🦋12〗─1─海自護衛艦「たかなみ」は園児135人を救助した。東日本大震災。~No.52 

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 2024年3月12日 YAHOO!JAPANニュース 読売新聞「「たすけてくれ ありがとう」園児から海自護衛艦に手紙…135人救助が艦の「誇り」
 震災当時の記憶を若い乗組員に伝える「たかなみ」の西川艦長(海上自衛隊横須賀基地で)
 © 読売新聞
 13年前の東日本大震災発生直後、海上自衛隊護衛艦「たかなみ」(基準排水量4650トン)は神奈川県横須賀市横須賀基地から宮城県石巻湾へ急行し、幼稚園児ら135人を救助した。ただ、今では世代交代も進んで当時を知る乗組員はいない。艦長の西川瑠美2等海佐(43)は「万一の災害時は被災者のために、強い使命感を持ってほしい」と震災時の任務、記憶や教訓の伝承に力を入れる。(光尾豊)
 「たすけてくれ ありがとう しごとがんばってね」
 フェルトペンでメッセージが書かれた色紙や卒園式の写真が、たかなみの艦内に大切に保管されている。当時、石巻みづほ第二幼稚園(廃園)の園児が贈ってくれた感謝の証しは、艦の「誇り」でもある。昨春から年末までは多くの乗組員の目に留まるようにと、食堂に置かれていた。
 震災発生翌日の2011年3月12日午前、たかなみの乗組員がゴムボートで沿岸を捜索中、津波に襲われて孤立した園舎で助けを求める園児11人と教職員、保護者13人の計24人を発見した。屋上で一夜を過ごした園児らは、お遊戯会で使った赤色のサンタクロースの帽子をかぶって体を震わせていたが、艦内で昼食を取って風呂で温まると、安心して眠りについた。
 西川艦長は当時、補給艦「おうみ」の乗組員として長崎県佐世保基地から東北沖に派遣され、到着直後は海上を漂う遺体の収容を担った。その後、避難所に届ける物資をヘリコプターに積んだり、小型艦艇に燃料を補給したりする任務に就いた。
 東京電力福島第一原発の爆発事故後は、原子炉への注水などを担う「オペレーションアクア」への参加を命じられ、原発から20キロほどの沖合で、水の運搬船へ給水する任務もこなした。
 放射能漏れの影響が不明とあって、下船を命じられた10人の女性乗組員は「納得できない」と上司に強く申し出て、参加を認められたという。「信頼する仲間と一緒に立ち向かう心境は平時から変わらない。覚悟を決める貴重な経験ともなった」と振り返る。
 東日本大震災の教訓や経験は、自衛隊内でも共有されている。能登半島地震では海上からの物資輸送などに生かされた。
 西川艦長は後に続く若い乗組員に「災害がなくなることはない。派遣の度にノウハウはアップデートされる。自衛官としてのやりがいも感じてほしい」と語りかけている。
 ■海上自衛隊東日本大震災の発生当時、横須賀地方総監の高嶋博視海将を指揮官とし、それぞれ艦艇60隻、航空機100機、隊員延べ1万6000人ほどを派遣し、人命救助や遺体の収容、救援物資輸送、入浴支援などの任務にあたった。
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 現代日本の政治家や官僚の中で自衛隊を有効に活用できる者は少なく、ましてやエセ保守やリベラル左派などの有象無象では猫に小判・豚に真珠である。
 つまり、靖国神社の心を正しく理解できない政治的エリートや進歩的インテリでは無理である。
 その意味でも、正統保守ではなかったが、最適任者は安倍晋三元総理であった。
 エセ保守とリベラル左派である政治的エリートや進歩的インテリは、被災地で自衛隊に助けられても、恩人である自衛隊に感謝もしないし恩義も感じず、助かったその瞬間から「自衛隊はいらない」と反対を叫び出す。それが反自衛隊・反安保の護憲派の正体である。
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 反自衛隊・反安保の護憲派メディアや教育は、自衛隊アメリカ軍による被災地での救助・救援・救護活動をなかった事として無視するか、子供達に教えても印象を薄めすぐに忘れてしまうように別の話題に切り換えてしまう。 
 つまり、不都合な事実を消し去り、自分が見たいつまらないモノだけを見る。

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 3月3日 YAHOO!JAPANニュース Yahoo!ニュース オリジナル 特集「難航した救援 能登地震発生から2カ月、自衛隊が果たした役割は――派遣を担当する参事官が明かす #知り続ける
 防衛省統合幕僚監部田中登参事官
 1月1日に発生した能登半島地震は特殊な地勢に加え、道路が破損し土砂崩れで寸断が生じるなど救援活動は難航した。発生から約2カ月経った今も自衛隊は活動を行っている。災害派遣された自衛隊に対し、ネット上では「なぜもっと大量に投入しないのか」「逐次投入だ」といった批判の声も見られたが、どのような方針で救助態勢を敷き、どのような活動をしたのか。東日本大震災熊本地震との状況の違いは。自衛隊の災害対応を担当する防衛省参事官に話を聞いた。(文・写真:ジャーナリスト・小川匡則/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部)
 「逐次投入」ではありません
 能登半島 急峻で複雑な形状の山間部
 「過去の大災害のときと比べても、能登半島地震はものすごく素早い対処ができたと感じています」
 こう語るのは、防衛省統合幕僚監部田中登参事官だ。能登半島地震を受けて、自衛隊派遣のために奔走した一人である。対外調整がメインの仕事で、統合幕僚長に状況を報告し、それに対する指示をもらい、現場にオペレーションを伝える。官邸等との調整や、大臣に報告を上げる役割も担う。田中さんは災害対処と国民保護を担当しており、能登半島地震の対応と並行して、広島県和歌山県の山林火災、岐阜県の大雪など各地で発生する災害にも対応している。
 「『逐次投入だ』という批判もありましたが、それは違います。投入すべき人員、装備品はこれまでになく早く入ることができました。発生翌日から陸海空自衛隊による統合任務部隊を約1万人の態勢で編成し、初動は約1000人を投入しました。そこから約2000人、約4000人、約5000人、そして最大で約7000人。現地の状況を把握しつつ適切に現地部隊を連続増強して対処しました。能登半島という狭小なエリアに、発災翌日には1000人、その翌日には2000人が入っている状態を想像していただきたいです」
 地震発生後 即動き出した自衛隊
 輪島分屯基地の山頂地区 防衛道路や法面が崩落した
 1月1日16時10分ごろ、能登半島で最大震度7地震が発生。都内の自宅でくつろいでいた田中さんは大きな揺れを感じると、すぐさま着替え始めた。頭の中は震災対応に瞬時に切り替わり、東京・市ヶ谷にある防衛省に直行した。同じように、防衛省には続々とスタッフが集まってきたという。
 16時11分には官邸対策室が設置され、16時15分には総理大臣から被害状況の把握・被災者の救命等の指示が出た。16時45分には石川県から自衛隊災害派遣要請が出された。関係各所の動きは早かったが、一方で、自衛隊はそれとは関係なくすぐに動き出していた。自衛隊では、震度5弱以上が観測されると自動的に情報収集を行う態勢がとられているのだ。地震発生から約20分後に北海道の千歳基地から航空自衛隊F-15 戦闘機2機が現地に飛び立った。
 輪島分屯基地の山頂地区では法面(盛り土などにより造られる人工的な斜面)が大規模かつ複数箇所にわたって崩落している様子が確認された。そうした被害状況は、即座に防衛省本省に報告された。
 「能登半島先端部に甚大な被害が及ぼされ、道路がほとんど寸断されてしまったことで陸路でのアクセスは非常に困難でした。能登半島には空路の拠点として『のと里山空港』がありますが、滑走路にひびが入って段差が発生するなどして飛行機も使える状況になかった。また、能登には輪島港珠洲市の飯田港もありますが、港付近の海底が断層のずれで盛り上がってしまい、船も近づけませんでした」
 東日本大震災では太平洋側の岩手、宮城、福島を中心に甚大な被害を受けたが、日本海側から被災地へ入っていくことができた。熊本地震の場合は、九州の真ん中ということで周辺県からアクセスできた。それに対して、能登半島では「陸路でのアクセスは困難」という特殊な事情が発生したのである。
 発災から自衛隊投入まで 基本方針は「ヘリコプターの活用」
(図版:ラチカ)
 地形も救助活動に影響した。能登半島は日本の中でも特殊な地理的特徴を持つエリアだ。
 「山地と丘陵地が多くを占めています。複雑な形状の山間部があり、とがった感じの山がたくさんある。海岸沿いに段丘が発達していて、断崖が多く、ビーチはほとんどない。また、富山湾側はリアス海岸になっている。そうした地形的特徴に加えて、輪島市珠洲市の平地にはある程度の市街地があるが、それ以外にも孤立集落があったり、山奥に一軒だけ家があったりと点在しています」
 発災からまもなく、各地の駐屯地・基地から自衛隊のヘリが出動 写真は大阪府陸上自衛隊八尾駐屯地
 町のあちこちで地盤沈下や舗装のひび割れ、擁壁の崩落などが見られ、「空中機動力の集中運用」という基本方針が決まるのには時間がかからなかった。
 「自衛隊は発災当初から『ヘリコプターを集中的に使っていく』というオペレーションを考えました。それと並行して、道路啓開と言って、寸断されている道路を応急的に修復し、車が通れるようにする作業にも注力しました。投入できるヘリコプターの数は限られるため、陸路の確保が重要です。狭いエリアにヘリコプターが密集すると、衝突などの二次被害が生じる可能性があるためです」
 到着後から1週間 約64%は空路で救助
 孤立集落へ着陸する救難隊ヘリ
 ヘリコプターで自衛隊が到着して、最初に行うべきは現地の状況把握だった。どのエリアにどれだけの集落があるのか、そこには誰がいて誰がいないのか。隊員たちはそれぞれの地区に入り、一つひとつ被害状況を把握しマッピングしていった。正月のため、別の場所に行っている人もいれば、逆に子どもの一家が帰省していた人もいた。
 「発災直後、ヘリコプターで現地に入った隊員は基本的には情報収集を行います。しかし、当然ながら人命救助も行うし、避難したいという方を避難所に連れていくこともある。生存していても水と食料がなければ生きていけないので、物資を届ける生活支援も急務です」
 ヘリコプターを活用する上で重要なのは、下りられる場所を確保することだった。公園や学校の校庭などのスポットは事前に調査していた。しかし、既に現地の車が駐車していたら使えない場合がある。実際に使えるかどうかは確認が必要で、救助する現場のすぐ近くにヘリコプターを止められるとは限らない。
 能登半島付近の洋上では、輸送艦海上基地として活用する「シーベーシング」を行い、ヘリコプターの拠点にもした。
 倒壊家屋からの救助活動
 「市街地では家屋の1階部分が完全に崩壊し、2階部分と屋根が残っている状態の家屋がたくさんありました。その倒壊した家屋から救助活動をしました。災害救助犬もすごく活躍してくれました。また、山間部の孤立集落には人海戦術で入っていって担架に乗せて救助しました。それこそ『道なき道』を歩いていく現場もありました。救助活動を行う隊員にはもちろん、男性も女性もいます」
 水が流れ込んだトンネルの啓開作業
 それと同時に道路啓開にも組織力を発揮した。陸上自衛隊は、国交省等とも連携して発災翌日から3日未明にかけて輪島市内に通じる県道1号の土砂等を除去し、開通させた。一方、海上自衛隊は1月4日に海岸から重機を上陸させた。海岸には非常に狭いものの砂浜があったため、そこからエアクッション艇により陸上自衛隊の重機を上陸させ、内側からも道路啓開を進めた。1月10日早朝には珠洲市に通じる県道6号の通行も可能にするなど、国交省等と連携し、そこからくしの歯状に復旧を進めていき、主要な幹線道路の通行を確保していった。
 「3日目ぐらいから日に日に使える道路が増えていきました。毛細血管が広がって、血が流れていくように道路網が広がっていきました」
 こうして、自衛隊は約1040人を救助した。
 特に発災当初の1月8日までに救助した約480人のうち、約64%は空路によるものだった。2016年熊本地震のときには救助した約1280人のうち空路は約7%。比較すると、能登での救助活動が特殊な状況にあったことがわかる。
 40キロの物資を担ぎ運ぶ 隊員の被災者生活支援
 珠洲市内の孤立地域への物資輸送
 人命救助や道路啓開と並行して、自衛隊が担った役割が、被災者への生活支援だった。
 「発災翌日からは、政府によるプッシュ型支援が始まりました。確実にこれは必要とされるだろう、という物資を金沢に集めました。金沢市内の石川県産業展示館という広い空間を物資拠点にして、フォークリフトを使って詰め込んだ荷物を空路と陸路で送り込みました」
 産業展示館の外にはちょうどヘリコプターが下りられるスペースがあり、空路も用いた。それでも孤立集落に物資を届けるためのルートが徒歩しかない、というケースもあった。隊員は最大40キロの荷物を担いで、崩落した道や破損した道を歩いて物資を手渡しした。隊員たちは渡すと同時に、いま何が必要かというニーズを聞き、メモをとった。
 「私たちは『ニーズ把握隊』と言っていましたが、被災者の方々のご用聞きをしました。赤ちゃんを育てているお母さんからは、『子どもにはこういうブランドのミルクを飲ませている』というところまで細かく聞きました。デリケートなこともあるので、女性に対しては女性の隊員が行くようにしました」
 中には、定期的に訪れてくれる隊員との触れ合いを心待ちにしてくれる人もいたという。
一方、避難所では入浴支援や給食支援に力を入れた。
 「元気を出してもらうには、やはり温かい食事が大切です。限られた食材を工夫して調理しています。カレーをつくりたいのに肉がないなら、イワシの缶詰で代用したり。また、入浴では隣にもう一つテントを張って、湯冷めしないようにした。そこでドライヤーも使ってもらい、その間にお子さんは部隊の隊員が遊んであげる、という被災者に寄り添った対応をしました」
 迅速な対応は事前訓練や想定を重ねていたから
 自治体が企画した防災訓練に地域部隊は参加してきた
 今回、人命救助をはじめ、道路啓開や生活支援など、迅速に対応することができたのは、事前に相応の訓練や想定を重ねていたからだという。
 「2023年5月5日に能登で最大震度6強地震があって、私も防衛省に駆けつけました。能登地域では、最近も群発的に地震が発生していたので注目しており、気象庁からもデータを取っていました。また、2023年6月26日から5日間、孤立エリアが発生する可能性のある被災地を想定した訓練もしていました。能登町珠洲市が主催していた防災会議や訓練にも自衛隊は参加しており、オープンに開催していたので住民の間でも防災意識は高まっていたのではないかと思います」
 給水、給食、入浴、物資輸送 震災2カ月も自衛隊の活動は継続
 自衛隊は発災以来、給水、給食、入浴、物資輸送の4つの活動を継続して行っている。熊本地震のときには約1カ月半で活動終了となったが、能登では2カ月が経過したいまでも活動が継続しており、見通しが立っていない。
 「一番大きなポイントは、水道の復旧です。7割以上復旧している地域もある半面、珠洲市ではまだ3割にも至っておりません(2月27日時点)。上水道が復旧すれば飲み水は出るわけですが、重要なのは下水道。下水道が復旧しなければ、生活排水ができず、お風呂や洗濯などができない」
 田中さんは今も現地で実態把握に携わる。週に2回ほど開催される現地の対策本部会議に出席し、それ以外の日には被災地全域を回り、部隊の視察や自治体の首長と面会する。
 「現場を見ることはものすごく重要です。例えば、入浴者数が減少していたとすると、減った分はどこか別のところで入っているはずです。我々が知らないところでボランティアさんが入浴支援をしているのかもしれない。そういう分析する材料を収集した上で、首長さんにも直接会って話を聞く。それによって自衛隊としていま何をすべきなのかが見えてきます」
 田中さんは「自衛隊は自己完結的になんでもできる組織だ」と語る。それは逆にいうと、自衛隊が活動終了するまで、被災地では生活に不可欠な要素が整っていないことを示している。

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 小川匡則(おがわ・まさのり)
 ジャーナリスト。1984 年、東京都生まれ。講談社週刊現代」記者。北海道大学農学部卒、
 同大学院農学院修了。政治、経済、社会問題などを中心に取材している。
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