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 2021年10月9日 MicrosoftNews JBpress「いち早くデジタル化に着手したコダックがなぜ倒産?
荒木 博行
 © JBpress 提供 写真:AP/アフロ
 © JBpress 提供 コダック製品の代表例であるリバーサルフィルム「コダクローム」(写真:Newscom/アフロ)
 © JBpress 提供 コダックデジタルカメラEasyShare C340(2005年国内発売、写真:AP/アフロ)
 © JBpress 提供 世界「倒産」図鑑 波乱万丈25社でわかる失敗の理由(荒木博行著、日経BP
 © JBpress 提供 世界「失敗」製品図鑑 「攻めた失敗」20例でわかる成功への近道(荒木博行著、日経BP
 フィルム市場とカメラ市場で圧倒的ナンバーワンとなったコダックがなぜ倒産したのか? 失敗して倒産した企業の事例は、とても大きな気づきの機会をもたらし、私たちの行動を変えるヒントを与えてくれる。失敗はネガティブな事象ではあるが、後世を生きる人間にとっては成功事例以上に貴重な学習材料になるのだ。(JBpress)
 ※本稿は『世界「倒産」図鑑 波乱万丈25社でわかる失敗の理由』(荒木博行著、日経BP)より一部抜粋・再編集したものです。
 私は、学びデザインという企業を立ち上げ、スタートアップの学びの場のプロデュースや新規事業立ち上げのサポートを行う傍らで、武蔵野大学アントレプレナーシップ学部において、学生にビジネスの作り方を教えています。
 教育の現場においては、一般的にはケースという実際の企業事例を活用しながら、学びを深めていくことが多いのですが、使用される事例は国内外問わずどのスクールにおいても、成功事例の方が取り上げられがちです。
 失敗事例はその逆で、責任問題やステークホルダーとの関係などがあり、語りづらいことばかりで、ケースにはなりにくい、というのがその背景です。だからこそ、時として形になる失敗事例のケースはとても大きな気づきの機会をもたらし、私たちの行動を変えるヒントを与えてくれるのです。
 なぜ失敗事例を通じて学ぶことの方が示唆深いのか。あえて言語化をすれば、「失敗することでしか気づけないことがあるから」ということだと思います。ひどい経営であったにもかかわらず、景気の波に乗って短期的な成功を遂げてしまう企業はたくさん存在します。
 その成功の途上で「経営の本質的な課題」に気づくことはとても難しい。なぜならば、成功してしまっているからです。
 しかし、やがてはその課題は水面下で肥大化し、企業が失敗した段階で初めて水面上に顕在化してくる。だからこそ、自分たちが成功や成長を遂げている時ほど、先人たちの失敗事例を通じて、その「水面下に潜む課題」というものにあらかじめ思いを馳せる必要があるのです。
 「フィルム」を人々に知らしめた
 コダック1884年にジョージ・イーストマンが創業した企業です。家計が苦しかったイーストマン一家に生まれたジョージは、14歳から保険会社で働き始め、銀行へと転職し、家計を支えます。転機が訪れたのは彼が24歳の時。趣味として湿板技術による大きな写真機材を持っていたジョージは、湿板技術の不便さを感じるとともに、いつでも撮影できるようになる乾板技術の可能性にいち早く気づきます。
 そこで、銀行に勤めながらも、その傍らで乾板のプロセス技術の開発に精を出し、3年後の1880年、ようやく乾板そのものと乾板生産技術の完成に至ります。その特許を持ってジョージは銀行を退職し、1884年イーストマン・ドライ・プレート・アンド・フィルムを設立しました。確固たる技術をベースにしたベンチャー企業の誕生でした。
 ちなみに、コダックという名前が社名になるのは、創業後のことです。コダックという言葉そのものに特に何か意味があるわけではありません。後にジョージが語ったところによると、彼はKという文字に力強さを感じ、Kで始まりKで終わる組み合わせの中から、「KODAK」という言葉を生み出したとのことです。そして、1888年にはこのKODAKブランドを付けたカメラが売り出され、1892年には社名もイーストマン・コダックに変更されます。
 ジョージは写真というものはプロのためだけではなく、一般の家庭に浸透するべきだというビジョンを持っていました。面倒なカメラのプロセスをもっと簡単なものにして、「カメラを鉛筆並みの便利な道具に生まれ変わらせたい」という想いを胸に、彼はいち早くフィルムビジネスの未来を読み解き、ガラス製写真感光板の製法を確立します。そして、世界で初めてロールフィルム、後にカラーフィルム(1935年)を発売するのです。
 当初、フィルムというものがまだ存在しなかったため、コダックはその浸透に努めました。つまり、フィルムそのものの認知を高め、より多くの人に実際に使ってもらうことが大切だったのです。
 そのためには、技術への投資のみならず、営業やマーケティングへの投資も必要不可欠と判断したコダックは、大々的な宣伝への投資とフィルム販売店との関係強化に努めます。特に、「あなたはシャッターを押すだけ、あとは当社にお任せください」というキャッチフレーズの広告で市場に大きなインパクトを与え、フィルムカメラがどのようなものかわからない顧客に対する認知度を高めました。
 フィルム市場を切り拓きナンバーワンに
 さらに、フィルムの浸透を図るために、価格面においては「レーザーブレード戦略」を採用しました。つまり、髭剃り本体を安くして替え刃で儲けるビジネスのように、カメラを低価格で売り、その後のフィルム販売で儲けるようにしたのです。
 これらの戦略は、実はマーケティングの教科書にある「4P」という基礎的なポイントをしっかり押さえていることがわかります。4Pとは、製品をちゃんと売るためには、Product(商品)、Price(価格)、Place(チャネル)、Promotion(販促)という4つのPの整合が重要である、という概念であり、コダックの当時の販売戦略は結果的にこの論点をしっかり押さえていたわけです。
 このように時代を見極めて正しい戦略を推進した結果、コダックはフィルムの市場拡大ともに、順調に成長していったのでした。1962年には、コダックの売上は10億ドルに達します。さらに同社は、一般消費者向けにとどまらず医療用画像やグラフィックアート向けにも領域を拡大しました。こうした製品のほとんどは、銀塩技術を使い、少しずつ改良を重ねたものでした。
 そして、コダックは、1976年にはアメリカ国内のフィルム市場の90%、カメラ市場の85%を占めるようになっていました。圧倒的ナンバーワンであり、コダックの技術的な強さと市場への展開スピードにより、有力な競合他社が現れることはありませんでした。そして、創業して100年が経とうとする1981年に、コダックの売上はとうとう100億ドルに達したのです。
 このようにフィルム市場を切り拓き、その市場の拡大とともに安定的に成長したコダックの100年の歴史でしたが、1980年代、市場に大きな変化が訪れます。デジタル化です。
 実はいち早くデジタル化を進めたが…
 コダックが100億ドルの売上を計上した1981年、ソニーはテレビ画面上に画像を表示するフィルムレスの電子スチルビデオカメラ「マビカ」を発表しました。この商品を皮切りに、市場の関心はデジタル化に向いていきます。
 とはいっても、コダックはデジタル技術に遅れていたわけではありません。実はコダックは、ソニーよりも前に世界最初のデジタルカメラの試作機を作った会社でもありました。それはなんと1975年のことです。デジタルカメラの普及版となるカシオ計算機の「QV-10」が世に出たのが1995年のことですから、それより20年も前にコダックはデジタル化の流れに気づき、そして開発投資を行っていたのです。
 しかし、コダックは、それと同時並行で「フォトCD」というデジタル写真の保存用製品を商品化します。コダックは、写真ビジネスは「撮影」だけで儲けるのではなく、その後工程の「現像」「印刷」に大いなる利潤があることを長年の歴史を通じて知っていました。デジタル化の時代になったとしても、ビジネスモデル全体を押さえなければ、今まで通りの売上や利益を確保できない。そう考えて撮影だけにとどまらない技術開発を行ったのです。
 しかし、コダックはその後、悲劇的な結末を迎えます。結果的に、デジタルカメラにおいては1990年代後半には多くのプレイヤーが参入し、コダックは競争力を失います。そしてデジタルデータの記録媒体は独自の進化を遂げ、フォトCDの定着には至りませんでした。
 さらに既存事業であるフィルムも、残存利益の確保において富士フイルムの価格攻勢に遭い、収益力を失ったまま、デジタルカメラの浸透によって完全に道を閉ざされます。
 そして2012年、コダックは連邦倒産法第11章を申請し、倒産に至ります。市場を創造し、130年もの歴史を持つグローバル大企業にしては、何ともあっけない倒産劇でした。
 身に付いた成功の形を変えられなかった
 コダックは創業以来、前述の通り、「レーザーブレード戦略」で大成功を遂げました。つまり、上流の製品と下流のフィルムまでを一貫して手掛け、入口のハードルを低めながら全体で収益を上げる戦いによって成功していたのです。
 しかし、デジタル化の流れは、一般的にこのような「一貫した仕組み」を分断し、破壊します。ハードはハードで、ソフトはソフトで、切り離された戦いを成立させていくのです。こういうことを、専門用語ではビジネスの「アンバンドル化」と言います。
 いったんビジネスがアンバンドル化されると、統合型のビジネスを手掛けていた企業は一気に力を失います。統合して全体を調整していく強みが、一気に無力化・負債化するからです。
 コダックは、ビジネスを何としてでも「統合型」として成立させるように仕掛けていきますが、それは川の流れを素手で押し止めようとするようなもの。自然の摂理には敵いません。
 結果的には、その流れを止めることができず、アンバンドル化の過程で崩壊していくのです。もちろん、コダックの思慮が足りなかったという側面もあるかもしれませんが、私たちは後日談をベースにこの事例を笑うことはできません。優秀な人材はたくさんいたでしょうし、彼らによるビジネスの分析も行われていたはず。デジタル化に真っ先に踏み込んだ通り、デジタル化の未来を予測し、最も脅威を感じていたのはコダックだったのかもしれません。
 しかし、それ以上に、コダックには「保守派」「守旧派」と呼ばれるステークホルダーが多く存在していました。銀塩周りの写真品質にこだわる技術者や、現像に関わる販売店など、従来のコダックのビジネスモデルによって潤う人たちはたくさん存在したのです。このような技術的転換点において、経営者はジレンマに陥り、そして、ジレンマは「希望的観測」を生み出します。「こうなってくれた方が私たちにとって強みが活かせる」「この方が私たちに都合が良い」という願いが冷静な分析を打ち消していくのです。
 創業者のジョージ・イーストマンが考えたように、この当時の経営陣もビジネスを「ゼロベース」で考えるべきだった、というのはその通りでしょう。しかし、実際の経営は、こういったジレンマに伴って湧き上がってくる「希望的観測」を黙らせないと前に進まないというのが現実。コダックはその向き合い方に失敗したのかもしれません。
 私たちが学べること
 このコダックの事例は、経営のイシューとしても捉えることができますが、個人のキャリアとして考えても多くの示唆を含んでいます。
 過去の成功を受けて、当面は収入に困らない仕事がある。そしてその収入をベースにしながら、養うべき家族がある。しかし、中長期的には技術転換があり、その仕事がなくなる可能性がある……。こんな風に置き換えてみると、この意思決定の難しさに対するリアリティを感じられるのではないかと思います。
 「仕事を変えたくない」「変わりたくない」という気持ちが、「これだけ一生懸命にやっているのだから、このままでも何とかなるかもしれない」という希望的観測を生み、徐々に危機意識が麻痺していくのです。
 もちろん、当人は、そうやってキャリア形成に失敗した先人たちのストーリーも知っているのですが、「その件は自分には当てはまらない」と思っている。コダックの経営陣もそんな心境に似たような状態だったのかもしれません。厳しい状態に置かれた時に常に湧き上がってくる「都合の良い希望的観測」にどう打ち勝っていくか。そこに万人に通用する絶対解はありません。
 しかし、このような先人たちのジレンマを知っておくだけでも、客観的に考えるきっかけをもたらしてくれるのではないでしょうか。
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 以上、一度成功した企業が、重要な戦略変換のタイミングで二の足を踏んで変われずに倒産してしまったパターンとして、コダックの例を紹介しました。
 次回は、トップと現場の距離感が離れ過ぎていて、組織としての機能不全が理由で倒産に至った例として、タカタを取り上げます。
 また、新製品や新サービス、もしくは新規事業の「失敗」に焦点を当てた続編『世界「失敗」製品図鑑』が10月14日に発売されます。」
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