡北塩原村大字桧原字剣ヶ峯1093-1055
 TEL:(0241)32-2349 受付時間:9:00~18:00まで
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 報告書(1888 磐梯山噴火)
 災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 平成17年3月
 1888 磐梯山噴火
 報告書の概要
<概要>
 明治21年(1888年)7月15日7時30分ごろから発生した噴火。水蒸気爆発型の噴火に伴う岩屑なだれ、土石流、爆風により、現在の福島県猪苗代町の周辺に多大な被害が発生した。死亡者477名、負傷者28名。また噴火に際して移動した大量の土砂が融雪期に洪水被害をもたらした。
<教訓>
 現代の科学技術によっても容易なことではないが、噴火の前兆をとらえて警報を出すべきである。また、二次被害を防ぐために、現地の自然条件に合わせた対応をする必要がある。
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 日本の火山 vol.15 磐梯山 [福島県]
 郷土のシンボル「会津富士」
 「会津磐梯山は宝の山よ」と民謡にも歌われる磐梯山は、標高1819m、福島県猪苗代湖の北に位置する活火山である。
 南麓の表磐梯の穏やかな山の姿は、北麓の裏磐梯では一変。噴火による山体崩壊で生じた荒々しい山肌をみせる。
 1888年の噴火では、水蒸気爆発で発生した岩屑なだれによって北麓の村落が埋没し、死者477名を出す大災害となった。この噴火は、近代日本を襲った最初の大規模自然災害といわれる。観測体制がない当時は予知情報もなかった。そのため一週間程前から続いていた震動や遠雷のような音が噴火の前兆とは認識されず、予め避難することなく多くの住民が犠牲となった。
 この時、火口にあった長さ8.2m、高さ3mあまりの岩の巨塊が火山性泥流によって約5㎞離れた場所まで流された。この岩は「見み祢ねの大石」と呼ばれ、火山性泥流が遠距離まで巨石を運ぶ事実を示す学術的にも貴重なものとされている。一方、桧原湖五色沼等、裏磐梯景勝地として知られる数々の湖沼がこの噴火によって誕生している。
 所在地 〒100-8914 東京都千代田区永田町1-6-1 電話番号 03-5253-2111(大代表)
 内閣府政策統括官(防災担当)
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日本赤十字社と皇室: 博愛か報国か (歴史文化ライブラリー 505)
磐梯山破裂セリ―記録写真集
磐梯山爆発 (シリーズ日本の歴史災害)
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 ウィキペディア
 1888年磐梯山噴火は、1888年明治21年)7月15日に発生した磐梯山の噴火である。噴火に伴い山体崩壊が発生し、磐梯山を構成する成層火山の峰の一つであった小磐梯は全面的に崩壊し消滅した。そして北麓に岩屑なだれが流れ下り3つの集落が埋没した。その後、岩屑なだれは水分を含み泥流化して長瀬川流域に大きな被害を出した。更に磐梯山東麓を襲った火砕サージによる爆風、土石流によっても被害が出た。この噴火によって477名が死亡したとされ、これは明治以降の近代日本において最も多い犠牲者が発生した火山災害である。
 負傷者の治療
 負傷者治療のために猪苗代町内に設けられた治療所。
 負傷者の治療については、噴火当日の7月15日夕方までに救出された人たちは猪苗代警察分署と猪苗代小学校の校舎の一部に収容され、猪苗代小学校校舎に設けられた治療で治療を受けた。また負傷者が多かった磐瀬村長坂にも仮病室が設けられ、緊急治療が施された。負傷者の多くは裂傷や骨折、打撲などを負っており、まず地元の開業医が治療に当たったが、災害発生当初は治療に携わる人員と治療に必要な医薬品や医療機器の不足から、対応は困難を極めた。
 やがて福島県域の病院、そして日本赤十字社、東京帝大からも医師が来援し、被災後しばらくの間、負傷者の親族に任されていた看護も、7月25日以降は看護師が行うようになった。治療の結果、症状の軽快、在宅療養への切り替えが進み、7月25日には日新館に治療所が移された。更に8月14日には重傷者は福島病院に転院となり、軽症者は在宅で地元の医師が診察を行うことになって治療所は閉鎖された。治療中に伝染病にかかり隔離される患者も出るなど、治療所の運営には多くの困難が伴った。また治療中に12名の負傷者が亡くなり、障害が残った者もいた。
 磐梯山噴火によって負傷した人を救護する日本赤十字社社員。
 なお、この噴火災害に対して日本赤十字社が行った災害派遣は、これまで赤十字社の活動が戦時の救護に限定されていた中で、災害救護の先駆けとなる事例となった。派遣に際しては被災地の現地視察を行った折内福島県知事から山縣有朋内務大臣に宛てた被災地の医師不足を伝える電報が、山縣から宮内大臣の土方久元を通して皇后の耳に届いた。皇后は7月19日、宮内省を通して日本赤十字社に対して医員の派遣を行うよう要請し、日本赤十字社社長の佐野常民は早速派遣を決定した。
 日本赤十字社の活動は災害発生から6日後の21日からとなった。派遣が皇后の意向で決められたという経緯から、活動は福島県など現地関係者の全面的なバックアップのもとで行われた。災害当初は整備されていなかった支援体制も21日になると整備されつつあり、患者数も徐々に少なくなっていた。そのため、派遣に実際的な意味が無かったとする見方もあるが、派遣医師が持参した医薬品や医療機器は大いに歓迎され、現地で活動中の地元医師と協力しながら救援体制の整備に一定の役割を果たし、24日で支援活動を終了した。
 また皇后の派遣要請を受けて日本赤十字社の医師が救援活動に従事したことは、地元において磐梯山噴火の負傷者に対する見方を好転させ、全国的に活動が報道される中で、災害時の人命救助、負傷者支援の重要性を知らしめる機会となった。そして日本赤十字社の活動についても広く知られる機会となった。
 そして後述のように1888年磐梯山噴火は広くマスコミによって報道され、学術的な研究や支援を行いたいと、現地入りを希望する人たちが大勢現れた。その中で帝国大学医科大学も医師の派遣を計画し、福島県に打診を行ったが、現地は医師が足りているとのことで派遣は断られた。しかし医科大学大学院生であった芳賀栄次郎は会津若松出身であり、是が非でも故郷の災害救援に携わりたいと願い、同じく大学院生であった三輪徳寛とともに、帝国大学総長名の福島県知事あての紹介状を携えて現地に向かい、ボランティアで医療活動に従事した。これは日本における災害時ボランティアの先駆的な試みとなった。
 炊き出し、避難所の設置
 土石流によって被災した見祢集落の家屋。
 住居を失うなど困窮した人たちのために炊き出し、そして避難所の設置も行われた。炊き出しは主に長瀬川流域方面で行われ、集落が全滅状態であった檜原村方面では少なめであった。炊き出しは10日間実施され、その後20日間は救助米が支給された。
 そして檜原村の被災集落の住民でたまたま集落を離れていたために難を逃れた人々のために、猪苗代町新堀の民家を借り上げて避難所を開設した。避難所には世話人を2名配置して事務や被災者の支援に当たった。檜原村のほかに被害が大きかった磐瀬村長坂、磐瀬村見祢の被災者もまず猪苗代小学校に設けられた避難所に入所したが、その後に猪苗代町新堀の避難所に統合された。避難所の入居者は、家族が亡くなり取り残されて身寄りが無くなった者や、両親を失った子どもたちが多かった。なお、避難所が開設されていた期間については明らかになっていない。
 そして家を失った人たちのために、家屋の再建費用に当たる小屋掛け費用の補助も行われた。1888年磐梯山噴火災害の場合、岩屑なだれや土石流で集落が埋まってしまったケースが発生したため、前住宅地の近隣に集落を再建することをも考慮しながらの支給となった。
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 磐梯山福島県耶麻郡猪苗代町磐梯町北塩原村にまたがる山である。会津盆地側からは、綺麗な三角の頂が見えることから会津富士(あいづふじ)、あるいは民謡にあるように会津磐梯山(あいづばんだいさん)とも呼ばれている。日本百名山に選定されており、福島県のシンボルの一つとされている。
 1888年の噴火
 詳細は「1888年磐梯山噴火」を参照
 噴火当時は、まだ現地で撮った写真をそのまま新聞紙面に印刷することが難しかったため、報道の手段として錦絵や版画が用いられていた。
 1888年明治21年)7月15日の水蒸気爆発により、小磐梯が山体崩壊を起こし、発生した爆風と岩屑なだれにより北麓の集落(5村11集落)が埋没する被害を出し477人の死者を出した。なお、マグマ由来物質は検出されていないためマグマ水蒸気噴火ではない。
 この噴火は明治になってからの近代日本初の大災害であり、大日本帝国政府が国を挙げて調査、救済、復旧を実施した。調査は関谷清景や菊池安らにより行われた。学術的調査としては、当時としては珍しいアンケートの手法が採られており、かなり詳細な噴火の経過や被害状況、写真が収集され、論文としてまとめられている。
 のちに磐梯型との噴火形式名称が残るほど、世界的に有名な噴火となった。復旧に当たっては義援金は3万8,000円(現在の貨幣価値で約15億円に相当)が集まり、復興を支えた。また、噴火前年の1887年に結成された日本赤十字社初の災害救護活動となり、さらに赤十字活動における世界初の平時救護(それまでは戦時救護のみ)ともなった。
 現在、五色沼近くに「平時災害救護発祥の地の記念碑」が建立されている。この山体崩壊で生じた土地の多くは、当時の官有地であったため、民間の資金と労力を利用した植林事業が行われ、泥流堆積地の7割を31年かけ緑化した。
 崩壊の推定規模 12 - 15*108m3。
 噴煙の推定高度 800m。
 噴火の経過
 噴火前の6月末頃から地鳴りなどの前兆現象があったが、当時は噴火との関連性の認識がなく、対処も行われなかった。
 噴火当日の午前7時頃地震が発生し、地震はその後も続いた。
 7時45分頃 小規模な噴火が始まる。住民証言、スケッチ、写真から水蒸気爆発を生じた地点は、小磐梯山頂西麓と銅沼付近であった。
 最初の爆発から15から20回程度の爆発の後、小磐梯山北側の水平方向への爆発的噴火で大規模な山体崩壊が発生した。この山体崩壊により長瀬川とその支流がせき止められ、土石流や火山泥流下流域に被害を与えている。このせき止めにより桧原湖、小野川湖、秋元湖、五色沼をはじめ、大小さまざまな湖沼が形成された。裏磐梯の景観は、この時に形成された。また、かつての会津藩の財政を支えていた檜原金銀山の史跡も湖底に没した。
 主な活動は、2 - 3時間で終了した。
 噴火以前の山体
 米地(1988)の調査以前は、噴火前の山体形状を記録した資料はほとんど存在せず、山頂部の等高線、絵画やスケッチが知られているだけであった。米地は、会津若松市の刊行した写真集から噴火以前の写真を見い出し、江戸時代後期の絵図と合わせて山体の復元を行い地形模型を作成した。また、小磐梯山の山頂付近は傾斜40度程度の急峻な斜面であることを示し標高を1,760mと推定した。
 山体崩壊とラハール
 1992年に東山麓のスキー場で行われた崩壊斜面のトレンチ調査によれば、ラハールの堆積物の下層に噴火初期に発生した火砕物重力流堆積物と泥質の降下火砕物重力流堆積物が層になっており、爆発により山体崩壊が生じた後に上昇していた噴煙柱から水分の多い火山灰が豪雨の様に降り注ぎ、ラハールが東山麓の琵琶沢沿いを約4km流下したと考えられている。
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🍠23〗─1─大正桜島噴火と日本軍部の救護活動。大正3(1914)年。~No.69 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
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 19世紀頃までの世界常識として、天災で被災した国民を救済するのは国家・政府ではなくキリスト教会とボランティア団体であった。
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 報告書(1914 桜島噴火)
 災害教訓の継承に関する専門調査会報告書
 1914 桜島噴火
 報告書の概要
 はじめに
 桜島大正噴火はわが国が20世紀に経験した最大の火山災害である。しかも火口から10km圏内に鹿児島市という大都市を控えているという点が世界的に見ても特異な点であった。
 第1章 桜島の火山としての特徴と噴火の推移
桜島火山の地形と地質
 鹿児島地溝という張力場に北から加久(かく)藤(とう)・姶良(あいら)・阿多(あた)の巨大カルデラが線状に並んでいる。桜島姶良カルデラが入戸火砕流を噴出した約2.9万年前の活動後約3,000年を経て、約2.6万年前に後カルデラ火山として姶良カルデラの南縁に誕生した。北岳・南岳の2つの成層火山が重なった構造をしており、前者は輝石デイサイト(SiO2=65〜64wt%)であるが、後者はSiO2=64〜60%とSiO2がやや乏しくなる傾向がある。最近は専ら南岳が活動を続けている。
②歴史時代の大規模噴火
 歴史時代の活動としては天平(てんぴょう)宝(ほう)字(じ)(764)・文明(ぶんめい)(1471)・安永(あんえい)(1779)・大正(1914)などが知られている。天平宝字噴火は鍋山の水蒸気マグマ噴火の後、溶岩を流出させた。文明噴火は歴史時代で最も大規模なプリニー式噴火であり、膨大な軽石のため、北岳の地形が一変したほどであった。桜島の東北東と南西に溶岩を流出させている。安永噴火もまた割れ目噴火で、プリニー式噴火・火砕流発生の後、北東と南に溶岩を流出させた。更にその後、海底噴火があり、安永諸島と呼ばれる新島が出現した。大正噴火については後述する。
③大正噴火以降の噴火活動
 大正噴火後、小規模な爆発や火砕流噴出等はあったものの静寂を保っていた桜島は、戦後間もない1946年、南岳の山腹昭和火口から溶岩を流出、鍋山に遮られて二手に分かれ東方および南方に流れて、集落を埋めてしまった。この昭和噴火はプリニー式噴火を伴わないため、大噴火に入れないのが一般である。その後、1955年南岳山頂で突如爆発が発生、その後、消長を繰り返しながらも現在まで噴煙を上げ続けている。2006年からは昭和火口に活動の中心が移った。
 第2章 大正噴火の経過と災害
①噴火等の経過
 1913年真幸(まさき)地震・日置地震霧島山噴火など南九州一帯は地学的に活動的な時期にあった。その中で桜島島内でも井戸の水位低下や有感地震などの前兆現象があり、一部住民は自主避難し始めた。1月12日10時5分西山腹で、同15分には東山腹で激しい噴火を開始した。13日20時14分西山腹で火砕流が発生して西桜島の集落は焼失した。21時頃から溶岩流出に転じ、15日夕刻には海岸線に達した。この西山腹からの溶岩流は烏島を埋め、概ね2ヶ月で終息したが、東山腹からの溶岩流は瀬戸海峡を埋め、1月末頃大隅半島に達し、翌1915年春まで断続的に続いた。
なお、この間、村役場当局は測候所に噴火の有無を問い合わせたが、「桜島に噴火無し」との返答だった。大部分の住民は安永噴火の教訓に従い自主的に避難したが、測候所の言を信用した一部知識階級は居残り、逃げ遅れる事態を招いた。島民の犠牲者は30名であった。
 一方、12日18時20分、マグニチュード7.1の地震が錦江(きんこう)湾内で発生、被害は鹿児島市および周辺部に集中した。これにより動揺して、津波や毒ガス襲来のデマが飛び交い、一時市内は無人状態になったという。
②噴出物による被災
 流出した溶岩流は約30億トンとも言われ、桜島の1/3の面積を覆い尽くした。噴出した軽石や火山灰も大量で、折からの偏西風に乗り、主として大隅半島方面を厚く覆った。垂水市牛根付近では1mにも達したという。当然、農林水産業に多大な損害を与えたし、交通にも支障を来した。農業に与えた影響については、軽石・火山灰の量や粒度に応じ、また作物の品種に応じて、さまざまであった。なお、海上に漂っている軽石は船舶の航行を妨げ、救出の障害となった。
③土砂災害
 桜島島内は当然であるが、高隈山系にも大量の降灰があったので、植生が破壊され、山地が荒廃したから、ここを源流とする河川では7・8年も土石流や水害が繰り返された。この土砂災害による犠牲者の延べ数は火山災害を上回っている。
地震災害
 1月12日夕刻の地震は、鹿児島市付近では震度6の烈震であり、九州全域で有感であった。人的被害は29名であったが、建物被害は市街地、とくに江戸時代の埋立地に集中した。シラス崖の崩壊も発生、避難中の住民が巻き込まれて9名亡くなっている。鉄道も重富〜鹿児島間の姶良カルデラ壁で土砂災害が発生、不通となった。電話線や電力線も切断された上、郵便局や新聞社も被災したため、通信や広報に支障を来した。
 第3章 救済・復旧・復興の状況
①避難・救済
 当時、自主防災組織などなかったが、強固な地縁社会が健在だったから、湾岸周辺市町村の青年会・婦人会・在郷軍人会などが救助船を出したり、炊き出しをしたりするなど、救助・救済に当たった。当時の島民は半農半漁だったから、漁船が多数あったのも幸いした。測候所の言を信じていた県庁・郡役所・鹿児島市役所・警察も、噴火発生と同時に、迅速な救援活動を展開、避難所も設置された。陸海軍も救助艇を出したり、無人になった市内の警備に当たったりと大活躍をした。赤十字社鹿児島支部や医師会も救護所を設置した。商工会議所等財界も救援金を支出した。東北九州災害救済会はじめ、全国的な義援金も集められた。海外からも義援金が寄せられた。なお、長期にわたる不衛生な状態での避難生活のためか、赤痢や腸チフスのような伝染病が避難先で発生、直接の災害犠牲者以上の死者を出している。
②復旧・復興
 道路・河川などは応急の復旧工事が直ちに行われたが、河川災害は上述のように長く続いた。降灰に覆われた農地は天地返しはじめ、その厚さに応じた復旧工事が行われた。農商務省農事試験場では酸性化した土壌の中和法や酸性に強い品種栽培の奨励など懇切な指導を行った。
 噴火が収まり帰島したのは半数ほどであったが、島内だけでなく降灰のひどかった大隅半島も同様、農地復旧、家屋・学校の再建など苦難の連続であった。当初は土木工事の手間賃などの収入にも頼った。国庫補助金国税調整費)や義援金などにより、かなり手厚い援助がされたようである。
③移住
 溶岩に埋まって土地を失った者や降灰が厚くて耕作不能なところの住民は移住を余儀なくされた。結局、指定移住地1,001戸、任意移住地2,071戸、総計約2万人が移住した。後者は縁故を頼ったものだが、前者は県が割り当てた地域である。国は国有林を県に無償供与し、県が移住者に貸与する方式を採った。開拓終了後10年経過したら土地所有権を譲渡するとされた。指定移住地は大隅半島南部・宮崎県霧島山麓・朝鮮全羅道などである。移住者には罹災救助基金から移住費・農機具費・種苗費・家具費・小屋掛費・食料費など、かなり手厚い補助が出たようである。僻地には尋常小学校が3校新設された。
 第4章 総括と教訓
①火山噴火予知観測
 大正噴火時に鹿児島測候所にあったのは旧式のミルン式地震計1台だけであった。噴火後東京帝大大森房吉教授が急遽、最新式の大森式地震計を設置、自ら観測を行って貴重な記録を残した。現在では、気象庁・大学・国土地理院国交省・鹿児島県等による精緻な観測網が張り巡らされ、桜島の火山活動モデルも確立しており、当時と違って何らかの事前情報を出すことは可能な体制になっている。
②将来に備えての防災対策
 現在では火山ハザードマップや防災マップも公表され、総合防災訓練も噴火記念日の1月12日に毎年実施されている。しかし、海底噴火や山体崩壊など、全く新たな現象に対する対応が十分というわけではない。観測によれば、マグマは大正時の8割方回復しているという。大規模噴火に対する警戒を怠ってはならない。
 大正噴火時には広範囲にわたって同時多発的に土砂災害・水害が頻発した。現在、河川系ごとに砂防ダムを建設するなどの個別対策は実施されているが、大量降灰や地震も念頭に置いたハードソフト両面での広域対応策を考えておく必要があろう。
 降灰や軽石は当時の主要産業である農林水産業に壊滅的な損害を与えた。しかし現在では、当時なかった大規模畜産業や養殖漁業なども出現し、農林水産業を取り巻く環境は激変した。大規模化集中化に対応した農林水産業被害のシミュレーションが必要であろう。
大正噴火時には家財だけでなく土地まで失って移住せざるを得なくなった人たちも多数出た。科学技術が進歩した現代にあっても、土地を失う危険性は存在する。また一過性の地震災害と違って、火山災害は長期化する場合が多い。生活再建に対する支援について、法的整備も含めて常日頃から考えておく必要があろう。また、災害時要援護者の増加に対する対策も必要である。
 おわりに
 近年のわが国における火山災害は、いずれも局地的な災害であり、桜島大正噴火のような広域の降灰被害は経験していない。土砂災害のような二次災害にしても、広域同時多発災害は経験していない。しかし、浅間山天明噴火や富士山の宝永噴火では同じような災害があった。桜島大正噴火は来るべき関東圏の災害の良いモデルケースとなろう。火山災害における低頻度大規模災害の貴重な事例として教訓を活かして欲しいと希望する。
 災害も100年もすると風化してしまい、資料も散逸していた。一次資料を蓄積しておく制度も考えておいてもらいたいものである。
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 過去の災害に学ぶ 35
 1914年1月 桜島大正噴火 その1
 桜島大正噴火は、二十世紀わが国が経験した最大の火山災害。
 当時、休火山と思われ安心していたところに突然の大噴火、地震も伴い、大混乱に陥った。
 溶岩や分厚い火山灰・軽石に覆われたところでは、住民が故郷を捨てて移住せざるをえなかった。
 今回は噴火の概要と土石流など二次災害を含む災害実態について述べ、次回は避難と移住・復興について述べる。
 岩松暉(鹿児島大学地域防災教育研究センター特任教授)
 桜島大正噴火の経過と災害
 桜島大正噴火は、明治末期から大正初期にかけて、日置地震(1913年)や霧島御鉢噴火(1913年)など、南九州一帯で地震や噴火が相継ぎ、地学的な活動期に発生した。
現在も2011年1月霧島山新燃岳が300年ぶりに噴火し、また、同年12月奄美近海地震が発生、徳之島では震度4であった。2012年桜島昭和火口の爆発回数は観測記録を更新しつつある。
 1914年1月12日の桜島大正噴火の様子 (鹿児島県立博物館 所蔵)
 桜島のマグマは大正噴火時の9割がた回復しているという。時あたかも2014年には大正噴火百周年を迎える。また、東北地方太平洋沖地震で日本列島の力のバランスが崩れ、南海トラフの連動型超巨大地震や富士山噴火などが取り沙汰されている。二十世紀最大の火山噴火であった桜島大正噴火の事例を知っておくことは今後の教訓として役立つだろう。
 1914年正月前後、桜島周辺では井戸水の水位低下、温泉湧出、頻繁な有感地震など、さまざまな前兆現象が起きていた。島民は異常現象に不安を募らせ自主避難を始めたが、鹿児島測候所は「桜島に噴火の恐れなし」と言い続けた。しかし、1月12日午前10時過ぎ、西山腹の引ノ平から、その約10分後東山腹の鍋山上方から噴火が始まった。轟音を伴いながら猛烈な黒煙を噴き上げて全島を覆い、その高さは数千mにも達した。同日午後6時半にマグニチュード7.1の直下型地震も発生、激しい噴火活動は約1日半続き、13日午後8時過ぎには溶岩を流出し始めた。西山腹から流出した溶岩は15日には海岸線に到達、やがて沖合約500mにあった烏島を埋没してしまった。東山腹から流出した溶岩は瀬戸海峡を埋め尽くし、1月末頃には大隅半島と陸続きになった。西山腹の活動は約2ヶ月で終息したが、東山腹の活動は翌年の春まで続いた。また、噴火に伴い、姶良カルデラを中心に地盤の沈降も発生、鹿児島湾奥部では数十cmも地盤沈下し、塩田や干拓地が水没する被害も出した。
 大隅半島と接続する寸前の大正溶岩(宮原景豊 撮影) (鹿児島県立博物館 所蔵)
 桜島大正噴火は溶岩流出が大変有名だが、降灰量も莫大で、西風に乗って広く大隅半島を覆い、遠くはカムチャツカまで火山灰が到達したという。噴出した火山灰・軽石・溶岩の総量は約2立方kmと見積もられているが、これは雲仙普賢岳噴火の約10倍、富士山貞観噴火と宝永噴火を合わせた量にほぼ匹敵する。降灰の厚さも牛根村(現垂水市)付近では1mにも達しており、大隅半島最高峰の高隅山で数十cm積もったことから、植生は破壊され、山地は荒廃、ここを源流とする河川では、その後十年近く土石流や洪水などに悩まされた。
 当時、桜島島内の人口は3,100戸、約2万1,300人だったが、大部分自主避難していたため、島民の死者・行方不明者数は30名にとどまった。そのうち、火山噴出物による直接の被害者は数名で、多くは対岸まで泳ごうとして冬の海で溺死した人たちである。一方、対岸の鹿児島市(当時の人口約7万3,000人)方面では噴火の被害はなかったが、地震で29名の犠牲者を出した。その中には避難途中、がけ崩れによって亡くなった人9名が含まれている。石塀や家屋の倒壊による犠牲者も多い。
 物的被害も甚大だった。多くの集落が溶岩に呑み込まれたり、厚い降灰に覆われたりして、次回述べるように移住せざるを得なくなった。もちろん、溶岩や熱い噴石によって焼失した家屋もある。桜島島内全戸数の実に62%が被災している。島内だけでなく、厚い降灰に覆われた牛根村や百引村(現鹿屋市)の人たちも含め、罹災者数は約2万人にのぼる。降灰に覆われたところに2月、3月と無情の雨が降り注ぎ、土石流が頻発、田畑を埋め、家屋を押し流した。この土石流のため避難先で亡くなった子供が3人いる。降灰が谷筋を埋めて河床が上がり水害も頻発した。堤防や堰を改修しては壊され、賽の河原の繰り返しだったという。当時の基幹産業だった農業に対する影響は致命的で、主要作物である麦・茶・タバコ・桑(養蚕)などは大打撃を受けた。移住まで至らなかったところでも、軽石層を下に埋め込み耕土を表面に出す「天地返し」を行わざるを得なかった。また、遠方では火山灰層の厚さは薄くても、粒子が細かいため、水で湿るとモルタル状になって、植物の根が入らず生長を阻害したという。
 ライフライン災害もあった。地震で鉄道は不通になり、土石流で橋も流された。電信電話も局舎の倒壊や、降灰による碍子の漏電などで不通となった。新聞社社屋も損壊、情報が途絶えてデマが蔓延する原因にもなった。
 また、長期にわたる不衛生な避難生活と水源の汚染により赤痢・腸チフスなど伝染病が蔓延、その死者数は火山・地震災害や土砂災害の犠牲者数を上回る。
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 産経新聞
 日本列島災害実録
 桜島大正噴火(上)噴石が降り注ぐ中、海岸から救助を求める千人の村民 助けるやいなや森林が燃え上がり…
 2016/1/24 13:00
 【日本列島災害実録】桜島大正噴火(上)噴石が降り注ぐ中、海岸から救助を求める千人の村民 助けるやいなや森林が燃え上がり…
 鹿児島市のシンボルでもある桜島は、昨年は火山性地震が頻発し、警戒レベルが一時4(避難準備)に上げられるなど、活動を繰り返す火山だ。死者多数の大規模噴火も最近は数百年おきに起きている。中でも約100年前の大正3(1914)年に起きた噴火は、20世紀の国内最大規模とされる火山災害だった。東側の大隅半島と陸続きとなり「島」ではなくなったのも、この時に噴き出した溶岩、土砂が原因だ。大正3年当時の新聞で、世紀の大噴火を振り返る。
 「鹿児島市民人心恟恟たり」
 「桜島の大爆発 鹿児島市民人心恟恟(きょうきょう)たり 全市警戒の大警報出づ!!」。大正3年1月13日付の新聞「時事新報」の見だしだ。
 12日午前10時過ぎ、大音響とともに最初の大爆発が起きた。対岸の鹿児島市からは、桜島の形も分からないほどの噴煙が立ちこめたとある。
 現在は5000人ほどしか居住していないが、当時の人口は約2万1000人。島の黒神、有村、古里などの村落のほか、頂上付近にも小さな温泉場があり、特に同島東部の瀬戸と呼ばれる地区からの風景はすばらしく、さながら油絵のようだったという。
 午後5時には北東に50キロ離れた霧島火山も爆発し、周囲一面がねずみ色の世界に化した。「南九州 火と灰に覆わる」-。14日付では、あたかも南九州一帯が火の海になったかのように活字が躍っている。
 桜島爆発の報を受け、鹿児島市の警察署長らが蒸気船「鶴丸」で桜島に向かう途中の海で両手を挙げて「早く救助を」と声を上げる避難民が次々現れた。救助しながら鶴丸が鹿児島側の袴腰(はかまごし=桜島港)の目前に着くと、噴火はさらに勢いを増し、「百雷の落つるがごとき大鳴動」とともに黒煙と溶岩が吹上げた。
 山林は火災を起こし、渦巻く黒煙は白煙と混ざって一帯を包む。蒸気船も最初は、まっすぐ袴腰を目指したが、黒煙に包まれ、雨のように降る灰で危険なため、若干北方の沿岸に帰着。同地点に仮泊し、随行させた団平船(だんぺいぶね=土砂や石炭などを積む平らな船)2隻に、蓑(みの)や菰(こも)、毛布、手拭いなどを振り回して救助を求める数百の老若男女を乗船させたが、病人を背負った避難民が多く、泣きわめく声もすさまじい。海岸一帯は馬が走り回り、よくみると小池や赤水など周囲の海岸も助けを求める人にあふれていた。
 鶴丸一行は、この事態に対応するにはできるだけ早く、鹿児島港からたくさんの船を出すことが必要だと判断。鹿児島港に戻って最初に交渉した2500トンの日運丸こそ、ボイラーに火がないことを理由に拒絶されたが、10時半、水上警察署前に着船し、商船学校の「錦丸」をはじめとする多数の船舶の手配を取り付けていった。
 停泊船から見た一部始終
 安永8(1779)年以来、135年ぶりの大噴火の始まりである。なお、14日付の紙面には、爆発当時、鹿児島港に入港し、救助にも参加した「第2太沽(ターク)丸」の乗員の話が掲載されている。
 同船は11日午後4時ごろに鹿児島に入港し、12日夕方に出発、13日に午前11時に長崎港に到着している。
 入港した11日当時は、地震も頻発して鹿児島市の人たちも恐れおののいていたが、避難するまでには至っていなかった。地震動は12日午前2時ごろまでに140~150回を数え、午前8時ごろには桜島の中部から煙が上がるのも見えた。そして10時過ぎ、轟然とした音響とともに横山村・黒髪村の山腹から火柱が立ち上がり、鹿児島からも石が落下する様子がありありと目撃できた。悽愴(せいそう)の気が刻々と迫り、12時過ぎに同船は警察部から避難者救助のため出港を求められたため、11時半ごろまでに準備を整え、警官、消防夫、赤十字社員らが乗り組み、全部で6隻がはしけ(小舟)を用意して桜島に向かった。
 海岸一帯は船影なし、沖に泳ぎだしておぼれる人も
 近づくと、すでに桜島の海岸には人の山が築かれているが、船は1隻もない。手製のイカダや板にすがったり、中には沖に泳ぎだしておぼれる人などいてその惨状は目も当てられない。船の目的地の有村、脇村、湯ノ村の方面は、焼け石や灰が混ざって降り、目を開くこともできず、船の甲板上にも降下することしきりなし。救助を終えて船は午後3時半ごろ、引き上げしようとしたが、牛馬が海岸でさまよいながら奇声を放って凄惨(せいさん)な状況だった。そして、浜辺に積み重なっていた砂糖の搾りかすに火が付き、さらに森林に燃え広がってみるみる一面火の海と化し、その様子は船から見るとあたかも火の塊が海に浮かんでいるようだったとする。
 午後4時半ごろ、各汽船は鹿児島桟橋に帰着し、このとき合計で約1000人が救助された。13日午前2時ごろに津波が来るという噂が出始めたため、鹿児島市民はさらに恐れ、続々と市内から避難し始めた。鹿児島市側の海岸一帯は12日夕刻になると、すでに人影はなくなり、救護隊の姿だけとなった。多くは、西郷隆盛像のある城山方面に逃げたようだ。
 午後6時半ごろ、噴火の爆音がいくらか小さくなったと思うやいなや、非常な爆音と大震動があり、鹿児島の電灯は一瞬で光りを失い、海岸の人家は倒れ、人や家畜も倒れるのを見た。記録では、午後6時29分、桜島の南西沖を震源とするマグニチュード7・1の大地震が発生している。この地震による死者・行方不明者は29人で、桜島での噴火による死者25人を上回っている。
 この地震を受け、第2太沽丸は荷客の取り入れもせず、錨(いかり)を抜いた。風はほとんど吹いていなかったが、降灰でもうもうとしていて進路を定めるのも難しいなか、かろうじて危険区域を離れることができた。桜島の火炎は船が、薩摩川内市の西方約50キロの甑島(こしきじま)沖を通過するころまでは見ることができたという。大火柱はまさに地獄絵図のようだった。(原田成樹)」
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 桜島は、日本の九州南部、鹿児島県の鹿児島湾(錦江湾)にある東西約12km、南北約10 km、周囲約55 km、面積約77km2[1]の火山。かつては島であったが、1914年(大正3年)の噴火により、鹿児島市の対岸の大隅半島と陸続きになった。
 桜島火山は姶良カルデラの南縁付近に位置しており,このカルデラの2.9万年前の巨大噴火の3千年ほど後に誕生した。日本の火山の中では比較的新しい火山である。桜島火山は有史以来頻繁に繰り返してきた。噴火の記録も多く、現在もなお活発な活動を続けている。海の中にそびえるその山容は特に異彩を放っており、鹿児島のシンボルの一つとされ、観光地としても知られている。2007年に日本の地質百選に選定された。国際火山学及び地球内部化学協会が指定する防災十年火山の一つだった。
 また、火山噴火予知連絡会によって火山防災のために監視・観測体制の充実等の必要がある火山に選定されている。
 大正大噴火
 火山  桜島
 年月日 1914年1月12日 - 4月
 噴火様式 プリニー式噴火
 火山爆発指数 4
 影響 死者58、傷者112、焼失家屋2,268
 プロジェクト:地球科学、プロジェクト:災害
 桜島の埋没鳥居。黒神集落のこの鳥居は、1914年噴火で上部をわずかに残し噴石や火山灰に埋もれてしまった(約2m)
 1914年(大正3年)1月12日に噴火が始まり、その後約1か月間にわたって頻繁に爆発が繰り返され多量の溶岩が流出した。一連の噴火によって死者58名を出した。流出した溶岩の体積は約1.5 km3、溶岩に覆われた面積は約9.2 km2、溶岩流は桜島の西側および南東側の海上に伸び、それまで海峡(距離最大400m、最深部100m)で隔てられていた桜島大隅半島とが陸続きになった。
 また、火山灰は九州から東北地方に及ぶ各地で観測され、軽石等を含む降下物の体積は約0.6 km3、溶岩を含めた噴出物総量は約2 km3(約32億トン、東京ドーム約1,600個分)に達した。噴火によって桜島の地盤が最大約1.5 m沈降したことが噴火後の水準点測量によって確認された。この現象は桜島北側の海上を中心とした同心円状に広がっており、この中心部の直下、深さ約10 kmの地中にマグマが蓄積されていたことを示している。
 定量的な観測に基づく噴火前後の地震調査原簿などの資料は東京の中央気象台に集められていたが、1923年関東大震災で焼失して残っていない。噴火活動の経過などは各地の気象台や測候所に残っていた資料を元に行われたため、精度に欠ける部分があるとされている。
 噴火の前兆
 1913年(大正2年)6月29日から30日にかけて中伊集院村(現・日置市)を震源として発生した弱い地震が最初の前兆現象であった。11月9日16時以降、桜島島内では数回の有感地震を感じていたとされる。また、同年12月下旬には井戸水の水位が変化したり、火山ガスによる中毒が原因と考えられる死者が出たりするなどの異変が発生した。12月24日には桜島東側海域の生け簀で魚やエビの大量死があり、海水温が上昇しているという指摘もあった。
 翌1914年(大正3年)1月に入ると桜島東北部で地面の温度が上昇し、冬期にも拘わらずヘビ、カエル、トカゲなどが活動している様子が目撃されている。1月10日には鹿児島市付近を震源とする弱い地震が発生し、翌日の11日にかけて弱い地震が頻発するようになった。噴火開始まで微小地震が400回以上、弱震が33回観測されている。
 1月11日には山頂付近で岩石の崩落に伴う地鳴りが多発し、山腹において薄い白煙が立ちのぼる様子も観察されている。また、海岸の至る所で温水や冷水が湧き出たり、海岸近くの温泉で臭気を発する泥水が湧いたりする現象も報告されている。噴火開始当日の1月12日午前8時から10時にかけて、桜島中腹からキノコ雲状の白煙が沸き出す様子が目撃されている。
 噴火の経過
 1914年(大正3年)1月12日午前10時5分、桜島西側中腹から黒い噴煙が上がり、その約5分後、大音響と共に大噴火が始まった。
 約10分後には桜島南東側中腹からも噴火が始まった。間もなく噴煙は上空3,000 m以上に達し、岩石が高さ約1,000 mまで吹き上げられた。午後になると噴煙は上空10,000 m以上に達し桜島全体が黒雲に覆われた。大音響や空振を伴い断続的に爆発が繰り返された。午後6時30分には噴火に伴うマグニチュード7.1の強い地震が発生し、対岸の鹿児島市内でも石垣や家屋が倒壊するなどの被害があった。
 詳細は「桜島地震」を参照
 1月13日午前1時頃、爆発はピークに達した。噴出した高温の火山弾によって島内各所で火災が発生し、大量の噴石が島内及び海上に降下し、大量の火山灰が風下の大隅半島などに降り積もった。午後5時40分に噴火口から火焔が上っている様子が観察され、午後8時14分には火口から火柱が立ち火砕流が発生し、桜島西北部にあった小池、赤生原、武の各集落がこの火砕流によって全焼した。午後8時30分に火口から溶岩が流出していることが確認された。桜島南東側の火口からも溶岩が流出した。
 当時島であった、大日本帝國陸軍陸地測量部の地図(測量1902年)国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成
 1月15日、赤水と横山の集落が、桜島西側を流下した溶岩に覆われた。この溶岩流は1月16日には海岸に達し、1月18日には当時海上にあった烏島が溶岩に包囲された。一方、桜島南東側の火口から流下した溶岩も海岸に達し、噴火前には72 mもの深さがあった瀬戸海峡も埋め立てられていき、1月29日、桜島大隅半島と陸続きになった。このとき瀬戸海峡付近の海水温は49℃に達した。溶岩の進行は2月上旬に停止したが、2月中旬には桜島東側の鍋山付近に新たな火口が形成され、溶岩が流出した。1915年(大正4年)3月、有村付近に達した溶岩の末端部において、2次溶岩の流出があった。
 噴火活動は1916年(大正5年)にほぼ終息した。この噴火によって直径400 mのほぼ円形の大正火口が残された。
 避難の状況
 噴火の前兆となる現象が頻発し始めた1月10日夜から、住民の間で不安が広がり、地元の行政関係者が鹿児島測候所(現・鹿児島地方気象台)に問い合わせたところ、地震については震源が吉野付近(鹿児島市北部)であり、白煙については単なる雲であるとし、桜島には異変がなく避難の必要はないとの回答であった。
 それでも1月11日になると、避難を始める住民が出始めた。桜島東部の黒神、瀬戸、脇の各集落では地域の青年会が中心となり、女性・子供・老人を優先に、牛根村、垂水村(現・垂水市)方面への避難が進められた。また、桜島北部の西道、松浦においても、青年会が中心となり、鹿児島湾北部の重富村(現・姶良市)、加治木町(現・姶良市)、福山村(現・霧島市)方面への避難が進められた。
 一方、鹿児島市街地に近い桜島西部の横山周辺は、測候所の見解を信頼する者が多かったため避難が遅れ、1月12日午前の噴火開始直後から海岸部各所に避難しようとする住民が殺到し大混乱となった。
 桜島東側の瀬戸海峡は海面に浮かんだ軽石の層が厚さ1 m以上にもなり、船による避難は困難を極めた。対岸の鹿児島市は、鹿児島湾内に停泊していた船舶を緊急に徴用して救護船としたが間に合わず、東桜島村では、混乱によって海岸から転落する者や、泳いで対岸に渡ろうとして凍死したり溺死したりする者が相次いだ。この教訓から、鹿児島市立東桜島小学校にある桜島爆発記念碑には「住民は理論を信頼せず、異変を見つけたら、未然に避難の用意をすることが肝要である」との記述が残されており、「科学不信の碑」とも呼ばれている。
 桜島対岸の鹿児島市内においては1月12日夕刻の地震発生以降、津波襲来や毒ガス発生の流言が広がり、市外へ避難しようとする人々が続出した。鹿児島駅や武駅(現・鹿児島中央駅)には避難を急ぐ人々が集まり騒然となった。市内の混乱は1月17日頃まで続いた。
 救援活動
 噴火後の救援活動としては、大日本帝国海軍は、佐世保港に本拠を置く佐世保鎮守府から遭難者救助のために艦艇4隻を派遣。援護隊、防火隊及び通信隊が上陸して救援活動を行った。大日本帝国陸軍鹿児島郡伊敷村(現在の鹿児島市伊敷地域)に連隊本部を置く歩兵第45連隊及び、宮崎県都城市に連隊本部を置く歩兵第64連隊が鹿児島市内の警備にあたった。また、歩兵第45連隊の衛生兵による救援隊が編成されたほか、営門及び練兵場での炊き出しも行われた。また、鹿児島県は鹿児島湾内に停泊していた船舶を徴発して救援活動を実施し、鹿児島市に避難民を収容する活動を行った。
 対岸の薩摩半島にある自治体の対応としては、鹿児島市では皷川町、住吉町、西千石町、下荒田町に炊出所を設置し、興正寺、不断光院、東西本願寺別院及び鹿児島市内の小学校に避難民を収容した。また、鹿児島郡吉野村、西武田村、中郡宇村、伊敷村の各村では青年会や婦人会を動員し、炊出しを行った。また、鹿児島市や谷山町、西武田村、伊敷村に隣接し、武駅から川内線(のちの鹿児島本線)の隣駅である饅頭石駅(のちの上伊集院駅)が所在する上伊集院村(のちの松元町)には桜島地震以後、さらに鹿児島市街地から避難した避難民が饅頭石駅に集結し、青年団及び婦人会を動員し饅頭石駅で炊出しを行ったほか、約2,158名に対して各民家を収容所として依託救護を実施した。
 また、日本赤十字社及び鹿児島県関連組織が行った募金活動では、2,528円55銭が集まり、鹿児島県が被災者に対して分配を行った。また、天皇からの御内帑金15万円の外、日本国内の各府県、当時日本領であった朝鮮、台湾及び満州国などでは新聞社を中心として義援金の募金活動が行われた。これらは桜島のほか、牛根村、百引村、市成村、垂水村、高隈村、西志布志村、恒吉村、月野村の被災者に交付された。
 噴火の影響・被害
 噴火によって降り積もった火山灰は、火砕流に襲われた赤生原付近や風下にあたった黒神大隅半島の一部で最大1.5 m以上、桜島の他の地域でも、30センチメートル (cm) 以上の深さに達した。
 桜島島内の多くの農地が被害を受け、ミカン、ビワ、モモ、麦、大根などの農作物は、ほぼ全滅した。耕作が困難となった農地も多く、噴火以前は2万人以上であった島民の約3分の2が島外へ移住した。移住先は種子島大隅半島、宮崎県を中心とした日本各地に移住した。また、溶岩流によって東桜島村の有村、脇、瀬戸及び西桜島村の横山、小池、赤水の各集落が埋没した。西桜島村の横山に所在していた西桜島村役場はこの溶岩流により埋没したため、仮の役場を西道に置き後に藤野へ移転した。
 災害復興のために、桜島鹿児島市街地を結ぶ定期航路を望む声が上がり、1934年(昭和9年)11月19日に当時の西桜島村が村営定期船の運航を開始した。その後の桜島フェリーである。
   ・   ・   ・   
桜島大噴火記念碑
桜島爆発の日―大正3年の記憶
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 日本文化とは、明るく穏やかな光に包まれた命の讃歌と暗い沈黙の闇に覆われた死の鎮魂であった。
 キリシタンが肌感覚で感じ怖れた「日本の湿気濃厚な底なし沼感覚」とは、そういう事である。
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 日本の文化として生まれたのが、想い・観察・詩作を極める和歌・短歌、俳句・川柳、狂歌・戯歌、今様歌などである。
 日本民族の伝統文化の特性は、換骨奪胎(かんこつだったい)ではなく接木変異(つぎきへんい)である。
   ・   ・   ・   
 御立尚資「ある禅僧の方のところに伺(うかが)ったとき、座って心を無にするなどという難しいことではなく、まず周囲の音と匂いに意識を向け、自分もその一部だと感じたうえで、裸足で苔のうえを歩けばいいといわれました。私も黙って前後左右上下に意識を向けながら、しばらく足を動かしてみたんです。これがびっくりするほど心地よい。身体にも心にも、そして情報が溢(あふ)れている頭にも、です」
   ・   ・   ・   
 日本の建て前。日本列島には、花鳥風月プラス虫の音、苔と良い菌、水辺の藻による1/f揺らぎとマイナス・イオンが満ち満ちて、虫の音、獣の鳴き声、風の音、海や川などの水の音、草木の音などの微細な音が絶える事がなかった。
 そこには、生もあれば死もあり、古い世代の死は新たな世代への生として甦る。
 自然における死は、再生であり、新生であり、蘇り、生き変わりで、永遠の命の源であった。
 日本列島の自然には、花が咲き、葉が茂り、実を結び、枯れて散る、そして新たな芽を付ける、という永遠に続く四季があった。
 幸いをもたらす、和魂、御霊、善き神、福の神などが至る所に満ちあふれていた。
 日本民族の日本文明・日本文化、日本国語、日本宗教(崇拝宗教)は、この中から生まれた。
 日本は、極楽・天国であり、神の国であり、仏の国であった。
   ・   ・   ・   
 日本の自然、山河・平野を覆う四季折々の美の移ろいは、言葉以上に心を癒や力がある。
 日本民族の心に染み込むのは、悪い言霊に毒された百万言の美辞麗句・長編系詩よりもよき言霊の短詩系一句と花弁一枚である。
 日本民族とは、花弁に涙を流す人の事である。
 日本民族の「情緒的情感的な文系的現実思考」はここで洗練された。
 死への恐怖。
   ・   ・   ・   
 日本の本音。日本列島の裏の顔は、雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが同時多発的に頻発する複合災害多発地帯であった。
 日本民族は、弥生の大乱から現代に至るまで、数多の原因による、いさかい、小競り合い、合戦、戦争から争乱、内乱、内戦、暴動、騒乱、殺人事件まで数え切れないほどの殺し合いを繰り返してきた。
 日本は、煉獄もしくは地獄で、不幸に死んだ日本人は数百万人あるいは千数百万人にのぼる。
 災いをもたらす、荒魂、怨霊、悪い神、疫病神、死神が日本を支配していた。
 地獄の様な日本の災害において、哲学、思想、主義主張そして信仰宗教(普遍宗教)は無力であった。
 日本民族の「理論的合理的な理系論理思考」はここで鍛えられた。
 生への渇望。
   ・   ・   ・   
 日本の自然は、人智を越えた不条理が支配し、それは冒してはならない神々の領域であり、冒せば神罰があたる怖ろしい神聖な神域った。
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 現代の日本人は、歴史力・伝統力・文化力・宗教力がなく、古い歴史を教訓として学ぶ事がない。
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 日本を襲う高さ15メートル以上の巨大津波に、哲学、思想、主義主張(イデオロギー)そして信仰宗教は無力で役に立たない。
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 助かった日本人は、家族や知人が死んだのに自分だけ助かった事に罪悪感を抱き生きる事に自責の念で悶え苦しむ、そして、他人を助ける為に一緒に死んだ家族を思う時、生き残る為に他人を捨てても逃げてくれていればと想う。
 自分は自分、他人は他人、自分は他人の為ではなく自分の為の生きるべき、と日本人は考えている。
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 日本で中国や朝鮮など世界の様に災害後に暴動や強奪が起きないのか、移民などによって敵意を持った多様性が濃い多民族国家ではなく、日本民族としての同一性・単一性が強いからである。
 日本人は災害が起きれば、敵味方関係なく、貧富に関係なく、身分・家柄、階級・階層に関係なく、助け合い、水や食べ物などを争って奪い合わず平等・公平に分け合った。
 日本の災害は、異質・異種ではなく同質・同種でしか乗り越えられず、必然として異化ではなく同化に向かう。
 日本において、朝鮮と中国は同化しづらい異質・異種であった。
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 日本民族の感情は、韓国人・朝鮮人の情緒や中国人の感情とは違い、大災厄を共に生きる仲間意識による相手への思いやりと「持ちつ持たれつのお互いさま・相身互(あいみたが)い」に根差している。
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🍠21〗─2─明治三陸地震。死亡者2万1,959人。明治29(1896)年。~No.64 

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 報告書(1896 明治三陸地震津波
 災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 平成17年3月
 1896 明治三陸地震津波
 報告書の概要
<概要>
 明治29(1896)年6月15日、午後8時ごろ三陸沖で発生した地震に伴う大規模な津波により、三陸沿岸を中心に死者約2万2千人、流出、全半壊家屋1万戸以上という我が国津波災害史上最大の被害が発生した。
<教訓>
 迅速な避難が生死を分けたことに鑑み、避難の際には出来るだけ高い土地に最短距離で到達することにし、その道筋を平素から確認しておくべき。高台が付近になければビルの高層階を利用すべき。
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 ウィキペディア
 明治三陸地震(めいじさんりくじしん)は、1896年(明治29年)6月15日午後7時32分30秒、日本の岩手県上閉伊郡釜石町(現・釜石市)の東方沖200kmの三陸沖(北緯39.5度、東経144度)を震源として起こった地震である。マグニチュード8.2- 8.5の巨大地震であった。さらに、東北地方太平洋沖地震前まで本州における観測史上最高の遡上高だった海抜38.2mを記録する津波が発生し、甚大な被害を与えた。
 なお、当地震を機に「三陸海岸」という名称が広く使用され始めた(参照)。
 1888年明治21年)の磐梯山の噴火や1891年(明治24年)の濃尾地震のときから新聞報道が全国的にされるようになり、義援金が集まるようになった。
 被害
 日本国内
 行方不明者が少ない理由について、震災後当初は宮城県の一部や青森県では検死を行い、死者数と行方不明者数を別々に記録し発表していたが、「生存者が少ない状況で煩雑な検死作業をしていられなかった」というなかで「検死を重視していなかった」などの社会背景により、「行方不明者」という概念はなくなり、死亡とみなされる者はすべて「溺死」あるいは「死亡」として扱われた。
 人的被害
 死者・行方不明者合計:2万1959人(北海道:6人、青森県:343人、岩手県:1万8158人、宮城県:3,452人)
 死者:2万1915人
 行方不明者:44人
 負傷者:4,398人
・概要
 各地の震度は2 - 3程度であり、緩やかな長く続く震動であったが誰も気にかけない程度の地震であった(最大は秋田県仙北郡の震度4)。地震動による直接的な被害はほとんどなかったが、大津波が発生し、甚大な被害をもたらした。
 低角逆断層(衝上断層)型の海溝型地震と推定される。三陸地震の一つと考えられ、固有地震であるが、震源域は特定されていないため、発生間隔は数十年から百数十年と考えられる。
 鳴動現象はこの地震でも報告があり、水澤町や二戸郡福岡町では地震動の到着から数分から10分後に遠雷あるいは発砲のような音を聞いた。
 日本国外への余波
 アメリカ合衆国ハワイ州には全振幅2.4- 9.14mの高さの津波が到来し、波止場の破壊や住家複数棟の流失などの被害が出た。また、アメリカ本土ではカリフォルニア州で最大9.5ft(約2.90m)の高さの津波を観測したが、被害は記録されていない。
   ・   ・   ・
 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「明治三陸地震津波」の解説
 明治三陸地震津波
 1896年6月15日午後7時32分頃に三陸沖(→三陸海岸)で発生した地震により引き起こされ,三陸沿岸を襲った大規模な津波。日本の歴史上,最悪の津波災害の一つ。地震によるゆれは最大でも震度 4程度と小さく,震害はなかった。しかし地震発生の約 30分後に巨大な津波岩手県の沿岸を中心に来襲した。津波の高さは最も高かった岩手県綾里村での 38.2mをはじめ,岩手県の沿岸で 10~30m,宮城県北部でも数mから10mに達した。ハワイでも 9mほどの津波が来襲した。この津波による死者は約 2万2000人,負傷者は約 4400人に達した。この津波を引き起こした地震津波地震で,通常の地震よりゆっくりと断層がすべる特徴がある。このため人の感じるゆれは小さいが,断層の規模が大きかったので,大規模な津波が発生した。震源日本海溝に近い岩手県沖で,北緯 39.5°,東経 144°,地震の規模はマグニチュード(M)8.2,日本海溝に沿う断層の長さは 200km程度と推定されている。慶長16(1611)年10月28日に発生した慶長三陸津波もほぼ同じ場所で発生した地震によると考えられている。
 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
   ・   ・   ・   
 特定非営利活動法人 失敗学会
 事例名称   明治三陸津波
 事例発生日付 1896年06月15日
 事例発生地  東北地方三陸
 事例発生場所 沿岸沿い
 事例概要   三陸沖約150kmを震源とするマグニチュード8.5という巨大地震によって、三陸リアス式海岸の特殊な地形と満潮時に重なったため、大きな津波三陸沿岸に襲来、村落を飲み込んだ。最大の津波高さは38.2mであった。死者は22,066人、流失家屋は8,891戸の大きな被害をもたらした。
 事象     弱い地震を感じたのちに、津波三陸沿岸に襲来、最大の津波は38.2mであった。死者は22,066人、流失家屋は8,891戸の大きな被害をもたらした。
写真1、図1はその被害状況である。
 経過     1896年(明治29年)6月15日は、日清戦争に従軍して凱旋した兵士たちを迎え、三陸の村々で祝賀式典が開かれ、兵士を迎えた家では宴もたけなわだった。またこの日は旧暦の端午の節句であった。男の子がいる家では親族が集まって祝い膳を囲んでいる最中の午後7時32分、小さな揺れを感じた。この地方は3月頃から小さな地震が続いていており、井戸水が枯れたり、水位が下がったり、いわしの大群が連日押し寄せマグロの大漁が続くなど、沿岸の漁村では例年と違う不思議な現象が起こっていた。
 その日も、朝に弱い地震があり、何回も続いた後にこの地震が発生して、それは5分間ほど揺れた。そして、その10分ほど後にもまた揺れた。が、春以来の地震の中でも小さいほうであったので誰もあまり気にもしていなかったし、震害もなかった。
(しかし、実際はその地震三陸沖約150kmを震源とするマグニチュード8.5という巨大地震であった)。
 ところがこの地震発生後35分たった午後8時7分に津波の第一波が三陸沿岸に襲来、続いてその8分後の午後8時15分に津波の第二波が襲った。第一波で残った家もすべてさらって流し去った。その時間はちょうど満潮と重なっていたため、一段と波高を高くし、リアス式海岸が波のエネルギーをさらに高めて襲来するという悪条件が重なった。
 最初に海の異変に気づいたのは、魚を荷揚げしていた海産物問屋の若者たちであったといわれる。海の遠雷のような怪音が聞こえ、船が大きく傾き、いままで海底にあった岩がむき出しになるのが見えたという。
最大の津波は綾里村で実に38.2mという想像を絶する高さであった。普通津波での死者は溺死と思われるが、綾里地区の「明治三陸津波伝承碑」の碑文には「綾里村の惨状」「綾里村の如きは、死者は頭脳を砕き、或いは手を抜き、足を折り名状すべからず」と書かれているように、犠牲者は打撲が多く、原型を止めないほど遺体が損傷する悲惨なものである。地震の揺れによる被害はまったくないにもかかわらず、これほどの津波が襲うと誰も考えていなかったのである。また、この地震でハワイにも2.4m-9.1mの津波をもたらせ多くの被害を出した。
 この津波で、死者は22,066人、流失家屋は8,891戸に上った。
 原因     三陸沿岸に津波来襲回数が多いのは、海岸特有の地形によるものである。北は青森県八戸市東方の鮫岬から宮城県牡鹿半島にわたる三陸沿岸はリアス式海岸として、日本で最も複雑な切り込みの多い海岸線として知られている。海岸には山肌がせまり、鋭く入り込んだ湾の奥に村落が存在する。沖合いは世界有数の海底地震多発地帯で、しかも深海のため、地震によって発生したエネルギーは衰えずそのまま海水に伝達し、大陸棚を伝って海岸線とむかう。三陸沿岸の鋸の歯状に入り込んだ湾はV字形をなして太平洋に向いている。このような湾の常として、海底は湾口から奥に入るにしたがって急に浅くなっている。巨大なエネルギーを秘めた海水が、湾口から入り込むと、奥に進むにつれて急激に海水は膨れ上がり、すさまじい大津波となってしまうのである。また今回は、満ち潮の時刻と重なったことも大きな要因である。図2は三陸地方の海岸の地形を示す。
犠牲者が多くなったのは、地震の体感程度が小さく、これほど大きな津波とは誰も考えず、高所への避難をしなかったためであった。
 対処     大津波の来襲した翌日の6月16日午後3時、災害発生の電報は東京の内務省に届き、内務大臣はその旨を明治天皇に上奏するとともに内務省から各省に緊急連絡されて本格的な救援準備に着手した。天皇は、侍従東園基子爵を慰問使として派遣、災害地で生存者を激励して廻った。政界・官界からも視察員が派遣され、仙台の第二師団では、津波の報と同時に多数の軍医を災害地に急行させ、治安維持のため憲兵隊も派遣した。また工兵隊員多数も死体処理等のために出動、海軍は軍艦3艦を派遣し、海上に漂流している死体の捜索にあたった。日本赤十字や福島赤十字支社、看護婦会から派遣された医師、看護婦、看護人たちは日夜負傷者の治療に奔走した。
 対策     特に津波災害防止法はとられなかった。
 本津波の37年後の1933年に再び大津波がこの地域を襲い、ようやく各被災県が中心になって、防潮堤、防潮林、安全地帯への避難道路等が新設され、災害防止の趣旨を徹底するため、県庁から「地震津波の心得」というパンフレットが一般に配布された。
それには津波を予知する方法として、
・緩慢な長い大揺れの地震があったら、津波のくるおそれがあるので少なくとも1時間位は辛抱して気をつけよ。
・遠雷或は大砲の如き音がしたら津波のくるおそれがある。
津波は激しい引き潮をもって始まるを通例とするから、潮の動きに注意せよ。
また避難方法として、
・家財には目もくれず、高い所へ身一つで逃れよ。
・もし船に乗っていて岸から2,3百メートルはなれていたら、むしろ沖へ逃げた方が安全である。
などが書かれている。
 知識化    地震にしても津波にしても過去の事例にだけとらわれていると危険である。常に最悪を考えて行動する必要があると、この災害は教えてくれている。
 大災害にも小さな予兆(この場合は小さな地震)があり、ハインリッヒの法則がこの場合でも当てはまるのは興味深い。ただし、現在も地震の予知方法はまだ確立されていないが、津波予報はかなり進歩している。
 背景     本事故までに、三陸沿岸を襲った津波を調べてみると
1611年(慶長16年)、1616年(元和2年)、1651年(慶安4年)1676年(延宝4年)、1677年(延宝5年)、1687年(貞享4年)、1689年(元禄2年)、1696年(元禄9年)、1716~1735年(享保年間)、1781~1788年(天明年間)、1835年(天保6年)、1856年(安政3年)、1868年(明治元年)、1894年(明治27年)とおびただしい頻度で発生していた。
過去の津波による被害としては特に1856年(安政3年)の大津波が大きかった。
このときは今回の災害時と同様に、大津波の襲来前はイワシやマグロの大漁であったという。
 後日談    これまで小さな揺れの地震でこれほど大きな津波が襲った例がなかった。以来、地震による震害より津波被害の多い災害を「地震津波」と称するようになった。
 シナリオ  
 主シナリオ  未知、異常事象発生、非定常動作、状況変化時動作、破損、大規模破損、身体的被害、死亡
 情報源    吉村 昭著:海の壁 中公新書(1970)
 社団法人   日本損害保険協会津波防災を考える、想像しにくい津波の実像
 死者数    22066
 物的被害   流出家屋8,891戸
 マルチメディアファイル 写真1.流出した宮城県志津川町の大森地区 
 図1.釜石町津波被害後の状況
 図2.三陸地方のリアス式海岸
 備考     津波による大被害
 分野     機械
 データ作成者 張田吉昭 (有限会社フローネット)
 中尾政之 (東京大学工学部附属総合試験所総合研究プロジェクト・連携工学プロジェクト)
   ・   ・   ・   
 塾生新聞
 企画, 明治ニ學ベ, 特集 《明治ニ學ベ》明治三陸地震東日本大震災 正しい知識が命を救う
 企画
 《明治ニ學ベ》明治三陸地震東日本大震災 正しい知識が命を救う
2018/10/28 企画, 明治ニ學ベ, 特集
 『時事新報』では義捐金の募集が行われた
 死者、約1万5千名。行方不明者、約2‌5‌0‌0名。2‌0‌1‌1年の東日本大震災は、多くの命を一瞬にして奪った。被災地は復興への道を着実に歩んでいるが、震災から8年が経とうとしている今もなお、多くの人が仮設住宅で暮らしている。震災が与えた傷は、あまりに大きく、根深い。
 一方で、震災で大津波に襲われながらも、被害を免れた地域がある。岩手県宮古市の姉吉地区。明治・昭和期に相次いで起きた三陸地震の悲劇を繰り返さないよう、石碑にこう刻まれた。「此処より下に家を建てるな」。その教えを守った住民たちは、未曽有の大災害を生き抜いた。明治三陸地震の教訓が、百年の時を越えて町を救った。
 明治三陸地震は、1‌8‌9‌6(明治29)年に三陸沖を震源として起こった巨大地震である。地震の規模を示すマグニチュードは8・2で、死者は2万人を超えた。明治三陸地震と11年の東北地方太平洋沖地震は、発生のメカニズムこそ異なるものの、共に津波により多数の犠牲者を出した。日本人はこのような巨大地震津波を何度も経験してきた。
 「喉元過ぎれば熱さも忘れる」、「天災は忘れたころにやってくる」という言葉がある。人類は過去に起きた災害の被害を忘れ、同じ過ちを繰り返してきた。この悲しみの連鎖を食い止めるためにはどうしたらよいのだろうか。
 災害の伝承というと、石碑が思い浮かぶ。実際、姉吉地区は石碑により救われたし、東日本大震災以降は被災地に多くの石碑が建てられた。しかし、石碑に刻まれた先人の思いは、伝わらないことも多い。宮城県名取市閖上地区にも、津波への用心を訴える石碑があったが、震災では多くの人が津波に飲まれ亡くなった。
 災害伝承のあり方は、モノに限らない。形には表せない「価値観の伝承」で、命が救われた事例もある。その一つが、三陸地方に伝わる「津波てんでんこ」という考え方だ。「てんでんこ」とは「それぞれ」という意味。津波が来たら親兄弟構わず各自で逃げよという伝承だ。
 慶應義塾普通部・太田教諭
 防災教育に詳しい慶應義塾普通部の太田弘教諭は、「どんなに過酷な自然環境でも、そこに人がいなければ人的な災害は起こらない。まずは逃げることが大切だ」と、「津波てんでんこ」の有用性を評価する。経験に裏打ちされた正しい理解に基づき、的確な対策法を受け継いでいくことが大切だ。
 地震を科学的に検証した記事を掲載した=『時事新報』(明治29年6月21日付)
 実は、慶應義塾ゆかりの「時事新報」は明治三陸津波と深い繋がりをもつ。時事新報は、1‌8‌8‌2(明治15)年に福澤諭吉により創刊された日刊新聞。明治三陸津波の発生時には、他紙が津波被害の悲惨さを中心に伝えたのに対して、災害のメカニズムを科学的に分析した記事をしばしば掲載した。
 福澤研究センター・都倉准教授
 慶應義塾福澤研究センターの都倉武之准教授は「災害を過剰に恐れることなく、冷静に捉えている。実学の精神が反映された記事だ」と分析する。都倉准教授によれば、ここでの「実学」とは、すぐに役立つ実践的な知識ではなく、物事を科学的・合理的に分析し、自分の把握可能なものにしていく営みを指すという。
 政府の地震調査研究推進本部によると、今後30年の間に、南海トラフ地震は80%、首都圏におけるマグニチュード7クラスの地震は70~80%の確率で起こると予測されている。太田教諭は「地震がいつ・どこで起こるのかを完全に予知することは不可能。緊急地震速報の出た直後と発生後の対応が大切」と訴える。
 災害大国、日本で生きる私たち。命を守る行動をとるには、過去の教訓を生かすこと、そして災害のメカニズムを正しく理解することが大切だ。正しい知識はいつでもどこでも、自分を守る強い味方になる。次の災害が近づく今、過去を冷静に振り返ることが求められている。(太田直希)
 慶應塾生新聞会
 三田オフィス
 〒108-0073
 東京都港区三田3-4-8
 佐野ビル4階
 Tel:03-3454-7966
 Fax: 03-6435-2573
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 平成20年度東京大学附属図書館特別展示
 「かわら版・鯰絵にみる江戸・明治の災害情報-石本コレクションから」
11.明治三陸津波(1896年)
 明治三陸津波は、明治29年6月15日午後8時頃、青森県から宮城県の太平洋沿岸を中心とした地域で発生した。マグニチュードは6.8程度と推測されているが、甚大な被害を被った三陸沿岸でも震度は小さく、地震の被害は殆ど皆無であったため、人々は津波を想起しなかった。また、当日は旧暦の節句(5月5日)や、日清戦争の戦勝祝賀式典のため、夜になっても祝いの宴が続いていたこともあり、避難が遅れ、合計22,000人が死亡した。想定を超えた被害に、政府の災害対応でも特例措置が取られ、被災地復興のため、通常の備荒儲蓄金の他に予備金や国庫剰余金などが投入された。
 以下の錦絵は、近世期の伝統的スタイルを踏襲した刷物で、明治中期の段階でもこのようなメディアに対する需要が確認できる。ただし、記述内容は現地取材などに基づくものではなく、三陸津波の話題を巷間に提供することを狙ったものであった。このようなメディアにより現地の惨状が伝えられると、恩賜金17,500円のほか、各地から3県合計63万円余りが集まり、衣類や食料といった義捐品も多く寄せられた。
 [参考文献]
 宇佐美龍夫 『新編日本被害地震総覧』 東京大学出版会 1987年
 渡辺偉夫 『日本被害津波総覧』 東京大学出版会 1985年
 北原糸子 『近世災害情報論』 塙書房 2003年
 首藤伸夫 「津波地震で発生した津波 1896年明治三陸津波」(『月刊地球』 Vol.25, no.5 2003年)
 国立歴史民俗博物館編 『ドキュメント災害史1703-2003 地震・噴火・津波、そして復興』 国立歴史民俗博物館 2003年
 越村俊一「1896年明治三陸地震津波」 (『広報ぼうさい』No.28 2005年)
 『1896明治三陸地震津波報告書』 中央防災会議災害教訓の継承に関する専門調査会 2006年
 (白石睦弥)
 Copyrights © 2008 東京大学附属図書館
   ・   ・   ・   
三陸海岸大津波 (文春文庫)
哀史 三陸大津波---歴史の教訓に学ぶ
   ・   ・   ・   
 日本文化とは、明るく穏やかな光に包まれた命の讃歌と暗い沈黙の闇に覆われた死の鎮魂であった。
 キリシタンが肌感覚で感じ怖れた「日本の湿気濃厚な底なし沼感覚」とは、そういう事である。
   ・   ・   ・   
 日本の文化として生まれたのが、想い・観察・詩作を極める和歌・短歌、俳句・川柳、狂歌・戯歌、今様歌などである。
 日本民族の伝統文化の特性は、換骨奪胎(かんこつだったい)ではなく接木変異(つぎきへんい)である。
   ・   ・   ・   
 御立尚資「ある禅僧の方のところに伺(うかが)ったとき、座って心を無にするなどという難しいことではなく、まず周囲の音と匂いに意識を向け、自分もその一部だと感じたうえで、裸足で苔のうえを歩けばいいといわれました。私も黙って前後左右上下に意識を向けながら、しばらく足を動かしてみたんです。これがびっくりするほど心地よい。身体にも心にも、そして情報が溢(あふ)れている頭にも、です」
   ・   ・   ・   
 日本の建て前。日本列島には、花鳥風月プラス虫の音、苔と良い菌、水辺の藻による1/f揺らぎとマイナス・イオンが満ち満ちて、虫の音、獣の鳴き声、風の音、海や川などの水の音、草木の音などの微細な音が絶える事がなかった。
 そこには、生もあれば死もあり、古い世代の死は新たな世代への生として甦る。
 自然における死は、再生であり、新生であり、蘇り、生き変わりで、永遠の命の源であった。
 日本列島の自然には、花が咲き、葉が茂り、実を結び、枯れて散る、そして新たな芽を付ける、という永遠に続く四季があった。
 幸いをもたらす、和魂、御霊、善き神、福の神などが至る所に満ちあふれていた。
 日本民族の日本文明・日本文化、日本国語、日本宗教(崇拝宗教)は、この中から生まれた。
 日本は、極楽・天国であり、神の国であり、仏の国であった。
   ・   ・   ・   
 日本の自然、山河・平野を覆う四季折々の美の移ろいは、言葉以上に心を癒や力がある。
 日本民族の心に染み込むのは、悪い言霊に毒された百万言の美辞麗句・長編系詩よりもよき言霊の短詩系一句と花弁一枚である。
 日本民族とは、花弁に涙を流す人の事である。
 日本民族の「情緒的情感的な文系的現実思考」はここで洗練された。
 死への恐怖。
   ・   ・   ・   
 日本の本音。日本列島の裏の顔は、雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが同時多発的に頻発する複合災害多発地帯であった。
 日本民族は、弥生の大乱から現代に至るまで、数多の原因による、いさかい、小競り合い、合戦、戦争から争乱、内乱、内戦、暴動、騒乱、殺人事件まで数え切れないほどの殺し合いを繰り返してきた。
 日本は、煉獄もしくは地獄で、不幸に死んだ日本人は数百万人あるいは千数百万人にのぼる。
 災いをもたらす、荒魂、怨霊、悪い神、疫病神、死神が日本を支配していた。
 地獄の様な日本の災害において、哲学、思想、主義主張そして信仰宗教(普遍宗教)は無力であった。
 日本民族の「理論的合理的な理系論理思考」はここで鍛えられた。
 生への渇望。
   ・   ・   ・   
 日本の自然は、人智を越えた不条理が支配し、それは冒してはならない神々の領域であり、冒せば神罰があたる怖ろしい神聖な神域った。
   ・   ・   ・   
 現代の日本人は、歴史力・伝統力・文化力・宗教力がなく、古い歴史を教訓として学ぶ事がない。
   ・   ・   ・   
 日本を襲う高さ15メートル以上の巨大津波に、哲学、思想、主義主張(イデオロギー)そして信仰宗教は無力で役に立たない。
   ・   ・   ・   
 助かった日本人は、家族や知人が死んだのに自分だけ助かった事に罪悪感を抱き生きる事に自責の念で悶え苦しむ、そして、他人を助ける為に一緒に死んだ家族を思う時、生き残る為に他人を捨てても逃げてくれていればと想う。
 自分は自分、他人は他人、自分は他人の為ではなく自分の為の生きるべき、と日本人は考えている。
   ・   ・   ・   
 日本で中国や朝鮮など世界の様に災害後に暴動や強奪が起きないのか、移民などによって敵意を持った多様性が濃い多民族国家ではなく、日本民族としての同一性・単一性が強いからである。
 日本人は災害が起きれば、敵味方関係なく、貧富に関係なく、身分・家柄、階級・階層に関係なく、助け合い、水や食べ物などを争って奪い合わず平等・公平に分け合った。
 日本の災害は、異質・異種ではなく同質・同種でしか乗り越えられず、必然として異化ではなく同化に向かう。
 日本において、朝鮮と中国は同化しづらい異質・異種であった。
   ・   ・   ・   
 日本民族の感情は、韓国人・朝鮮人の情緒や中国人の感情とは違い、大災厄を共に生きる仲間意識による相手への思いやりと「持ちつ持たれつのお互いさま・相身互(あいみたが)い」に根差している。
   ・   ・   ・   

🍠21〗─1─明治濃尾地震。死者約7,000人。明治24(1891)年。~No.63 

   ・   ・   ・   
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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2021年8月20日号 週刊ポスト「人類は地震を『予知』できるのか?
 ……
 『濃尾地震』で〝予知の第一歩〟を踏み出した
 1891年に岐阜県南西部を震源に発生した濃尾地震は死者7,000人、全壊家屋14万棟に及んだ。6m以上の地表の上下変動は、現在でも根尾谷断層として残る。これに危機感を抱いた明治政府は『震災予防調査会』を設立した。
 『調査会の目的は、地震による災害を軽減することでした。そのために建物の耐震性の研究とともに、地震予知の可能性を調べるための地震研究が行われた。調査会専任メンバーはいなかったものの、帝国大学の研究者が国費で研究を進めた。これが地震予知研究の第一歩となった』(長尾氏)
   ・   ・   ・   
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 報告書(1891 濃尾地震
 災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 平成 18 年 3 月
 1891 濃尾地震
 報告書の概要
 <概要>
 1891 年 10 月 28 日に発生した濃尾地震は、マグニチュード8.0と推定される過去日本の内陸で発生した最大級の地震であった。岐阜県美濃地方においては地表に明瞭な断層が発生し、その比高は 6 メートルにもなった。特に震源に近い地域においては近代建築が倒壊したのに対し、伝統的な土蔵が残った。
 <教訓>
 濃尾地震は、近世から近代への過渡期にあって、復旧のための資材、人員等の不足に悩まされながらも、マスメディアによる情報伝達、近代行政システムによる迅速な救援、地震原因の科学的研究、減災のための耐震建築の研究など、今日の地震対策の原型をつくり、その発展の方向を決定することとなった。この地震を機に「震災予防調査会」が設置された。現在においてもなお地震は避けがたい災害ではあるが、今後とも減災のための努力を続けなければならない。
   ・   ・   ・   
 JIJI.COM
 時事ドットコムニュース>特集>【特集】日本の震災>濃尾地震(1891年)
 【特集】日本の震災
 濃尾地震(1891年)
 濃尾地震によって生じた断層。1891年の撮影だが、正確な場所は不明【時事通信社

 明治24(1891)年10月28日午前6時38分(37分という記録もある)、中部地方は激しい揺れに見舞われた。震源地は岐阜県本巣郡根尾谷(現・本巣市根尾)で、地下の岩盤が福井県南部から岐阜県を縦断、愛知県に至る長さで崩壊し、断層は地表面に出た部分だけでも80キロに及んだ。地震のエネルギーはマグニチュード8.0と、内陸直下型地震としては最大級の大きさだった。震源断層付近と濃尾平野北西部の震度は、現在の「7」に相当する激しさで、岐阜、愛知の両県を中心に倒壊家屋は14万戸以上、死者は圧死、焼死を合わせて7273人に達した。

 大陸プレートの内部にたまったゆがみが一挙に放出されて岩盤が崩れる内陸型地震の典型だが、震源付近の断層は垂直方向に6メートルのずれを生じており、その規模がいかに大きかったかが分かる。震源南側の濃尾平野は、地盤の弱い沖積平野だったこともあって、広範囲にわたり激しい揺れに襲われ、特に現在の岐阜市大垣市周辺に甚大な被害をもたらした。

 この当時、まだ日本は近代国家の機能が十分に整備されておらず、被災者の救援や復旧活動なども、すべて民間のボランティアで行われていた。しかし、濃尾地震の被害があまりに大きかったことから、勅令(天皇が発した命令)によって復旧費用の一部を政府が負担したほか、新聞が中心となって全国に義援金を募るなど、災害の被災者を社会全体で支えようとする意識が生まれた。また、発生の翌年、明治政府は「地震予防調査会」を設立し、計画的な地震災害対策への第一歩を踏み出すことになった。
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 ウィキペディア
 濃尾地震(のうびじしん)は、1891年(明治24年)10月28日に濃尾地方で発生した巨大地震であり、M8.0の日本史上最大の内陸地殻内地震直下型地震)である。
 美濃・尾張地震(みの・おわりじしん)とも呼ばれている。辛卯の年に発生したことから辛卯震災と呼んでいる報告書もある。
 被害
 濃尾2県はもとより、近隣の滋賀県福井県にも被害は及んだ。明治時代では最大規模の地震であり、宇佐美龍夫『新編日本被害地震総覧』によると、死者は7,273名、負傷者17,175名、全壊家屋は142,177戸を数えた。震央近くでは、揺れにより山の木が全て崩れ落ち、はげ山になったなどと伝えられる。また岐阜市と周辺では火災が発生し被害を大きくした。岐阜の壊滅を伝える新聞記者の第一報は、「ギフナクナル(岐阜、無くなる)」だったという。
 濃尾地震の震度分布は大森房吉により求められ、名古屋など愛知県から岐阜県福井県を貫く広い範囲で震度6相当となっている。だが、当時の震度階級は4段階で最大でも震度6相当であり、根尾谷を始め、岐阜県西部から愛知県にかけて家屋倒壊率が90%を上回る地域もあり、震度7と推定される地域も美濃から尾張(一部越前、三河)にかけて分布している。
 建築物では、伝統的な土蔵の被害は比較的軽かったが名古屋城の城壁や、宿場町の江戸時代からの建物の被害は言うまでもなく、欧米の技術で作られた近代建築でさえ、長良川鉄橋の落下をはじめ、耐震構造になっていなかった橋梁や煉瓦の建築物などが破壊されたため、この地震によって耐震構造への関心が強まり、研究が進展する契機となった。また、この地震後に震災予防調査会が設置された。イギリス人お雇い外国人で、写真家でもあるウィリアム・K・バートンが、自らのカメラで被害状況を記録している。
 前兆現象
 数日前から「動物の異常行動」や本震の数時間前から、「鳴動音」「地鳴り」「地震雲」あったことが報告されている。また、宇佐美の報告によれば、前々日や前日に前震活動があったことが報告されている。
 報道
 避難所の様子
 電信線が寸断されたこともあって、濃尾地震の全容はすぐには把握されなかった。28日、大阪朝日新聞は号外を出し、彦根四日市以東への電信が不通であること、難波紡績工場が倒壊したことを報じる。東京ではさらに把握が遅れ、東京日々新聞では、10月29日に金沢や横浜で大地震があったことを報道。翌30日になってようやく「安政地震の再来」という認識で地震が報道され、以後情報が正確になっていった。
 また、濃尾地震の情報は海外にも打電され、ロンドンの29日付のタイムズ紙でも報道された。同紙は30日には横浜からのロイター電として、大阪、神戸の被害が大きいという推測記事を掲載。日本を旅行中に大阪で濃尾地震に遭遇したメアリー・ジェーン・ビカーステスに、この報道を見た留守家族が、31日に日本へ安否確認の電報を打ち、彼女は11月1日に神戸でこの電報を受け取った。ビカーステスはその後12月28日、英国帰国直前、フランスのカレー駅で待ち受けていた記者から、地震体験の取材を受けている。
 学術的な意義
 この地震によって、地質学者の小藤文次郎は断層の地震との関係を確信し、断層地震説を主張した。
 地震学者の大森房吉は、この地震の余震を研究し、本震からの経過時間に伴う余震の回数の減少を表す大森公式を発表している。地震から100年以上経てもなお、余震が続いている。
 この地震は、内陸型地震としては特別に大きな規模の地震ではなく、同程度(長さ50km程度)の規模の断層は日本各地に見られる。
 地震学者の茂木清夫は、濃尾地震の断層運動によって、駿河トラフ側では歪みの緩和が生じ、一方の南海トラフ側では逆に歪みの増加が生じたとし、その影響で東南海地震の発生が早まったものの、一方の駿河トラフ側では破砕(東海地震の発生)が抑制されたのであろうという見解を示した。
 地震防災
 地震を予知することは出来なくても予防は可能であるとの観点から、翌年の1892年に発足した震災予防調査会により、地震や防災に関する幅広い研究が進められ「地震予知」「建物の耐震性向上」「過去の地震史の編纂」などが行われた。この震災予防調査会の活動は、1923年の関東大震災を経て東京大学地震研究所に引き継がれた。
 岐阜県は濃尾地震が発生した10月28日を「岐阜県地震防災の日」として指定し、地震防災の啓発などを行っている。また、毎月28日を「岐阜県防災点検の日」として、県民に災害への備えを呼びかけている。
   ・   ・   ・    
震災と死者 ――東日本大震災・関東大震災・濃尾地震 (筑摩選書)
辛卯震災録
   ・   ・   ・    
 日本文化とは、明るく穏やかな光に包まれた命の讃歌と暗い沈黙の闇に覆われた死の鎮魂であった。
 キリシタンが肌感覚で感じ怖れた「日本の湿気濃厚な底なし沼感覚」とは、そういう事である。
   ・   ・   ・   
 日本の文化として生まれたのが、想い・観察・詩作を極める和歌・短歌、俳句・川柳、狂歌・戯歌、今様歌などである。
 日本民族の伝統文化の特性は、換骨奪胎(かんこつだったい)ではなく接木変異(つぎきへんい)である。
   ・   ・   ・   
 御立尚資「ある禅僧の方のところに伺(うかが)ったとき、座って心を無にするなどという難しいことではなく、まず周囲の音と匂いに意識を向け、自分もその一部だと感じたうえで、裸足で苔のうえを歩けばいいといわれました。私も黙って前後左右上下に意識を向けながら、しばらく足を動かしてみたんです。これがびっくりするほど心地よい。身体にも心にも、そして情報が溢(あふ)れている頭にも、です」
   ・   ・   ・   
 日本の建て前。日本列島には、花鳥風月プラス虫の音、苔と良い菌、水辺の藻による1/f揺らぎとマイナス・イオンが満ち満ちて、虫の音、獣の鳴き声、風の音、海や川などの水の音、草木の音などの微細な音が絶える事がなかった。
 そこには、生もあれば死もあり、古い世代の死は新たな世代への生として甦る。
 自然における死は、再生であり、新生であり、蘇り、生き変わりで、永遠の命の源であった。
 日本列島の自然には、花が咲き、葉が茂り、実を結び、枯れて散る、そして新たな芽を付ける、という永遠に続く四季があった。
 幸いをもたらす、和魂、御霊、善き神、福の神などが至る所に満ちあふれていた。
 日本民族の日本文明・日本文化、日本国語、日本宗教(崇拝宗教)は、この中から生まれた。
 日本は、極楽・天国であり、神の国であり、仏の国であった。
   ・   ・   ・   
 日本の自然、山河・平野を覆う四季折々の美の移ろいは、言葉以上に心を癒や力がある。
 日本民族の心に染み込むのは、悪い言霊に毒された百万言の美辞麗句・長編系詩よりもよき言霊の短詩系一句と花弁一枚である。
 日本民族とは、花弁に涙を流す人の事である。
 日本民族の「情緒的情感的な文系的現実思考」はここで洗練された。
 死への恐怖。
   ・   ・   ・   
 日本の本音。日本列島の裏の顔は、雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが同時多発的に頻発する複合災害多発地帯であった。
 日本民族は、弥生の大乱から現代に至るまで、数多の原因による、いさかい、小競り合い、合戦、戦争から争乱、内乱、内戦、暴動、騒乱、殺人事件まで数え切れないほどの殺し合いを繰り返してきた。
 日本は、煉獄もしくは地獄で、不幸に死んだ日本人は数百万人あるいは千数百万人にのぼる。
 災いをもたらす、荒魂、怨霊、悪い神、疫病神、死神が日本を支配していた。
 地獄の様な日本の災害において、哲学、思想、主義主張そして信仰宗教(普遍宗教)は無力であった。
 日本民族の「理論的合理的な理系論理思考」はここで鍛えられた。
 生への渇望。
   ・   ・   ・   
 日本の自然は、人智を越えた不条理が支配し、それは冒してはならない神々の領域であり、冒せば神罰があたる怖ろしい神聖な神域った。
   ・   ・   ・   
 現代の日本人は、歴史力・伝統力・文化力・宗教力がなく、古い歴史を教訓として学ぶ事がない。
   ・   ・   ・   
 日本を襲う高さ15メートル以上の巨大津波に、哲学、思想、主義主張(イデオロギー)そして信仰宗教は無力で役に立たない。
   ・   ・   ・   
 助かった日本人は、家族や知人が死んだのに自分だけ助かった事に罪悪感を抱き生きる事に自責の念で悶え苦しむ、そして、他人を助ける為に一緒に死んだ家族を思う時、生き残る為に他人を捨てても逃げてくれていればと想う。
 自分は自分、他人は他人、自分は他人の為ではなく自分の為の生きるべき、と日本人は考えている。
   ・   ・   ・   
 日本で中国や朝鮮など世界の様に災害後に暴動や強奪が起きないのか、移民などによって敵意を持った多様性が濃い多民族国家ではなく、日本民族としての同一性・単一性が強いからである。
 日本人は災害が起きれば、敵味方関係なく、貧富に関係なく、身分・家柄、階級・階層に関係なく、助け合い、水や食べ物などを争って奪い合わず平等・公平に分け合った。
 日本の災害は、異質・異種ではなく同質・同種でしか乗り越えられず、必然として異化ではなく同化に向かう。
 日本において、朝鮮と中国は同化しづらい異質・異種であった。
   ・   ・   ・   
 日本民族の感情は、韓国人・朝鮮人の情緒や中国人の感情とは違い、大災厄を共に生きる仲間意識による相手への思いやりと「持ちつ持たれつのお互いさま・相身互(あいみたが)い」に根差している。
   ・   ・   ・   

🐞4〗─4─2021年のサンマ流し網漁での水揚げはゼロ。1997年以降初の不漁。〜No.17 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・     
 2921年8月9日 MicrosoftNews 共同通信「サンマ流し網漁、水揚げゼロ 97年以降初、北海道東部
 © KYODONEWS 2020年7月、店頭で1匹5980円の値札が付いた初物サンマ=北海道釧路町
 7月上旬に解禁され、サンマ漁のシーズン到来を告げる北海道東部沿岸の流し網漁の不振が続いている。9日時点の水揚げはゼロで、記録の残る1997年以降では初めてだ。サンマの資源減少や漁場が遠のいていることが原因とみられ、道内3漁協の所属船は9月末の漁期終了を待たず打ち切る方針を固めている。
 サンマの流し網漁は網を固定せず潮流に流して魚を取る手法で、10トン未満の小型船が道東沿岸の太平洋で行う。昨年は取れたサンマが店頭で1匹5980円の値をつけるなど、初物で人気が高いのが特徴。今季は3漁協の全10隻が道の操業許可と検査を受け、広尾漁協の1隻が出漁していた。」
   ・   ・   ・   

⚡15】─1─中国共産党の太陽光発電輸出戦略は静かな侵略として日本の電力支配である。~No.90No.91 ⑨ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 「日本人は自然を愛し大切にする」は、現代日本ではウソである。
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 2021年9月号 WiLL「太陽光発電は屋根の上のジェノサイド
 太陽光パネル発電の積極的な導入は強制労働に加担することに──
 有本香  杉山大
 原因はどこに
 有本 『「脱炭素」は嘘だらけ』(産経新聞出版)を拝読しました。いま日本の国策の柱に挙げられている『グリーン成長戦略』なるものの欺瞞(ぎまん)が非常によく理解できました。
 杉山 ありがとうございます。有本さんは幼少期、西伊豆で過ごされたとか。静岡県熱海市で大規模土石流が発生、多数の犠牲者がでましたけれど、他人事ではないでしょう。
 有本 ええ。伊豆半島では、雨の多いこの時季に土砂崩れが多発しますが、今回の熱海・伊豆山ほどの大きな被害を私は知りません。
 ……
 杉山 日本の各地で太陽光発電施設が各地の山の赦免を切り開き、設置されています。それによって、土砂崩れが発生しているのは事実です。静岡県民のだ誰もが、太陽光発電開発の推進によって県内の環境が破壊されていることを知っている。
 有本 今回、被災した熱海市に隣接する伊東市函南町では住民らによる反対運動が起きています。
 杉山 難波副知事は『山林開発の影響はあると思う』と、人災であること示唆しました。ところが、川勝平太知事は土石流の基点近くの太陽光発電施設について『直接の因果関係はみられない』と説明している。川勝知事は太陽光発電推進派です。
 ……
 太陽光発電中国企業
 有本 『地球に優しい』という名目で太陽光発電が、日本各地に設置されていますけれど、実際どうなのか。
 杉山 よくよく考えるべきですよ。森林や田畑をどんどん切り開くことになる。しかも広い面積を確保しなければ、経済活動を支える大量の電力を得られません。絶えず降り注ぐ太陽の光を集める必要がありますから、セメントやガラス、シリコンなど大量の材料が必要です。ということは、廃棄物も同時に大量に排出される。脱物質とはまるっきり正反対です。
 有本 全然地球に優しくないわけですね。しかし、太陽光発電の事業は拡大傾向どころか、環境省は、2030年の太陽光発電の導入目標に約2,000万キロワット分を積み増すと決めたそうです。原子力発電所20基分に相当するとか。
 これだけでも問題ですが、私が以前から警鐘を鳴らしてきたこととして、日本中にある太陽光発電施設に外資が無制限に入ってきているという問題もあります。
 杉山 実に深刻な問題です。
 有本 2014年、大阪市南港咲洲の市有地を中国国営企業、上海電力に太陽発電事業用に貸与していたことが明らかになりました。当時の市長は橋下徹氏です。これを上海電力に取材しました。
 このとき先方は、カメラオフを条件に『いずれ送電にも入ることができると見越して参入した太陽光発電事業は、そのきっかけに過ぎない』と真意を明かしました。日本のインフラ、言い換えれば私たちの生殺与奪の権を握ろうというのが彼らの本音でしょう。ところが、当時の大阪市も国も、虎視眈々と電力事業を乗っ取ろうと狙う外資もあることに気づいていませんでした。
 杉山 安全保障にかかわる問題です。電力をターゲットにしたテロが海外では横行しています。太陽光発電の施設でも、送電線に向かって変な電気を流して、発電所や送電網を破壊、大停電を誘発することは十分可能です。しかも上海電力のような中国企業であれば、党組織の設置が法律上求められている。中国当局から指示されれば、すぐに実行に移せるよう、指揮系統ができあがっています。発電所につながっている数が多ければ多いほど、テロに対して脆弱にならざるを得ません。
 有本 私たちのライフラインを、日本に敵対的な外国に握られてしまうというのは実に怖ろしい話です。これを何の警戒感もなく行政が許す感覚が信じられません。
 杉山 英国でも、送電事業に中国企業がかなり食い込んでいます。中国は戦時も平時も関係がない超限戦を仕掛けています。電力もその対象ですよ。
 有本 私もメディアで訴えるだけでなく、国会議員にも大阪の件など話したこともありますが、なぜか日本では規制が難しいようなのです。
 杉山 日本は性善説で、事業者の善意を頼りにしすぎています。しかも、省庁ごとの縦割りで、協力体制が整っていません。電力事業を所管している経産省のみならず、テロの場合は防衛省の力も必要です。
 有本 安全保障として対策することが急務ですね。
 太陽光発電ウイグル
 杉山 太陽光発電事業で深刻な点はウイグルとの関係です。世界の太陽光パネル開発の8割は中国企業によるものですが、さらにそのうちの6割がウイグルでつくられています。
 有本 米国当局(米国税関国境保護局=CBP)は6月下旬、新疆ウイグル自治区太陽光パネルの原料などを製造する合成硅業(Hoshine Silion Industry)から輸入を一部差し止める違反商品保留命令(WRO)を出しました。同社の製品(ポリシリコンなど)の生産工程で強制労働があったことが理由です。同日、米国商務省・産業安全保障局(BIS)は、合成硅業を含む新疆ウイグル自治区の5つの企業・団体を、エンティティ・リスト(国家安全保障や外交政策上の懸念がある企業)に追加しました。理由はやはりウイグル人らへの拘束や強制労働、高度技術による監視などの人権侵害です。
 日本とも長年にわたって関連のある団体が含まれていますが、そもそも太陽光パネルの技術開発は、日本が先行してそれが中国に提供されたのではありませんか。
 杉山 日本をはじめ、米国、ドイツは研究開発の段階で大規模な投資をしていました。けれどハッキリ言えば、半導体製品の中で太陽光発電は、それほどのハイテク技術ではありません。ただ、中国はいま圧倒的に安価に生産しており、価格競争に勝ったわけです。
 ところが、この安い理由とは何か。中国はウイグル人を強制労働させるうことで、人件費を低く押さえることができる。また自国でシリコンを採掘・精錬しますが、石炭火力を用いて安価な電力を大量に使っている上に、排水などの環境規制が甘い。だから、安価な太陽光パネルを世界中に輸出することができる。米国は特に強制労働への関与を重大な問題だと判断して、中国企業からの輸入を事実上全面的に禁止する措置をとっています。では、日本はどうなのか。
 有本 政府の感度はまったく低いと言わざるを得ません。
 杉山 非難決議すら採択できなかったですね。
 有本 安倍政権のときは、後半は中国との融和にかなり傾きましたが、それでも西側諸国とくに米国と深く連携して対中態勢づくりに努めていました。ところが、菅政権になると、そのリーダーシップが弱まった。その機に乗じて復権してきたのが、与党内の親中派です。最近では、親中派の象徴のような河野洋平氏を自民党本部に招聘(しょうへい)し、講演会を開いたりして、それを歴代の閣僚経験者がありがたがって聴くという有様。
 その場で岩屋毅防衛大臣が『多様性を包含(ほうがん)できるリベラル勢力が自民党になければならない』と言い、それに河野氏は『今のような意見が聞けたことは涙が出るほどうれしい。自民党は死んでいないとつくづく思った』と答えたとか。呆れて言葉もありません。
 杉山 彼らが言う『リベラル』とは、要するに『親中』ということでしょう。
 有本 そうです。そして、現在の親中派のカナメが二階俊博幹事長です。
 日本人の対中感情は、ここ20年で著しく悪化しています。80%以上が『中国は信用できない国』と答えている調査もあります。それは当然の結果で、何も日本人が狭量(きょうりょう)になったわけではなく、いまや世界中が中国の暴挙に怒っています。ところが、日本政界だけがその中国への抗議一つまともにできない。政府も与党も官僚も財界も『親中派』と呼ばれる勢力に振り回されていて、民心は離れる一方です。こういう『中国の浸透』という一種のウミを出さなければ、先はありません。
 杉山 太陽光パネルの現状は『屋根のジェノサイド』。強制労働への加担です。……
 根拠を示せ!
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 杉山 今後、太陽光発電は安くなるという意見がありますが、それはジェノサイドにお構いなしに中国製品を輸入し、乱開発をするという恥ずべき理由によるものです。太陽の照るときしか発電しないので火力発電のバックアップが必要だという根本的な問題も解決していません。
 『脱炭素』はいいこと?
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 有本 メディアも似た面があります。データを一部しか出さずに『怖い怖い』と煽る。結論ありき。熱海の災害でも、すぐ近くに太陽光発電の設備があったにもかかわず、当初は不思議とその事業を報じるテレビ局はほとんどありませんでした。太陽光発電に少しでも類が及ぶことを避けたかった。そのために隠したかったようにも取られます。
 杉山 政府やマスコミが太陽光発電の問題点について腰が重かったのは、本当のことを言ったところで選挙に影響を及ぼさないし、視聴率も取れないため。ですが、今回の熱海の災害では、多くの人が、盛り土があり、そのまわりに大規模な太陽光発電がつくられていることをインターネットなどの映像で目の当たりにした。災害が大規模化した因果関係はこれからの調査によりますが、環境の乱開発やウイグル人の強制労働にかかわっている太陽光発電が本当に必要なのか、それを問い直すいい機会でもある。今回の機を決して逃してはなりません。」
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「脱炭素」は嘘だらけ
脱炭素社会の大本命「自家消費型太陽光発電」がやってくる! なぜ太陽光発電なのか?なぜ自家消費型なのか?が分かる一冊
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 中国共産党は、日本の電気、水、情報通信などのインフラやライフラインを支配するべく着々と準備を進め、親中国派・媚中派を使って日本企業の自前主義を潰して外国企業との分業主義への経営方針変更を進めている。
 中国共産党の理想とする日本関係は、現代風の対等関係での友好・善隣ではなく、昔ながらの上下関係での朝貢冊封である。
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 石油・天然ガスなどのエネルギー資源のない日本は、石油禁輸打開の為に戦争を始めた戦前の失敗を教訓として、エネルギーの海外依存を減らし自給率を高め為に原子力発電推進を決定し、原子力発電推進に邪魔になる自然エネルギー研究を潰した。
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 日本の原子力発電反対派、太陽光発電など代替エネルギー推進派そして自然保護派の中に親中国派・媚中派が潜んでいる。
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🍠28〗─5─首都直下地震で甚大な被害をもたらす縄文時代の埋没谷と腐植土層。~No.93 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2021年8月12日・19日号 週刊新潮「『山の手』も危ない!
 ついに判明 東京地下の『地質地盤』
 『首都直下地震』にそなえよ
▶激震への〝地雷〟はあちこちに潜む『埋没谷』
▶専門家が警鐘『腐植土層』で『ゼリーのように揺れる』
▶危険地帯は『恵比寿』『高輪』『代々木』『世田谷』そしてあの街・・・
 今後30年で『首都直下地震』が起きる確率は70%と言われる。都民はまさしく大災害と隣り合わせの生活を送っているわけだが、先ごろ都心部の『地質地盤』を始めて詳細に表した立体図が完成。何と、被害が予想される下町とともに、山の手もまた危ういというのだ。
 来るべき震災に備え、自宅の下に広がる地盤を知っておくことは重要である。が、東京23区では開発が進んで地層を直に見ることもままならず、これまで詳細な構造は知られていなかった。
 そんな状況を大きく変えることになるのが、今回の『3次元マップ』である。図の作成に携わった、国立研究開発法人『産業技術総合研究所』(産総研)の中澤努・情報地質研究グループ長に聞くと、
 『5月21日に、産総研のウェブサイトで「東京都心部の地質地盤図」を公開しました。立体画像を表示するソフトをインストールすれば、どなたでも無料で地下の立体図を見ることができます。また任意の箇所の地質状況がどうなっているのかを知るために、断面図を描画することもできます』
 とのことで、
 『東日本震災では、首都圏でも千葉県の浦安など一部の地域で液状化現象が見られました。東京は震度5強でしたが、屋根の瓦が落ちたり家具が倒れたりといった被害が出た地域もあります。同じ大地震でも、地域によって被害の大小があることは皆さんも実感としてお持ちでしょう。なぜそうなるかを考えると、おのずと地下の地質地盤に行きつくのではないかと思います』
 このプロジェクトは、2013年から始まった『第2期知的基盤整備計画』に基づいて進められたという。
 『産総研ではもともと、紙で地質図を出版していましたが、2次元のため平野部の地下の3次元的な広がりを表すのは難しかった。そこで立体化に取り組むことになったのです。ただ、これは全国的にも初めての試みでしたので、まずは千葉県北部をモデル地域と定め、その地質地盤図の立体化を試みました。関東平野にはさまざま地層があり、各地層が最も典型的に観察できる場所を「模式地」といいます。木更津周辺などで地層が隆起し、崖などで地層を確認することができる千葉県北部は、関東平野の地層が最も典型的に分布している地域であり、モデルに適していたのです』
 千葉県北部の地質地盤の立体図は18年3月に公開された。ここで培ったノウハウが、今回の東京23区版に活かされたという。
 ……
 『縄文海進』で
 骨の折れる作業を地道に続け、東京23区版は完成した。
 『23区は東西・南北ともおよそ32キロ、関東平野に位置しているわけですが、平野はまず台地と低地に分かれます。23区の東部は東京低地、西部は武蔵野台地が広がっており、西部の北側には荒川低地、そして南部には多摩川低地があります。その中で今回分かったのは、東京低地の地下に「埋没谷」が存在することです。ここに昔できた谷があることは知られていましたが、今回、その形状をこれまでに例がないほど詳細に描き出すことができたのです』
 〝埋没谷〟とは聞きなれない言葉だが、
 『埋没谷は、約2万年前の最終氷期に形成されたものだとされています。氷期では陸地上に氷期や氷床(ひょうしょう)が形成され、この分だけ海水面が下がっていく。最終氷期には地球上の海水面が120~130メートルほど低くなっていたといいます。埼玉地方から荒川と利根川が流れ込み、現在の足立区付近で合流して「古東京川」となり、今よりずっと陸地が南に広がっていた東京湾に注ぎ込んでいました』
 氷期が終わると、地球は温暖化して海面も上昇した。
 『いわゆる「縄文海進」といわれるもので、それまでに利根川と荒川が作った谷に海水が入り込んでいきました。内湾(ないわん)なので静かな海で、上流から緩(ゆる)やかに土砂が溜まっていき、氷期にできた谷を埋めて陸地になっていきました。こうして地下へと姿を消したのが「埋没谷」というわけです』
 東京では一般に、山の手の地盤は堅固で、下町は軟(やわ)らかいとされているのだが、
 『それは地層の成り立ちに由来します。下町、つまり東京低地は約2万年前以降に作られた地盤で、地層区分でいえば「沖積層」です。その主体となるのは泥層であり、軟弱なことが多い。一方で山の手、つまり武蔵野台地は約5万年前以前に作られ、地層区分は「更新統」。地盤は比較的固く、しっかりしていると言えるでしょう』
 実際に、今回完成した立体図を見ていくと、
 『東京低地の地下には深く埋没谷を見ることができ、新木場の西側では深さ80メートルにも達しています。また、その谷は葛飾区や足立区などに連続し、深い谷地が確認できます。ただし、一概に〝山の手は堅固で下町は軟らかい〟とは言い切れません。たとえば埋没谷の縁(へり)のあたり、江戸川区の小岩地区近辺では沖積層が堆積(たいせき)しているものの、非情に薄い。一部の台地よりもかえって地盤がよいのではないかと思われます』
 さらに続いて、
 『これまで地盤がよいとされてきた武蔵野台地でも今回、一部で軟弱層によって埋積(まいせき)された埋没谷を見出すことができました。例えば高輪から恵比寿、渋谷、代々木にかけては深さ10~30メートルほどの埋没谷があります。長さおよそ10キロで、幅は大体3~4キロになります。また、世田谷区の西部にある多摩川の北岸にも、地下に長さおよそ10キロ、幅が約1.5~3キロの埋没谷が見てとれます。これらはおよそ14万年前の氷期に造られたことがわかりました』
 ちなみに首都圏では、埋没谷は千葉の柏から印西、成田にかけても存在し、また埼玉では浦和から大宮にかけて、同様の地層がみられるという。
 『木密地域』では
 こうした〝埋もれた事実〟を知られにつけ、気になるのは地震との関係である。
 中澤グループ長が続ける。
 『一般論として、地盤が固いところは揺れにくく、軟らかいところは揺れやすいと言われます。1923年の関東大震災では、台地より低地で揺れが強く、震度にして1くらいの違いがあったという研究もある。特に、今回示した埋没谷がみられる地域では揺れが大きくなる可能性があり、地盤だけに着目すると、埋没谷が深ければそれだけ揺れも大きくなると言えるでしょう』
 関東学院大学工学総合研究所の若松加寿江研究員(地盤工学)が言う。
 『地表面の地盤の揺れやすさを表す「地盤増幅率」という数値があります。地盤がよいとされる山の手では数値が小さく、下町では大きくなっています。今回の産総研の研究の成果は、東京低地の埋没谷の形状を克明に描き出したことだと思いますが、そうした埋没谷があって軟弱層が厚ければ厚いほど、その地盤は揺れやすいといえます。産総研のデータでは足立区、葛飾区、江東区に繋がる埋没谷が見えるので、この地域は地震の揺れが大きくなる可能性があります』
 高輪から代々木にかけての埋没谷については、
 『この地域では、地表面の浅い部分に湿地の植物が腐敗してできた「腐植土層」が堆積していることが、以前から知られていました。こうしたエリアは、地震が起きるとゼリーのようによく揺れるので、この山の手エリアの埋没谷がどこまで地震の影響を受けるか、今後しっかりと研究をしていかねばなりません』
 また、京都大学の鎌田浩毅名誉教授(火山地質学)も、
 『こえまで指摘されてきた下町だけでなく、武蔵野台地の上にあって地盤がよいとされてきた高輪から恵比寿、代々木にかけて、また世田谷の一部でも埋没谷が確認できます。このことから、いわゆる高級住宅地で地価が高い地域でも、実は地震が起きたら揺れやすいということが、今回のデータで実証されました』
 そう指摘しながら、
 『あわせて警戒したいのは、地価に埋没谷が広がっていながら地上に木造建築物が密集した「木密地域」です。こうした場所では家屋の損壊や倒壊、そして火災発生のリスクがおのずと高まってしまいます』
 具体的な『木密』のエリアとしては、
 『押上や西新井、東立石などの下町に見られますが、意外なことに都心部の大崎や品川、西大井、そして世田谷にも広がっています。下町はかつて戦災があって戦後に道路が比較的整備されたのですが、大崎や品川、世田谷などには、道が入り組んでいて消防車両が入りづらいエリアがいまだに残っています。こうした場所では、家屋の倒壊で道路がふさがれてしまうと消火活動が十分に行なえず、「火災旋風」が発生するおそれもあります』
 関東大震災では、倒壊した建物の瓦礫に火が燃え移り、竜巻のような火柱が押し寄せる『火災旋風』が発生し、人的被害を拡大させた。また1995年の阪神・淡路大震災でも、神戸市長田区で発生したとの目撃証言がある。
 『関東大震災の10万人の死者のうち、9割は焼死だと言われています。火災旋風は周辺から建物、人までも呑み込みながら進んでいきます。上空の気圧配置に従って動き、その通り道は焼け野原と化すのです』
 ……」
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