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渋沢栄一記念財団
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関東大震災後における渋沢栄一の復興支援 / 守屋淳
○ はじめに
今日お話しするのは、関東大震災における渋沢栄一の活動についてです。
まず関東大震災について簡単にお話をしますと、起こったのが1923(大正12)年の午前11時58分でした。私自身、これは東京直下型だと思っていたのですが、実はそうではありません。まずマグニチュード7.9の本震が相模湾沖で起こります。そしてその3分後、今度はマグニチュード7.2が東京湾北部で、さらに5分後、マグニチュード7.3が山梨県東部で起こるという形で、連続して強い余震が起こりました。「もう5分以上ずっと揺れ続けた」そういう感想を漏らした方がいるような、長く強い地震でした。
そして、お昼前ということもあり、地震発生後30分以内に、市内136カ所、郡部40カ所で出火し、2日間にわたって燃え続けます。北は南千住、東は亀戸の手前、西は飯田橋、南は浜松町、この間がほぼ焼き尽くされます。
この結果、火災による死傷者が非常に多く、死者全体で10万人以上、東京市で6万8000人以上、横浜市でも2万3000人以上が亡くなるという、大きな被害が出ました。
1.その時、渋沢栄一は
渋沢栄一の帰路 → 拡大画像
(『渋沢栄一と関東大震災』より)
このとき、渋沢栄一は日本橋兜町にあった渋沢事務所におりました。この事務所、何とか倒壊は免れましたが、非常に大きなダメージを受けました。渋沢栄一はあわやのところを助けられ、隣の第一銀行でお昼を食べた後に、王子にある家まで避難をしていきます。その避難経路がこの地図です。黄色が渋沢栄一の避難した道になりますが、ちょうど下のところに皇居がありまして、真ん中の緑が上野公園です。上野公園にまで至る黄色いところは、実はすべて火事で焼き尽くされます。
渋沢栄一のいた場所というのは当時の日本橋区、今の中央区北部です。ここは一坪残らず焼き尽くされました。渋沢栄一は、渋沢事務所に維新の元勲たちの手紙や徳川慶喜の資料を残していましたが、それらも一夜で全て焼けてしまい、非常に後悔をしています。しかし、これらの状況を考える限り、よく渋沢栄一は助かった、王子までたどり着いた、そういうことが言えるわけです。
全焼した渋沢事務所(渋沢史料館所蔵)ちなみに、この写真が、その燃えてしまった渋沢事務所の写真です。 このような状態で王子にたどり着きましたので、当然身内の者は、「故郷の深谷に避難したらどうですか」と勧めるのですが、このとき、「わたしのような老人は、こういう時にいささかなりと働いてこそ、生きている申し訳がたつようなものだ」という台詞を残すわけです。ここにこそ、まず我々がヒントとするものがあるのだろうと考えられます。
2.逆境の時にこそ力を尽くす
今のリーダーたちと、この明治のリーダーたち、何が大きく違うのか。それは、逆境やピンチに対する経験の有無なのです。基本的に、明治の政財界のリーダーたちというのは、血しぶきの舞った幕末維新を経験しています。逆境と言えばとんでもない逆境、ピンチと言えばとんでもないピンチをみんな経験しているがゆえに、そのような局面に強いのです。逆境やピンチが起こると、今こそ自分たちの出番である、おれたちが活躍しないでどうするんだ、ぐらいに思う人たちがそろっているのです。
ところが、今のリーダーたちは、逆に、おなかが痛いとか、頭が痛いとか、血圧がちょっと上っちゃってもう表に出られなくなってしまうのです。
我々自身も元気をなくしてしまったり、日本はもうだめじゃないか、みたいなことを言ってしまうのですが、それは違うのです。今こそ、我々は張り切るべき、力を尽くすべきなのです。
渋沢栄一は、『渋沢栄一訓言集』という本の中でこう言っています。「逆境に処しては断じて行え。決して惑うてはならない」。そしてこれは中国古典でいえば、渋沢栄一の大好きだった『論語』の中にも「歳寒くして、然る後に松柏の凋むに後るるを知るなり」(『論語』子罕篇)。冬の寒さが厳しくなったとき、つまり逆境やピンチのときに、はじめて松や柏(はく)――これは柏(かしわ)ではなくて中国の常緑樹の柏(はく)です――がいつまでも凋まないで寒気に耐えていることを確認できるのである。また、有名な言葉ですが、「疾風に勁草を知る」(『後漢書』王覇)。激しい風に、強い草を知る。こういった言葉があるわけです。
逆境やピンチにいかに力を発揮できるのか、張り切れるのか。恐らくこれが我々に課せられた使命だろう、そういうふうに考えられます。
3.天譴論
地震発生から8日後、渋沢栄一は新聞のインタビューで、「天譴論」(てんけんろん)というのを述べます。この地震は天からの「おしかり」であるというのです。
「大東京の再造についてはこれは極めて慎重にすべきで、思ふに今回の大しん害は天譴だとも思はれる。明治維新以来帝国の文化はしんしんとして進んだが、その源泉地は東京横浜であつた。それが全潰したのである。しかしこの文化は果して道理にかなひ、天道にかなつた文化であつたらうか。近来の政治は如何、また経済界は私利私欲を目的とする傾向はなかつたか。余は或意味に於て天譴として畏縮するものである。」1
確かに、幕末維新をかいくぐった人間というのは、自分の命を捨てる覚悟で、日本のため、公益のために尽くそうとした人々でした。しかし、一旦制度ができてしまうと、その中で人々は国や公益のために命を捨てるといった考えをなくしていき、自分の利益、企業の利益、業界の利益しか見ないようになってしまったのではないか。そして、それに対する反省を促す意味があったのではないか。こういうことを渋沢栄一は言っているのです。これは、現代の我々も考えるべき観点かもしれません。
4.渋沢栄一の復興支援
在京罹災埼玉県人救護団バラックを訪れた渋沢栄一(個人蔵)
そして、渋沢栄一はすぐに東京の様子を探り、復興支援に乗り出していきます。具体的には、三つの大きな活動がありました。まず、目先で大変な被害に遭っている方がいますので、まず罹災者の救助や支援に乗り出します。当時の政府はあまり労働界とパイプがなく、内務大臣後藤新平からの願いもありまして、1919(大正8)年に労使協調のためにつくられた財団法人協調会という組織を使って支援活動を進めていきます。
それと、支援活動にはお金が要ります。ということで、義捐金の募集と配分、そして経済の復興を目指し、財界及び貴族院・衆議院の議員たちと大震災善後会をつくります。また、海外の知己へ呼びかけて義捐金を送ってもらいます。さらに、当時の政府が帝都復興審議会というのをつくりますが、これに加わり復興計画にも参画していきます。ちなみに、渋沢栄一は民間におりて以来、政府の役職は基本的にすべて断っていましたが、このときだけはその節を曲げて参加しました。
上の写真は、実際に渋沢栄一が罹災者の方々を見て回ったときの図です。これは非常に渋沢栄一らしい写真だと思います。
5.協調会と大震災善後会、海外への呼びかけ
築地本願寺三河島託児所 仁風会館 集合写真(渋沢史料館所蔵)
では、それぞれの活動について見ていきましょう。まず協調会での震災救護事業ですが、罹災者の収容、炊き出し、掲示板の設置、収容所の設置、臨時病院と、今も行われている活動がほぼ網羅されています。
次に、大震災善後会。ここに集まった義捐金は420万円以上、そして公債債権も26万円集まりました。この写真は築地本願寺が三河島につくった託児所の写真ですが、こういったところにお金を入れていくという活動をしています。
また、海外への呼びかけとしましては、渋沢栄一はアメリカ人から非常に尊敬を受けていました。偉大なる老人という意味の「グランド・オールド・マン」と言われており、そうした「つて」を通じて、大企業関係者、経済界、商工会議所、教会関係の重要人物に電報を打つ形で、自分の無事を知らせました。それは同時に、義捐金のお願いにもなっていたわけです。そのこともあり、ゲーリーが会長を務めるニューヨーク日本協会の10万ドルを最高額として、アメリカからは13万ドルを越える義捐金が大震災善後会に入りました。ちなみに、アメリカでは大統領からの呼びかけもあり、1,060万ドルという、当時としてはとてつもない巨額の義捐金が集まりました。
当時、渋沢栄一がアメリカ人からいかに尊敬されていたかがわかる資料があるのですが、ジュリアン・ストリートという『サタデー・イブニングポスト』の主筆がこう言っています。
「この人のなかに私は日本国民の最善の姿、もっともすぐれた資質を見た。親切で暖かい心、世界情勢についての驚くべき感覚、愛国者でありながらけっして狭い愛国主義のわくにはまることがない...。そこにはまれに見る偉大な心がある。この人を私は限りなく尊敬する...。」2
こうした尊敬を受けていたからこそ、渋沢栄一の活動も成功した面があったのです。
6.帝都復興審議会
さらに、当時の総理大臣だった山本権兵衛、それと中心人物として後藤新平、ほかに犬養毅(逓信大臣)、高橋是清(立憲政友会総裁)、伊東巳代治(枢密顧問官)等が参画した帝都復興審議会に、審議委員の一人としてかかわっていきます。ただ、この審議会の委員がもめるのです。現在の政治も似たようなものですが、この時には後藤新平と伊東巳代治の対立という形であらわれます。
後藤新平(国立国会図書館所蔵)
まず後藤新平。この人が復興の中心だったのですが、この人の原則は攻めの復興です。遷都はしない。復興費には30億円かかる。欧米最新の都市計画を採用して、我が国にふさわしき新都を造営する。また、新都市計画実施のためには、地主に断固たる態度をとる。こういうことを主張します。要は、この震災をきっかけにして、世界に誇れる立派なまちをつくり、震災に強い住みやすい都市をつくりましょう、ということを主張するわけです。
しかし、これに伊東巳代治が反対をします。まず、そんな金がないだろうというのが一つの主張です。そして、人の土地を勝手にいじろうとするな。それともう一つ、私有財産権というのは近代の大きな柱だから、そこに手をつけるべきではないと言ってもめるのです。この伊東さん、実は銀座の大地主でした。どうも、自分の土地がいじられたくなかったみたいで、けんかのようになってしまうのです。
そこで登場するのが渋沢栄一です。渋沢栄一は間に入って、こう言います。
伊東巳代治(国立国会図書館所蔵)
「ここで行き詰ってただこの議論のために甚だしきは議会もどうなるかということである。つまり申すと罹災者たる東京横浜等の市民が政治上あるいは有力なる方々の意見のために宙に吊り下げられる有様になりはしないかということを深く憂うるのであります。(中略)どうでございましょうか。一日も早くもう一遍会をお開きになって、討論会でなくこれに対する反対のご意見があるならばこれはこうしたい、ああしたいということをなるべくお聴き取りになって、そうしてある部分は御修正下さって、そうしてもう一度立案して下さるようなお考えはないものでございましょうか。」3
互いによく話し合いましょう、意見の一致というのは話し合いによって見るはずです、こういうことを主張するのです。
これによって特別委員会というのができまして、その場で渋沢栄一は「商業都市東京」というものを主張していきます。商業都市として東京を変えていこう、具体的には、東京港を築港したり、京浜運河を造りましょうと言うのです。さらに渋沢栄一は、「大東京の再造には、武門政治的の都門でなく、商業本位の東京にしたいと思ふ」。江戸というのは、基本的には武家の軍事の都市であった。それを商業都市に直していきたいと言うのです。
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ウィキペディア
渋沢 栄一(旧字体:澁澤 榮一、1840年3月16日〈天保11年2月13日〉- 1931年〈昭和6年〉11月11日)は、日本の豪農出身の武士、官僚、実業家、慈善家。位階勲等爵位は正二位勲一等子爵。雅号は青淵(せいえん)。
江戸時代末期に農民(名主身分)から武士(幕臣)に取り立てられ、明治政府では、民部省を経て直属の上司である大蔵大輔・井上馨の下で大蔵少輔・吉田清成等と共に造幣・戸籍・出納等様々な政策立案を行い、初代紙幣頭、次いで大蔵省三等官の大蔵少輔事務取扱となる。
井上馨と共に退官後は実業界に転じ、第一国立銀行(現・みずほ銀行)や東京商法会議所(現・東京商工会議所)、東京証券取引所といった多種多様な会社、経済団体の設立・経営に関わり、同時に東京養育院等の福祉事業、東京慈恵会等の医療事業、商法講習所(現・一橋大学)、大倉商業学校(現・東京経済大学)等の実業教育、東京女学館等の女子教育、台湾協会学校(現・拓殖大学)の設立、二松學舍(現・二松学舎大学)第3代舎長就任等による私学教育支援や、理化学研究所設立等の研究事業支援、国際交流、民間外交の実践等にも尽力した。それらの功績を元に「日本資本主義の父」と称される。また「論語と算盤」の言葉で代表される、道徳経済合一の思想でも広く知られている。
震災復興
大正12年(1923年)関東大震災に際し、政府、東京市に臨時対応を献策しつつ、自ら被災者に供給するための食糧を自費で近県から取り寄せ配給を行った。協調会を通じた罹災者収容、炊き出し、災害情報板設置、臨時病院確保等の対策を実行。また、救済事業資金調達のため、大震災善後会を結成し、義援金集めにも奔走し、栄一と交流のたった米国の実業家からも多くの義援金が寄せられた。政府帝都復興審議会の委員にも就き、議論をリードし復興都市計画をまとめる事にも尽力した。
関東大震災後の天譴論
関東大震災後の日本の言論界には、世の風潮が利己的で傲慢になったために、天が罰として自然災害を起こして警鐘を鳴らしたと受け止めるべきであるという、「天譴論」が流行したが、その口火を切ったのは渋沢だった。「天譴論」は腐敗したブルジョアや近代産業文明への批判と平等主義や自然回帰への賛美の思潮ともつながり、一種の流行語ともなった。皆が口にするに至って、返って不自然さや偽善性を指摘する者も現れ、最初の主唱者渋沢も「天譴だという人は、本当にこれを天譴と思っているのでは無いかも知れませぬ」と苦言を呈する程になった。
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日本文化とは、明るく穏やかな光に包まれた命の讃歌と暗い沈黙の闇に覆われた死の鎮魂であった。
キリシタンが肌感覚で感じ怖れた「日本の湿気濃厚な底なし沼感覚」とは、そういう事である。
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日本の文化として生まれたのが、想い・観察・詩作を極める和歌・短歌、俳句・川柳、狂歌・戯歌、今様歌などである。
日本民族の伝統文化の特性は、換骨奪胎(かんこつだったい)ではなく接木変異(つぎきへんい)である。
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日本の建て前。日本列島には、花鳥風月プラス虫の音、苔と良い菌、水辺の藻による1/f揺らぎとマイナス・イオンが満ち満ちて、虫の音、獣の鳴き声、風の音、海や川などの水の音、草木の音などの微細な音が絶える事がなかった。
そこには、生もあれば死もあり、古い世代の死は新たな世代への生として甦る。
自然における死は、再生であり、新生であり、蘇り、生き変わりで、永遠の命の源であった。
日本列島の自然には、花が咲き、葉が茂り、実を結び、枯れて散る、そして新たな芽を付ける、という永遠に続く四季があった。
幸いをもたらす、和魂、御霊、善き神、福の神などが至る所に満ちあふれていた。
日本民族の日本文明・日本文化、日本国語、日本宗教(崇拝宗教)は、この中から生まれた。
日本は、極楽・天国であり、神の国であり、仏の国であった。
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日本の自然、山河・平野を覆う四季折々の美の移ろいは、言葉以上に心を癒や力がある。
日本民族の心に染み込むのは、悪い言霊に毒された百万言の美辞麗句・長編系詩よりもよき言霊の短詩系一句と花弁一枚である。
日本民族とは、花弁に涙を流す人の事である。
日本民族の情緒的な文系的現実思考はここで洗練された。
死への恐怖。
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日本の本音。日本列島の裏の顔は、雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが同時多発的に頻発する複合災害多発地帯であった。
日本民族は、弥生の大乱から現代に至るまで、数多の原因による、いさかい、小競り合い、合戦、戦争から争乱、内乱、内戦、暴動、騒乱、殺人事件まで数え切れないほどの殺し合いを繰り返してきた。
日本は、煉獄もしくは地獄で、不幸に死んだ日本人は数百万人あるいは千数百万人にのぼる。
災いをもたらす、荒魂、怨霊、悪い神、疫病神、死神が日本を支配していた。
地獄の様な日本の災害において、哲学、思想、主義主張そして信仰宗教(普遍宗教)は無力であった。
日本民族の理論的な理系論理思考はここで鍛えられた。
生への渇望。
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日本の自然は、人智を越えた不条理が支配し、それは冒してはならない神々の領域であり、冒せば神罰があたる怖ろしい神聖な神域った。
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現代の日本人は、歴史力・伝統力・文化力・宗教力がなく、古い歴史を教訓として学ぶ事がない。
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日本を襲う高さ15メートル以上の巨大津波に、哲学、思想、主義主張(イデオロギー)そして信仰宗教は無力で役に立たない。
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助かった日本人は、家族や知人が死んだのに自分だけ助かった事に罪悪感を抱き生きる事に自責の念で悶え苦しむ、そして、他人を助ける為に一緒に死んだ家族を思う時、生き残る為に他人を捨てても逃げてくれていればと想う。
自分は自分、他人は他人、自分は他人の為ではなく自分の為の生きるべき、と日本人は考えている。
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日本で中国や朝鮮など世界の様に災害後に暴動や強奪が起きないのか、移民などによって敵意を持った多様性が濃い多民族国家ではなく、日本民族としての同一性・単一性が強いからである。
日本人は災害が起きれば、敵味方関係なく、貧富に関係なく、身分・家柄、階級・階層に関係なく、助け合い、水や食べ物などを争って奪い合わず平等・公平に分け合った。
日本の災害は、異質・異種ではなく同質・同種でしか乗り越えられず、必然として異化ではなく同化に向かう。
日本において、朝鮮と中国は同化しづらい異質・異種であった。
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日本民族の感情は、韓国人・朝鮮人の情緒や中国人の感情とは違い、大災厄を共に生きる仲間意識による相手への思いやりと「持ちつ持たれつのお互いさま・相身互(あいみたが)い」に根差している。
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