・ ・ ・
関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
2023年2月23日 MicrosoftStartニュース ダイヤモンド・オンライン「絶頂期を迎えていた日本の半導体メーカーが犯した最大のミスとは
クリス・ミラー, 千葉敏生
NYタイムズが「映画『チャイナ・シンドローム』や『ミッション:インポッシブル』並のノンフィクション・スリラーだ」と絶賛! エコノミストが「半導体産業を理解したい人にとって本書は素晴らしい出発点になる」と激賞!! フィナンシャル・タイムズ ビジネス・ブック・オブ・ザ・イヤー2022を受賞した超話題作、Chip Warがついに日本に上陸する。
にわかに不足が叫ばれているように、半導体はもはや汎用品ではない。著者のクリス・ミラーが指摘しているように、「半導体の数は限られており、その製造過程は目が回るほど複雑で、恐ろしいほどコストがかかる」のだ。「生産はいくつかの決定的な急所にまるまるかかって」おり、たとえばiPhoneで使われているあるプロセッサは、世界中を見回しても、「たったひとつの企業のたったひとつの建物」でしか生産できない。
もはや石油を超える世界最重要資源である半導体をめぐって、世界各国はどのような思惑を持っているのか? 今回上梓される翻訳書、『半導体戦争――世界最重要テクノロジーをめぐる国家間の攻防』にて、半導体をめぐる地政学的力学、発展の歴史、技術の本質が明かされている。発売を記念し、本書の一部を特別に公開する。
Photo: Adobe Stock
© ダイヤモンド・オンライン
半導体メーカーによる過剰投資こそ
日本不調の原因だった
ソニーの盛田昭夫は、1980年代、ジェット機で世界中を飛び回り、ヘンリー・キッシンジャーとの夕食、オーガスタ・ナショナルでのゴルフ、三極委員会などでの世界のエリートたちとの交流に明け暮れる毎日を送っていた。
彼は国際舞台でビジネスの賢人として崇められ、昇り竜のような勢いの世界的な経済大国、日本の代表的人物として扱われていた。
「ジャパン・アズ・ナンバーワン」〔「ナンバーワンとしての日本」という意味で、アメリカが教訓にすべき日本の高度経済成長の要因について分析したエズラ・ヴォーゲルの1979年の著書のタイトルとして有名〕の体現者だった彼にとって、この言葉を信じるのはたやすかった。ソニーのウォークマンをはじめとする消費者家電を追い風に、日本は繁栄を遂げ、盛田は財を築いた。
ところが、1990年に危機が襲いかかる。日本の金融市場が崩壊したのだ。経済は落ち込み、深刻な不況へと突入した。たちまち、日経平均株価は1990年の水準の半値近くにまで下落し、東京の不動産価格はそれ以上に暴落した。日本経済の奇跡が音を立てて止まったのだ。
一方、アメリカは、ビジネスの面でも戦争の面でも復活を遂げる。わずか数年間で、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」はもはや的外れな言葉に思えてきた。日本の不調の原因として取り上げられたのが、かつて日本の産業力の模範として持ち上げられていた産業だった。そう、半導体産業である。
ソニーの株価急落とともに、日本の富が目減りしていく様子を眺めていた69歳の盛田は、日本の問題が金融市場より根深いものだと悟った。彼は1980年代、金融市場における「マネー・ゲーム」ではなく、生産品質の改善に励むよう、アメリカ人に説いてきた。
しかし、日本の株式市場が崩壊すると、日本自慢の長期的な思考がとたんに色褪せて見えてきた。日本の表面上の優位性は、政府が後押しする過剰投資という名の持続不能な土台の上に成り立っていたのだ[1]。
安価な資本は半導体工場の新造を下支えした反面、半導体メーカーが利益よりも生産量に目を向けるきっかけとなった。マイクロンや韓国のサムスンといった低価格なメーカーが価格競争で日本企業に勝っても、日本の大手半導体メーカーはDRAM生産を強化しつづけたのである[2]。
日本のメディアは半導体部門で起きている過剰投資に気づき、新聞の見出しで「無謀な投資競争」「止められない投資」などと警鐘を鳴らした。しかし、日本のメモリ・チップ・メーカーのCEOたちは、利益の出ないなかでも、新しい半導体工場の建設をやめられなかった。
日立のある経営幹部は、過剰投資について「心配しだすと、夜も眠れなくなる」と認めた[3]。銀行が融資を続けてくれるかぎり、収益化の道はないと認めるよりも、支出を続けるほうがCEOたちにとっては楽だった。
アメリカの非情な資本市場は、1980年代にはメリットとは思えなかったが、裏を返せば、融資を失うリスクこそがアメリカ企業を常に用心させたともいえる。
日本の半導体メーカーが犯した
最大のミスは「PCの隆盛を見逃したこと」
日本のDRAMメーカーは、アンディ・グローブのパラノイアや、商品市場の気まぐれに関するジャック・R・シンプロットの知恵から学べることがあったはずなのに、全員でいっせいに同じ市場に投資した結果、共倒れを運命づけられてしまったのだ。
その点、DRAMチップに大きく賭けることがなかったという意味で、日本の半導体メーカーのなかでは異色の存在だったソニーは、イメージ・センサー専用のチップなど、革新的な新製品の開発に成功した。
光子〔光の粒子〕がシリコンに当たると、チップにその光の強さに比例する電荷が生じるため、画像をデジタル・データに変換することが可能になる。したがって、ソニーはデジタルカメラ革命を引っ張るには絶好の立場にいたわけで、画像を検知する同社のチップは今でも世界の先端を走っている。
それでも、ソニーは不採算部門への投資の削減に失敗し、1990年代初頭から収益性が目減りしていった[4]。
しかし、日本の大手DRAMメーカーの大半は、1980年代の影響力を活かしてイノベーションを促進するのに失敗した。大手DRAMメーカーの東芝では、1981年、工場に配属された中堅社員の舛岡(ますおか)富士雄が、DRAMとはちがって電源が切られたあともデータを“記憶”しつづけられる新種のメモリ・チップを開発した。
ところが、東芝が彼の発見を無視したため、この新種のメモリ・チップを発売したのはインテルだった。そのメモリ・チップは一般に、「フラッシュ・メモリ」またはNANDと呼ばれている[5]。
しかし、日本の半導体メーカーが犯した最大のミスは、PCの隆盛を見逃したことだった。日本の大手半導体メーカーのなかで、インテルのマイクロプロセッサ事業への方向転換や、同社の支配するPCのエコシステムを再現できる企業はなかった。
唯一、NECという日本企業だけがそれを試みたのだが、マイクロプロセッサ市場でわずかなシェアを獲得するにとどまった。
グローブとインテルにとって、マイクロプロセッサで利益を上げられるかどうかは死活問題だった。しかし、DRAM部門で圧倒的な市場シェアを誇り、財務的な制約がほとんどなかった日本のDRAMメーカーは、マイクロプロセッサ市場を無視しつづけ、気づいたときにはもう手遅れになっていた。
その結果、PC革命の恩恵を受けたのは、多くがアメリカの半導体メーカーだった。一方、日本の株式市場が暴落するころには、日本の半導体分野での優位性はすでにむしばまれつつあった。
注
1 Michael Pettis, The Great Rebalancing(Princeton University Press, 2013).
2 Yoshitaka Okada, “Decline of the Japanese Semiconductor Industry,” in Yoshitaka Okada, ed., Struggles for Survival(Springer, 2006), p. 72.
3 Marie Anchordoguy, Reprogramming Japan(Cornell University Press, 2005), p. 192.
4 Sumio Saruyama and Peng Xu, Excess Capacity and the Difficulty of Exit: Evidence from Japan’s Electronics Industry(Springer Singapore, 2021); “Determination Drove the Development of the CCD ‘Electric Eye,’ ” Sony, https://www.sony.com/en/SonyInfo/CorporateInfo/History/SonyHistory/2-11.html.
5 Kenji Hall, “Fujio Masuoka: Thanks for the Memory,” Bloomberg, April 3, 2006; Falan Yinung, “The Rise of the Flash Memory Market: Its Impact on Firm Behavior and Global Semiconductor Trade Patterns,” Journal of International Commerce and Economics(July 2007).
(本記事は、『半導体戦争――世界最重要テクノロジーをめぐる国家間の攻防』から一部を転載しています)
・ ・ ・
2月24日 MicrosoftStartニュース ダイヤモンド・オンライン「かつての日本の半導体メーカーは何がすごかったのか
クリス・ミラー, 千葉敏生
NYタイムズが「映画『チャイナ・シンドローム』や『ミッション:インポッシブル』並のノンフィクション・スリラーだ」と絶賛! エコノミストが「半導体産業を理解したい人にとって本書は素晴らしい出発点になる」と激賞!! フィナンシャル・タイムズ ビジネス・ブック・オブ・ザ・イヤー2022を受賞した超話題作、Chip Warがついに日本に上陸する。
にわかに不足が叫ばれているように、半導体はもはや汎用品ではない。著者のクリス・ミラーが指摘しているように、「半導体の数は限られており、その製造過程は目が回るほど複雑で、恐ろしいほどコストがかかる」のだ。「生産はいくつかの決定的な急所にまるまるかかって」おり、たとえばiPhoneで使われているあるプロセッサは、世界中を見回しても、「たったひとつの企業のたったひとつの建物」でしか生産できない。
もはや石油を超える世界最重要資源である半導体をめぐって、世界各国はどのような思惑を持っているのか? 今回上梓される翻訳書、『半導体戦争――世界最重要テクノロジーをめぐる国家間の攻防』にて、半導体をめぐる地政学的力学、発展の歴史、技術の本質が明かされている。発売を記念し、本書の一部を特別に公開する。
Photo: Adobe Stock
© ダイヤモンド・オンライン
アメリカ企業製DRAMチップの故障率は
日本企業と比べて4.5倍も高かった
「あなたが例の論文を書いて以来、私の人生は地獄ですよ[1]!」。ある半導体のセールスマンが、ヒューレット・パッカード(HP)の経営幹部のリチャード・アンダーソンに愚痴をこぼした。業界一厳しいといわれる同社の基準を満たすチップを判断するのが、彼の仕事だった。
1980年代は、アメリカの半導体部門全体にとって地獄のような10年間だった。シリコンバレーはすっかり世界のテクノロジー業界の雄のような気分でいたが、20年間にわたる急成長は止まり、今では存亡の危機と向き合っていた。日本との熾烈な競争である。
1980年3月25日、ワシントンの由緒あるメイフラワー・ホテルで開かれた業界会議で、アンダーソンが舞台に上がると、聴衆は固唾をのんで彼の話に耳を傾けた。全員が彼に自社の半導体を売りつけようと考えていたからだ。
彼の勤めるHPは、スタンフォード大学の卒業生のデビッド・パッカードとウィリアム・ヒューレットがパロアルトのガレージで電子機器をいじり始めた1930年代に、シリコンバレーの新興企業という概念を発明した会社として知られる。その会社が今では、アメリカ最大のテクノロジー企業のひとつ、そしてアメリカ最大の半導体の買い手のひとつになっていた。
チップに関するアンダーソンの購入判断は、ひとつの半導体メーカーの社運を左右するほどの影響力を持っていたが、シリコンバレーのセールスマンたちは、彼との接待を禁じられていた。「昼食の誘いに応じることはたまにあったがね」と彼は恐縮した様子で認めた。
しかし、彼こそがほとんどの人にとっての最重要顧客であるHPの門番であることは、シリコンバレーでは周知の事実だった。彼はその仕事を通じて、各企業の業績も含めた半導体業界の全景を見渡すことができる立場にいた。
今や、インテルやテキサス・インスツルメンツなどのアメリカ企業に加えて、東芝やNECといった日本企業までもがDRAMチップをつくっていたが、日本企業のことを深刻にとらえる者はシリコンバレーにほとんどいなかった。アメリカの半導体メーカーを経営するのは、ハイテクを発明した張本人たちだった。
彼らは冗談で、日本のことを「カシャ、カシャ」の国、と呼んだ[2]。日本の技術者たちが、アイデアを“丸写し”するために半導体会議へと持ち込むカメラのシャッター音になぞらえた表現だ。
アメリカの大手半導体メーカーが日本のライバル企業との知的財産訴訟をいくつも抱えているという事実は、シリコンバレーのほうがまだかなり先を走っている証拠としてとらえられた。
しかし、HPのアンダーソンは、東芝やNECを深刻にとらえていただけではなかった。日本製のチップをテストした結果、アメリカの競合企業よりはるかに高品質だという事実に気づいてしまったのである。
彼の報告によれば、3社の日本企業のうち、最初の1000時間の使用で故障率が0.02%を上回った企業はひとつもなかった。対して、3社のアメリカ企業の故障率は最低でも0.09%。つまり、アメリカ製のチップのほうが4.5倍も故障が多い、ということになる。
最下位のアメリカ企業は、故障率が0.26%にもおよんだ。これは日本の平均の10倍以上悪い数字だ[3]。性能は同じ。価格も同じ。でも故障ははるかに多い。いったい誰がそんなものを買うというのか?
高品質で超効率的な日本の競合企業からプレッシャーを受けていたアメリカの産業は、半導体産業だけではなかった。終戦直後は、「メイド・イン・ジャパン」といえば「安物(チープ)」と同義語だった。
しかし、この安物という評判をはねのけ、アメリカ企業と同じくらい高品質な製品というイメージに置き換えたのが、ソニーの盛田昭夫のような起業家たちだ。彼のトランジスタ・ラジオはアメリカの経済的な卓越性にとって初めて重大な脅威となり、その成功から自信を得た盛田や日本の同志たちは、目標をいっそう高く定めた。
こうして、自動車から製鉄まで、アメリカの産業は日本との激しい競争にさらされることになる。
「日本はイノベーターというより実行である」という言説は正しくない
1980年代になると、家電製品づくりはすっかり日本のお家芸となり、ソニーがその先頭に立って新たな消費者向け商品を続々と発売し、アメリカのライバル企業から市場シェアをもぎ取っていった。最初、日本企業は、アメリカのライバル企業の製品をまね、それをより高品質、より低価格で製造することによって成功を築いた。
実際、イノベーションを得意とするのがアメリカなら、それを取り入れて活かすのに秀でているのが日本人だ、という考えを強調する日本人もいた。「わが国にはノイス博士もショックレー博士もいない」とある日本人ジャーナリストは記した。
現実には、日本人のノーベル賞受賞者の数は着々と増え始めていたのに、著名な日本人たちが、特にアメリカ人の聴衆に向けて話をするとき、自国の科学的な成功を卑下し続けた。
ソニー中央研究所所長で、有名な物理学者の菊池誠は、アメリカのジャーナリストに対してこう語ったことがある。日本には、「飛び抜けたエリートたち」を擁するアメリカと比べて天才が少ない。しかし、アメリカには、「標準的な知的水準に満たない」人々もまた「長く尾を引いている」。日本が量産を得意とするのはそのためだ、と彼は説明した[4]。
アメリカの半導体メーカーは、イノベーションの面でアメリカが優位である、という菊池の意見が正しいと信じて疑わなかった。それとは正反対のデータを目の前に積み上げられてもなお、である。
日本は「イノベーター」というより「実行者」である、という説を否定する何よりの証拠が、菊池の上司であるソニーCEOの盛田だった。彼は人まねが二流の地位や平凡な利益率の元凶だと考え、最高のラジオやテレビをつくるだけでなく、まったく新しい種類の製品を想像するよう技術者たちを鼓舞した。
1979年、アンダーソンがアメリカ製チップの品質問題についてプレゼンテーションを行なうわずか数ヵ月前、ソニーが同社の5つの最先端の集積回路を組み込み、音楽業界に革命を巻き起こした携帯音楽プレーヤー「ウォークマン」を発売する[5]。
たちまち、世界中のティーンエイジャーが、シリコンバレーで発明され日本で開発された集積回路のおかげで、お気に入りの音楽をポケットに入れて持ち歩けるようになった。こうして、世界で3億8500万台を売り上げたソニーのウォークマンは、史上もっとも人気のある家庭用電子機器のひとつへとのぼり詰める[6]。これはまぎれもないイノベーションだ。そして、それをつくったのは日本だった。
注
1 リチャード・アンダーソンへの2021年のインタビューより。Michael Malone, Bill and Dave: How Hewlett and Packard Built the World’s Greatest Company(Portfolio Hardcover, 2006); “Market Conditions and International Trade in Semiconductors,” Field Hearing Before the Subcommittee on Trade of the Committee of Ways and Means, House of Representatives, 96th Congress, April 28, 1980.
2 Michael Malone, The Big Score(Stripe Press, 2021), p. 248[邦訳:マイケル・S・マローン『ビッグスコア――ハイテク大儲け』中村定訳、パーソナルメディア、1987年、355~356ページ]; Jorge Contreras, Laura Handley, and Terrence Yang, “Breaking New Ground in the Law of Copyright,” Harvard Law Journal of Technology 3(Spring 1990).
3 Rosen Electronics Newsletter, March 31, 1980.
4 Malone, The Intel Trinity, p. 284[邦訳:マローン『インテル』324~325ページ]; Fred Warshofsky, Chip War: The Battle for the World of Tomorrow(Scribner, 1989), p. 101[邦訳:フレッド・ウォーショフスキー『日米半導体素子戦争 チップウォー――技術巨人の覇権をかけて』青木榮一訳、経済界、1991年、71ページ].
5 TPS-L2: User Manual(Sony Corporation, 1981), p. 24.
6 “Vol. 20: Walkman Finds Its Way into the Global Vocabulary,” Sony, https://www.sony.com/en/SonyInfo/CorporateInfo/History/capsule/20/.
(本記事は、『半導体戦争――世界最重要テクノロジーをめぐる国家間の攻防』から一部を転載しています)
・ ・ ・
3月4日6:00 MicrosoftStartニュース ダイヤモンド・オンライン「【元NECのトップ技術者が解説!】世界一だった日本の半導体メーカーは、なぜ凋落したのか?
菊地正典
半導体への関心が高まるなか、開発・製造の第一人者である菊地正典氏が技術者ならではの視点でまとめた『半導体産業のすべて』が発売された。同書は、複雑な産業構造と関連企業を半導体の製造工程にそって網羅的に解説した決定版とも言えるものだ。
今回は、かつて世界トップのシェアを築いたNECで活躍した経験を踏まえ、日本の半導体メーカー凋落の原因を明かしてもらう。
失われた日の丸半導体の栄光
グローバルな半導体市場の推移のなかで、日本の半導体産業はどのような経緯を辿ってきたのでしょうか? 次の図には、1990年から2020年までの、半導体市場の地域別シェアの推移が示してあります。
半導体市場の地域別シェアの推移(本社所在地ベース)
© ダイヤモンド・オンライン
まず日本に着目すると、1990年には49%と世界のほぼ半数を占めていたシェアが、その後は坂を転げ落ちるように右肩下がりで減少し、2020年にはわずか6%にまで下がりました。しかし、この傾向はまだまだ止まりそうもありません。
これと対照的なのがアジアパシフィック地域です。1990年のわずか4%から2020年には33%へと、急激な右肩上がりの成長を続けています。この間、アメリカは38%から55%へと堅実な伸びを示し、ヨーロッパは9%から6%へと低レベルでの減少傾向を示しています。
次の図には、半導体メーカーの売上高ランキング(トップ10)の推移を1992年から2021年までの5年分を取り上げて示してあります。
半導体メーカーの売上高ランキング
© ダイヤモンド・オンライン
1992年には世界トップ10のうち、日本のメーカーが6社を占めていました。それが2001年には3社、2011年には2社、2019年から2021年にはわずか1社になっています。
この間、米国は3社から5社へと増えただけでなく、インテルのコンスタントな健闘と、2001年以降に新しいメーカーの出現、およびその伸びが目立ちます。また2001年以降、韓国のサムスン電子とSKハイニックスがどんどん地位を上げ、2021年にはサムスンがインテルを抜いて世界一の半導体企業になっています。
これらのデータからもわかるように、1980年代まで半導体の世界では、日本企業が「日の丸半導体」と呼ばれて世界を席巻し、エズラ・ボーゲルに「ジャパン アズ ナンバーワン」と持ち上げられたのも今は昔で、もはやその面影もありません。まさに日本の「失われた30年」と軌を一にしているのです。
この30年間、我が国の半導体メーカーが目を覆うばかりに凋落した原因は一体何だったのでしょうか。日本企業が半導体分野で復活するためには、まずは「原因」を突き止めなければなりません。
そもそも「ダントツの地位」を築けた理由は何だったのか?
しかし、その前に、なぜ、日本の半導体メーカーが世界市場の50%、DRAMに限れば75%ものシェアを占めることができたのか、それから考えてみましょう。
半導体技術が、トランジスタから集積回路(IC:Integrated Circuit)、さらに大規模集積回路(LSI:Large Scale Integration)へと進歩するのに歩調を合わせるように、有力なアプリケーションの一つだった電卓分野で、1960年台後半から1970年台前半にかけて電卓戦争と呼ばれた激しい開発競争が行なわれました。これがやがてインテルのマイクロプロセッサ4004に繋がっていったことは周知の事実です。
また1973年から1974年にかけて、IBMからフューチャー・システムと呼ばれた次世代コンピュータシステムを開発するという研究開発プロジェクトが発表されました。これを実現するにはLSI技術の革新的な進歩が必要とされたのです。
これに触発された、あるいは焦った日本の半導体メーカーと政府(当時の「通商産業省」、現在の「経済産業省」)は、1976年に官民合同の超LSI技術研究組合を立ち上げ、1980年までの4年間、VLSI(Very Large Scale Integration 超大規模集積回路)の製造技術の確立に向けたロードマップの策定と製造設備の国産化に向けた活動を続けました。
この活動成果についてはさまざまな評価がありますが、誰もが認めるのはEB直描装置(電子ビームによる直接描画装置)とステッパー(縮小投影露光装置)の量産化の成功によって、その後のLSI技術進歩の大きな原動力になったことでしょう。
Photo: Adobe Stock
© ダイヤモンド・オンライン
ムダな仕事を強制された現場
このような背景の中で、筆者が所属していたNECの熊本工場(当時は世界に冠たる半導体工場)では、女性技術者が小集団チームを結成して発塵源の徹底的調査をしたり、製造現場からの自発的な品質管理のボトムアップ活動としてのQCサークル活動やトップダウンを含めたZD(ゼロディフェクト)活動など、日本人らしいきめ細かさで「歩留まり向上」など、生産活動の改善・向上に努めていました。
さらに主力製品が生産数量の多い標準品としてのDRAM(メモリ)だったこともあり、半導体に関して“how to make”(どのように作るか)としての経験や知識が世界に先駆けて磨かれたものと思われます。
しかしながら、先にも触れたように、1990年をピークに、我が国の半導体は衰退の一途を辿り始めます。その理由にもさまざまな理由が考えられます。
まず第一に、1985年に日米の政府間協議が始まり1986年に締結された「日米半導体協定」があります。
10年間続いた協定の内容は、日本に対する言いがかりとも取れる内容を含んでいました。たとえば、DRAMで日本が圧倒的シェアを占めているのは、「ダンピングによる安売りをしているのでは?」との疑いから、「価格は米国政府が決める」という、とんでもない取り決めでした。
この結果、日本の企業現場では何が起きたか? 両国政府が日本の半導体メーカーに対し、半導体製品のコストデータの提出を求めました。いわゆるFMV(Fair Market Value 公正市場価格)を算出するためという名目でしたが、筆者たちは一日の終業後に、「該当するDRAMにどのくらいの時間をかけたか」という報告義務を課されることになりました。
しかし、半導体工場では異なる製品が同じラインで製造されていましたので、製品ごとの装置、材料、人件費などの割合(賦課率)を算出しなければなりません。
もうひとつ、協定には「日本市場に占める外国製半導体の比率を、それまでの10%前後から倍増の20%にしなければならない」という、購買義務まで含まれていました。
このような不平等協定を飲まざるを得なかった日本の半導体業界の直接的ダメージはもちろん、このときのトラウマがその後の日本政府の半導体業界に対する政策に大きなマイナスの影響を与えました。
いっぽう、韓国、台湾、さらに近年では中国が、それぞれの政府による手厚い庇護のもと、半導体産業を大きく伸ばしたのとは対照的な状況が生まれたのです。日本でもその後いくつかの官民プロジェクトが組まれましたが、国の支援の規模を含め、結果として我が国半導体産業の復活には繋がりませんでした。
逆張り戦略のなさ、社内からは「金食い虫」扱い
第二の原因として、我が国の大手半導体メーカーは、すべて総合電機メーカーの一部門として存在していた、ということです。そんなこともあり、半導体部門は会社の中では「新参者」的な立場に置かれていました。半導体ビジネスに精通している経営トップ層は少なく、迅速かつ大胆な決定をできなかったことがあげられます。
半導体ビジネスでは、不況時にこそ投資を行ない、景気が良くなったら一気に売上を伸ばすという、株の売買でいえば「逆張り」の戦略が強く求められます。しかし、半導体ビジネスに精通していない経営陣ではコンセンサスを得ることは難しく、さらに他部門の役員からは「金食い虫」と揶揄されるような状況でした。
その点、韓国、台湾などの半導体企業では、そのビジネスに精通し、チャレンジ精神に溢れた強い経営者のもとで迅速かつ、思い切った戦略が取られたのです。
第三の原因としては、1990年代以降、半導体技術の急速な進展により、LSIを製造するファブ(工場)や装置に対する膨大な投資と、先端的製造技術が求められるようになりました。このため、従来のIDM(垂直統合型)からファウンドリー(受託生産)などの分業化の動きが顕著になり、日本のIDMはその趨勢に乗り遅れたことも一因としてあげられます。
乗り遅れたというより、半導体ビジネスの新たな動きの意味を「理解できなかった」、あるいは従来の立場に固執したというほうが正しいでしょうか。
第四の原因は、我が国の半導体業界の不振に対し、国から打たれた業界再編の動きが遅きに失し、結果的に「弱者連合」の形になったことです。NECと日立のDRAM部門が合併して生まれたエルピーダメモリは、2012年に会社更生法を申請し、2013年にはアメリカのマイクロン・テクノロジーの完全子会社になりました。もし発足当初から東芝を加えてDRAMとフラッシュメモリまで手がけていたなら、結果はまったく違ったものになっていたのではないでしょうか?
オンリーワンの製品をもてなかった
第五の原因として、半導体ビジネスでは数が出るデファクト製品を持つことが重要ですが、我が国の半導体メーカーは、ロジックやSOCの製品でそれができなかったことが挙げられます。その理由としていろいろ考えられますが、システムからLSIへの落とし込みやソフトとハードの協調設計、さらにはEDAツールとその活用法に問題があったと考えられます。
日本の半導体メーカーは、当初自社開発のEDAツールに頼っていましたが、多くのユーザーに使われ、改善されてきたEDA専用メーカーのツールに取って代わられる結果となり、デジタル産業の進展の中でデファクトとなる多くの先端製品を生み出し得ませんでした。
2022年現在、我が国で健闘している半導体メーカーのキオクシア(2017年に東芝から分社化)はNANDフラッシュメモリを手がけ、ソニーはイメージセンサーというデファクト製品を、さらにルネサスはデファクトとまではいかないものの車載用に多く使われる低消費電力マイコンを持っています。
why to make?
その他の原因として、日本人のマインドの問題もあると考えられます。欧米などに比べ草食系の日本人は、ビジネスにおいて一応の成功を収めた後もさらに貪欲に伸ばそうとは考えず、その地位に安住してしまう傾向があります。
筆者がいたNECが半導体世界一の座を明け渡したときも、トップ層からは悔悟の念も決意も表明されず、淡々と事実を受け入れているようでした。
また半導体ビジネスの軸足が“how to make”(どう作るか)から次第に“what to make”(何を作るか)さらには“why to make”(何の目的で作るか)に移って行く過程で、我が国の半導体メーカー(エレクトロニクス産業界を含め)には新たな視点やビジョンが足りなかったと考えられます。
・ ・ ・