🍘3〗ー1ー東日本大震災10年目。若者主体による被災地女川町の復興。~No.5No.6No.7 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 日本は、昔も今も、現場を離れ後方に控え口先だけの老人達よりも、現場で臨機応変に働く若者や壮年の方が役に立つ。
 それは戦時中の軍部、特にノモンハン事件インパール作戦などが証明している。
 阪神・淡路大震災でも、東日本大震災でも、・・・。
 村山富市「初めてのことじゃから」
 老人の知恵は役に立つが時代遅れが多い。
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 老人の体験とは、若者多く老人少ない人口爆発、高度経済、成長経済、膨張するバブル経済における成功モデル、ビジネス・モデルである。
 若者が向けえる体験とは、老人多く若者少ない人口激減、収縮する経済衰退である。
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 2021年3月18日号 週刊文春池上彰のそこからですか!?
 あれから10年 女川町の取り組み
 東日本大震災から10年が経ちました。被災地に行くと、震災はまだ終わっていないのだ、という感を強くします。とりわけ東京電力福島第一原子力発電所の事故で避難を余儀なくされた人の中には、まだ故郷に帰れない人が大勢いるのですから。
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 JR女川駅に降り立つと、新装なった商店街の奧に海が見えるのです。防潮堤によって海が見えなくなった地域が多いだけに、これは感動的です。どうして海が見えるまちづくりができたのか。それは町を三段に分けたからです。低地の公園地区と、中段の商店街、それに大津波が来ても大丈夫なような高台の住宅地区です。
 海岸沿いの公園地区は、津波が来れば海水に浸かることを前提に整備されています。巨大な防潮堤で津波を防ごうというわけではありません。津波警報が出たら逃げればいい、というわけです。公園地区より一段高い場所に道路が走っていますが、これが実は防波堤なのです。これなら防潮堤の圧迫感がありません。この防潮堤が、目立たない形で中段の商店街を守っています。
 その先に『シーパルピア女川』と名付けられた商店街があり、レンガを敷き詰めた歩道の両側に広がります、これは木造平屋の長屋形式です。
 なぜ木造平屋なのか。商店街の方に話を聞いたら、『いずれ巨大な津波が来たら商店街は流されてしまう。そのときに、すぐに建て替えられるように木造にした』というのです。 大自然には勝てない。巨大な津波が来たら、また建て替えればいい。これぞ発想の転換です。
 さらに長屋の商店街に入る店は、いずれもテナントです。個人の所有物ではないのです。これは、シャッター通りをつくらない工夫です。
 古くからの街は、個人所有の商店が立ち並ぶので、経営者が高齢化して店を閉めると、通りに面した場合にシャッターが下ります。こうした店が相次ぐことでシャッター通りになってしまうのです。
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 津波伝承の高台一番乗り競争
 『大津波が来たら、建て替えればいい』というくらいですから、津波警報が出たら、商店街の人たちも一斉に高台に避難します。
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 10年前の津波の被害の後、三陸海岸の高台に苔むして建っていた石碑を調べたら、『ここより下に家を建てるな』という警告が刻まれていたというニュースがありました。被災地の中には、苔むして石碑が読めなくなり、警告を活かせずに被害が出た地域もありました。
 女川町でも、震災前に津波を警告した石碑が撤去されていたそうです。その教訓から、町内の高台に21もの新たな石碑が建てられる予定です。『女川いのちの石碑』と刻まれ、ここに避難するようにと書かれ、『この石碑を絶対に動かさないこと』と注意が刻まれています。
 それにしても、女川町のまちづくりは、なぜうまくいったのか。そこには、10年前のまちづくり会議で当時の商工会長の発言があったそうです。それは、『還暦以上の者はまちづくりに口をだすな』というものでした。
 復興には10年、20年と時間がかかる。そのときもういないかも知れないお年寄りは口お慎み、若い者に任せるべきだ、ということだったのです。この発言で、他の高齢者も発言できなくなりました。
その結果、40代の壮年層が中心になってまちづくりプランができていったというのです。
 東京オリンピック組織委員会の会長選びのドタバタを見ると、『老害』という言葉が頭に浮かびます。経験を積んできた高齢者たちには高齢者なりの知恵がありますが、高齢者が発言していたのでは、若者たちは『わきまえて』しまいます。それで町の未来がないのです。
 女川町は、震災前には1万人いた人口が、現在は6,200人あまりに激減してしまいました。これは、他の被災地も同じことです。これからの復興の道のりは険しいのですが、それでも女川町には、他県から移住してくれ人が出てきます。若者を引き付けるには、若者がまちづくりをしなければならないのです。」
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 甚大な災害被害を出したのは祖先の経験を無視したからである。
 現代日本人は、都合の良い時代劇は好きだが不都合な歴史は嫌いで、その為に昔の日本人と比べて歴史力・文化力・伝統力・宗教力がない。
 戦後の歴史教育は、日本人から日本民族の歴史を奪う為に行われてきた為に、祖先が残した教訓や警告が失われた。
 それが明らかになったのが、東日本大震災であった。
 戦後の歴史教育とは、ローカルな民族中心史観、神話史観、皇国史観、石碑・文献史観を葬った、東京裁判史観であり、キリスト教史観、マルクス主義史観、儒教史観などのグローバル史観である。
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 日本民族の居住地は時代によって異なり、縄文時代は川や海の近くの高台で、弥生時代から江戸時代・明治時代頃までは田畑に近い平地・低地で、大正時代以降の現代は海や湿地帯を埋め立て河川ギリギリまで住宅街を広げた。
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 現代の日本人は、昔の日本人が災害が起きるとして住まなかった土地を整備して住んでいる。
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 昔の日本人は、大災害が発生して甚大な被害が出れば、古文書や日記に残し、石碑を建てて警告した。
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 日本民族は、伝統的日本家屋に、西洋の様な頑丈で見栄えの良い石造りではなく日本独自の質素で機能的な木造建築を採用した。
 被災後の瓦礫は、和風の木造建築では少なく、洋風の石造建築では多い。
 災害被害や犠牲者を増やした原因は、根拠のない科学的安全神話である。
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 災害復興を阻んでいるのは、公益無視の個人資産・私有資産保護という人権意識の強さである。
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 江戸時代。被災地の復興・再建を行ったのは、30代から40代の若い世代で、50代以上の古い世代は助言してもそれ以上の口出しをせず復興・再建を邪魔しなかった。
 江戸時代。50歳以上の古い世代は、若い世代に後を託して隠居し一線から身を引いた。
 江戸時代とは、人口微増の人生50年時代で、若者が多く老人が少ない若々しい精力的活力がみなぎっていた時代であった。
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 日本文化とは、明るく穏やかな光に包まれた命の讃歌と暗い沈黙の闇に覆われた死の鎮魂であった。
 キリシタンが肌感覚で感じ怖れた「日本の湿気濃厚な底なし沼感覚」とは、そういう事である。
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 日本の自然は、心癒やされるほどに豊で美しい。
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 日本の建て前。日本列島には、花鳥風月プラス虫の音、苔と良い菌による1/f揺らぎとマイナス・イオンが満ち満ちて、虫の音、獣の鳴き声、風の音、海や川などの水の音、草木の音などの微細な音が絶える事がなかった。
 そこには、生もあれば死もあり、古い世代の死は新たな世代への生として甦る。
 自然における死は、再生であり、新生であり、蘇り、生き変わりで、永遠の命の源であった。
 日本列島の自然には、花が咲き、葉が茂り、実を結び、枯れて散る、そして新たな芽を付ける、という永遠に続く四季があった。
 日本は、極楽・天国であり、神の国であり、仏の国であった。
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 日本の凶暴な自然災害に比べたら、如何なる戦争も子供の火遊びに過ぎない。
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 日本の本音。日本列島の裏の顔は、雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが同時多発的に頻発する複合災害多発地帯であった。
 日本民族は、弥生の大乱から現代に至るまで、数多の原因による、いさかい、小競り合い、合戦、戦争から争乱、内乱、内戦、暴動、騒乱、殺人事件まで数え切れないほどの殺し合いを繰り返してきた。
 日本は、煉獄であり地獄であった。
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 日本を襲う高さ15メートルの巨大津波に、哲学、思想、主義主張そして宗教は無力で役に立たない。
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 昔の日本は、人口微増の人生50年時代で、若者が多く老人が少なかった。
 現代の日本は、人口激減の人生100年時代で、老人が多く若者が少なく、年ごとに少子高齢化が加速していく。
 日本政府は、人口回復の為に外国人移民(主に中国人移民)1,000万人計画を進めている。
 現代日本は、世界だ第4位の移民大国になり、一番多いのが中国人移民で、次ぎに多いのが韓国人・朝鮮人の移民である。
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