🏗2〗ー28ー「過疎地に国力を注ぐ必要はない」って本当ですか?令和6年~No.29 

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 2024年3月3日 YAHOO!JAPANニュース ハフポスト日本版「「過疎地に国力を注ぐ必要はない」って本当ですか? 反論に続々と祭りの思い出が集まった【能登半島地震
 「能登のキリコ祭り」の一つ「石崎奉燈祭」。巨大なキリコが小さな漁師町で豪快に乱舞する=2017年8月、石川県七尾市時事通信社
 「過疎地でも連綿と続いて来た文化があります」
 能登半島地震をめぐって石川県珠洲市出身の女性が投げかけた投稿に、SNS上で大きな共感が広がった。地元が誇る伝統行事「キリコ祭り」への思いをつづり、人口減が続く「田舎」にも大切に育まれてきた固有の文化があると訴えたものだ。
 一連のポストには、4万超の「いいね」がつき、「何年かかっても復活して欲しい」といった声や、祭りの思い出や写真が続々と寄せられている。
 能登に受け継がれる豪快な祭り
 1月1日に発生した能登半島地震から2ヶ月。最大震度7を記録し、甚大な被害がもたらされた石川県の能登半島では、今なお多くの人が避難生活を強いられている。地形上の制約など多くの難題が立ちはだかる中、現地では懸命な復旧作業が続く。
 その能登半島で、地域の誇りとして長く受け継がれてきたのが祭りの文化だ。
 珠洲市出身のtoffeeさんは1月15日、自らが生まれ育った地域について知ってほしいと、自身のX(旧Twitter)にキリコ祭りの思い出を投稿した。
 キリコ祭りとは、夏から秋にかけて半島各地で行われる一連の祭りの総称。「キリコ」「ホートー」などと呼ばれる大型の切子燈籠や山車が町内や海辺を勇壮に練り歩くのが特徴で、祭りの数は全部で約200にのぼるとも言われる。
 toffeeさんの地元で毎年7月に開かれる「飯田町燈籠山祭り」もその一つ。張子の人形を掲げた巨大な「燈籠山」が町をにぎやかに巡行し、江戸時代から400年もの歴史をつないできた。
 「田舎の僻地でロクな娯楽もなく、金沢まで出ようと思ったら車で3時間半もかかるケばかりの土地で育った」
 そうつづるtoffeeさんにとって、老若男女が力を合わせ、巨大な燈籠山を曳き回す祭りは「何よりもダイナミックで心踊るもの」だった。町全体が活気で満ちる年に一度の機会は「それこそハレの日」。豪華で勇壮な祭りが、能登育ちの自慢だった。
 小学生の時には、街角に設けられた舞台で「手踊り」を披露。「田舎でその時だけ主役になれたような気分」が誇らしく、思春期を迎えると、朝まで山車を曳き回す大人たちに加わって「背伸び」した気分にもなった。太鼓、笛、鐘の音に、「ヤッサー、ヤッサ」の力強いかけ声……今でもその音を聞くと胸が高鳴り、「肉体に刻まれた祭りのDNA」が疼き出すという。
 能登では毎年、祭りの季節に親戚や友人同士で招き合って、それぞれの地域の祭りをともに楽しむのが慣わしだ。そうした時間が人々にとってかけがえのない生活の一部なのだと、toffeeさんは言う。
 「田舎であればあるほど、このような祭り文化と人々の暮らしは切っても切れない」「それを失うことは、その人のアイデンティティをも失うことに他なりません」
「固有の文化まで切り捨てないで」
毎年7月に珠洲市中心部で行われる飯田町燈籠山祭り(祭りの公式サイトより)
 今回の投稿を思い立ったのは、地震の発生後、「過疎地に国力を注ぐ必要はない」といった一部の心ない主張をSNS上で目にしたからだ。すぐに現地に駆けつけられないもどかしさの中で、少しでも力になりたいと地元の文化について発信することにした。
 「どうか、外から発言される皆さん、その土地特有、固有の文化まで切り捨てないでください」
 そう訴えた一連のポストは大きな反響を呼び、コメント欄には「お祭りがまた出来るくらい元通りになることを祈ってます」「過疎化が進んでるとはいえ、簡単に無くしていいものだとは思えません」「同じ能登の人間として、ハッとした気持ちになりました」と、共感や励ましの声が相次いだ。
 また「我が町自慢のお祭りを思い起こしてみませんか?」と呼びかけると、「青柏祭」「あばれ祭」「石崎奉燈祭」「とも旗祭」といった能登の祭りの名が次々に挙がり、「多彩なお祭りが羨ましい」の声も。「かっこいい!しかなかった」と、過去に見た祭りの写真や動画を寄せる人も現れた。
 取材に対し、「一日も早く安心して暮らせるようになることが最優先。その上で、祭りをまたやりたいという人々の思いが、少しでも復興の支えになれば」と話したtoffeeさん。一連のポストは、次のように締めくくられている。
 「今年、来年は無理でも、あの山車が残っていて人々が帰って来たなら、また再び祭りをやって欲しい。切り立った海岸線、日本海の黒々とした波に紅く彩られた山車やキリコはとてもよく映える。その景色がまた見られるように」
 津波に流されたキリコも
 能登町の奇祭「あばれ祭」。神輿をたたき付けたり、川や火の中に投げ入れたりして大暴れする=2017年7月、石川県能登町時事通信社
 海と山に囲まれた能登半島は「祭りどころ」として知られ、豊作・豊漁への祈りや自然への感謝を捧げる祭礼が1年を通じて多様に営まれてきた。
 一帯には、その土地ならではの暮らしの文化と歴史を伝える数多くの無形民俗文化財が残されており、「奥能登のあえのこと」「青柏祭の曳山行事」「能登のアマメハギ」の三つはユネスコ無形文化遺産にも登録されている。
 2015年度には、3市3町の29の祭りを中心とした日本遺産「灯り舞う半島 能登~熱狂のキリコ祭り~」が認定。豪華絢爛にして豪快な祭りの数々は、地域外から人々を迎える重要な観光資源にもなっていた。
 今回の震災では、こうした伝統的な行事や生業にも少なくない被害が出ている。
 現地の報道によると、珠洲市宝立町の鵜飼地区では「宝立七夕キリコまつり」で用いるキリコの保管庫に津波が直撃。大小合わせて5基のキリコが失われた。輪島市中心部の「輪島キリコ会館」でも、展示・保管されている大小のキリコの多くで被害が確認されたという。
 例年5月に行われる七尾市の「青柏祭の曳山行事」は、今年の開催を見送ることを決定。山車の被害こそ免れたものの道路の隆起や余震の影響で、安全確保が難しいと判断した。このほか避難生活が長引くなどして地域社会が離れ離れになり、祭りの開催や継承にも影響するのではないかといった懸念も出ている。
 こうした中、石川県は2月1日に開いた第1回復旧・復興本部会議で、「創造的復興」に向けた取り組みの一つとして「文化財、祭りなど地域の文化の再生支援」を挙げた。現地では文化財保護の専門機関による被災調査が進められ、再開を望む地元の声に応えようと民間団体による支援の動きも広がり始めている(企業メセナ協議会の「芸術・文化による災害復興支援ファンド GBFund」など)。
 復興のシンボルとなった祭りや芸能
 2011年に起きた東日本大震災では、住民の強い意志のもと一部の民俗芸能などが早くから再開され、復興のシンボルとして注目を集めたことで支援の輪も大きく広がった。慰霊や復興祈念として各地で披露された神楽や獅子舞は、被災した地域の人々を励まし、コミュニティーのつながりを作り直すきっかけになったとも言われている。
 『震災後の地域文化と被災者の民俗誌』(2018年)などの共編著がある東北大学の高倉浩樹教授(社会人類学)は、「伝統的な祭りや芸能には、人々の結束を作り出すほか、震災前の日常を思い出すよすがとなったり、地域社会の歴史的・文化的な誇りを喚起したりする力がある」と指摘する。そのため、その再生支援は地域社会の復興にもつながると考えられるという。
 東日本大震災では、祭りや芸能が地域社会にどのような効果をもたらしたのか。また、能登半島地震では今後いかなる支援が必要と考えられるのか。東北の被災地でフィールドワークを重ねた高倉教授に聞いた。
 無形民俗文化財が被災するとは
 仮設住宅で披露された大曲浜の獅子舞=2012年1月、宮城県東松山市時事通信社
ーー東日本大震災では、地域の民俗芸能や祭礼行事をめぐってどのようなことが起きていたのでしょうか。
 東日本大震災で特徴的だったのは、祭りや芸能といった地域の伝統行事に注目が集まり、復興の象徴として捉える見方が広がったことです。発災から数ヶ月という早い段階から、犠牲者を悼むために各地の民俗芸能が次々に再開され、そうした「復活劇」に復興への希望が重ねられました。
 たとえば、宮城県東松山市の大曲浜地区は、津波で壊滅的な被害を受けて全面移転を余儀なくされました。この地に約350年前から伝わる「大曲浜獅子舞」(市の指定無形民俗文化財)は、道具の大半が流されるなどして当初は存続が危ぶまれたのですが、支援を受けて獅子頭を新調。2012年の正月に仮設住宅などで再開を果たします。これがメディアに取り上げられると各地から声がかかり、県外だけで1年間に18回の招聘公演が行われました。慰霊や復興祈念といった新たな役割をまとい、人々を元気づける存在となった事例の一つと言えます。
ーーこうした中、行政の側ではどのような動きがあったのでしょうか?
 行政の側では「災害公営住宅の整備」や「宅地の耐震化」とともに、「無形民俗文化財の再生支援」が復旧期の具体的な施策の一つに組み込まれました。岩手、宮城、福島の3県が策定した復興計画ではいずれも、民俗芸能などの伝統文化が文化財保護の対象であるだけでなく、暮らしの再建や地域コミュニティーの再構築につながるものとして位置付けられたのです。
 3県はそれぞれ文化庁の補助事業を活用し、地域文化の復興プロジェクトを立ち上げました。背景には、未曾有の災害によって各地の文化が一挙に失われてしまうのではないかという危機感もありました。被災した無形民俗文化財の調査が行われることになり、東北大学に所属していた私は、宮城県からの委託で2011年11月から他の研究者とともに沿岸部での調査を始めました。
ーー無形民俗文化財の被災調査とはいかなるものでしょうか?
 美術工芸品や建造物といった有形の文化財と異なり、無形の民俗文化財には「形」がありません。それはすなわち、担い手が亡くなる、道具や場所が失われる、さらには基盤となる地域コミュニティーが離れ離れになるなど、多様な被災パターンがあることを意味しています。
 調査では、地元の教育委員会の協力も得て、主に民俗芸能の伝承を担う保存会や地域住民の方々にお話を伺いました。行事が震災前にどのように営まれていたのかを聞き取り、被災状況を確認し、必要とされる支援や再開の過程について具体的に記録していきました。各地域の調査記録はインターネットで公開し、冊子としても配布。その後、分析編として研究者らの論考を収めた書籍も刊行しています。
ーー民俗芸能などに対しては、どういった支援が行われたのでしょうか?
 練習や公演の場を提供する、記録を残すなど、さまざまな形の支援がありますが、なかでも失った道具を取り戻すにあたって、民間の財団や基金が大きな力を発揮したことは指摘しておくべきでしょう。日本財団の「まつり応援基金」や企業メセナ協議会の「百祭復興プロジェクト」などの枠組みを通じて幅広い資金援助が行われ、面や衣装、太鼓、神輿などさまざまな道具が修復・新調されました。
 また、被災調査それ自体の「副産物」として、伝承を促進する効果が生まれたことも重要だと考えています。とりわけ東北沿岸部には、国や自治体の指定や選択を受けていない、いわゆる「未指定」の文化財が数多く伝えられていました。研究者が訪れることで、「自分たちが守り伝えてきた祭りや芸能は、外から見ても価値があるものなのだ」といった気付きが生まれ、保護団体や伝承者のモチベーションになった部分もあるのです。調査など外部の人と関わる中で、再開に向けて動き出した方も少なくなかったと思います。
 もちろん、再開しない/できないと判断した団体もありましたし、再開しても完全に元通りとはいかない中で、たとえば「誰のために舞うのか」といった色々な葛藤があったといいます。その意味でも、全て再開すればよいというわけではないし、支援は当事者の意思に沿った形でなされるべきという前提を忘れてはいけないと思います。
傷ついたつながりを結び直す
ーー実際のところ、民俗芸能などの伝統文化は、地域社会の復興に寄与したと言えるのでしょうか?
 はい。それらが果たした役割として大きく三つを挙げられると考えています。
 一つは、傷ついた地域のつながりを結び直し、人々の結束を生むこと。祭りや芸能の再開までには、そもそも実施すべきかどうか、道具は買うのか自分たちで作り直すのかなど、多くのことが話し合われ、いろいろな人が集まる過程で新たに関係が作り直されたと言えます。集団で受け継いできたものだからこそ、自分ひとりの意思で終わりを判断することはできない。そうした「小さな公共性」とも言える側面がコミュニケーションを生み出すきっかけにもなったのです。
 二つ目は、震災前の日常生活を思い出すこと。災害から復旧・復興へと向かう時間の流れは、被災者にとっては非日常の連続で、経験したことのない判断や選択を次々に迫られます。そうした中で、祭りや芸能は、震災前までの日常を思い出すための大切なよすがとなっていました。式次第を守り、型どおりに舞う。こうした儀礼的な側面も、震災前とのつながりを感じさせるところがあったのではないでしょうか。「これだけは変わっていない」と。
 最後は、アイデンティティーの維持や強化に関わるものです。その土地で長く伝えられてきた歴史や文化は、地域社会にとっての象徴になります。津波原発事故によって移転・離散を余儀なくされた人々にとって、祭りや芸能は、離れ離れになった住民同士がふたたび集まるきっかけを提供するだけでなく、地域への帰属意識をつなぎとめる機能も担ったと言えるのではないでしょうか。
 これら三つは、場合によっては他の娯楽イベントなどによっても代替可能かもしれません。ただし祭りや芸能の場合、その場一回限りのものではなく、数年に一度などの周期を伴って長く世代間で継承されてきたという特徴があります。地域の歴史や文化を受け継ぎながら、同時に新たな社会的つながりを作り出していくことができる。この点においてこそ、地域社会の復興に独自の貢献ができると考えられるのです。
ーー今回の能登半島地震では、祭りなどの再開に向けてどのような対応が必要だと考えますか?
 行政の支援という意味では、地域社会の復興と文化財保護の二つの視点から考える必要があります。民間からの資金援助に加えて、報道などで外からの注目が集まることも力になるでしょう。また東日本大震災の時のように、行政主導で研究者らの調査が行われるのが望ましいと思います。
 「変わらない伝統はない」という考え方も重要です。そもそも震災前から、担い手不足などの課題は続いていました。東北の被災地でも、外部の人を新たに巻き込むなど、ある程度の変化を受け入れながら存続を目指す動きが見られました。私自身、二つの小学校が統合する過程で、両地域の神楽を一つにミックスしていくような動きを目にしましたが、このように自ら主体的に変化していくプロセスもまた、無形民俗文化財の継承には必要な要素なのではないかと感じました。
 無論、無形民俗文化財の再生がただちにコミュニティーの再興をもたらすわけではなく、インフラや雇用の回復が急がれることは言うまでもありません。それでも地域社会の復興を考える上で、祭りや芸能が果たしうる役割は決して小さくないと私は思います。
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 たかくら・ひろき 1968年生まれ。東北大学東北アジア研究センター教授。専門は社会人類学、シベリア民族誌。震災関連の共編著に『無形民俗文化財が被災するということ――東日本大震災宮城県沿岸部地域社会の民俗誌』(2014年)、『震災後の地域文化と被災者の民俗誌――フィールド災害人文学の構築』(2018年)、『災害〈後〉を生きる――慰霊と回復の災害人文学』(2023年)など。
 西田理人・ハフポスト日本版
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