📉45】─2─日本の学歴は世界では通用しない。学歴コンプレックス病の現代日本人。~No.96 ⑩ 

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 現代日本人の学歴優等生は、学内の教室で通用するが学外の現場では役に立たない。
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 2023年12月21日 MicrosoftStartニュース プレジデントオンライン「「学歴」と言えるのは博士号から…「日本の大卒は海外の中卒と同レベル」という不都合な真実
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 日本は学歴社会と言われるが、実際はどうなのか。嘉悦大学教授で経済学者の髙橋洋一さんは「4年制大学を卒業していれば高学歴といわれるが、海外ではまったく違う。博士号を取って初めて学歴があるとされ、学卒では知識人を名乗ることはできない」という――。
 ※本稿は、髙橋洋一『数字で話せ! 「世界標準」のニュースの読み方』(MdN)の一部を再編集したものです。
 マスコミの世界は文系出身者だらけ
 テレビや新聞など、いわゆるマスコミの業界は、大学の文系学部出身者が多く、科学を苦手とする人が目立って多い業界です。理系出身者が入ってくると、文系出身者たちの無知さ加減が露呈してしまうのを恐れてか、科学記者といった狭い分野に押し込められてしまうと聞きます。
 文系の、特に左派政党を支持する人たちは、そのイデオロギーのために思い込みの強い人が多いものです。「資本家と労働者の利害は常に対立する」というマルクス経済学のイデオロギーから抜け出せず、「株価が上がると資本家が儲かり労働者が損をする」と信じ込んでいたりするわけですが、こんな見方をしていれば、現実の経済については絶対に理解などできません。
 しかし、実はこうした人たちがマスコミを牛耳っているのが実際で、ニュースや時事解説はこうした人たちによって発信されています。
 経済を理解できない人が情報を発信している
 理系に代表される、物事をロジカルに考える人たちにとってはイデオロギーなど邪魔なものでしかありません。イデオロギーありきの場合、先に答えがきてしまい、ロジックがすべて抜け落ちてしまうからです。
 まずはイデオロギーで考えてしまう文系のマスコミ人には、ロジカルな世界である科学や経済が理解できません。そうした人たちがよかれと思って選んだコメンテーターがテレビや新聞などで話をしているわけですから、マスコミが発信する情報を信用しろと言われても難しいでしょう。
 たとえば、「経済成長などしなくていい。環境問題や心の問題を重視した政策を」という意見が、そうしたコメンテーターから判で押したように聞かれます。「ではあなたは、失業率が上がった方が世の中のためになると考えているわけですね」と反論すると、たいていの場合、ポカンとして何の意見も返ってきません。経済のそもそもがわかっていないからです。
 経済政策の目標はあくまで「失業率ゼロ」
 「現代に見られるような経済成長が始まったのはたかだかここ200年ほどの歴史である。経済成長の鈍化はむしろ経済の正常化だ」という意見もよく聞きます。「経済成長よりも大切なことがある、日本はゼロ成長でいいではないか」という何かしらロマンチックに聞こえる意見は、特にテレビのワイドショーでウケがいいようです。
 これらの意見は、「どんどん上がれ、失業率!」と言っているのと同義です。経済政策においては、マクロ経済学の理論に基づき、「失業率を極限まで低くすること」が最優先されます。「食えない人」を最小限にまで減らすということが国民に対する国家政府の責任であるということです。
 そのためには経済成長が必要です。これは、アメリカの経済学者アーサー・オークン(1928~1980年)が1962年に発表した「オークンの法則」に基づきます。「経済成長率と失業率の間には負の相関関係がある」という法則です(図表1)。
 経済成長をせずに失業率を減らすのは不可能
 経済が成長すれば、つまり景気が良くなれば雇用も増えて失業率も下がるだろうというのはなんとなく予想のつくことです。「なんとなく」というのを法則化したのがオークンでした。
 オークンは経済成長率と失業率を単純に並べるのではなく、失業率の前年との差を出してから分析するという方法を採りました。「差」に注目するのは統計学の一手法で、より純化された数値で現象を捉えるということです。各国のデータを集めて、それぞれの経済成長率と失業率の前年との差の相関関係を調査したところ、多くの国で経済成長率と失業率の間に負の相関関係が見られました。
 経済成長をせずに失業率を減らすことはほぼ不可能です。経済成長つまり豊かさの減少は失業者の増加を意味します。2020年は失業率が7カ月連続で悪化して、同年8月に3%台に上ったことがありました。同年は自殺者が増加傾向にあり、4カ月連続で増加して10月は前年同月よりも約600人多い2158人となったという事実もあります。
 グレタ氏は経済学を勉強する必要がある
 経済成長不要論は環境問題や公害問題とセットにしてよく語られます。環境問題は確かに世界的に共通して取り組むべきひとつの課題であることは間違いないでしょう。
 けれども、そのために経済成長を止める、というのは暴論です。経済成長がなくなるというのは「仕事がなくなる」ということです。国家運営そのものが成り立たなくなります。環境問題どころではなくなるということです。
 2003年生まれのスウェーデン人環境活動家グレタ・トゥーンベリ氏が2023年6月にウクライナのキーウへ行ってゼレンスキー大統領と面会し、「人道的な災害と環境破壊のつながりを明らかにし、その責任を問いたい」とロシアを非難したという報道がありました。
 グレタ氏は2020年1月にスイスのダボスで行われた世界経済フォーラムの年次会で「環境と経済成長の両立を主張する先進国の環境対策は間違っている。直ちに環境政策を行うべきだ」という内容のスピーチをしたことでよく知られています。このスピーチに対し、ムニューシン米財務長官(当時)は、「大学で経済学を勉強してから言いなさい」と反論しました。ムニューシン氏の反論は正論と言うべきでしょう。
 経済成長は国の基礎体力です。経済成長によってすべての問題が解決するわけではありませんが、経済成長しないでいる場合よりも問題解決できることは確かです。環境問題のような人類共通の過大に取り組むためにも経済成長は欠かせない、ということです。
 日本のマスコミ人は「高学歴」なのか
 マスコミ業界で働いている人たち、また、マス・メディアに登場する評論家やジャーナリストたちは一般的に学歴が高いと思われています。ほとんどが4年生大学の出身者だからです。
 しかしこれは世界標準からすればナンセンスな話です。一般的な見方とはまったく逆で、ジャーナリストをはじめ日本のテレビなどに知識人として登場する人たちは、“学歴”が低すぎます。
 どこの大学を出たかなどはたいした問題ではありません。ここで言う学歴とは「何を、どこまで勉強したか」ということです。
 日本のジャーナリストと称する人たちは、そのほとんどが4年生大学の卒業者です。これは実は、世界に出てしまえば「学歴がない」のと一緒です。
 大学院で勉強したところで、修士ではあまり学歴があるとは言えません。博士号まで取得して初めて学歴があると認識されるのが世界の標準です。
 世界に出ると「東大卒」では威張れない
日本のジャーナリストで博士号を持っている人、というのはあまり聞いたことがありません。ということは、世界の感覚でものを見る人にとっては、「なんと学歴の低い人が集まっている業界だ」ということです。
 言い方を変えると、大学を出ているから私には学歴があると思ってはいけないということです。特に言論で商売をする人は、「世界標準は日本とは大きく違うのだ」ということを認識すべきでしょう。
 私はいちおう東京大学の出身ですから、国内的には学歴が高いと思われているかもしれません。しかし、世界に行けば、「University of Tokyo」など聞いたこともないという人がけっこういます。
 国内最高の大学とされている東京大学ですが、イギリスの高等教育専門誌「Times Higher Education(THE)」が2023年9月27日に発表した世界大学ランキング2024によれば東京大学は29位です(それでも前年から10位のランクアップです)。
 大学そのものについては、海外の大学のことなど詳しくは知らないというのはお互い様でしょう。ただし、マスターやドクター、修士や博士号を持っているかいないかではだいぶ違ってきます。
 日本の「学士」は海外の「中卒」レべル
 学歴というものが、海外では肩書きに露骨に表れます。普通の「学士」つまり学卒4年制大学の卒業者は「BA」と書きます。「Bachelor of Arts」です。
 大学院で勉強して「修士」を持っている人は「MA」、「Master of Arts」です。
 博士号は「PhD」と表記されます。ラテン語の「Philosophiae Doctor」の略称で、英語でいうと「Doctor of Philosophy」です。
 この肩書が、パブリックな場所、たとえばシンポジウムやあるいはパーティといった懇親会の出席者一覧表に書かれます。出席者それぞれの学歴がひと目でわかる仕組みになっているのです。
 そういう場では、「BA」の肩書の出席者はまずいません。ごく稀にいますが、その場合は、何かの事情があって「BA」に留まったのだろうと思われます。
 「BA」は、失礼を承知で言うと、日本でいう「中卒」の感覚です。この感覚でいうと、日本の場合、ジャーナリストのほぼ全員が中卒・高卒ということになります。
 日本で名刺に学歴を書く人はおそらくそれほど多くないと思います。私の名刺の裏側には、英語表記の面にちゃんと「PhD」と書いてあります。日本国内用に「博士」などと書くと嫌らしいことになりますが、海外ではそれが普通で、常識なのです。
 海外において、特に知識階層では学卒は相手にされません。海外で学歴といえば、修士卒、博士号卒、あるいはそれ以上で、学卒は最も下位に置かれますから、4年制大学を卒業したくらいで、「私は知識人である」と振る舞うのはお話になりません。
 専門分野がないジャーナリストはありえない
 これは日本と海外の認識の違いだ、と言う人もいるかもしれませんが、そういったところが日本国内においても結果として出ています。世の中にはちゃんと専門的知識のある人がいます。そうした人たちが今はネットで情報発信できてしまいます。マスコミよりもはるかにまともな意見がネット上に散見しているのは明らかなことです。
 また、事実として、日本のジャーナリストと称する人々は海外ではジャーナリストにはなれません。ジャーナリストと呼ばれるためには、専門分野を持っていることが必要であるのが世界標準だからです。
 日本では、たとえばNHKのアナウンサー出身であるだけのような、まったく専門分野のない人であってもジャーナリストを名乗ることができます。これは世界標準ではありえないことです。
 それに類するある日本のジャーナリストの著書を見てびっくりしたことがあります。参考文献の記載がないのです。
 「何でも知っている凄い人」というイメージで売り出し、確かにいろいろ多岐にわたって書いているのですから、著書に参考文献が載っていないなどということはありえません。
 一般常識すら欠けているジャーナリストも
 これは、論文の書き方をきちんと習っていないからだと思います。“学歴”がないので論文の書き方を知らないのでしょう。
 論文のなかで人の意見を書くことには何の問題もありません。ただし、論文の書き方の基本、というよりも一般常識として、人の意見を書くのであれば参考文献を明記し、自分が書いたなかのどの部分が人の意見かということは明らかにしなければなりません。
 論文は、ここは人の意見、こちらは自分の意見であると明示されていることが基本です。参考文献がたくさんあること自体はごく当たり前のことです。夥しい数の参考文献が記載されていることは、問題のあることでも恥ずかしいことでも何でもなく、記載しないことの方がおかしく、常識を疑われます。
 参考文献を記載することなく書いてしまうと論文としては体をなしませんから、そういった論文ないし著書はその時点でリジェクトされます。参考文献をちゃんと記載することで、該当する部分は自分の意見でないということもはっきりするでしょう。情報に対する自分自身の姿勢の確認という意味でも、かえってすっきりするのではないかとさえ思います。
 はっきり言ってしまえば、日本のジャーナリストの書くものは、ほとんどが他人のデータと意見のパクリです。ほとんどが参考文献のパクリによってできあがっています。日本のジャーナリストはそのレベルである、ということも知っておいた方がいいでしょう。

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