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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
「日本では、大きな地震など災害が発生するたびに、大小のフェイクニュースが広まることがあった」は、ウソである。
同じ日本人でも、昔の日本民族と現代日本人、日本民族と日本国民は別人のような日本人である。
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戦時中、日本国内には200万人以上の朝鮮人と数十万人の中国人(台湾系・大陸系)が住んでいた。
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鳥取地震では、関東大震災の様なデマ、流言飛語、風評はなく朝鮮人・中国人・日本人惨殺事件は起きなかった。
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2023年9月8日 YAHOO!JAPANニュース 山陰中央テレビ「「鳥取地震」からまもなく80年 地域の防災・減災意識の向上へ被害伝えるパネル展(鳥取市)
昭和初期に未曾有の被害をもたらした鳥取地震から、9月でまもなく80年となります。
鳥取大学では、今、当時の写真や被災者の体験談などをまとめた資料展を開いていて、減災・防災を訴えています。
昭和18年9月10日、震度6マグニチュード7.2の揺れが襲い、鳥取市は中心部が壊滅。
県内で、1210人もの犠牲者を出したのが鳥取地震です。
この大地震からまもなく80年になることを受け、鳥取大学の広報センターでは、震災の記録と記憶を伝えていこうと、大学が続けてきた調査研究などを抜粋して、パネル展示を行っています。
このうち被災者の体験談では。
体験者(地震当時11歳):
「(崩れた家に)押さえつけられて声を出しても届かない。息をすると壁土が舞って肺に入るので息もしにくかった。(下敷きになっている状況から)引っ張り出された時の痛みで目が覚めて、水が欲しいと言ったのを覚えている」
被害の大きさが生々しく伝わってきます。
鳥取大学工学研究科・浅井秀子准教授:
「(鳥取地震のことを)次世代につないでいくというのが、パネル展によって皆さんが関わる機会が増えるというところが非常に重要だと思っています」
鳥取大学ではこうした展示を通して、地域の防災・減災意識の向上にもつながればとしています。
山陰中央テレビ
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9月20日 産経WEST「戦時下の大災害「鳥取地震」から80年 終わりなき研究と犠牲者名簿作成
松田 則章
鳥取地震80年を記念して発行された冊子「鳥取の震災」
先の大戦さなかの昭和18年9月10日に発生した鳥取地震は、史料によって死者数や倒壊家屋数などが大きく異なる。戦時中で被害調査が十分でなかったことや、その後の混乱で史料が散逸したことが理由とされる。実態を明確にしようと戦後、地道に続けられている研究の成果が、地震発生から80年を迎えた今年、冊子「鳥取の震災」(鳥取市社会教育事業団発行)としてまとめられた。被害実態やメカニズム、前兆現象、今後の地震活動まで多角的なアプローチで大地震の実相に迫っている。
死亡者数はバラバラ
地震発生80年の節目となった今年9月10日、「鳥取の震災」出版記念シンポジウムが同市内のホールで開かれ、執筆者4人が意見交換した。
「鳥取地震の各種史料では、死者数が1200人とも1100人ともされている。数が定まっていないのは犠牲者の名簿がないからだ」
こう指摘したのは、鳥取市歴史博物館学芸員の横山展宏(のぶひろ)さん。その上で「実は今、当時の新聞や記録を読み込んで名前を明らかにする作業を続けている。名前が判明した人は約1千人になった」と明かした。
鳥取市内吉方の被災状況。通りのすべての建物が崩壊している(鳥取県立公文書館提供)
≪鳥取地震は昭和18年9月10日午後5時36分に発生。マグニチュード(M)7・2、鹿野(しかの)断層・吉岡断層を震源とする都市直下型の大地震だった≫
地震の概要はどの史料も共通する。しかし、被害については、発生1年後に鳥取県が発行した「鳥取県震災小誌」が死者1210人、全壊家屋1万3295戸とするのに対し、発生直後に調査に入った東京帝国大学地震研究所の報告は死者1083人、全壊家屋7485戸で大きく隔たる。
死亡者数の差異について、県立公文書館専門員の池本美緒さんは同書で、内務省警保局1005人、皇族の朝香宮鳩彦(あさかのみややすひこ)王への言上書936人など、ほかの史料も数が異なっていることを明らかにしている。
その理由については、史料がまとめられた時期が異なるためと説明する一方で、横山さんと同様に名簿が存在しないことが隔たりの根本にあると考える。このため、横山さんと池本さんは、当時の新聞や公文書に掲載されている犠牲者名を丹念に拾い上げる作業を数年前から始め、地道に名簿作成を続けている。
146人が「発光見た」
「あの日、いつも通り銭湯に行ったが、なぜかお湯が濁っていた。このため、湯船には入らず銭湯を出たところで突然、大きな揺れに見舞われ、銭湯は倒壊した。もし湯船につかっていたら…」
鳥取市社会教育事業団理事長の住川英明さんは、地震体験者から聞いたこんな話をシンポのあいさつの中で披露した。命を救う形となった湯の濁りは地震の前兆現象。長年の研究では、鳥取地震のこうした予兆が次々明らかになっている。
県防災顧問を務める鳥取大名誉教授の西田良平さん(地震学)は同書で、鳥取地震の前兆現象にふれている。地震に伴い空が光る「発光現象」に関するアンケートでは、回答した634人(2千人対象)のうち148人が「何らかの発光を見た」と答えたとする。目撃時期は発生の半年前から地震後までさまざまで、色は赤44人、青40人、黄22人などだった。さらに、「地震前にゴーという不気味な地鳴りが何回も聞こえてきた」「井戸水の異常現象や動物の異常行動」なども報告。これを踏まえ西田さんは「鳥取地震の前兆現象は確かにあったと考えられる」と断言している。
鳥取地震発生80年の日に建立された「鳥取大地震」の碑=鳥取市(松田則章撮影)
一方、鳥取地震の前震についても報告。本震の8年前の昭和10年7月24日に青谷(あおや)町(現在の鳥取市青谷町)で発生したM5・4の中地震(M6・9~5・0の地震)が「鳥取地震の前駆活動の始まり」と指摘した。この地震はM5・4に続いてM5・2、M4・5、M3・7の3地震が約6分間に立て続けに起こった連発型地震だった。そして18年3月4日にM6・2の「鳥取沖地震」(旧称)が発生し、その半年後に鳥取地震が起こっている。
現代なら犠牲者は半減か
鳥取地震の特徴のひとつが家屋倒壊の多さだった。池本さんは、その理由をこう説明した。
「冬場の雪対策のため梁(はり)や横木を太くしていたため、家屋の重心が上に偏っていたことと、この時期水害が度重なって建物が傷んでいたこと、さらに18年3月の前震で建物にゆがみが生じていた。このため2階が落ちて1階がつぶれる倒壊が多かった」
一方で、空襲に備えたバケツリレーや隣近所での救出活動など「戦時下とあって隣組による共助体制が機能していた」とも指摘。火災被害が全半焼299戸(震災小誌)と少なめにとどまった理由とした。
冊子「鳥取の震災」発行を記念して開催されたシンポジウム。執筆者が意見交換した=鳥取市(松田則章撮影)
鳥取地震の揺れについて、鳥取大工学部教授の香川敬生(たかお)さん(地震学)は「兵庫県南部地震(阪神大震災)と似ている」と指摘する。その規模の地震が現代に発生したら被害はどうなるのか。香川さんは「鳥取県が平成30年に行った想定では死者630人、負傷者2500人、建物被害は同程度」と紹介。建物被害については、家屋の耐震化の進展で縮小傾向にあると述べた。
シンポ開催日の夕方、旧鳥取市役所の跡地に「鳥取大地震」の追悼と記憶の碑が、市民らの手で建立された。発生80年が経過した今も、鎮魂の思いと教訓は引き継がれ、地震の実態に迫る原動力となっている。(松田則章)
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日本は一国で、日本人は一人で、地獄のような戦争と災害を孤独に戦っていた。
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日本人にとって朝鮮人は、友・友人、親友、戦友、味方か、それとも敵か。
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キリスト教系朝鮮人テロリストと日本人の共産主義者・無政府主義者テロリストは、昭和天皇と皇族を惨殺すべく付け狙っていた。
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ウィキペディア
鳥取地震は、第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)9月10日17時36分54秒に発生した地震。震源地は鳥取県気高郡豊実村(現・鳥取市)野坂川中流域(北緯35度28.3分、東経134度11分)。M7.2 (Mw7.0)。震源が極めて浅く、気高郡湖山村(現・鳥取市)で震度6、遠く瀬戸内海沿岸の岡山市でも震度5を記録した。1945年の敗戦前後にかけて4年連続で1,000名を超える死者を出した4大地震(東南海地震、三河地震、南海地震)の一つである。
被害
岩美郡岩美町荒金の荒金鉱山では、この地震により鉱泥を貯めていた堰堤が決壊して直下にあった朝鮮人宿舎と荒金集落を襲い、朝鮮人労働者とその家族28人と地元住民の日本人37人の合計65人が犠牲となった。
被害総額は1億6000万円(当時)で、戦時体制下であったため戦地へ出征している男性が多く、死者の約65 %(1,083名のうち702名)が女性であった。なお、死者の中にはこの時当地を芝居巡業で訪れていた歌舞伎役者の6代目大谷友右衛門がいた。また、木下大サーカスも公演中で団長代理や女性団員6名が死亡する悲運に見舞われたが、テントを罹災者の避難場所に提供して救援活動に当たった。
政府は地震発生翌日の11日に安藤紀三郎内相を鳥取県に派遣し現地の状況把握に当たったほか、陸海軍の部隊が救援物資の輸送を行った。
その他
関東大震災の後であり、また第二次世界大戦の最中であったため、住民の防災訓練が徹底されていた。このため、略奪や関東大震災当時に見られた情報の混乱による流言蜚語などは起きなかった。
戦時中なので情報は統制されていたが、市関係者以外閲覧禁止として鳥取県震災小史が発刊されている。それによれば、戦時中ながら国内外から多数の援助があり、満州国皇帝からも支援金が送られたと記録されている。しかし、終戦時に多くの資料が破棄されているため、地震の詳細は不明な点も多い。
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9月9日 YAHOO!JAPANニュース 朝鮮日報日本語版「関東大震災100年:一段と深刻さ増すフェイクニュースの害悪…「100年前の悲劇」を忘れるべきでない理由
(写真:朝鮮日報日本語版)
関東大震災100周年の前日に当たる8月31日、公共放送のNHKは特集番組を放送した。タイトルは「関東大震災100年、私たちの不安がフェイクを広げる」。100年前の関東大震災発生直後、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」という根拠のないうわさを信じた民衆や警察によって韓半島出身の住民らが無残に殺害されたが、命と直結する事態にまで発展する危険がある流言飛語は最近起きた災害でもしばしば広がっている-という内容だった。
【写真】「動物園からライオンが脱走」…熊本地震(2016年)の際にSNSに投稿された偽ニュース
1923年9月、東京・神奈川など関東一帯でマグニチュード7.9(推定)の大地震が起きると、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」という流言飛語が日本人の間で広まった。住宅など町全体が壊滅して火災に巻き込まれる混乱の中で、こうしたうわさを信じた日本人らが自警団を組織し、街頭で見かけた朝鮮人を無差別に殺したのが「関東大震災朝鮮人虐殺」事件だ。
100年が経過した今年、日本の各メディアは、関東大震災当時起きた朝鮮人虐殺事件について例年よりも高い比重で報じている。このところデジタル技術をベースに発達しているソーシャルメディアやAI(人工知能)などが、フェイクニュースをますます危険なものにしていることを警告する記事が多い。朝日新聞は9月1日、「当時『朝鮮人が井戸に毒を入れた』などの根拠なき情報があふれ、実際に大勢の朝鮮人が殺害された」として、流言飛語が虐殺という大きな悲劇にまで至る過程を分析した記事を伝えた。
実際日本では、大きな地震など災害が発生するたびに、大小のフェイクニュースが広まることがあった。関東大震災のときには、地震発生からわずか1時間で「富士山が大爆発した」「東京にだけ猛烈な津波が襲ってきた」などの誤った情報が警察の報告で入ってきた。地震発生のおよそ3時間後から「朝鮮人が放火した」などの偽りの情報が警察に相次いで入り、次第に具体化し始めた。情報はうそだったが。当時は公に信用のあった「警察情報報告」として受け入れられ、日本政府もこの内容を信じた。
日本メディアは、100年が経過した今、災害に関するフェイクニュースはデジタル技術を通して次第に巧みなものになっていると警告している。例えば2011年3月11日、福島第一原子力発電所事故を起こした東日本大震災では、ソーシャルメディアのツイッター(現在のX)に、普段より2倍も多いツイートがあったとNHKは伝えた。事実と共にフェイクニュースも混じって広まった。特に「製油所の高圧ガスタンクが爆発し、(全国に)有害物質の混じった雨が降る」という偽情報は10時間にわたり日本全域で共有された。2016年4月に熊本でマグニチュード6.5の地震が発生したときは「動物園からライオンが脱走した」として、1頭のライオンが夜の町をうろつく、ぞっとするような写真がオンライン空間に出回った。この写真は、その後、日本ではなく海外で撮影されたものと確認された。だがツイッター上だけでも既に2万人がこの写真をリツイートした後だった。
ソーシャルメディアで流言飛語の伝達力が高まったとすると、ディープフェイク(deepfake。本物に似せて作ったデジタル視覚物)などAI技術の発展は、事実と区別し難い精巧なフェイクニュースを作り出す一助となっている。代表的な事例が、昨年9月にソーシャルメディアで広まった「静岡水没」写真だ。当時、台風15号(アジア名:タラス)の影響で静岡県一帯に豪雨が降ったが、「地域全体が水に漬かった」とする3枚の写真がツイッターに投稿された。この写真は誇張された捏造(ねつぞう)写真だと判明した。既に台風で被害が大きくなっている中、ツイッターで急速に拡散したこの写真により、住民らの間で恐怖が一層つのった。
2021年2月に宮城・福島一帯で地震が発生したときには、加藤勝信官房長官(当時)が災害の状況をあざ笑うかのような明るい表情で記者会見を行うフェイク写真がツイッター上で拡散し、物議を醸した。国立情報学研究所(NII)の越前功教授は「実在する人物の偽のイメージを一から作り出したり、そもそも存在しない架空のストーリーを作ることすら、(ディープフェイクを通して)可能になった」と警告した。
キム・ドンヒョン記者、成好哲(ソン・ホチョル)東京支局長
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2023年9月9日 YAHOO!JAPANニュース FNNプライムオンライン「「Z世代が考え、伝える戦争」若い世代はどうすれば関心持つのか 終戦から78年…記憶のバトン受け継ぐには
終戦から78年がたち、日本の人口のうち「戦後生まれ」が87%に達した。戦争を知る広島や長崎の被爆者の平均年齢は85歳を超えていて、「生の声」を引き継いでいけるかが課題となっている。「Z世代」と呼ばれる若者たちが “戦争の記憶を受け継ぐ”取り組みを始めていた。
【画像】記憶を頼りに戦前の写真をカラー化…「記憶の中の色」が再現された
終戦から78年 戦争への関心薄れるZ世代
2023年7月30日、名古屋市東区で、夏休み中の高校生5人が戦争について議論していた。
女子生徒A:
“日常が壊れる”っていうのが、私の戦争のイメージ
女子生徒B:
戦争を止めるために考えなきゃいけない。まずは戦争を知っていかなきゃいけない
名古屋市が企画した「戦争と平和」についてのワークショップに向け、準備を進めていた。
女子生徒C:
「平和のイベントあるよ」とか、そういう情報発信できるSNSアカウントがあると面白いかな
女子生徒D:
花火などの楽しいイベントを開催する。若い人たちの意識を変えなきゃ
“どうすれば若い世代が戦争と平和を考える機会になるのか”を、「Z世代」と呼ばれる彼ら自身が考えていた。「Z世代」とは、諸説あるが、1990年代中盤から2010年代前半生まれの世代のことだ。
Q.同級生で戦争に関心がある人はいますか?
女子生徒E(高校2年):
正直いないですね。若者たちがこれから戦争について考えていかなきゃいけないのに、関心がないのが一番の課題だと私は思っています
終戦は1945年8月15日、今から78年前のことだ。2023年4月に公表された人口推計では、日本の総人口のうち戦後生まれの割合は87%に達した。
戦争の実体験を語ることのできる人が減っていく今、その記憶のバトンを受け継いでいくことが重要な課題となっている。
しかしZ世代の関心は、決して高くないようだ。
Q.終戦の日がいつかわかりますか?
女子生徒F(高校3年):
待って、知らないわ。知らないです
女子生徒G(高校1年):
7月?
女性生徒H(高校2年):
15日?8月15日じゃない?
Q.戦争が身近で起きると感じることはありますか?
大学生3年生:
日本は終戦してから平和なイメージを持っているので、(戦争が起こることは)無いかな日本はって思っちゃってます
男子生徒A(高校2年):
「怖いね」とかそういう話は出るけど、身近でどうかと考えるとそうではないですね
戦争は「遠い昔の出来事」と感じるのが、彼らの本音なのかもしれない。
原爆投下前のモノクロ写真をカラー化 女子大学生の「記憶の解凍」
広島出身で大学4年生の庭田杏珠(にわた・あんじゅ 21)さんは「新しい伝え方」で戦争の記憶を受け継ごうとするZ世代だ。
庭田杏珠さん:
戦争や平和についてあまり関心のない世代にも、どうやったら自分事としてとらえてもらえるのか
8月1日、原爆の被害などについて学ぶメディア向けの研修会が広島市で開かれ、庭田さんは講師として参加していた。
庭田さんが6年前から続けているのが、原爆投下前のモノクロ写真に「色」を吹き込む活動だ。「記憶の解凍」と呼んでいる。
幼い頃に資料館で見た悲惨な光景にショックを受け、平和学習が苦手だったという庭田さん。しかし小学5年生のころ、原爆投下前の広島を紹介したパンフレットを見て、「苦手意識」から「伝えていきたい」という思いに変化した。
庭田さんの「記憶の解凍」の作業はまず、白黒の写真にAIを使ってカラー化を施す。
庭田杏珠さん:
これがAIでカラー化した写真なんですけど、ここから手作業で色補正をしていきます
モノクロの写真にAIでおおよその色を付けたら、当時の資料や持ち主との会話をもとに手作業で補正していく。
庭田杏珠さん:
当時は、藍色だったり紫色の着物が多くて、よく着られていたっていうことだったので。色補正をしていく中で、おばあさまやお母さまがどんな方だったのかっていうお話も伺っていきます
「記憶の中の色」を丁寧に再現し、カラー写真ができ上がった。
AIでカラー化をしただけではセピアのようだった写真が、手作業の色補正で印象が大きく変わった。
庭田杏珠さん:
本当に、飛び出してきそうなというか。今と同じような日常があって、それが一瞬にして原爆で失われたんだなって想像することができる
きっかけくれた人も亡くなる…減少する戦争経験者
庭田さんが写真のカラー化を始めたのは、この家族写真に写っていた浜井徳三(はまい・とくそう)さんとの偶然の出会いがきっかけだ。
浜井さんは、現在の平和記念公園がある旧・中島地区で生まれ、戦争を経験した。
広島に原爆が投下された時は疎開中で無事だったが、家族は全員が犠牲になった。
庭田杏珠さん:
疎開先に持っていったために、大好きな家族との白黒写真220枚が入ったアルバムが残っていたんですね。それをカラー化することで、大好きだったご家族のことをいつも近くに感じてもらえたらな、というところから始まりました
写真について話をしながら、当時の暮らしを教えてくれた浜井さん。戦争を知らない庭田さんにとって貴重な時間だったが、その浜井さんも2023年7月、88歳で亡くなった。また1人、戦争を経験した人がこの世を去った。
庭田杏珠さん:
一番の大きな課題は、戦争を体験された方が少なくなっていること。戦争を体験していない世代の私たちになにができるのかを考える意味というのが、すごく重要になってくると思うんです。戦争の悲惨な部分というものを学んで伝えるってことももちろん大事ですし、自分にできることは何かというところを考えて想像して、別の形で伝え続けるということが、新しい継承になるんじゃないかなと思っています
ARアプリで戦争前の街並みを再現 参加者「タイムスリップした感じ」
原爆が投下されてから78回目となる2023年8月6日、広島市で平和記念式典が行われ、多くの人が黙祷を捧げた。
庭田さんは、浜井さんの故郷・旧中島本町の慰霊祭に参列していた。
カラーにした浜井さんの家族写真を手に、冥福を祈った。
庭田さんにはこの日、もう一つ大切な役目があった。
庭田杏珠さん:
よろしくお願いします
以前、講演をしたことがある神奈川県藤沢市から依頼され、小学生から大学生までの平和学習の案内役を担うこととなった。
タブレットを手に、道路や木々などをカメラに映して歩く学生たち。庭田さんが開発に携わった「ARアプリ」を使っていて、平和記念公園でタブレットのカメラを掲げると、かつてそこに何があったのかカラー化した画像が表示される。
庭田杏珠さん:
今、なにもないけど、本当はここにお店があって…
原爆投下がなければ、残っていたかもしれない街並み。今の技術でそこにいた人々の息吹を感じながら、当時の広島に思いを巡らせることができる。
庭田杏珠さん:
どうでしたか?歩いてみて
参加した女子生徒:
こういう写真って、インターネットで調べればいくらでも出てくると思うんですが、タブレットで自分で持ちながらその土地を実際に歩くことで、タイムスリップした感じで現実をより深く理解することができたかな
「知らない」から「知ろう」とする。そして、「知った」ことを誰かに「知ってもらう」。庭田さんが戦争を経験した人から受けたバトンは、この日、新たな若い世代に託されている。
庭田杏珠さん:
ロシア・ウクライナの戦争が明るみになって、割と皆さん関心を持っているのかなと思います。でも、それが一時的なものになってしまうんじゃないかなというところは思っていますね。受け取った戦争体験者の思いを、自分なりの方法で伝えることが、これから新しい継承の形として大事だと思っています
“経験者”の時間はあとわずか…Z世代が模索する新しい伝え方
2023年8月10日、戦争と平和について考えるワークショップが名古屋市昭和区で開かれ、高校生24人が集まった。
女子生徒I:
お祭りの中に追悼式があって、マーケットがあって、平和について学ぶみたいな
「祭りとのコラボ」や「SNSでの発信」といった、既成概念にとらわれない若い世代が関心を持つ“伝え方”を、それぞれが模索していた。
男子生徒B:
来場者全員にランタンを配って、平和への思いを書いてもらいます
男子生徒C:
現地の人に話を聞くのが一番印象に残ると思うんですよ
女子生徒J:
空襲カレンダーを作りたい、というのがありました
「Z世代」が考え、伝える戦争。戦争の実体験を聞くことができる時間は、もう決して長くはない。
ジャーナリストの大谷昭宏さんは、戦争の生の体験を聞けるのはZ世代などの若い人たちが「最後の世代」で、さらに下の世代へは「今の世代がバトンタッチするしか伝える手段はなくなっていく」と説明し、戦争の記憶を受け継ぐ重要さを訴えた。Z世代がAIなどを使って写真を復元する手段については「非常に有効」とし「“自分たちがバトンをつなぐ”ということが、戦争を起こさせないというメッセージとして伝わっていくはず」と話した。
2023年8月18日放送
(東海テレビ)
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