💫4}─3・D─鳥は「恐竜の子孫」ではなく恐竜である。〜No.31No.32No.33 

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 2021年8月7日 MicrosoftNews ギズモード・ジャパン「鳥は「恐竜の子孫」ではありません、恐竜なんです
 © Image: NOAA/NMFS/OPR via Gizmodo US この恐竜を見てくださいよ。正確にはカツオドリという恐竜を。
 © Illustration: Fred Wierum (Fair Use) via Gizmodo US ベロキラプトル(Velociraptor mongoliensis) のイメージ画
 © Image: Matthew Dillon (Fair Use) via Gizmodo US 並べられたティラノサウルストリケラトプス骨格標本のうち、鳥と系統がつながっていると考えられるのは前者
 © Graphic: Zina Deretsky/NSF via Gizmodo US マジュンガサウルスとアヒルの気嚢を比較した図
 Illustration: Benjamin Currie via Gizmodo USIllustration: Benjamin Currie via Gizmodo US
 私たちの世界は恐竜まみれ。
 暴れん坊のティラノサウルスや、ビルのごとくそびえ立つ巨大なブラキオサウルスは、とっくの昔に地球上から姿を消してしまいました。でも私たちのまわりには今だって恐竜たちが自由に飛びまわっているって、知ってました?
 そう、鳥たちです。
 鳥の祖先が恐竜だったと聞いたことはあっても、鳥こそが正真正銘の恐竜だって聞いたことはあまりないですよね。ですが、根拠はちゃんとあるそうなんです。以下、米GizmodoのDvorsky記者の熱のこもったコラムをどうぞ。
 すべての鳥は恐竜だ
 間違っちゃいけません。鳥は恐竜そのものです。恐竜の末裔なんかじゃありません。6600万年前、巨大な隕石が落ちてきて生物の大量絶滅を引き起こしたときに、鳥類以外の恐竜はすべて地球上から消え去りました。しかし、いくつかの鳥の種(地上で暮らしてたっぽい)は天変地異を凌ぎ、親類の恐竜たちが次々と死に絶えていく中で瞬く間に勢力を拡大していきました。
 「窓辺でさえずっているかわいらしい小鳥たちは、この地球上に現存している唯一の恐竜たちです」とクレムソン大学のキャンベル地質学博物館館長・スミス(Adam Smith)さんはメールで書いています。
 鳥は恐竜の一種なんです。ですから”鳥は恐竜の末裔である”と言うのは”ヒトは哺乳類の末裔である”と言っているのと同じです。要は、すべての鳥は恐竜だけど、すべての恐竜が鳥だとは限らないんです。
 この可憐なカートランドアメリカムシクイだって、れっきとした恐竜です© Image: U.S. Fish and Wildlife Service via Gizmodo US この可憐なカートランドアメリカムシクイだって、れっきとした恐竜です
 鳥類と恐竜とが系統学的にリンクしているらしいことは、なにも最近わかったわけではありません。19世紀後半に活躍したイギリスの博物学者・ハックスリー(Thomas Henry Huxley)は、当時の固定概念を覆すべく、勇気を出して鳥類が恐竜から進化したと主張しました。サイエンスライターのブラック(Riley Black)が2010年に書いているように、「ハックスリーの主張は現在私たちが知っていることを完璧に予測したものではなかった」ものの、優秀な解剖学者だった彼は明らかになにかを掴みかけていました。
 そして、その後現在に至るまで、科学者たちは鳥が恐竜の一種だと裏付ける数々の特徴を発見してきました。ネブラスカ大学のライオンズ(Kate Lyons)助教は、古生物学者に”鳥は恐竜だ”と言わしめる所以はひとつどころではなく複数のエビデンスによって支えられているとメールで書いています。
 さらに、エジンバラ大学の古生物学者、ブルサット(Steven Brussatte)氏は、鳥が恐竜だと言い切れるロジックは、コウモリが哺乳類であることと似ていると説明しています。
 鳥は小さくて羽根を持ち、翼をはばたいて飛ぶことができます。これは、私たちが通常持っている恐竜のイメージからはかけ離れたものですよね。
 類似している関係性をコウモリにも見ることができます。コウモリも小さくて翼を持ち、飛ぶことができますし、犬・ゾウ・類人猿などのほかの哺乳類とは似ても似つきませんが、それでも彼らはれっきとした哺乳類なんです。
 その言葉どおり、コウモリは哺乳類にしか見られない特徴をいくつも持っています。体毛、大臼歯、3つある耳骨もそうですし、子どもを母乳で育てるのもそうです。同様に、鳥にも獣脚類の恐竜にしか見られない特徴が見られるとブルサット氏は言います。
 鳥と恐竜の共通点
 たとえば、羽根。
 鳥が恐竜であると結論づけるエビデンスが多数ある中でも、羽根の存在はもっとも説得力のあるエビデンスと言えるでしょう。羽根は今では鳥だけが持っている特徴ですが、化石記録を見てみると鳥類ではない恐竜が羽根を生やしている例はいくらでも見つかるため、科学者たちは鳥が恐竜の一種であると考えています。
 この考え方に懐疑的な人は、鳥と鳥類以外の恐竜のどちらもに羽根が見られるのは収束進化の一例だと反論するでしょう。収束進化とは、関連性のないふたつの独立した種が進化の過程で同じような特徴を取得することを言います。しかし、クレムソン大学のスミス氏は、恐竜と鳥の場合、収束進化の原理が働いた可能性は低いと考えているそうです。
鳥類ではない恐竜の化石に羽根の存在が確認された例の多くは、ベロキラプトルやシノサウロプテリクスのように、以前からそれぞれ鳥類に系統的に近いと仮定されてきた種でした。
 それに、羽根というのはとんでもなく複雑な構造をしているんです。収束進化が似たような体の構造を作り出したり、表面上は体がそのままそっくり似ることはよく見られますが、収束進化が羽根のように複雑な構造を極めてミクロなスケールで、極めて忠実に複製した例はこれまで皆無です。
 恐竜から鳥へと受け継がれた系譜
 さらに、系統学とは生物が進化してきた過程でお互いどのように影響し合ってきたかを研究する学問ですが、ここでも鳥が恐竜だというエビデンスが集まりつつあります。
 映画『ジュラシック・パーク』みたいだったらいいんですけど、琥珀の結晶から古代の恐竜DNAを抽出して分析することなど現在では不可能です。ですから、系統学の専門家は化石として残された骨格や体の構造を比較することで、種と種の間に共通している特徴を探し出します。
 この観点から、ブリストル大学地球科学部で学んでいる博士課程の大学院生・ロウ(Andre Rowe)氏は「鳥が獣脚類の恐竜の系譜を受け継いでいることは系統学的にほぼ確証されています」とメールで説明しています。獣脚類とはティラノサウルスアロサウルス、コンプソグナトゥスを含む肉食恐竜。この獣脚類の骨格と鳥の骨格とを比べてみると、「お互い進化してきた過程に急激な変化は見られず、むしろ何百万年もかけたなめらかなトランジションが行なわれたことがわかる」そうなのです(ロウ氏)。
 マカレスター大学で脊椎動物の系統学を学んでいるロジャーズ(Kristi Curry Rogers)氏は、
 時を逆行して鳥の基本的な骨格の進化をたどってみると、もっとも初期に現れた恐竜たちにまで遡ることができます。恐竜と同じく、鳥は歩行の際に脚を体の真下で動かします。また、鳥の成長速度が速いのも恐竜から受け継がれてきた特徴です
 とメールで具体例を挙げています。
また、オクラホマ大学で系統学と解剖学を教えるバラード(Holly Woodward Ballard)准教授曰く、
 鳥は現存しているどの生物よりもすでに絶滅した恐竜と多くの特徴を共有していることから、鳥は恐竜だと言うことができると思います。
 さらには、羽根以外にも「叉骨(ウィッシュボーン)、含気骨(気嚢の入り込んだ骨)、回転する手関節」など鳥と恐竜とに共通している特徴はほかにもたくさんある、とブルサット氏は説明しています。
 鳥は特殊な構造をした手関節を持ち、真後ろに曲げることができるために翼を折りたためるそうです。カルガリー大学で系統学と進化生物学を修めるセオドア(Jessica Theodor)氏によれば、この同じ構造が翼を持たなかったコエルロサウルス類にも見つかっており、獣脚類の進化を通して徐々に変化してきたこともわかったそうです。
 呼吸・消化・育児の仕方にも共通点
 手関節以外にも共通点が。
 ニューメキシコ大学生物学部で博士課程を学んでいるシュローダー(Kat Schroeder)氏は、鳥類に見られる「複合仙骨」と「尾端骨」ついて、こう説明しています。
 複合仙骨とは腰部分の上にかかる脊椎骨の融合を意味します。背中を強化することで飛行を補助する働きをします。また、尾端骨は尾椎の末端部分が融合したもので、尾羽を支えています。
 この尾端骨はオビラプトロサウルスやオルニトミモサウルスなどの鳥類以外の恐竜にも見られる特徴で、これらの恐竜はひょっとしたら長い尾のかわりに扇子状に広がった羽根を持っていたかもしれません。
 また、セオドア氏は
 鳥の肋骨には「鉤状突起(uncinate process)」と呼ばれるかぎ状の突起があり、呼吸の際に胸部の筋肉の動きを助ける働きをします。これはオビラプトル、そしてドロマエオサウルスにも見られる特徴です
 と説明した上で、
 これ以外にも鳥の骨格には恐竜の骨格化石と類似した構造がいくつも見つかっていることから、系統発生上の分析により同様に分類されています
 とも書いています。
 さらに、恐竜の中には抱卵行動が認められているものもいますが、これは現代の鳥にも見られる行動であることは明らかです。もうひとつ、鳥と恐竜はどちらも胃石を食物の消化に役立てている点でも共通しています。
 遺伝子に書かれた証拠
 すでに書きましたが、絶滅してしまった恐竜のDNAを採取して調べることは不可能です。けれども、現代における恐竜たちのDNAを調べることは可能です。
 鳥というのは本当は飛ぶことを覚えた小さな恐竜たちです。その証拠は古代の恐竜たちの化石記録からも、今生きている鳥たちの骨格やゲノムからも読み取れます
 とマカレスター大学のロジャーズ氏。
 現代の鳥たちの遺伝子の奥深くにはもっと獰猛だった過去の記憶が眠っています。もっと長く、もっと力強い尾や牙を生やすための失われた遺伝子プログラムがまだ閉ざされたまま残っているのです。
 鳥が恐竜である証拠は、すべてここにあります。遠い昔に死滅した恐竜、そして現在も空を飛び交っている恐竜たちの骨と体の中に!
 ということで、次回ハトに遭遇したり、カルガモがどこかの池で泳いでいるのを見かけたら、恐竜と遭遇したと思ってみてください。鶏の唐揚げを食べているんじゃなく、じつは恐竜の肉を喰らっているのだと思ってみてください。どおりでカラスに襲われると恐怖を感じるわけです、恐竜に襲われているわけですから。」
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🍠28〗─4─首都直下巨大地震は3つのプレートが交錯して起きる必然である。~No.92 

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 2021年8月7日 MicrosoftNews NEWSポストセブン「3500万人を襲う首都直下地震のメカニズムと「地形上の必然」
 © NEWSポストセブン 提供 首都圏の地下では3つのプレートが交錯し、大地震震源となる可能性が…
 近い将来、発生する可能性が指摘されている「首都直下地震」。首都圏は3500万人が生活する人口過密地域だが、地下では3つのプレートが交錯し、大地震震源となる可能性を秘めているのだ。東京大学地震研究所の古村孝志教授が指摘する。
 「南関東は、フィリピン海プレートが北米プレートの下に沈み込み、さらに東側から太平洋プレートが沈み込んでいる複雑な領域です。内閣府の中央防災会議では、首都圏に大きな被害を与える可能性の高い19ケースのM7級地震を想定し、被害を評価しています」
 大地震のリスクが高い地域に多くの人口が集まったのは偶然ではない。
 「関東平野は、平らで川も流れていて農業ができるので生活しやすい。それで多くの人が定住した一方、地盤が柔らかくて強い揺れが起きやすい地域でもあります。プレートの密集地域に3500万人もの人が住む地域は世界的にも稀ですが、それだけに十分な対策を立てる必要があります」(古村教授)
 緊急地震速報は鳴らない
 近年は緊急地震速報が発達し、「揺れる直前に警報が鳴るから大丈夫」と高を括る人もいるかもしれない。
 しかし、東海大学海洋研究所客員教授で日本地震予知学会会長の長尾年恭氏は「直下地震では緊急速報は鳴らない」と警告する。
 「緊急地震速報は、すでに発生した地震の最初の揺れ(初期微動)を捉え、より強い揺れ(主要動)の前に伝えるシステムです。ところが、震源の直上が揺れる直下地震では、地震発生とほぼ同時に強い揺れが襲うため警告が間に合わない」
 不意打ちで震度7の強震が襲えば、机の下に隠れたり、固定していない家具を押さえたりする余裕はない。逃げることができない前提で、対策をシミュレートしておく必要がある。
 図制作/タナカデザイン
 ※週刊ポスト2021年8月20日号」
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🌌29}─1─グリーンランド氷床、気温は20度を超えで大規模融解。~No.121No.122 

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 2021年8月1日 MicrosoftNews AFPBB Newsグリーンランド氷床、熱波で「大規模融解」
 © SAUL LOEB / POOL / AFP グリーンランドの氷河(2021年5月20日撮影)。
【8月1日 AFP】熱波に見舞われたグリーンランドでは、気温がこの時期の平均より10度以上高くなり、氷床では「大規模な融解」が起きている。
 デンマークの研究者らが運営するウェブサイト「ポーラー・ポータル(Polar Portal)」によれば、先月28日以降、グリーンランドを覆う氷床は1日あたり約80億トン融解しており、これは夏の平均ペースの2倍に上る。
 デンマーク気象研究所(DMI)によれば、グリーンランド北部の気温は20度を超え、夏の平均気温の2倍以上となった。
 先月29日にはグリーンランドの大部分が熱波の影響を受け、ポーラー・ポータルは氷床の「大規模な融解」を報告した。溶けた氷の量は「米フロリダ州を深さ約5センチの水が覆う」ほどになるという。
 グリーンランドの氷床は、南極(Antarctica)大陸の氷床の次に大きく、面積は180万平方キロ近くに及ぶ。
 1月に発表された論文によると、グリーンランドの氷床の現在の融解ペースだと、2100年までに海面は10~18センチ上昇するとみられている。これは従来の予測よりも6割速いペースで上昇することになる。
 一方でポーラー・ポータルによれば、グリーンランドの今年の夏は降雪や雨により比較的涼しいスタートを切り、今年これまでに観測された融解の規模は平均の範囲内にとどまっている。融解は6月から9月初旬にかけて発生する。
【翻訳編集】AFPBB News
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🍙54〗─1─『日本 戦争経済史』。昭和60(1975)年に日清戦争の外債償還・借金を完済した。~No.292 @ 

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 軍隊を養うのも、戦争をするのも、全てに金がかかっていた。
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 軍国日本は、金欲しさに、「敗戦国から多額の賠償金を強奪する」目的で対外戦争をした事はない。
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 2021年9月号 Hanada「BOOKS & MAGAZINES
 谷口智彦のこの一冊
 『日本 戦争経済史 戦費、通貨金融政策、国際比較』 小野圭司著
 2016年の5月1日、麻生太郎副総理兼財務大臣は、ロスアンゼルスのザ・ビバリーヒルトンにいた。同ホテルを会場に大物投資家たちが集まる会議に出て、英語で一席ぶった麻生氏は、目を丸くさせるエピソードを紹介した。
 日本は信義を守る国だと説くため麻生氏がもちだしたのは、日露戦争の戦費を得ようと高橋是清英米投資家に売りさばいた外貨建て日本国債をお、英米相手の戦争になっても日本はチャラにしなかった。どころか、戦後だいぶ経つまで営々と償還(支払い)したという話だ。『どうです、安全確実ですからひとつ日本に投資を』というワケだった。
 京都大学で経済学を修め、住友銀行(当時)で8年働いたのち1997年以来防衛省防衛研究所に務める小野圭司氏が、このたび『日本 戦争経済史』という本を出した。これを読むと、麻生氏の話は正真正銘ホントだったのだとつくづくわかる。
 日露戦争の戦費に調達した外債を返し終えたのは、1970年。日清戦争の外債償還にはもっとかかって、 完済したのは1985年だと書いてる。『プラザ合意』で日本が世界最大の債権国に躍り出たその同じ年に、ニッシンセンソウ(!)の借金返済がやっと終わっていたとは。
 本書を労作と呼ばずして、何をそう呼べようかという出来栄えは、たくさん出てくる表のひとつひとつを見れば明らかだ。
 戊辰戦争西南戦争から日清・日露を経て日華事変・太平洋戦争まで。兵隊をどう養い、食わせ、着させたか(ただ歩かせるだけでも兵隊はカネがかかる)。軍艦をどうやって買ったか。数字に正確を期したうえ、それを当時の日本経済・財政の規模や、諸外国のそれと比較しながら論じるために、骨惜しみをしない著者はいくつもの表をつくった。
 たゆまぬ努力の賜物というべき表を眺めつつ思うのは、戦争というもの、軍刀を吊るし参謀肩章(けんしょう)をさげた将校たちすべてが鬼籍(きせき)に入ったあとも、まぁ長く続くものだということだ。借財の後始末は、世代を超え、大蔵省(当時)理財局の吏員(りいん)が背負った。謳(うた)われざるそんな戦士の誰彼は、本書の出現をもって瞑(めい)すべしだ。
 麻生氏あ言うとおり、ごく一部帳簿上の名目的な債務を例外として、日本は、外国から借りたカネも、日本国内でつくった借金も律儀に返した。勝ち戦(いくさ)にも、負け戦にもきちんとけりをつけている。誰をほめたらいいのかわからないが、エライ。
 138ページに、衝撃的な数字がある。日露戦争東郷平八郎が乗った、かの戦艦『三笠』。その値段は、竣工年の一般会計歳出に対し、4.4パーセントに達した。この比率を今日の予算に当てはめると、三笠1隻で、最新鋭イージス艦28隻が買える計算になる。日露戦争へ向けつくったほかの戦艦、装甲巡洋艦の調達合計を同じように今日の財政で比較すると、わが国は『イージス護衛艦300隻超を対露戦に向けて整備したことになる』のだと。
 中国を舞台に日本が演じた通貨の信用をめぐる戦いを、当該分野の先駆者・田多井喜生という人の業績に依(よ)りつつ論じたあたり、もうひとつの読みどころ。比較対象として米国の南北戦争を詳しくみているところも、戦争の『台所事情』は各戸それぞれ苦労だったことを偲(しの)ばせ、意外な共感を抱かせる。
 戦争をカネから眺めると、見える景色はかくも違うものか。」
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日本 戦争経済史 戦費、通貨金融政策、国際比較
太平洋戦争の収支決算報告
日本の戦争財政 (中央大学学術図書)
米国を巡る地政学と戦略 スパイクマンの勢力均衡論
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 明治新政府は、武力で滅ぼした敵の徳川幕府が諸外国につくった他人の借金を自分の借金として、天皇の名誉と日本国の信用の為に、乏しい収入で苦しい財政にも関わらず責任を持って返済を続けた。
 日本が近代化に成功したのは、敵と味方の借金、他人と自分の借金、過去と現代の借金、生者と死者の借金、祖先の借金、公的法的な正当な理由があって返すべき借金は踏み倒さず完済した事である。
 日本民族は神に誓って証文を取り交わした以上、その神聖な約束事を破らない為に、命を犠牲にしても、信義を重んじ、信用を守り、信頼を貫いた。
 つまり、「武士に二言はない」、嘘偽り、詭弁を口に出さない、不誠実な行動を取らないである。
 日本の儒教は「宋襄の仁」であった。
 日本の軍部・軍閥も、正統男系父系天皇の名誉を守る為に同様であった。
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 鎌倉幕府室町幕府は、困窮で借金苦に陥った御家人達や国人侍を救う為に徳政令を発して、高利貸・豪商・豪農等に対して借金を帳消しにした。
 為に、鎌倉幕府室町幕府は度々不当に近い徳政令は出した為に、権力・権威が保証する社会の信用が失われて滅亡した。
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 徳川家康は、幕藩体制を維持る権力・権威は軍事力・武力ではなくへ、貨幣経済における信用であると、武田信玄北条氏康織田信長豊臣秀吉ら先人から学んだ。 
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 徳川幕府は、大名や旗本が高利貸・豪商・豪農に巨額の借金をして四苦八苦しても、救済目的の徳政令を出さず見放し、財政・家計悪化の源となっている参勤交代や天下普請・諸役などの支配統制を緩めなかった。
 そればかりか、大名が財政赤字を重税で解消しようとして百姓一揆が起きれば、失政・悪政を理由にして大名を取り潰し、領地を召し上げ、大名を切腹させるか軟禁として親戚筋か他家に預けて追放した。
 大名は取り潰されない為に、財政赤字を領民(百姓)への安易な重税ではない方法で解消するしかなかった。
 つまり、武士・サムライは生活費に困るほど貧乏で、金に苦労し、金策に走っていた。
 それ故に「武士は食わねど高楊枝」なのである。
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 徳川幕府は、天災で甚大な被害を出した親藩譜代大名に見舞金・復興資金を貸し出したが、外様大名はよほどの理由がない限り無視した。
 外様大名は、公助としての徳川幕府からの手厚い支援を期待せず、共助として血縁の親戚筋同士で助け合い、そして自助で乗り切っていった。
 安政の大地震などの大災害が発生すれば、徳川幕府や諸大名は被災地を速やかに元通りに復興さ、庶民は短期間で元の生活を取り戻した。
 それが、日本の自助努力・自己救済である。
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🌌50}─1─水害から命を守るヒントは縄文時代の貝塚にある。~No.248 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 現代日本人は、縄文人達が住まなかった所に科学技術を駆使して家を建て住み着いて洪水に襲われている。
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 2021年7月28日 MicrosoftNews ダイヤモンド・オンライン「貝塚が示す「大昔の海岸線」水害から身を守るヒント
 宮路秀作
 © ダイヤモンド・オンライン 提供 出典:国土地理院(地図を加工して作成)
 地理とは「地球上の理(ことわり)」である。この指針で現代世界の疑問を解き明かし、6万部を突破した『経済は地理から学べ!』。著者は、代々木ゼミナールで「東大地理」を教える実力派、宮路秀作氏だ。日本地理学会企画専門委員会の委員として、大学教員を中心に創設された「地理学のアウトリーチ研究グループ」にも参加し、精力的に活動している。2022年から高等学校教育で「地理総合」が必修科目となることが決定し、地理にスポットライトが当たっている。本連載は、ビジネスパーソンが地理を学ぶべき理由に切り込んだものである。
 貝塚が示す「水害から身を守るヒント」
 土地の様子を知るとき、「○○には河川が流れて平野となっている」や「××では台地が広がって、ところどころに坂が存在している」といった空間を認識しています。地理学においては、研究対象となる事象が「どのようなところ」に存在しているかを把握することが最も重要です。これはスケールによって捉え方が変わってくるためです。
 例えば、水田分布を捉える場合、25000分の1地形図ではある程度の地形との関係性を把握することができますが、5000分の1地図となれば地形との関係性よりも農業経営という側面が強くなります。そのため、家屋と水田との距離や圃場、農道の整備状況などが詳細に捉えられます。
 微視的(ミクロ)なスケールで研究していくと、地域を構成する要素が多岐にわたって相互に関係を持つことから、これらの要素をすべて研究することが求められます。
 この中から1つだけを取り上げて一面的な研究をするわけにはいきませんので、スケールが微視的になれば、「地理学とは何ぞや!?」といった疑問を抱くことになります。
 空間認識に最適な道具として、我々は日々の生活において地図を活用していますが、地図では「過去」を知ることはできないのでしょうか?
 国土地理院が管理しているWeb地図、「地理院地図」を利用すれば、色々なレイヤーを重ねることで、地域の真実に迫ることができます。
 例えば、標高ごとに自分の好きな色に変更できる「自分で作る色別標高図」という機能を使って、土地の標高の様子を示すことができます。通常の地図では一般の人には把握しづらい、扇状地河岸段丘といった特徴ある地形が一目瞭然となります。
 先日、私は地理院地図を使って、「貝塚」と名の付く地名を検索してみました。貝塚とは、貝類を常食とした先人たちが貝殻などをゴミとして投棄していた場所のことです。
 2013年に文化庁が発表したデータによると、奈良文化財研究所によると、日本全国に存在する遺跡は46万5021ヵ所、そのうち貝塚は3946ヵ所も存在します。特に千葉県の貝塚の数は739ヵ所と全国最大であり、日本で確認されている貝塚のおよそ2割が集中しています。
 貝塚の土壌は、貝殻に多く含まれる炭酸カルシウムの影響もあって、弱アルカリ性の場合が多いといいます。弱アルカリ性土壌からは、マイワシやドジョウといった貝殻以外の生物遺骸がみつかることがあるようです。
 もちろん、貝塚は「当時の海岸線沿い」に多く存在していたはずです。しかし、紙地図では過去の様子を知りうることはできません。そこで、地理院地図において、標高10m未満の場所を黒く塗りつぶしてみました。下図を見てください。
 黒く塗り潰された場所(標高10m未満)にそって、「貝塚」という地名(旗マーク)が集中していることが見てとれます。標高10m未満の場所を、地理院地図で指定されている海と同じ色にしてみたのが以下の図です。
 こちらだと旗が立っている場所(「貝塚」の地名を持つ場所)がわかりにくいので、やはり標高10m未満を黒く塗った方がインパクトは大きいです。
 この図より「当時の海岸線」がどこだったのかが分かります。
 関東地方では、海に面していない栃木県や群馬県、埼玉県などでも貝塚が発見されています。いわゆる海水準変動によって縄文海進がみられたため、内陸部にまで東京湾が広がっていたと考えられます。およそ6000年前を境に海水準の低下が見られ、現在のような形となりました。同時に、利根川や荒川といった河川が平野を作り出したというわけです。
 「海抜ゼロメートル地帯」はどうなっている?
 東京23区を中心とした地図で、「海抜ゼロメートル地帯(0m未満)」を黒く塗ったものが次の地図です。
 これを見ると葛飾区、江戸川区江東区墨田区あたりに海抜ゼロメートル地帯が広がっていることがわかります。江戸川区江東区の「江」とは「入り江」のことであり、葛飾区の「しか」は低い土地を意味しています(諸説あります)。
 墨田区隅田川の左岸に位置しており、同河川との関係性が深い区であり、低湿地に位置しています。そのため、北十間川横十間川、大横川、竪川といった河川は、かつては水運の役割を果たしていました。まさしく墨田区は「水郷」でした。これらの地名は低地ならではものといえます。
 明治時代になると、墨田区は水陸交通の結節点としての「地の利」を活かして工業地域として発展しました。墨田区鐘ヶ淵で創業したことに由来する紡績会社は「鐘紡(カネボウ)」を社名とし、他にも花王アサヒビールセイコーの工場などが立地しました。
 地名はわれわれに色々なことを教えてくれます。そして、地図を使って手軽に情報を入手することができます。地理院地図を使えば、工夫次第で過去の様子をうかがうこともできるかもしれません。そして、住居をどこに構えるかを決める手がかりにもなります。それは自らの命を繋ぐことでもあるのです。
 近年、自然災害が激甚化していると言われることがありますが、日本列島では太古の昔から台風や大雨などは発生していました。もちろん、そこに人が居なければただの気象現象にしかすぎません。つまり、災害が激甚化しやすい場所へと人が誘われているといっても過言ではありません。実際に、水害の多くはハザードマップで示された場所で発生しています。
 まずは「自分の命は自分で守る」といった、防災の意識を強くもつことが大事です。決して他人事ではありません。教育現場では防災教育の充実を図っていく必要があります。
 地名は色々なことを教えてくれます。そしてそれを記した地図を活用し、防災に役立てることもまた、我々にとって必要なことなのです。」
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⚡30】─2─中国の"LNG爆買い"で危険度を高める日本の電力不足。〜No.129 

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 2021年7月23日 MicrosoftNews プレジデントオンライン編集部「「この夏と冬には東電管内で停電リスク」中国の"LNG爆買い"で危険度を高める日本の電力不足
 © PRESIDENT Online 中国北部の河北省唐山市で建設が進む液化天然ガスLNG)貯蔵タンク。2020年5月23日撮影。
 この夏と冬には東電管内で「電力不足」が生じる恐れ
 「梅雨明け以降、猛暑が来たらまたこの年末年始のようになるかもしれない」。電力業界から聞こえていたそうした不安は、この猛暑で現実になりつつある。
 この冬の電力不足は予想外の寒波による電力需要の急増に加え、燃料である液化天然ガスLNG)の輸送がパナマ運河のタンカーの停滞など特殊要因が重なり、電力燃料であるLNGの調達が困難になったことから引き起こされた。
 大手電力は稼働を止めている石炭火力発電所を急遽、再稼働したり、ライバルのガス会社からLNGの「おすそ分け」を受けるなどして急場をしのいだ。
 背に腹を変えられないとして、歴史的な高値を付けたスポット価格でLNGを購入したこともあり、大手電力の業績は軒並み落ち込んだ。
 さらに追い打ちをかけるように、この状況下に菅義偉首相肝入りの「脱炭素」の政策が加わる。
 経済産業省は5月、2021年7~8月と22年1~2月は電力需給が逼迫するとの見通しを明らかにした。夏はここ数年で最も厳しく、冬は東京電力管内で電力不足が生じる恐れがあるという。
 脱炭素政策で石炭火力が相次ぎ撤廃、需給バランスに崩れ
 電力の供給力の余裕度を示す「予備率」は北海道と沖縄を除き、7月に3.7%、8月に3.8%と見込まれている。一般的に予備率は3%が必要とされ、ここ数年では最も厳しい水準となりそうだ。さらに、22年1~2月は東電管内で予備率マイナスを予想している。
 経産省が「電力不足」を警戒するのは、脱炭素政策で環境負荷の高い石炭火力発電所が相次いで撤廃に追い込まれ、需供バランスが一気に崩れているからだ。電力会社の火力発電所は縮小傾向で、電力の安定供給に支障が出やすい状況となっている。
 経済活動の「血流」ともいえる電力が不足しかねないという一大事に、さらに新たな打撃が加わろうとしている。中国の「LNGの爆買い」だ。
 新型コロナウイルス感染拡大から一足早く抜け出した中国は、経済活動の回復から電力需要が高まっている。
 それに加えて、これまで沿岸部が中心だった経済活動の地域が内陸部まで浸透し始め、「国全体の電力需要がワンノッチあがっている」(大手商社幹部)という。
 中国は日本を抜いて世界最大のLNG輸入国になる見通し
 特に、製造業が集積し、中国の国内総生産GDP)の一割を占める南部・広東省では異例の電力不足に見舞われている。その理由は「少雨で水力発電がままならない」とか「石炭の価格上昇で火力発電所の発電が計画通りできない」などと説明されるが、そもそも内陸部の急速な工業化に伴って電力需要が増加している。さらに、脱炭素に向けた国際的な世論もあり、石炭からLNGへのシフトが進みつつあり、LNGの需要はかつてないほど高まっている。
 南部の国有送電会社、中国南方電網管内の1~5月の電力消費は前年同期比23.2%も増えた。全国平均より5.5ポイント高い数値だ。このため、電力当局は5月、電力不足を理由に、産業や企業ごとに供給を調整する方針を発表するなど、中国経済の成長へのボトルネックとなっている。
 内陸部への工業化の進展で不足する電力を賄うためLNGの爆買いを進める中国。調査会社ICISエッジは、今年、中国は日本を抜いて世界最大のLNG輸入国になるとの見通しを示している。
 業界では中国が世界最大のLNG輸入国になるのは2022年以降だと言われていたが、1年前倒しとなるわけだ。同社によると、20年6月から21年5月のLNG輸入量は、中国が7627万トン、日本が7632万トンとなっているが、21年の輸入量は、中国が8120万トンと、日本の7520万トンを上回る見通しだ。
 LNG不足で、新電力の経営破綻は今後も続く
 この「LNGの爆買い」で、日本の卸電力市場の取引価格が再び上昇基調を強めている。
 日本卸電力取引所(JEPX)で毎日取引するスポット価格(24時間平均)は、5月(1~22日)の平均が1キロワット時6.87円。20年5月の月間平均値である4.18円に比べ64%も高くなった。
 スポット価格はこの冬の寒波襲来と発電燃料の不足で1月に150円超まで急騰したが、2~3月は前年同期に近い水準に戻った。しかし、落ち着いたのもつかの間、LNG不足でスポット価格がまた上昇し始めた。
 例年なら、暖房不需要期となる5月は余ったLNGを消費する期間だが、「今年は余剰が少ない。余ったLNGを使ってつくる安値の電気の入札がかなり減っている」(JEPX)。
 電力供給が足りず電力卸価格の上昇がさらに進めば、卸市場から電力を調達する新電力の経営にも大きな打撃になる。
 この冬の電力不足で新電力最大手のFパワーが3月に会社更生法を申請、経営破綻した。負債総額は464億円と21年に入り最大の倒産となった。電力の調達不足を大手電力に肩代わりしてもらう代わりに支払う「インバランス料金」の負担が新電力各社の経営の重荷になっている。「4社のうち1社は支払い猶予を受けている」(業界関係者)といい、新電力の経営破綻は今後も続くとの見通しが強い。
 カタールと日本の電力会社らが結ぶ25年契約が終了
 新電力の淘汰・再編以上に深刻なのが、日本の製造業などへの生産活動にも影響を与えかねない大手電力の経営問題だ。
 大手電力は、政府が進める電力の自由化と脱炭素の「ダブルパンチ」に直面している。大手電力は自由化前までは「総原価方式」で燃料代の上昇分は電気料金に上乗せできたが、自由化後は、新電力の台頭でそれができなくなった。
 またLNGについては、在庫損を防ぐために、その時々の在庫の状況を見ながらスポットで契約する「随時契約」に舵を切っているが、そのスポット価格が中国の爆買いで上昇している。
 中国の「爆買い」によるLNG市場での台頭は、調達国とLNGを供給する産ガス国との関係も変える。
 例えば、2021年末に日本の電力・ガス会社など7社と結んでいる中東・カタールと結んでいる25年間のLNGの供給契約が切れる。カタールは日本のLNG輸入の約1割を担うが日本の電力・ガス会社7社が結んでいる25年間のLNG契約が終了する。
 カタールLNGの供給国として存在感を高めた陰には日本の存在がある。湾岸戦争の翌年の1992年、中部電力が先頭を切って契約を結んだ。当時のカタール湾岸戦争の影響もあり経済が混乱していた。復興のために見出したのがLNGの輸出だ。三井物産などが少数株主として開発の合弁プロジェクトを立ち上げた。
 カタールにしてみれば、中国になびくのは自然
 カタールにとって日本は湾岸戦争からの復興をサポートしてくれた「恩人」ともいえる存在で、長く両国の関係は良好だった。しかし、そこに中国が割り込むことになる。
 この冬に東アジアを襲った寒波は中国にも波及し、カタールなどにも調達の手を広げた。一方、日本はLNGの調達先を分散するために中東依存を減らす動きを強めており、カタールが望む長期契約に揺らぎが生じている。「足りなくなった時に一時的にカタールに発注するスポット契約が多くなってきた」(大手商社)。
 そんななか、3月に入り、カタール国営石油会社は合弁会社に参画している米エクソンモービル三井物産、丸紅などの出資を22年1月に解消すると発表した。LNGで生計を立てているカタールにとって、安定的に大量のLNGを買ってくれる「お得意様」を優先するのは理にかなった話だ。日本は米国やインドネシア、ロシアなど最近になってLNGのプロジェクトを立ち上げている。日本が相対的にカタールとの取引の比重を下げているとすれば、カタールが今や日本を凌駕する購買力を持つ中国になびくのは自然だ。
 日本にとってまだLNGは電力燃料として必要だが、脱炭素の流れを受けて太陽光や洋上風力など再生エネルギーに置き換えようとしている。カタール以外からの調達先の確保も急いでいる。大手電力各社は「足りなくなった時にスポットでカタールからLNGを調達すればいい」と考えている節があるが、カタールにしてみれば「そんな都合よく売れない」ということになる。
 新電力も加えた業界は「総倒れ」の状況に
 LNG火力が厳しいなか、日本の大手電力にとって最後のよりどころは原発だ。関西電力美浜原発福井県)が運転開始から40年を超える原発として初の再稼働にこぎつけた、「結局、日本の脱炭素のカードは原発しかないのか」との批判の声は多い。
 不完全な自由化のなかで推し進めようとした脱炭素の大号令で、新電力も加えた業界は「総倒れ」の状況に直面しつつある。中国のLNG爆買いで、LNGの調達価格はあがり、それが日本の電気料金の上昇に跳ね返ってくるのも時間の問題だ。電気料金が上昇すれば、自動車や電機業界など製造業は競争力を維持するためにも生産拠点を海外に移さざるを得なくなる。その動きがさらに日本国内の電力需要を弱め、電力会社の経営を悪化するという悪循環を引き起こす。
 LNG化石燃料であるため、脱炭素の世界的な潮流の中で依存度を減らす必要があるのは事実だ。しかし、偏西風が恒常的に吹き、安定した風力発電ができる欧州とは地理的条件が違うため、すぐに再生エネルギーにシフトすることは日本にとって現実的ではない。
 「地球環境保護」を全面的に掲げ、自国に有利に働くように政策誘導をする欧州に対して、「日本の国情をもっと対外的に説明すべきだ」との声は政府内にもある。しかし、原発や再エネをどういう形でつなぎながら中長期的に脱炭素に向けてエネルギー戦略を練り上げていくかという議論は、東電の福島第一原発事故以降、政府は本格的な議論を避けてきた。中国が日本に代わり、LNGの輸入大国になれば、エネルギーの安定調達が不安定になり、日本の産業を支える安価で安定的な電力供給の課題がまた一つ増えることになる。」
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🍠12〗─1─東北地方の近代化は鬼県令・三島通庸の権力横暴で成功した。~No.39 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2021年7月29日号 週刊新潮「極みの館は残った
 極みの付加価値
 稲葉なおと大和ハウス工業総合技術研究所
 明治初期の政府が政府が掲げた政策、殖産興業。その要となるのは、道路など土木施設の整備だった。
 元薩摩藩士・三島通庸は1874(明治7)年、酒田県令として赴任、8年の間、鶴岡、山形の県令を歴任した。山形のように山岳に囲まれた地域で産業を興すには、道路を開削し新道を開通、運輸の便を良くし、人の往来して民力を養うことが最優先の急務とした。
 転任した福島、栃木でも同様だ。新道開削や石橋架橋、トンネルを含む土木史上にも残る難工事を次々と完成させた、やがて『土木県令』と呼ばれるようになる。
 鬼か、神か
 未開発で豊かな資源が眠る東北地方と東京を結ぶ。大久保利通らの意向に沿って開発を進めたが、政府からの補助金では工事費がまかなえず、15歳から60歳まで男女全員に労務を強いた。反対する者には弾圧さえ辞さなかったことから三島はもうひとつ異名を持つことになる。鬼県令──。
 では、鬼が開発に乗り出す前と後では、道は、町は、どう変化を遂げたのか。世界的旅行作家イザベラ・バードが1878(明治11)年につぶさに書き残した紀行文を読んでみる。
 まず三島が県令として転任する前の福島の描写。
 『ぬかるみの連続になってしまっているうえに、(中略)馬に乗って通った道でこんなにひどい道はこれまでなかった。よくも道などと言えるものである!』
 当時の人びとの生活ぶりも知ると情景が浮かぶ。
 『人びとは木を燃やす煙で黒く煤(すす)けた小屋に鶏や犬や馬と一緒に群がるように住まい、堆肥(たいひ)の山からは液体が井戸に流れ込み、男の子たちはすっ裸だった。(中略)女の子たちも上半身は裸で、腰から下に身につけている腰巻も非常に汚く(後略)』
 それが山県県に入ると景色が様変わりする。
 『驚くことに遭遇した。地図では脇道となっているのに、実際には幅が25フィート(7.6メートル)の道だったのである。両側には側溝があり、道に沿って電信柱が続いていた。突然降って湧いた新世界だった』
 人びとの姿も一変した。
 『何マイルにもわたって道は、よい身なりの歩行者や人力車や駄馬や荷馬車でいっぱいだった』
 さらに、
 『山形県は非常に繁栄し、進歩的であり、前途有望という印象を受ける。(中略)人口が多く、耕作が行き届き、幅の広い道の交通量は大変多く、豊かで文明開化しているように見えた』
 初代県令に三島が就いてわずか2年後の様子である。道路だけでなく新時代を感じさせる建築も次ぎつぎと完成していたことが窺える。
 『県庁や裁判庁と言われる裁判所(コートハウス)、師範学校とその附属の上級学校、警察署の建物のすべてが立派な道路や明らかに繁栄している街の様子とよく調和している』
 鬼と呼ばれた三島だが、開墾と農場経営を実現させた栃木県の那須には『土木建設・道の神』三島を祀った三島神社が創建されている。山形の戸沢村にある草薙神社においても、三島の功績を讃えられ、三島大明神として合祀される。 
 鬼と恐れられた男は一方で、開発により恩恵を受けた人びとの神となったのだ。
 神は許しただろうか
 三島は1882(明治15)年、福島県令に転任。その2年後の11月、前任地・山形県では新たな公共建築が竣工する。鶴岡警察署庁舎だ。木造2階建てで屋根上に塔屋がのる擬洋風建築。設計と施工を任されたのは、西田川郡役所なども手掛けた大工・高橋兼吉。
 塔にしても壁面装飾にしても『取って付けたような感』があり、ツッコミどころ満載の楽しい擬洋風建築に共通した印象と私は思っていた。だがこの建築においては当てはまらない。『城』を思わせるどっしりとして和の中に、洋の要素を巧く融和させているのだ。
 洗練された設計に私は見とれつつ、ふと思う。洋の建築で街づくりを押し進め神なった男がもしもまだ山形の県令であったら、また異なる意匠になったのではないか、と。」
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 江戸時代の東北地方は、人口が少なく貧困な未開地で、異常気象の冷夏が起きると凶作となり飢餓が発生し大量の餓死者が出た。
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 徳川幕府は、戦争を繰り返し豊で発達・発展・進歩した高度な社会ではなく、貧しく不便だが平和を選んだ。
 地方で、貧しさ故に少女・女性が女郎・遊女に売られる悲劇は平和の代償であった。
 日本と西洋の違いはここにあった。
 戦争をして豊かな西洋での売春婦は、強欲的資本主義で、資本家・上流階級に搾取される貧困の労働者・下層階級から生み出されていた。
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 幕末・明治維新明治新政府の人材と現代日本の人材との間には、才能・能力において雲泥の差がある。
 つまり、幕末・明治維新明治新政府の人材は現代日本でも役に立つが、現代日本の人材は幕末・明治維新明治新政府では役に立たない。
 それは、2020年から2021年にかけての新型コロナ対応が三流国並みに酷い状況である事が証明している。
 現代日本で、徳川慶喜をはじめとして徳川幕府の幕閣、幹部達を批判し笑う資格がある者は誰もいない。
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小説 三島通庸「百年後に知己をまつ」 (みやざき文庫104)
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 YAHOO!JAPANニュース
 近代東京を作った立役者「三島通庸」はかつて渋沢栄一を殺そうとしていた
 5/31(月) 6:11配信
 「一橋家臣編」で広がった渋沢の行動範囲
 2021年のNHK大河ドラマ『青天を衝け』のウェブサイト(画像:NHK
 渋沢栄一を主人公とするNHK大河ドラマ「青天を衝け」は、5月2日放送回までは埼玉県を舞台とする血洗島・青春編でした。5月9日放送回からは、一橋家臣編が始まっています。
 【事前にチェック】大河ドラマ館がオープンした「北区・飛鳥山
 血洗島・青春編と一橋家臣編で違いは多々ありますが、なによりも大きく違っているのが渋沢の行動範囲です。渋沢家は藍玉の生産・販売を手がけていたこともあり、上州や信州などに藍葉を買い付けに行き、江戸へと販売に出掛けることは珍しくありませんでした。そのため、通常の農民と比べても行動範囲は広いといえます。
 しかし、血洗島・青春編は渋沢の生家を中心に物語が展開したこともあり、舞台の中心は武蔵国でした。対して、一橋家臣編では草なぎ剛さん演じる一橋慶喜に仕え、慶喜が朝廷との交渉窓口となっていたことから渋沢も京都に滞在しました。そのため、京都を中心にストーリーが展開されています。
 幕末期、幕府が置かれた江戸は大都市として発展を遂げていました。一方、大坂も商人の町として経済的に発展し、江戸と比肩するほどのにぎわいを見せていました。
 大坂は京都が近いという立地的な面からも重要視され、薩摩藩土佐藩、中津藩などが屋敷地を構えていました。土佐出身の岩崎弥太郎、中津藩出身の福沢諭吉も幕末期に大坂で生活を送っています。
 『青天を衝け』でも、西郷隆盛大久保利通といった明治維新で活躍する重要人物が多く大坂に滞在している様子が描かれています。作中では、あまり目立つように描かれ方はされていませんが、松村龍之介さんが演じる三島通庸(みちつね)は明治以降の東京をつくった立役者でもあります。
 渋沢は薩摩藩の動向を探るべく大坂に潜り込んでスパイ活動をするわけですが、当時の薩摩藩と一橋家は意見の相違から非常に険悪な間柄にありました。そのため、三島は大久保と謀って渋沢を亡き者にしようと機会をうかがっていた時期がありした。しかし、明治新政府が発足すると両者の関係は好転していきます。
 銀座大火後に始まった銀座煉瓦街の建設
 1872(明治5)年、江戸城の和田倉門から出火。火の手は見る見るうちに銀座を焼き尽くしました。銀座大火と呼ばれる火事は、発足したばかりの明治新政府には大打撃となります。
 長州藩出身で明治新政府の首脳だった井上馨は、銀座の再建策として街を西洋風のレンガ造りにすることを発案。井上主導で銀座煉瓦(れんが)街の建設が始まりましたが、このプロジェクトを現場で取り仕切ったのが渋沢と三島でした。
 大火によって焼失した街の再建という名目で銀座煉瓦街をつくるわけですから、家屋には第一に不燃化が求められました。
 それまでの銀座は木造家屋が並んでいましたが、大通りに面した区画は木造家屋を禁止。木造家屋に代わって、見た目も華やかなレンガ造りが立ち並んできます。
 大通りに面した商店が次々とレンガ造りになったことで、銀座は文明開化の象徴のような街になりました。レンガ造りの建物を目にしたことがある人たちは少なく、ゆえに物珍しさも手伝って銀座は多くの買い物客でにぎわうようになります。
 山形の地に増えた擬洋風建築
 銀座煉瓦街のプロジェクトを終えた三島は、1874年に酒田県令を命じられます。酒田県は鶴岡県を経て1876年に山形県に統合されますが、三島は県令時代に西洋風の建物を山形で多く建てました。
 西洋の文明が入るようになってきたとはいえ、鶴岡は東京や開港場の横浜・神戸と比べると外国との接点が少なく、山形には西洋風の建物はありませんでした。
 三島は県令という立場から強権的に西洋風の建物をつくることを命じます。しかし、命じられた大工・職人は西洋建築をつくった経験がないこともあり、手探りで西洋風建築に取り掛かります。
 そのため、外観は西洋風ながら純粋には西洋風といえない建築物があちこちに誕生。これらの時期に建設された西洋風の建築物は、後世の建築史家から擬洋風建築と呼ばれます。
 1876年に山形県令に就いた三島は、山形市内でも引き続き擬洋風建築をつくろうとします。三島の政策を建築技師として支えたのが同じ薩摩藩出身の原口祐之でした。
 三島は強権的だったこともあり、現地の人たちから反発を買うことも少なくありませんでした。原口は地元民との間に入り、彼らの気持ちをくむことにも心を砕きました。折衝役としても優れていいた原口ですが、技師としての才能も一流でした。
 警視総監として東京に戻った三島
 原口は三島から西洋風の病院を建てるように命じられると、横浜にあったイギリスの海軍病院を視察。その経験をもとにして、原口は現代から見ても斬新的なドーナツ型の病院を設計したのです。
 原口が設計した旧済生館病院本館は、ドーナツ型の病院は八角形と十六角形を組み合わせた3層構造のドーナツ型になっていました。そんな奇妙な形状になったのは、横浜のイギリス病院を参考にしたからです。
 横浜に建てられたイギリスの海軍病院は、敵の砲撃から守る目的があったことから全方位を見渡すことができるドーナツ型になったようです。
 原口はそのままトレースしたわけですが、ユニークな構造から旧済生館病院本館は長らく山形市民に愛される存在でした。
 三島は山形で西洋風建築を多く建てた後、その手腕が評価されて福島県令、栃木県令に任命されます。栃木県令時代には、農作業に不向きとされていた那須野が原の開拓を率先的に手がけました。荒野を農地へと替える試みは、日本の国力増強にもつながる政策でした。
 先見の明があった三島の那須野が原開拓は、明治新政府の首脳の心も動かし、西郷従道山県有朋松方正義などが続々と那須野が原に農場を開設していくことになりました。
 1885(明治18)年、三島は警視総監として東京に戻ってきます。しかし、その後は病に倒れてしまい、警視総監在任中の1888年に没しました。享年54歳でした。
 三島の長男である彌太郎は第8代日本銀行総裁を務め、5男の弥彦は日本初のオリンピック選手として活躍し、その様子は2019年の大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」でも描かれています。小川裕夫(フリーランスライター)」
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 三島 通庸(1835年6月26日(天保6年6月1日) - 1888年明治21年)10月23日)は、日本の武士(薩摩藩士)、明治時代の内務官僚。栄典は正三位勲二等子爵。通称は弥兵衛。林太郎、千木とも。
 県令時代は、反対派を押し切り強力に土木工事を進める手法から「土木県令」や「鬼県令」の異名で呼ばれた。
 生涯
 薩摩藩士時代
 薩摩藩士・三島通純と秀(旧姓・池上)の長男として、薩摩国鹿児島郡武村(現在の鹿児島市上之園町)に生まれる。幼名弥兵衛。3歳下の弟に伝之丞、妹ぬい、がいる。三島家は藩の御能方で金春流の鼓指南役を勤め石高は50石弱であった。上之園郷中に属し、小野道場で示現流とともに薬丸自顕流の剣術を習得した。なお、小野道場には三歳年上の海江田信義がいた。また、伊地知正治から兵学を学んだ。
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 朝日日本歴史人物事典「三島通庸」の解説
 三島通庸
 没年:明治21.10.23(1888)
 生年:天保6.6.1(1835.6.26)
 明治時代の官僚。林太郎,弥兵衛,千木とも。薩摩(鹿児島)藩士三島通純,秀の子。家は代々御能方鼓役を勤め,幕末の石高は50石弱。急進的な尊攘派で,文久2(1862)年寺田屋騒動に連座,謹慎。その後長州征討,戊辰戦争に参加した。その間,藩内の寺院整理や廃仏にかかわり,また山陵取り調べを命じられる。維新後は藩の会計奉行,都城地頭を務めた。明治4(1871)年東京府に出仕,権参事として銀座煉瓦街の建設を進めた。5年教部大丞となり,神道に基礎を置く国民教化を展開し,木戸孝允,島地黙雷らと対立した。7年12月酒田県令に転出,以後17年11月内務省土木局長に転じるまで,鶴岡,山形,福島,栃木の各県令を歴任。その間栗子隧道,会津三方道路などの大土木工事を推進し,東北地方の産業育成に努めて「土木県令」の異名をとった。その強引なやり方は住民の反発を招き,「鬼県令」とも称され,特に会津道路建設では自由党員や県議会と対立して,福島事件(1882)の原因を作った。18年12月警視総監に就任,20年12月保安条例が施行されると民権運動の活動家570人を東京から追放した。19年7月臨時建築局副総裁を兼任,上州遷都を建議している。当時鹿鳴館で開催された仮装パーティー後醍醐天皇に忠誠を尽くした南朝の武将児島高徳に扮したのは,いかにも彼らしい。<参考文献>平田元吉『三島通庸』,佐藤国男『三島通庸伝』,国立国会図書館編『三島通庸関係文書』,阪谷芳直『三代の系譜』
(新井登志雄)
 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
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 三島 通庸(1835-1888)
 近代的な道路開発や洋風建築を導入し、「土木県令」と称された初代山形県
 三島通庸[みしまみちつね]は、天保6年(1835)、 鹿児島に生まれました。戊辰戦争では、薩摩藩士として東北各地を転戦します。明治7年、内務卿大久保利通により酒田県令に任命、鶴岡県令を経て、明治9年に統一山形県の初代県令となりました。
 通庸は、道路開発による産業育成と東北振興を目指して、関山新道・上山新道など県内の道路整備を推し進めますが、中でも有名なのは山形県福島県をつなぐ栗子隧道[ずいどう](トンネル)の開削を伴った万世大路の整備です。隧道開削は当時世界最先端の削岩機を導入し、近代土木技術の粋[すい]を集めた大工事であり、完成した隧道は当時日本最長を誇りました。また、山形県庁・済生館をはじめ、近代的な洋風建築を次々と建築しました。これらの功績から通庸は「土木県令」と称されています。
山形県の近代化に大きく貢献し、「鬼県令」と呼ばれた官僚・政治家
 山形県三島通庸は、明治14年明治天皇東北巡幸の際、自ら県内を案内します。天皇山形県を離れる最後の日には万世大路の開通式を盛大に催しました。また、県庁近くに製糸場・水力機織場などを建設して蚕糸[さんし]業を奨励し、済生館(山形県立病院)にはお雇い外国人医師ローレッツを招聘[しょうへい]して医学教育に力を入れるなど、山形県の近代化に大きく貢献しました。
 山形県令から福島県令に転任すると、自由党員が多数を占める県議会と激しく対立し、自由民権運動を弾圧したため(福島事件)、「鬼県令」と呼ばれます。その後、栃木県令・内務省土木局長・警視総監などの要職を歴任し、54歳で亡くなりました。墓地は東京都港区の青山霊園にあります。
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 山形県の近代化産業遺産群
 特集「三島通庸山形県三島通庸が関わった山形の近代化産業遺産
 平成20年度に経済産業省が認定した「近代化産業遺産群 続33」では、山形県で26の産業遺産が認定れた。これらの産業遺産のうち、山形県の初代県令である三島通庸が行った事業が約半数を占める。
 この特集では、これらの産業遺産について、三島通庸との関わりを紹介する。
 初代山形県令、三島通庸
 三島通庸は、1835年(天保6)薩摩藩の下級武士の長男として生まれる。幕末は精忠組の一員として、寺田屋騒動に連座するなど尊王倒幕運動に参加。戊辰戦争が起こると西郷隆盛に取り立てられ、武器弾薬や兵糧の輸送を受け持ち、補給部隊として活躍する。
 戊辰戦争後は、鹿児島都城の地頭に任命され地域振興の事業を行うが、この功績が内務卿・大久保利通に認められ、明治4年東京府参事として新政府に出仕することになる。
東京府参事では東京銀座煉瓦街建設など、都市改造計画の行政側の実質責任者として活躍する。これらの経験は、後の山形県令時代の事業を達成するのに大きく役立った。
 東京府参事から教部省の教部大丞を経て、明治7年に酒田県令として赴任し、明治9年に初代山形県令となる。
 三島通庸が山形で過ごしたのは、明治7年から明治15年までの7年間である。この7年間で、山形県庁舎を中心とした都市整備事業や地方郡役所の建築、新道開削や石橋架橋の道路整備事業など、多くの実績を残し山形県の振興に尽力した。
 山形県政に対する志
 三島通庸山形県令に就任する際に、内務卿・大久保利通に県政運営の抱負を次のように述べている。
(1)道路を開き、運輸の便利を良くし、民力を養い、県民の目を広く外の世界へ開かせること。
(2)学校をつくり、人材養成に努めること。
(3)勧業、なかんづく製糸器械場を設け、博物館を開いて実物による教育を施すこと。
(4)病院を設立し、県民の健康維持を図るとともに、医学教育もおこなうこと。
(5)警察署とその分署を設置するなど、治安機構の確立を図ること。
(6)河川を改修し、これを運輸の動脈として利用促進すること。
(7)酒田港の改修をおこなうこと。
(幕内満雄著「評伝三島通庸」より)
 これらの方針により、各地で新道開削、道路整備、擬洋風建築の建設などが行われた。
いくつかの建築物は、火事や時代の流れの中で消失してしまったが、多くが今なお遺産として残っている。
 三島通庸が残した産業遺産
 三島通庸が残した産業遺産の中で「近代化産業遺産群 続33」に認定された遺産を、その内容ごとに分類して紹介する。
 山形県庁舎を中心とする新市街地の建設
 三島通庸は、山形県庁舎を中心とする新市街地の建設を行い、市民に明治の新しい時代の到来を示した。
 山形県庁舎を中心として都市計画道路を南側にまっすぐに伸ばし、道路の東側は警察署・師範学校・南山学校、西側には警察本署・南村山郡役所・勧業博物館・製糸場、少し離れて済生館など、県の主要な官署や施設が集中して作られた。
 これらの建物は、当時は珍しい西洋風の建築で、市民たちはこれらの出現に驚き、また文明開化の到来を感じて新しい県政に期待を抱いた。
 古くからの城下町は、三島通庸により近代的都市へと変貌を遂げ、人々に新しい国家の始まりを認識させた。
 多くの建物は明治44年山形市北大火で焼失してしまい、当時の建物として現在残っているのは、旧済生館本館と旧山形師範学校本館のみである。(現在の旧山形師範学校本館は明治34年山形市緑町に新築移転したもの。)
 地方郡役所などの建築(擬洋風建築の建設)
 山形県庁舎の新市街地の他にも、多くの各地方の郡役所には西洋風の建築(擬洋風建築)が建てられている。
 三島通庸が初めて赴任したのが酒田県であったが、当時の庄内地方は士族の反政府運動が盛んな所で、農民の暴動「ワッパ騒動」などもあり、統治が難しい地域であった。この難しい地域を治めるためには、強力な統治能力とともに、目に見える形での「新時代への期待」が必要であった。
 城下に突如として建てられた西洋風の建物は、当時の人々を驚かせるとともに、新しい時代への期待を起こさせる狙いがあった。
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 三島通庸が残した土木遺産
 山形県の近代化産業遺産群 三島通庸が残した土木遺産
 山形の近代化産業遺産には、随道(トンネル)やアーチ型石橋など、多くの土木遺産が含まれる。これらは初代県令・三島通庸が残したもので、隣接県を結ぶ道路や県内の基幹道路など、道路交通網の整備を行ったものである。
お問い合わせ
 産業労働部商工産業政策課 
 住所:〒990-8570 山形市松波二丁目8番1号
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 日本が世界的一等国の近代国家になれたのは、諸大名地方分権連合制徳川幕府を倒し近代天皇制中央集権国家(非宗教の近代的軍国主義国家)に構造変化に成功したからである。
 そして、「ロシアの侵略から日本を強力な軍隊をつくって守らねばならない」という差し迫った深刻な脅威が原動力となっていた。
 近代的軍隊を作る(富国強兵)のに必要なのが殖産興業と近代教育で、殖産興業の必要なのが国土開発であった。
 国土を開発する為には、地元の抵抗勢力を公権力を行使して潰さねばならなかった。
 民意圧殺の為に利用したのが、誰も反抗できない神の血を引く国家元首にして大元帥
天皇であった。
 すべては、ロシアに対して積極的自衛戦争つまり大陸侵略戦争ができる軍事国家に大改造する事であった。
 ロシアに味方して日本の生存の道に立ちはだかり妨害したのが、清国(中国)と朝鮮であった。
 これは、幕末、水戸藩からの「攘夷」であった。
 吉田松陰は、夷狄(ロシア)から日本を守る為に中国と朝鮮を討ち滅ぼし占領する事を主張した。
 そして起きたのが、日清戦争日露戦争である。
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 明治新政府が、国内、地方の殖産興業と近代教育による開発の必要性を痛感させられたのは戊辰戦争とくに会津戦争であった。
 江戸時代、財政赤字に苦しんでいた諸藩が行った収入増の藩政改革は、領内・地元の経済的発展ではなく、あくまでも藩財政の立て直しで、その為に領民の生活は必ずしも豊かにはならなかった。
 その結果、藩祖保科正之など多くの名君が統治してきたはずの会津でさえ、貧しかった領民は藩主松平容保を助ける事なく逃げた。
 何故、領民が「藩主・君主を見捨てたのか?」それは、利益に貪欲な領民にとって藩主・君主が金蔓ではなかったからである。
 藩主・君主が領民に守って貰うには、藩主・君主が領民にとって利益をもたらす存在である必要があった。
 日本国がロシアの侵略から守るには、少数の武士・軍隊だけではなく、多数の国民・領民を総動員する必要があった。
 日本を見捨て天皇をロシアに売って利益を得て日本国を滅ぼすような不忠国民をつくらない事が、急務であった。
 その意味で、天皇を国家と国民に利益をもたらす唯一の存在とする必要があった。
 その目的で、天皇を意識した近代教育・愛国教育が行われた。
 全ては、ロシアの侵略から日本を守る為であった。
 明治新政府は、国民一人一人の権利よりも国家の生存を優先し、人気取りの為に物分かりが良く民意に媚び諂う事なく、むしろ公権力を横暴に行使して理不尽な犠牲を国民に強い、国が始めた他国との戦争で命を奪った。
 大正期から、日本への侵略者はロシアからソ連・国際的共産主義勢力にかわった。
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 戦国時代は、悲惨で、酷たらしい地獄であった。
 武士・サムライが、百姓を嫌い差別し「生かさず殺さず」の支配を続けたのには理由があり、戦国の気風が残っていた江戸時代初期に斬り捨て御免が横行していたには理由があった。
 日本は、誰も助けてくれないブラック社会であった。
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 日本の庶民(百姓や町人)は、中華や西洋など世界の民衆・大衆・人民・市民とは違って、油断も隙もない、あさましく、えげつなく、おぞましく人間であった。
 町人は、戦場を見渡せる安全な高台や川の反対岸などの陣取って、酒や弁当を持ち込み遊女らを侍(はべ)らせて宴会を開き、合戦を観戦して楽しんだ。
 町人にとって、合戦・戦争は刺激的な娯楽で、武士・サムライが意地を賭けた喧嘩・殺し合いは止める必要のない楽しみであった。
 百姓は、合戦が終われば戦場に群がり、死者を弔う名目で死者の身包みを剥ぎ裸にして大きな穴に放り込んで埋め、奪った武器・武具・衣服などを商人に売って現金化し、勝った側で負傷した武士は助けて送り届けて褒美を貰い、負けた側の負傷した武士は殺し或いは逃げた武士は落ち武者狩りで殺し大将首なら勝った側に届けて褒美を貰った。
 百姓にとって、合戦は田畑を荒らされ農作物を奪われる人災であったが、同時に戦場荒らしや落ち武者狩りでなどで大金を稼ぐ美味しい副業であった。
 合戦に狩り出された庶民は、足軽・雑兵以下の小者・人夫・下男として陣地造りの作事を強要されるが、合戦が始まれば主君を見捨てて我先に一目散に逃げ、勝ち戦となれば勝者の当然の権利として「乱取り」を行い、敵地で金目の品物を略奪し、逃げ遅れた女子供を捉えて人買い商人に奴隷として売った。
 百姓や町人らの合戦見物・戦場荒らしは死者への敬意や死体の尊厳を無視するだけに、古代ローマ時代の剣闘士が殺し合うコロセウムより酷かった。
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 武将は、足軽・雑兵、小者・人夫・下男による乱取りを黙認していた。
 乱取りで捕まった女子供は、各地の奴隷市で日本人商人に買われ、日本人商人は宣教師を通じて白人キリスト教徒の奴隷商人に売って金儲けをしていた。
 中世キリスト教会と白人キリスト教徒奴隷商人は、奴隷として買った日本人を世界中に輸出して金儲けしていた。
 日本人奴隷を生み出していたのは、乱取りを行った百姓達であった。
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 現代日本人は、潔くカッコイイ武士・サムライの子孫ではなく、乱取りをし日本人を奴隷として売って大金を稼いでいた庶民の子孫である。
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