🍠23〗─1─大正桜島噴火と日本軍部の救護活動。大正3(1914)年。~No.69 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 19世紀頃までの世界常識として、天災で被災した国民を救済するのは国家・政府ではなくキリスト教会とボランティア団体であった。
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 報告書(1914 桜島噴火)
 災害教訓の継承に関する専門調査会報告書
 1914 桜島噴火
 報告書の概要
 はじめに
 桜島大正噴火はわが国が20世紀に経験した最大の火山災害である。しかも火口から10km圏内に鹿児島市という大都市を控えているという点が世界的に見ても特異な点であった。
 第1章 桜島の火山としての特徴と噴火の推移
桜島火山の地形と地質
 鹿児島地溝という張力場に北から加久(かく)藤(とう)・姶良(あいら)・阿多(あた)の巨大カルデラが線状に並んでいる。桜島姶良カルデラが入戸火砕流を噴出した約2.9万年前の活動後約3,000年を経て、約2.6万年前に後カルデラ火山として姶良カルデラの南縁に誕生した。北岳・南岳の2つの成層火山が重なった構造をしており、前者は輝石デイサイト(SiO2=65〜64wt%)であるが、後者はSiO2=64〜60%とSiO2がやや乏しくなる傾向がある。最近は専ら南岳が活動を続けている。
②歴史時代の大規模噴火
 歴史時代の活動としては天平(てんぴょう)宝(ほう)字(じ)(764)・文明(ぶんめい)(1471)・安永(あんえい)(1779)・大正(1914)などが知られている。天平宝字噴火は鍋山の水蒸気マグマ噴火の後、溶岩を流出させた。文明噴火は歴史時代で最も大規模なプリニー式噴火であり、膨大な軽石のため、北岳の地形が一変したほどであった。桜島の東北東と南西に溶岩を流出させている。安永噴火もまた割れ目噴火で、プリニー式噴火・火砕流発生の後、北東と南に溶岩を流出させた。更にその後、海底噴火があり、安永諸島と呼ばれる新島が出現した。大正噴火については後述する。
③大正噴火以降の噴火活動
 大正噴火後、小規模な爆発や火砕流噴出等はあったものの静寂を保っていた桜島は、戦後間もない1946年、南岳の山腹昭和火口から溶岩を流出、鍋山に遮られて二手に分かれ東方および南方に流れて、集落を埋めてしまった。この昭和噴火はプリニー式噴火を伴わないため、大噴火に入れないのが一般である。その後、1955年南岳山頂で突如爆発が発生、その後、消長を繰り返しながらも現在まで噴煙を上げ続けている。2006年からは昭和火口に活動の中心が移った。
 第2章 大正噴火の経過と災害
①噴火等の経過
 1913年真幸(まさき)地震・日置地震霧島山噴火など南九州一帯は地学的に活動的な時期にあった。その中で桜島島内でも井戸の水位低下や有感地震などの前兆現象があり、一部住民は自主避難し始めた。1月12日10時5分西山腹で、同15分には東山腹で激しい噴火を開始した。13日20時14分西山腹で火砕流が発生して西桜島の集落は焼失した。21時頃から溶岩流出に転じ、15日夕刻には海岸線に達した。この西山腹からの溶岩流は烏島を埋め、概ね2ヶ月で終息したが、東山腹からの溶岩流は瀬戸海峡を埋め、1月末頃大隅半島に達し、翌1915年春まで断続的に続いた。
なお、この間、村役場当局は測候所に噴火の有無を問い合わせたが、「桜島に噴火無し」との返答だった。大部分の住民は安永噴火の教訓に従い自主的に避難したが、測候所の言を信用した一部知識階級は居残り、逃げ遅れる事態を招いた。島民の犠牲者は30名であった。
 一方、12日18時20分、マグニチュード7.1の地震が錦江(きんこう)湾内で発生、被害は鹿児島市および周辺部に集中した。これにより動揺して、津波や毒ガス襲来のデマが飛び交い、一時市内は無人状態になったという。
②噴出物による被災
 流出した溶岩流は約30億トンとも言われ、桜島の1/3の面積を覆い尽くした。噴出した軽石や火山灰も大量で、折からの偏西風に乗り、主として大隅半島方面を厚く覆った。垂水市牛根付近では1mにも達したという。当然、農林水産業に多大な損害を与えたし、交通にも支障を来した。農業に与えた影響については、軽石・火山灰の量や粒度に応じ、また作物の品種に応じて、さまざまであった。なお、海上に漂っている軽石は船舶の航行を妨げ、救出の障害となった。
③土砂災害
 桜島島内は当然であるが、高隈山系にも大量の降灰があったので、植生が破壊され、山地が荒廃したから、ここを源流とする河川では7・8年も土石流や水害が繰り返された。この土砂災害による犠牲者の延べ数は火山災害を上回っている。
地震災害
 1月12日夕刻の地震は、鹿児島市付近では震度6の烈震であり、九州全域で有感であった。人的被害は29名であったが、建物被害は市街地、とくに江戸時代の埋立地に集中した。シラス崖の崩壊も発生、避難中の住民が巻き込まれて9名亡くなっている。鉄道も重富〜鹿児島間の姶良カルデラ壁で土砂災害が発生、不通となった。電話線や電力線も切断された上、郵便局や新聞社も被災したため、通信や広報に支障を来した。
 第3章 救済・復旧・復興の状況
①避難・救済
 当時、自主防災組織などなかったが、強固な地縁社会が健在だったから、湾岸周辺市町村の青年会・婦人会・在郷軍人会などが救助船を出したり、炊き出しをしたりするなど、救助・救済に当たった。当時の島民は半農半漁だったから、漁船が多数あったのも幸いした。測候所の言を信じていた県庁・郡役所・鹿児島市役所・警察も、噴火発生と同時に、迅速な救援活動を展開、避難所も設置された。陸海軍も救助艇を出したり、無人になった市内の警備に当たったりと大活躍をした。赤十字社鹿児島支部や医師会も救護所を設置した。商工会議所等財界も救援金を支出した。東北九州災害救済会はじめ、全国的な義援金も集められた。海外からも義援金が寄せられた。なお、長期にわたる不衛生な状態での避難生活のためか、赤痢や腸チフスのような伝染病が避難先で発生、直接の災害犠牲者以上の死者を出している。
②復旧・復興
 道路・河川などは応急の復旧工事が直ちに行われたが、河川災害は上述のように長く続いた。降灰に覆われた農地は天地返しはじめ、その厚さに応じた復旧工事が行われた。農商務省農事試験場では酸性化した土壌の中和法や酸性に強い品種栽培の奨励など懇切な指導を行った。
 噴火が収まり帰島したのは半数ほどであったが、島内だけでなく降灰のひどかった大隅半島も同様、農地復旧、家屋・学校の再建など苦難の連続であった。当初は土木工事の手間賃などの収入にも頼った。国庫補助金国税調整費)や義援金などにより、かなり手厚い援助がされたようである。
③移住
 溶岩に埋まって土地を失った者や降灰が厚くて耕作不能なところの住民は移住を余儀なくされた。結局、指定移住地1,001戸、任意移住地2,071戸、総計約2万人が移住した。後者は縁故を頼ったものだが、前者は県が割り当てた地域である。国は国有林を県に無償供与し、県が移住者に貸与する方式を採った。開拓終了後10年経過したら土地所有権を譲渡するとされた。指定移住地は大隅半島南部・宮崎県霧島山麓・朝鮮全羅道などである。移住者には罹災救助基金から移住費・農機具費・種苗費・家具費・小屋掛費・食料費など、かなり手厚い補助が出たようである。僻地には尋常小学校が3校新設された。
 第4章 総括と教訓
①火山噴火予知観測
 大正噴火時に鹿児島測候所にあったのは旧式のミルン式地震計1台だけであった。噴火後東京帝大大森房吉教授が急遽、最新式の大森式地震計を設置、自ら観測を行って貴重な記録を残した。現在では、気象庁・大学・国土地理院国交省・鹿児島県等による精緻な観測網が張り巡らされ、桜島の火山活動モデルも確立しており、当時と違って何らかの事前情報を出すことは可能な体制になっている。
②将来に備えての防災対策
 現在では火山ハザードマップや防災マップも公表され、総合防災訓練も噴火記念日の1月12日に毎年実施されている。しかし、海底噴火や山体崩壊など、全く新たな現象に対する対応が十分というわけではない。観測によれば、マグマは大正時の8割方回復しているという。大規模噴火に対する警戒を怠ってはならない。
 大正噴火時には広範囲にわたって同時多発的に土砂災害・水害が頻発した。現在、河川系ごとに砂防ダムを建設するなどの個別対策は実施されているが、大量降灰や地震も念頭に置いたハードソフト両面での広域対応策を考えておく必要があろう。
 降灰や軽石は当時の主要産業である農林水産業に壊滅的な損害を与えた。しかし現在では、当時なかった大規模畜産業や養殖漁業なども出現し、農林水産業を取り巻く環境は激変した。大規模化集中化に対応した農林水産業被害のシミュレーションが必要であろう。
大正噴火時には家財だけでなく土地まで失って移住せざるを得なくなった人たちも多数出た。科学技術が進歩した現代にあっても、土地を失う危険性は存在する。また一過性の地震災害と違って、火山災害は長期化する場合が多い。生活再建に対する支援について、法的整備も含めて常日頃から考えておく必要があろう。また、災害時要援護者の増加に対する対策も必要である。
 おわりに
 近年のわが国における火山災害は、いずれも局地的な災害であり、桜島大正噴火のような広域の降灰被害は経験していない。土砂災害のような二次災害にしても、広域同時多発災害は経験していない。しかし、浅間山天明噴火や富士山の宝永噴火では同じような災害があった。桜島大正噴火は来るべき関東圏の災害の良いモデルケースとなろう。火山災害における低頻度大規模災害の貴重な事例として教訓を活かして欲しいと希望する。
 災害も100年もすると風化してしまい、資料も散逸していた。一次資料を蓄積しておく制度も考えておいてもらいたいものである。
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 過去の災害に学ぶ 35
 1914年1月 桜島大正噴火 その1
 桜島大正噴火は、二十世紀わが国が経験した最大の火山災害。
 当時、休火山と思われ安心していたところに突然の大噴火、地震も伴い、大混乱に陥った。
 溶岩や分厚い火山灰・軽石に覆われたところでは、住民が故郷を捨てて移住せざるをえなかった。
 今回は噴火の概要と土石流など二次災害を含む災害実態について述べ、次回は避難と移住・復興について述べる。
 岩松暉(鹿児島大学地域防災教育研究センター特任教授)
 桜島大正噴火の経過と災害
 桜島大正噴火は、明治末期から大正初期にかけて、日置地震(1913年)や霧島御鉢噴火(1913年)など、南九州一帯で地震や噴火が相継ぎ、地学的な活動期に発生した。
現在も2011年1月霧島山新燃岳が300年ぶりに噴火し、また、同年12月奄美近海地震が発生、徳之島では震度4であった。2012年桜島昭和火口の爆発回数は観測記録を更新しつつある。
 1914年1月12日の桜島大正噴火の様子 (鹿児島県立博物館 所蔵)
 桜島のマグマは大正噴火時の9割がた回復しているという。時あたかも2014年には大正噴火百周年を迎える。また、東北地方太平洋沖地震で日本列島の力のバランスが崩れ、南海トラフの連動型超巨大地震や富士山噴火などが取り沙汰されている。二十世紀最大の火山噴火であった桜島大正噴火の事例を知っておくことは今後の教訓として役立つだろう。
 1914年正月前後、桜島周辺では井戸水の水位低下、温泉湧出、頻繁な有感地震など、さまざまな前兆現象が起きていた。島民は異常現象に不安を募らせ自主避難を始めたが、鹿児島測候所は「桜島に噴火の恐れなし」と言い続けた。しかし、1月12日午前10時過ぎ、西山腹の引ノ平から、その約10分後東山腹の鍋山上方から噴火が始まった。轟音を伴いながら猛烈な黒煙を噴き上げて全島を覆い、その高さは数千mにも達した。同日午後6時半にマグニチュード7.1の直下型地震も発生、激しい噴火活動は約1日半続き、13日午後8時過ぎには溶岩を流出し始めた。西山腹から流出した溶岩は15日には海岸線に到達、やがて沖合約500mにあった烏島を埋没してしまった。東山腹から流出した溶岩は瀬戸海峡を埋め尽くし、1月末頃には大隅半島と陸続きになった。西山腹の活動は約2ヶ月で終息したが、東山腹の活動は翌年の春まで続いた。また、噴火に伴い、姶良カルデラを中心に地盤の沈降も発生、鹿児島湾奥部では数十cmも地盤沈下し、塩田や干拓地が水没する被害も出した。
 大隅半島と接続する寸前の大正溶岩(宮原景豊 撮影) (鹿児島県立博物館 所蔵)
 桜島大正噴火は溶岩流出が大変有名だが、降灰量も莫大で、西風に乗って広く大隅半島を覆い、遠くはカムチャツカまで火山灰が到達したという。噴出した火山灰・軽石・溶岩の総量は約2立方kmと見積もられているが、これは雲仙普賢岳噴火の約10倍、富士山貞観噴火と宝永噴火を合わせた量にほぼ匹敵する。降灰の厚さも牛根村(現垂水市)付近では1mにも達しており、大隅半島最高峰の高隅山で数十cm積もったことから、植生は破壊され、山地は荒廃、ここを源流とする河川では、その後十年近く土石流や洪水などに悩まされた。
 当時、桜島島内の人口は3,100戸、約2万1,300人だったが、大部分自主避難していたため、島民の死者・行方不明者数は30名にとどまった。そのうち、火山噴出物による直接の被害者は数名で、多くは対岸まで泳ごうとして冬の海で溺死した人たちである。一方、対岸の鹿児島市(当時の人口約7万3,000人)方面では噴火の被害はなかったが、地震で29名の犠牲者を出した。その中には避難途中、がけ崩れによって亡くなった人9名が含まれている。石塀や家屋の倒壊による犠牲者も多い。
 物的被害も甚大だった。多くの集落が溶岩に呑み込まれたり、厚い降灰に覆われたりして、次回述べるように移住せざるを得なくなった。もちろん、溶岩や熱い噴石によって焼失した家屋もある。桜島島内全戸数の実に62%が被災している。島内だけでなく、厚い降灰に覆われた牛根村や百引村(現鹿屋市)の人たちも含め、罹災者数は約2万人にのぼる。降灰に覆われたところに2月、3月と無情の雨が降り注ぎ、土石流が頻発、田畑を埋め、家屋を押し流した。この土石流のため避難先で亡くなった子供が3人いる。降灰が谷筋を埋めて河床が上がり水害も頻発した。堤防や堰を改修しては壊され、賽の河原の繰り返しだったという。当時の基幹産業だった農業に対する影響は致命的で、主要作物である麦・茶・タバコ・桑(養蚕)などは大打撃を受けた。移住まで至らなかったところでも、軽石層を下に埋め込み耕土を表面に出す「天地返し」を行わざるを得なかった。また、遠方では火山灰層の厚さは薄くても、粒子が細かいため、水で湿るとモルタル状になって、植物の根が入らず生長を阻害したという。
 ライフライン災害もあった。地震で鉄道は不通になり、土石流で橋も流された。電信電話も局舎の倒壊や、降灰による碍子の漏電などで不通となった。新聞社社屋も損壊、情報が途絶えてデマが蔓延する原因にもなった。
 また、長期にわたる不衛生な避難生活と水源の汚染により赤痢・腸チフスなど伝染病が蔓延、その死者数は火山・地震災害や土砂災害の犠牲者数を上回る。
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 産経新聞
 日本列島災害実録
 桜島大正噴火(上)噴石が降り注ぐ中、海岸から救助を求める千人の村民 助けるやいなや森林が燃え上がり…
 2016/1/24 13:00
 【日本列島災害実録】桜島大正噴火(上)噴石が降り注ぐ中、海岸から救助を求める千人の村民 助けるやいなや森林が燃え上がり…
 鹿児島市のシンボルでもある桜島は、昨年は火山性地震が頻発し、警戒レベルが一時4(避難準備)に上げられるなど、活動を繰り返す火山だ。死者多数の大規模噴火も最近は数百年おきに起きている。中でも約100年前の大正3(1914)年に起きた噴火は、20世紀の国内最大規模とされる火山災害だった。東側の大隅半島と陸続きとなり「島」ではなくなったのも、この時に噴き出した溶岩、土砂が原因だ。大正3年当時の新聞で、世紀の大噴火を振り返る。
 「鹿児島市民人心恟恟たり」
 「桜島の大爆発 鹿児島市民人心恟恟(きょうきょう)たり 全市警戒の大警報出づ!!」。大正3年1月13日付の新聞「時事新報」の見だしだ。
 12日午前10時過ぎ、大音響とともに最初の大爆発が起きた。対岸の鹿児島市からは、桜島の形も分からないほどの噴煙が立ちこめたとある。
 現在は5000人ほどしか居住していないが、当時の人口は約2万1000人。島の黒神、有村、古里などの村落のほか、頂上付近にも小さな温泉場があり、特に同島東部の瀬戸と呼ばれる地区からの風景はすばらしく、さながら油絵のようだったという。
 午後5時には北東に50キロ離れた霧島火山も爆発し、周囲一面がねずみ色の世界に化した。「南九州 火と灰に覆わる」-。14日付では、あたかも南九州一帯が火の海になったかのように活字が躍っている。
 桜島爆発の報を受け、鹿児島市の警察署長らが蒸気船「鶴丸」で桜島に向かう途中の海で両手を挙げて「早く救助を」と声を上げる避難民が次々現れた。救助しながら鶴丸が鹿児島側の袴腰(はかまごし=桜島港)の目前に着くと、噴火はさらに勢いを増し、「百雷の落つるがごとき大鳴動」とともに黒煙と溶岩が吹上げた。
 山林は火災を起こし、渦巻く黒煙は白煙と混ざって一帯を包む。蒸気船も最初は、まっすぐ袴腰を目指したが、黒煙に包まれ、雨のように降る灰で危険なため、若干北方の沿岸に帰着。同地点に仮泊し、随行させた団平船(だんぺいぶね=土砂や石炭などを積む平らな船)2隻に、蓑(みの)や菰(こも)、毛布、手拭いなどを振り回して救助を求める数百の老若男女を乗船させたが、病人を背負った避難民が多く、泣きわめく声もすさまじい。海岸一帯は馬が走り回り、よくみると小池や赤水など周囲の海岸も助けを求める人にあふれていた。
 鶴丸一行は、この事態に対応するにはできるだけ早く、鹿児島港からたくさんの船を出すことが必要だと判断。鹿児島港に戻って最初に交渉した2500トンの日運丸こそ、ボイラーに火がないことを理由に拒絶されたが、10時半、水上警察署前に着船し、商船学校の「錦丸」をはじめとする多数の船舶の手配を取り付けていった。
 停泊船から見た一部始終
 安永8(1779)年以来、135年ぶりの大噴火の始まりである。なお、14日付の紙面には、爆発当時、鹿児島港に入港し、救助にも参加した「第2太沽(ターク)丸」の乗員の話が掲載されている。
 同船は11日午後4時ごろに鹿児島に入港し、12日夕方に出発、13日に午前11時に長崎港に到着している。
 入港した11日当時は、地震も頻発して鹿児島市の人たちも恐れおののいていたが、避難するまでには至っていなかった。地震動は12日午前2時ごろまでに140~150回を数え、午前8時ごろには桜島の中部から煙が上がるのも見えた。そして10時過ぎ、轟然とした音響とともに横山村・黒髪村の山腹から火柱が立ち上がり、鹿児島からも石が落下する様子がありありと目撃できた。悽愴(せいそう)の気が刻々と迫り、12時過ぎに同船は警察部から避難者救助のため出港を求められたため、11時半ごろまでに準備を整え、警官、消防夫、赤十字社員らが乗り組み、全部で6隻がはしけ(小舟)を用意して桜島に向かった。
 海岸一帯は船影なし、沖に泳ぎだしておぼれる人も
 近づくと、すでに桜島の海岸には人の山が築かれているが、船は1隻もない。手製のイカダや板にすがったり、中には沖に泳ぎだしておぼれる人などいてその惨状は目も当てられない。船の目的地の有村、脇村、湯ノ村の方面は、焼け石や灰が混ざって降り、目を開くこともできず、船の甲板上にも降下することしきりなし。救助を終えて船は午後3時半ごろ、引き上げしようとしたが、牛馬が海岸でさまよいながら奇声を放って凄惨(せいさん)な状況だった。そして、浜辺に積み重なっていた砂糖の搾りかすに火が付き、さらに森林に燃え広がってみるみる一面火の海と化し、その様子は船から見るとあたかも火の塊が海に浮かんでいるようだったとする。
 午後4時半ごろ、各汽船は鹿児島桟橋に帰着し、このとき合計で約1000人が救助された。13日午前2時ごろに津波が来るという噂が出始めたため、鹿児島市民はさらに恐れ、続々と市内から避難し始めた。鹿児島市側の海岸一帯は12日夕刻になると、すでに人影はなくなり、救護隊の姿だけとなった。多くは、西郷隆盛像のある城山方面に逃げたようだ。
 午後6時半ごろ、噴火の爆音がいくらか小さくなったと思うやいなや、非常な爆音と大震動があり、鹿児島の電灯は一瞬で光りを失い、海岸の人家は倒れ、人や家畜も倒れるのを見た。記録では、午後6時29分、桜島の南西沖を震源とするマグニチュード7・1の大地震が発生している。この地震による死者・行方不明者は29人で、桜島での噴火による死者25人を上回っている。
 この地震を受け、第2太沽丸は荷客の取り入れもせず、錨(いかり)を抜いた。風はほとんど吹いていなかったが、降灰でもうもうとしていて進路を定めるのも難しいなか、かろうじて危険区域を離れることができた。桜島の火炎は船が、薩摩川内市の西方約50キロの甑島(こしきじま)沖を通過するころまでは見ることができたという。大火柱はまさに地獄絵図のようだった。(原田成樹)」
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 桜島は、日本の九州南部、鹿児島県の鹿児島湾(錦江湾)にある東西約12km、南北約10 km、周囲約55 km、面積約77km2[1]の火山。かつては島であったが、1914年(大正3年)の噴火により、鹿児島市の対岸の大隅半島と陸続きになった。
 桜島火山は姶良カルデラの南縁付近に位置しており,このカルデラの2.9万年前の巨大噴火の3千年ほど後に誕生した。日本の火山の中では比較的新しい火山である。桜島火山は有史以来頻繁に繰り返してきた。噴火の記録も多く、現在もなお活発な活動を続けている。海の中にそびえるその山容は特に異彩を放っており、鹿児島のシンボルの一つとされ、観光地としても知られている。2007年に日本の地質百選に選定された。国際火山学及び地球内部化学協会が指定する防災十年火山の一つだった。
 また、火山噴火予知連絡会によって火山防災のために監視・観測体制の充実等の必要がある火山に選定されている。
 大正大噴火
 火山  桜島
 年月日 1914年1月12日 - 4月
 噴火様式 プリニー式噴火
 火山爆発指数 4
 影響 死者58、傷者112、焼失家屋2,268
 プロジェクト:地球科学、プロジェクト:災害
 桜島の埋没鳥居。黒神集落のこの鳥居は、1914年噴火で上部をわずかに残し噴石や火山灰に埋もれてしまった(約2m)
 1914年(大正3年)1月12日に噴火が始まり、その後約1か月間にわたって頻繁に爆発が繰り返され多量の溶岩が流出した。一連の噴火によって死者58名を出した。流出した溶岩の体積は約1.5 km3、溶岩に覆われた面積は約9.2 km2、溶岩流は桜島の西側および南東側の海上に伸び、それまで海峡(距離最大400m、最深部100m)で隔てられていた桜島大隅半島とが陸続きになった。
 また、火山灰は九州から東北地方に及ぶ各地で観測され、軽石等を含む降下物の体積は約0.6 km3、溶岩を含めた噴出物総量は約2 km3(約32億トン、東京ドーム約1,600個分)に達した。噴火によって桜島の地盤が最大約1.5 m沈降したことが噴火後の水準点測量によって確認された。この現象は桜島北側の海上を中心とした同心円状に広がっており、この中心部の直下、深さ約10 kmの地中にマグマが蓄積されていたことを示している。
 定量的な観測に基づく噴火前後の地震調査原簿などの資料は東京の中央気象台に集められていたが、1923年関東大震災で焼失して残っていない。噴火活動の経過などは各地の気象台や測候所に残っていた資料を元に行われたため、精度に欠ける部分があるとされている。
 噴火の前兆
 1913年(大正2年)6月29日から30日にかけて中伊集院村(現・日置市)を震源として発生した弱い地震が最初の前兆現象であった。11月9日16時以降、桜島島内では数回の有感地震を感じていたとされる。また、同年12月下旬には井戸水の水位が変化したり、火山ガスによる中毒が原因と考えられる死者が出たりするなどの異変が発生した。12月24日には桜島東側海域の生け簀で魚やエビの大量死があり、海水温が上昇しているという指摘もあった。
 翌1914年(大正3年)1月に入ると桜島東北部で地面の温度が上昇し、冬期にも拘わらずヘビ、カエル、トカゲなどが活動している様子が目撃されている。1月10日には鹿児島市付近を震源とする弱い地震が発生し、翌日の11日にかけて弱い地震が頻発するようになった。噴火開始まで微小地震が400回以上、弱震が33回観測されている。
 1月11日には山頂付近で岩石の崩落に伴う地鳴りが多発し、山腹において薄い白煙が立ちのぼる様子も観察されている。また、海岸の至る所で温水や冷水が湧き出たり、海岸近くの温泉で臭気を発する泥水が湧いたりする現象も報告されている。噴火開始当日の1月12日午前8時から10時にかけて、桜島中腹からキノコ雲状の白煙が沸き出す様子が目撃されている。
 噴火の経過
 1914年(大正3年)1月12日午前10時5分、桜島西側中腹から黒い噴煙が上がり、その約5分後、大音響と共に大噴火が始まった。
 約10分後には桜島南東側中腹からも噴火が始まった。間もなく噴煙は上空3,000 m以上に達し、岩石が高さ約1,000 mまで吹き上げられた。午後になると噴煙は上空10,000 m以上に達し桜島全体が黒雲に覆われた。大音響や空振を伴い断続的に爆発が繰り返された。午後6時30分には噴火に伴うマグニチュード7.1の強い地震が発生し、対岸の鹿児島市内でも石垣や家屋が倒壊するなどの被害があった。
 詳細は「桜島地震」を参照
 1月13日午前1時頃、爆発はピークに達した。噴出した高温の火山弾によって島内各所で火災が発生し、大量の噴石が島内及び海上に降下し、大量の火山灰が風下の大隅半島などに降り積もった。午後5時40分に噴火口から火焔が上っている様子が観察され、午後8時14分には火口から火柱が立ち火砕流が発生し、桜島西北部にあった小池、赤生原、武の各集落がこの火砕流によって全焼した。午後8時30分に火口から溶岩が流出していることが確認された。桜島南東側の火口からも溶岩が流出した。
 当時島であった、大日本帝國陸軍陸地測量部の地図(測量1902年)国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成
 1月15日、赤水と横山の集落が、桜島西側を流下した溶岩に覆われた。この溶岩流は1月16日には海岸に達し、1月18日には当時海上にあった烏島が溶岩に包囲された。一方、桜島南東側の火口から流下した溶岩も海岸に達し、噴火前には72 mもの深さがあった瀬戸海峡も埋め立てられていき、1月29日、桜島大隅半島と陸続きになった。このとき瀬戸海峡付近の海水温は49℃に達した。溶岩の進行は2月上旬に停止したが、2月中旬には桜島東側の鍋山付近に新たな火口が形成され、溶岩が流出した。1915年(大正4年)3月、有村付近に達した溶岩の末端部において、2次溶岩の流出があった。
 噴火活動は1916年(大正5年)にほぼ終息した。この噴火によって直径400 mのほぼ円形の大正火口が残された。
 避難の状況
 噴火の前兆となる現象が頻発し始めた1月10日夜から、住民の間で不安が広がり、地元の行政関係者が鹿児島測候所(現・鹿児島地方気象台)に問い合わせたところ、地震については震源が吉野付近(鹿児島市北部)であり、白煙については単なる雲であるとし、桜島には異変がなく避難の必要はないとの回答であった。
 それでも1月11日になると、避難を始める住民が出始めた。桜島東部の黒神、瀬戸、脇の各集落では地域の青年会が中心となり、女性・子供・老人を優先に、牛根村、垂水村(現・垂水市)方面への避難が進められた。また、桜島北部の西道、松浦においても、青年会が中心となり、鹿児島湾北部の重富村(現・姶良市)、加治木町(現・姶良市)、福山村(現・霧島市)方面への避難が進められた。
 一方、鹿児島市街地に近い桜島西部の横山周辺は、測候所の見解を信頼する者が多かったため避難が遅れ、1月12日午前の噴火開始直後から海岸部各所に避難しようとする住民が殺到し大混乱となった。
 桜島東側の瀬戸海峡は海面に浮かんだ軽石の層が厚さ1 m以上にもなり、船による避難は困難を極めた。対岸の鹿児島市は、鹿児島湾内に停泊していた船舶を緊急に徴用して救護船としたが間に合わず、東桜島村では、混乱によって海岸から転落する者や、泳いで対岸に渡ろうとして凍死したり溺死したりする者が相次いだ。この教訓から、鹿児島市立東桜島小学校にある桜島爆発記念碑には「住民は理論を信頼せず、異変を見つけたら、未然に避難の用意をすることが肝要である」との記述が残されており、「科学不信の碑」とも呼ばれている。
 桜島対岸の鹿児島市内においては1月12日夕刻の地震発生以降、津波襲来や毒ガス発生の流言が広がり、市外へ避難しようとする人々が続出した。鹿児島駅や武駅(現・鹿児島中央駅)には避難を急ぐ人々が集まり騒然となった。市内の混乱は1月17日頃まで続いた。
 救援活動
 噴火後の救援活動としては、大日本帝国海軍は、佐世保港に本拠を置く佐世保鎮守府から遭難者救助のために艦艇4隻を派遣。援護隊、防火隊及び通信隊が上陸して救援活動を行った。大日本帝国陸軍鹿児島郡伊敷村(現在の鹿児島市伊敷地域)に連隊本部を置く歩兵第45連隊及び、宮崎県都城市に連隊本部を置く歩兵第64連隊が鹿児島市内の警備にあたった。また、歩兵第45連隊の衛生兵による救援隊が編成されたほか、営門及び練兵場での炊き出しも行われた。また、鹿児島県は鹿児島湾内に停泊していた船舶を徴発して救援活動を実施し、鹿児島市に避難民を収容する活動を行った。
 対岸の薩摩半島にある自治体の対応としては、鹿児島市では皷川町、住吉町、西千石町、下荒田町に炊出所を設置し、興正寺、不断光院、東西本願寺別院及び鹿児島市内の小学校に避難民を収容した。また、鹿児島郡吉野村、西武田村、中郡宇村、伊敷村の各村では青年会や婦人会を動員し、炊出しを行った。また、鹿児島市や谷山町、西武田村、伊敷村に隣接し、武駅から川内線(のちの鹿児島本線)の隣駅である饅頭石駅(のちの上伊集院駅)が所在する上伊集院村(のちの松元町)には桜島地震以後、さらに鹿児島市街地から避難した避難民が饅頭石駅に集結し、青年団及び婦人会を動員し饅頭石駅で炊出しを行ったほか、約2,158名に対して各民家を収容所として依託救護を実施した。
 また、日本赤十字社及び鹿児島県関連組織が行った募金活動では、2,528円55銭が集まり、鹿児島県が被災者に対して分配を行った。また、天皇からの御内帑金15万円の外、日本国内の各府県、当時日本領であった朝鮮、台湾及び満州国などでは新聞社を中心として義援金の募金活動が行われた。これらは桜島のほか、牛根村、百引村、市成村、垂水村、高隈村、西志布志村、恒吉村、月野村の被災者に交付された。
 噴火の影響・被害
 噴火によって降り積もった火山灰は、火砕流に襲われた赤生原付近や風下にあたった黒神大隅半島の一部で最大1.5 m以上、桜島の他の地域でも、30センチメートル (cm) 以上の深さに達した。
 桜島島内の多くの農地が被害を受け、ミカン、ビワ、モモ、麦、大根などの農作物は、ほぼ全滅した。耕作が困難となった農地も多く、噴火以前は2万人以上であった島民の約3分の2が島外へ移住した。移住先は種子島大隅半島、宮崎県を中心とした日本各地に移住した。また、溶岩流によって東桜島村の有村、脇、瀬戸及び西桜島村の横山、小池、赤水の各集落が埋没した。西桜島村の横山に所在していた西桜島村役場はこの溶岩流により埋没したため、仮の役場を西道に置き後に藤野へ移転した。
 災害復興のために、桜島鹿児島市街地を結ぶ定期航路を望む声が上がり、1934年(昭和9年)11月19日に当時の西桜島村が村営定期船の運航を開始した。その後の桜島フェリーである。
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桜島大噴火記念碑
桜島爆発の日―大正3年の記憶
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 日本文化とは、明るく穏やかな光に包まれた命の讃歌と暗い沈黙の闇に覆われた死の鎮魂であった。
 キリシタンが肌感覚で感じ怖れた「日本の湿気濃厚な底なし沼感覚」とは、そういう事である。
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 日本の文化として生まれたのが、想い・観察・詩作を極める和歌・短歌、俳句・川柳、狂歌・戯歌、今様歌などである。
 日本民族の伝統文化の特性は、換骨奪胎(かんこつだったい)ではなく接木変異(つぎきへんい)である。
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 御立尚資「ある禅僧の方のところに伺(うかが)ったとき、座って心を無にするなどという難しいことではなく、まず周囲の音と匂いに意識を向け、自分もその一部だと感じたうえで、裸足で苔のうえを歩けばいいといわれました。私も黙って前後左右上下に意識を向けながら、しばらく足を動かしてみたんです。これがびっくりするほど心地よい。身体にも心にも、そして情報が溢(あふ)れている頭にも、です」
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 日本の建て前。日本列島には、花鳥風月プラス虫の音、苔と良い菌、水辺の藻による1/f揺らぎとマイナス・イオンが満ち満ちて、虫の音、獣の鳴き声、風の音、海や川などの水の音、草木の音などの微細な音が絶える事がなかった。
 そこには、生もあれば死もあり、古い世代の死は新たな世代への生として甦る。
 自然における死は、再生であり、新生であり、蘇り、生き変わりで、永遠の命の源であった。
 日本列島の自然には、花が咲き、葉が茂り、実を結び、枯れて散る、そして新たな芽を付ける、という永遠に続く四季があった。
 幸いをもたらす、和魂、御霊、善き神、福の神などが至る所に満ちあふれていた。
 日本民族の日本文明・日本文化、日本国語、日本宗教(崇拝宗教)は、この中から生まれた。
 日本は、極楽・天国であり、神の国であり、仏の国であった。
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 日本の自然、山河・平野を覆う四季折々の美の移ろいは、言葉以上に心を癒や力がある。
 日本民族の心に染み込むのは、悪い言霊に毒された百万言の美辞麗句・長編系詩よりもよき言霊の短詩系一句と花弁一枚である。
 日本民族とは、花弁に涙を流す人の事である。
 日本民族の「情緒的情感的な文系的現実思考」はここで洗練された。
 死への恐怖。
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 日本の本音。日本列島の裏の顔は、雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが同時多発的に頻発する複合災害多発地帯であった。
 日本民族は、弥生の大乱から現代に至るまで、数多の原因による、いさかい、小競り合い、合戦、戦争から争乱、内乱、内戦、暴動、騒乱、殺人事件まで数え切れないほどの殺し合いを繰り返してきた。
 日本は、煉獄もしくは地獄で、不幸に死んだ日本人は数百万人あるいは千数百万人にのぼる。
 災いをもたらす、荒魂、怨霊、悪い神、疫病神、死神が日本を支配していた。
 地獄の様な日本の災害において、哲学、思想、主義主張そして信仰宗教(普遍宗教)は無力であった。
 日本民族の「理論的合理的な理系論理思考」はここで鍛えられた。
 生への渇望。
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 日本の自然は、人智を越えた不条理が支配し、それは冒してはならない神々の領域であり、冒せば神罰があたる怖ろしい神聖な神域った。
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 現代の日本人は、歴史力・伝統力・文化力・宗教力がなく、古い歴史を教訓として学ぶ事がない。
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 日本を襲う高さ15メートル以上の巨大津波に、哲学、思想、主義主張(イデオロギー)そして信仰宗教は無力で役に立たない。
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 助かった日本人は、家族や知人が死んだのに自分だけ助かった事に罪悪感を抱き生きる事に自責の念で悶え苦しむ、そして、他人を助ける為に一緒に死んだ家族を思う時、生き残る為に他人を捨てても逃げてくれていればと想う。
 自分は自分、他人は他人、自分は他人の為ではなく自分の為の生きるべき、と日本人は考えている。
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 日本で中国や朝鮮など世界の様に災害後に暴動や強奪が起きないのか、移民などによって敵意を持った多様性が濃い多民族国家ではなく、日本民族としての同一性・単一性が強いからである。
 日本人は災害が起きれば、敵味方関係なく、貧富に関係なく、身分・家柄、階級・階層に関係なく、助け合い、水や食べ物などを争って奪い合わず平等・公平に分け合った。
 日本の災害は、異質・異種ではなく同質・同種でしか乗り越えられず、必然として異化ではなく同化に向かう。
 日本において、朝鮮と中国は同化しづらい異質・異種であった。
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 日本民族の感情は、韓国人・朝鮮人の情緒や中国人の感情とは違い、大災厄を共に生きる仲間意識による相手への思いやりと「持ちつ持たれつのお互いさま・相身互(あいみたが)い」に根差している。
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