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産経新聞iRONNA「治水に人知を尽くした武田信玄が刻む「戦国最強」への第一歩
小和田哲男(静岡大名誉教授)
戦国武将で、後世、「治水名人」として知られたのが武田信玄と加藤清正である。2人とも「土木の神様」などと呼ばれ、「信玄堤」「清正堤」として、その治水事業が語り伝えられている。本稿では、武田信玄の治水について見ていくことにしたい。
信玄の領国である甲斐国には笛吹(ふえふき)川と釜無(かまなし)川が流れ、それが合流して富士川となって、駿河湾に流れ込んでいる。ところが、この二つの川は、源流から盆地部分までの距離が短いこともあって、少しまとまった雨が降るとすぐ洪水を引き起こしていたのである。
信玄の父、信虎の時代は、そうした自然条件を克服することができず、水害被害で国が疲弊していったのである。結局、そうした信虎に代わり、いわゆる「信玄のクーデター」によって父を駿河に追放し、武田家の家督を継いだ信玄は、国内の安定のため、本格的な治水工事に取り組むことになった。むしろ、取り組まざるをえなかった、と言うべきかもしれない。
現在、信玄堤の名で知られている堤防は、笛吹川の万力堤と近津(ちかづ)堤、釜無川の竜王堤などがある。もっとも、実際には信玄が直接手がけたものではないが、いわゆる「信玄流法」になる堤防も合わせれば、かなりの数になる。
では、信玄が得意とした「信玄流川除法(かわよけほう)」とはどのようなものだったのだろうか。ここでは、最も分かりやすい釜無川の竜王堤を具体例として取り上げ、信玄の治水の実際を追いかけてみたい。
竜王堤は釜無川の東岸に築かれた。今でも堤防はあるが、信玄の時代から何度も改修されているので、当時のままでないことはいうまでもない。ただ、場所そのものには変化がなく、技術的な特徴を追いかけることは可能である。
釜無川の水源地は甲斐駒ケ岳で、甲信国境から南に流れ、いくつかの支流を合わせて次第に水量を増し、甲府盆地へ流れ込んでいる。その支流の一つが御勅使(みだい)川だった。
この御勅使川、現在はこの字が書かれているが、本来は、「みだれがわ」あるいは「みだしがわ」だったのではないかといわれている。「みだれがわ」だと乱川、「みだしがわ」だと水出川で、いずれにしても洪水の元凶といったイメージがあり、御勅使川という字にしたという。実際、釜無川本流と御勅使川の合流地点が洪水常襲地帯となっていたのである。
信玄の治水術で特筆されることの一つは、この御勅使川の流路変更だ。御勅使川が釜無川に合流する少し手前で、川を二つに分流させているのである。
「将棋頭」という石堤を築き、水流を南北二つに分け、新御勅使川という流れを作り、その新御勅使川を釜無川に合流させているわけであるが、そこは高岩と呼ばれる崖が連続するところで、そのまま洪水になるようなところではなかった。しかも、そこに「十六石」という巨石を置き、御勅使川の流れを弱める工夫もなされていた。
そしてもう一つ、信玄の工夫として特筆されるのが堤防部分だった。普通、堤防というと、川の水が土手を越えないように高さを保ちながら連続して築かれる。水量が多く、水が堤防の高さを越えそうになれば、堤防をますます高くするというのが一般的である。
ところが、信玄堤は原理からいって違っていた。堤防を一直線ではなく、断続的に築いていったのである。
こうすることによって、大水のときには堤防と堤防の間からあふれた水が堤防背後の遊水地に流れ込む仕組み流れになっていた。つまり、川の水を押さえ込むのではなく、爆発的にあふれ出るのを緩和しようというのが、そもそもの発想だったのである。
こうして、新しい御勅使川と釜無川が合流する高岩付近から下流にかけて、およそ1800メートルの長さの断続的な堤防を築いた。その堤防には竹木を植え、簡単には崩れないようにしていた。
しかも、注目されるのは、堤防上のところどころに神社を祀っているのである。村人たちが神社に参詣することを計算し、人々が土手の上を歩くことによって、堤防そのものが踏み固められるという効果も狙っていたことになる。
この不連続の断続的な堤防を「霞堤(かすみてい)」といっている。これが「甲州流川除法」の特徴で、適当な角度をつけて雁行状に築かれ、これによって水勢を弱める効果もあった。
信玄が父信虎を駿河に逐(お)って家督を継いだのが、天文10(1541)年6月のことだが、竜王堤の工事に取りかかったのが翌11年のことといわれている。信玄にとって、治水は喫緊の課題だったことが窺(うかが)われる。
そして、竜王堤の場合、完成したのは弘治年間(1555~57)といわれている。いかに大規模な工事だったかが分かる。
こうした大規模工事は、小規模な国人領主や土豪の力では無理である。武田家のような大きな力を持った戦国大名権力の登場によって初めて可能となったわけで、信玄堤はそのことを端的に示したといえる。」
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国土交通省 関東地方整備局 甲府河川国道事務所
国の治水の祖、武田信玄公
かわづくり
伝統的治水施設の保全と整備
伝統河川工法
わが国の治水の祖、武田信玄公
昔から『河を治める者が国を治める』と言われていますが、平地の少ない甲斐の国では言葉のとおり治水の成功こそが領国の安定の基本でした。
武田信玄公は天文10年(1541)に19歳で甲斐国の領主となりました。彼が領主となった前後の十数年は洪水が頻繁に起こった記録があります。当時は戦国時代でしたから領内の重要な情報は絶対に秘密とされていました。
治水事業は領内の重大事ですから計画も施工も極秘のうちに進められたと思われます。治水技術は当時としても「ハイテク」に属するものですから公表される事はなく、枢密の者以外には知り得ませんでした。しかし、信玄公の「治水の法」はあまりにも素晴らしかったので、滲むように他国に伝わったようです。江戸時代には信玄公の治水の法は「甲州流河除法」と称され我が国における治水技術の始祖と讃えられ今日に至っています。戦国時代には秘中の秘としていた甲州流河除法を、今日は貴方だけにはお話しましょう。
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信玄堤(しんげんつづみ)
富士川上流にある信玄堤(しんげんつづみ)は、武田信玄が甲府盆地を水害から守るために築いたと伝えられている。富士川は、南アルプスを水源として駿河湾まで流れる長さ128kmの急流河川であることから古くから水害を引き起こしていた。武田信玄の甲斐国は、内陸部の甲府盆地にあり、富士川の上流である釜無川と笛吹川の氾濫に悩まされていた。特に釜無川(かまなしがわ)は支流の御勅使川(みだいがわ)とともに盛んに流路を変えて盆地西部において水害をもたらしていた。
甲府盆地の平地部は、いくつかの河川がつくった複合扇状地から成っており、その中でも釜無川 がつくった部分が大きな面積を占めている。扇状地を流れる河川は、全くの自然の状態では扇状地面を奔放に流れる。釜無川と御勅使川が扇状地を流れ、この2つの川が合流する地域では、自然のままでは洪水の危険性が非常に高い。
信玄堤の工事は、天文11年(1542年)の釜無川、御勅使川の大氾濫が契機となって始められたとされている。古文書に、永禄3年(1560年)棟別役という諸役や税を免除される代わりに川除への集団移住(竜王河原宿)を促し堤防の管理に当たらせたと記録されているところから、工事が概ね完成したと推定される。約20年の歳月を要した大工事であった。堤防築造と御勅使川治水により洪水被害は緩和され、盆地西部や竜王では江戸時代初期に用水路が開削され新田開発が進み、安定した農業生産ができるようになったとされている。
古来より「河を治める者が国を治める」という言葉がある。信玄は、無敵の騎馬隊、甲州流軍学などでよく知られているが、長きにわたる治水工事にも取り組んだことから大局を見る優れた人物であったことがわかる。信玄の治水技術は優れていたので、他国に伝わり、江戸時代には「甲州流川除法」と称され我が国における治水技術の始祖として讃えられている。
信玄堤に関わる釜無川と御勅使川の治水工事のポイント:
釜無川へ合流してくる御勅使川の激しい流れを、信玄堤のすぐ上流にある「高岩」と呼ばれる自然の崖にぶつけて御勅使川の流れを変えるところにある。その治水工事のイメージを以下に示す。
この治水工事は、8つの要素から構成されている。
ⓐ石積出し 御勅使川の扇頂部に巨大な「石積出し」を構築。乱流を防止し、御勅使川の河道を安定させる。
ⓑ将棋頭 「将棋頭」ⓑ,ⓒで流れを分流させて勢いを弱める。
ⓒ将棋頭 同上
ⓓ開削 ⓓ地点を開削し、ⓑ,ⓒで分流された流れを釜無川へ導く。
ⓔ十六石 ⓔ地点に十六の巨石を置き釜無川との合流を調整する。
ⓕ高岩 釜無川の主流を誘導し,御勅使川の流れと共に「高岩」へ突き当て、その勢いを弱める。
ⓖ信玄堤 「高岩」の下流に、信玄堤を構築する。弱まった流れを「信玄堤」がしっかり受け止める。洪水が発生しないように「出し」を前面に置き、二重の備えとする。「出し」には「一の出し」と「二の出し」があった。
ⓗ堤 開口部 堤の開口部をつくり、万一堤防が決壊した場合は氾濫した水を川に戻す。
参考文献:富士川の治水を見る(国土交通省 関東地方整備局作成)
土木紀行 信玄堤(建設マネジメント技術2010年6月号)
「聖牛」
河川の水勢を緩和するために考えられた日本で有名な工法のひとつ。
戦国時代のこの甲州が発祥の地と伝えられている。
三角の形をしているのでこの名が付いたとされる。
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超入門! お城セミナー
第78回【構造】戦国大名の治水事業ー城を造るときに川の流れを変える!?
お城に関する素朴な疑問を、初心者向けにわかりやすく解説する連載「超入門! お城セミナー」。今回のテーマは城と河川の関係。周囲を海に囲まれ、流れの速い河川を多数有する日本では、古くから水と上手に付き合うことが大切でした。それは、築城においても同様。城や城下町造りの際に治水を怠れば、せっかく造った町が水びたし…なんてことも。戦国〜江戸時代の大名たちは川とどのように付き合っていたのか、武田信玄・徳川家康などの治水工事を例に築城と治水の関わりを紐解いてみましょう。
戦国大名たちも頭を悩ませた治水事業
国土の4分の3を山地が占める日本。豊富な山水は、川を流れて海まで至るわけですが、近年でも大きな洪水が甚大な被害をもたらしているように、我々日本人にとって、川とのお付き合いは人生を左右する大切なもの。今回は、戦国大名たちが城を築いて領地経営をしていくために、自然の脅威である川とどのように付き合ったのか? という点について見てみましょう。
大名たちの権力が地方の各領地で確立されていった戦国時代、安定した領地経営には、治水対策がとても重要な仕事でした。治水事業を行うことによって生まれるメリットは、領民を洪水から守り、耕作地を確保できること。また、城と城下町の地盤の確保、川や堀をめぐらせることによる防御機能のアップ、さらに、運河や船着場を城下や城に確保することによる効率的な物資運搬などが挙げられます。
このため大名たちは、川の水勢や水量を弱める工夫をしたり、川を付け替えて流路をコントロールするなど、その土地に合った様々な工夫を凝らして土木工事を行ったのです。土を切り盛りする治水の技術は、築城時の技術と共通点が多いので、築城名人=治水名人といってもいいかもしれませんね。
では、具体例を見てみましょう。戦国大名による治水事業で最もよく知られているのは、甲斐国(山梨県)の釜無川に武田信玄が築いたとされる「信玄堤」(竜王堤)でしょう。
「信玄堤」(竜王堤)は、古代から定住が困難なほどしょっちゅう洪水に見舞われ、水田地帯の少なかった甲府盆地に、武田信玄が約20年の歳月をかけて完成させた堤防です。単に頑丈な堤を築いただけではなく、釜無川に急流を送り込む御勅使川(みだいがわ)に大石を積んで勢いを弱めたり、御勅使川の中に堤を築き新たに川を掘り2本に分流。さらに2川の合流地点にいくつも大石を置いて水流をコントロールし、お互いに勢いを打ち消し合わせたり、その流れを崖に当ててさらに勢いを削ぐなどといった多くの工夫が凝らされています。また、丸太を組んで水流を弱める「聖牛」も、その技術が現役で活躍しています。
そして釜無川にはドンと大きな堤防を据えるのではなく、小さな堤防を重なり合うように築き、ひどい大雨の時には水があふれることで決壊を防ぎ、被害を最小限に抑える工夫も。川の猛威にガチンコで挑むのではなく、威力を柔軟に利用しつつ治めるという、実に巧いやり方です。さらに施設の維持のため、管理する村人の税を免除。また堤の上を神社の参詣道にすることで参詣人やお神輿の行列が歩き、自然と堤が踏み固められるようにしたそうです。
江戸を水の都に改造した徳川家康
武田信玄の没後、この釜無川の治水事業を視察して大いに学んだのが、後の天下人・徳川家康です。新田開発が国家プロジェクトとなった江戸時代には、この武田の治水技術が「甲州流川除(かわよけ)法」として活用されそうですが、家康の治水事業として思い浮かぶのは、なんといっても江戸の築城と町造りです。
豊臣秀吉の天下だった時代、家康は小さな港町だった江戸に国替えとなります。湿地が多い厄介なこの土地に大きな城と城下町を築くべく取り組んだ最大のプロジェクトが、利根川東遷といわれる治水事業。江戸の町が水浸しになるのを防ぐため、江戸湊(東京湾)に注いでいた利根川を渡良瀬川に合流させ、茨城県の鹿島灘に注ぐように川の流れを大きく変えたのです。
この他にも、飲み水確保のための上水の開削、日比谷入江埋め立てと堀の整備、道三堀延長と日本橋川の開削、平川の氾濫制御と江戸城北面の外堀となる神田川の延長、江戸城北西の平川上流と溜池をつないで堀とするなど…。こうした江戸城(東京都)の拡充と城下町づくりは、家康が天下人となり、二代将軍秀忠・三代家光の時代まで引き継がれ、家康の入封から40年以上後に江戸の町をまるごと堀で囲む、巨大な惣構が完成するに至りました。
豊臣秀吉や加藤清正も苦心した城下町の治水
また豊臣秀吉も、伏見城(京都府)を築いた時に伏見城下を水陸両用の物流拠点とすべく、宇治川と巨椋池(おぐらいけ)に巨大な堤を築いています。槇島堤と小倉堤といいますが、総称して「太閤堤」と呼ばれています。槇島堤はほぼ現在の宇治川左岸堤防に、小倉堤は大和街道になりました。
徳川譜代の重臣・井伊家の居城だった彦根城(滋賀県)も、屈曲して氾濫しやすかった芹川を琵琶湖に直進させ、堅固な堤防を築いて城の守りを兼ねさせるという大規模な川の付け替え工事によって整備された城。熊本に入封した加藤清正も、白川・坪井川・井芹川の入り乱れた流路を直線化するなどして外堀・内堀に流用。土地の拡大もはかり、さらに城下町の運河も整備しました。また、富山県富山市の常西用水の川底に見える石積みは、佐々成政(さっさなりまさ)の治水事業の跡で「佐々堤(さっさてい)」と呼ばれています。
全国には、戦国大名たちが自領を守りの堅い豊かな土地にすべく、苦心した治水事業の跡がまだまだあるはず。城の周辺では、ぜひ川の流れや堤防にも注目してみて下さいね!
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執筆・写真/かみゆ歴史編集部
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。かみゆ歴史編集部として著書・制作物多数。
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ミツカン 水の文化センター
機関誌『水の文化』32号
治水家の統(すべ)
武田信玄の総合的治水術
扇状地における流水コントロールシステム
かつて甲斐の国には、御幸祭が3つあったといわれている。おみゆきさんは「東御幸」。
上は、一之宮浅間(あさま)神社境内での様子。「ソッコーダイッと」という掛け声で練り歩く。現在では境内と近隣を練り歩いた後、神輿はトラックで竜王の信玄堤まで運ばれ、二之宮美和神社、三之宮玉諸神社の神輿と合流し、三社神社の鳥居をくぐる。
水を制するものは、国を制す。 戦国時代の勇武田信玄は、暴れ川を治め、新田開発することで富国を目指しました。 その仕組みは、実に雄大な規模です。 人心を掌握し、川除普請を実行した総合力に、治水の叡智を学びます。
和田 一範さん
独立行政法人土木研究所研究企画監博士(工学)
和田 一範 (わだ かずのり)さん
1955年川崎市生まれ。東京工業大学土木工学科卒業後、1978年建設省(当時)入省。建設省高知工事事務所長、宮城県河川課長、国土交通省甲府工事事務所長、国土交通省国土技術政策総合研究所流域管理研究官、愛媛大学教授防災情報研究センター副センター長を経て、現職。
主な著書に『信玄堤 千二百年の系譜と大陸からの潮流』(山梨日日新聞社2002)、『グラフ信玄堤-千二百年の系譜と大陸からの潮流』(山梨日日新聞社2003)ほか。
今も現役の治水システム
人類というのは6000年にわたって水とつき合ってきているわけです。ところが治水の歴史を調べると、ナイル川のナイルメーターにしても、ほとんどが遺構になってしまっている。信玄堤に注目するのは、450年前にできてから、現在も使われているからなんですよ。
我々は技術者として最新技術を使って河川とつき合っているんですが、千年以上も前から水と人とのかかわりの中で培ってきたノウハウを、是非伝えていきたいと思います。
私は今から7年ほど前に、国土交通省で山梨県全域の河川と道路を管理する甲府事務所長をやっていました。ここでは、富士川全川を担当しています。
富士川というのは南アルプスから流れてきて、甲府盆地を流れている間は釜無川と呼ばれています。笛吹川というもう1つの大きな河川がありまして、この2つが合流した所から海までを富士川と呼んでいます。
赴任してから、ここにある信玄堤が450年間機能していることを知ってびっくりしました。そこでいろいろと調査をしたところ、かなりの蘊蓄(うんちく)があることがわかりました。
それをさまざまな所で話していたところ、地元の山梨日日新聞が本にしてみないか、と言ってくれて1年ぐらいかけて書いたのです。驚いたことに中村星湖文学賞という山梨県の文学賞をいただいて、地元では一瞬ですがベストセラーになったという経緯があります。
その流れで写真集もつくり、技術的提言とか、政策的提言を加えて、ドクター論文にも仕立てました。講演集は『河川文化−その19』(社団法人日本河川協会2005)という本にまとめられています。
祭りをメンテナンスに利用
武田信玄は、信玄堤を含むトータルな仕組みで、流水を統制しました。私はそれを「流水コントロールシステム」と呼んでいるのですが、このシステムは河川とのつき合い方を熟知した、かなりサスティナブルなものになっています。
これらの施設も卓越していますが、メンテナンスにおいても大変素晴らしいシステムが考え出されています。それが、毎年4月15日に行なわれる、洪水期前の水防のお祭りである御幸祭、通称「おみゆきさん」です。
信玄堤の完成より700年前まで遡る平安時代、西暦825年(天長2)にスタートしています。甲斐国司である文屋秋津(ふんやのあきつ)という人が、釜無川の洪水の報告を朝廷にしたところ、朝廷から勅使が来た。そして甲府盆地の中にある一宮、二宮、三宮という3つの神社で共同して、信玄堤のある場所に神社をつくりなさい、毎年お祭りをしなさい、と指示しました。
それ以来、毎年続いている祭りです。ただ、1871年(明治4)に太政官布告「官社以下定額・神官職制等規則」により近代社格制度が制定されると、国が予算的な補助をする神社は一県に一つということになって一宮浅間(いちのみやあさま)神社以外の祭りは伝統の幕をいったん閉じました。二宮、三宮の祭りはどうしたかというと、地元の祭りとして続いてきました。
私が所長のときにそのことに気づき、二宮、三宮に声を掛けたところ、結構みなさんが乗ってきてくれて。2003年、実に130年ぶりに再び三社合わせた御幸祭、三社御幸が復活しています。
おみゆきさんがなぜメンテナンスシステムかというと、大変な人数が練り歩きますから、堤防の踏み固めをすることになるんです。香川県にある満濃池で弘法大師が盆踊りをした、という言い伝えと同じ役目を担っています。
この神輿が出る笛吹市の一宮浅間神社は、信玄堤から20kmも離れています。今は担いで歩いて行くわけにはいきませんから、トラックで堤まで持っていきますが、当時は練り歩きながら行って帰ってくると、次の日の朝になっていたといいます。
この祭りの面白いのは、堤防付近の人ではなく、甲府盆地のいわば受益者がメンテナンスのために祭りを行なう、という点です。
江戸時代の宝暦年間(1700年代中期)の絵巻物(一宮浅間神社所蔵)を見ると300人ぐらいの人が描かれていて、ちょっとした大名行列ぐらいの人数です。当時は年2回、春と秋に行なわれていました。
三宮の玉諸(たまもろ)神社は由緒ある神社で、『古事記』に倭建命(やまとたけるのみこと)が甲府にやって来て、洪水を鎮めるために玉を埋めた、という伝説があります。絵巻物では三宮は神輿ではなく御幣を持って、抜き身の薙刀を持っています。これは何か深い意味があると思いますが、宮司さんにもうかがいましたが、ちょっとわからない、ということでした。
どういうルートを歩いたかという明治年間の記録が残っていて、プロットした地図があります。3つの行列が合流して、隊列を組んで信玄堤の三社神社に向かいます。ルートを見ますと、信玄堤だけではなく、いろいろな河川の要所要所を踏み固めながらやって来ることがわかります。
信玄はこの祭りを強く奨励しました。赤い着物を着て、化粧をし、女装した姿で神輿を担ぐという変わった祭りで、これは祀られているのが木花咲耶姫(このはなさくやひめ)という女性の神様で、男性の担ぎ手だと恥ずかしがるから、というのが通説です。いつからこうなったのかはわかりませんが、信玄の時代から女装するようになったのではないかと言われています。
この神輿練りを毎年続けるのは、現代ではなかなか大変なんですよ。一宮神社は氏子さんが多いのでいいのですが、二宮、三宮はトラックの代金などを捻出するのに苦労しているみたいです。
しかし、水防の自助、共助の観点からも、年に1回ぐらいは川と治水に関心を寄せるためにこうした祭りは大切だと思います。
甲府盆地は扇状地
信玄堤は、釜無川が甲府盆地に出てきた、ちょうど扇状地の扇頂部にある堤防です。山梨県甲斐市竜王という場所にあたります。
この堤防の上に生えている木は、堤防が切れそうになったときにつくる「木流し工」という水制工をつくるのに使われました。この木も信玄が植えたと言われています。しかし、これは信玄堤のシステムの中でごく一部にしかすぎません。
笛吹川が扇状地に出てきた所に万力林というものがあり、これも信玄がつくったと言われていて、この2つで甲府盆地の治水を行なっています。
富士川の氾濫シミュレーションを見ると、ここが切れると大変なことになることがわかります。決壊後1時間で、甲府盆地全体が水深1mの水浸しになるのです。
4時間後になると、釜無川の下流部にいたっては水深3mに達します。水深3mというのは1階の軒下より上になりますから、多くの死者が出る大災害になるということです。
昔の流路が『甲斐国志』という江戸時代にまとめられた文献に載っているんですが、釜無川は今より東のほうに流れていました。御勅使(みだい)川という信玄堤を語る上で重要な支川があるんですが、もっと南を流れていました。つまり、甲府盆地の真ん中に向かって2つの川が流れ込んでいたということです。
信玄の流水コントロール
信玄の流水コントロールシステムを順番に説明しましょう。
まずAの場所は(下図)、夜叉神峠という南アルプスの方面に上っていく県道に沿って流れる沢なんですが、御勅使川という非常な急流河川です。土石流が起き易く、この辺りは常に被害にさらされていました。ですから、ここのコントロールということが、非常に重要でした。
それでAの場所に「出し」と呼ばれる石の水制をつくって、御勅使川が南のほうに流れていくのを防ごうとしました。文献には5つあったと記されていますが、現在は3つ残っています。
これは石積みです。片端から積み始めて反対端まで行って戻ってくる「行ってこい積み」という積み方でつくられています。江戸時代中期の技術で、信玄の時代にはこういう積み方は無かった。信玄重たい神輿を担いで練り歩くことによって、土手が踏み固められる。着物は軟派だが、足許は硬派。水防の祭だけに、消防団も堤防に集結。が住んでいた躑躅ヶ崎(つつじがさき)の館という城がありますが(現・信玄神社)、ここの石垣は稚拙な積み方で、江戸時代に入ってから見られるようなしっかりした石積みではありません。御勅使川の「出し」は、信玄の時代につくられたものを、徐々に直しながら使い続けていたと考えています。
Bの場所には「白根の将棋頭」という施設をつくって、御勅使川を2つに分けています。2つに分けることによって、エネルギーを減ずる、というのが目的です。
「将棋頭」は、C の場所にもあって、「竜岡の将棋頭」と呼ばれています。ここで、さらに川を2つに分けていました。
将棋頭によって、2つに分けられていた御勅使川は、今は砂防工事によって新しい流路のみが本川となっています。廃川になった前御勅使川は、今は県道南アルプス線という道路になっています。
八ヶ岳が噴火したときに火砕流が流れてできた段丘の先端を切り割って、ここに流路を通すようにしたのがDの場所です。ここを「堀切(ほっきり)」と言っています。
さらに、この先に十六石という施設Eがあって、釜無川の流れをぶつけたと言われています。これはどんな形状だったか確認できないのですが、巨石を並べたとか積み上げたとか文献には書いてあります。これに御勅使川か釜無川の流れをぶつけたとあります。
十六石は現存していません。地中レーダーを使って調べたところ、巨石が発見されたので、ここではないか、という場所に案内看板を出してあります。古地図を見ると、巨石を積み上げた水制施設のようです。流れを変えて高岩に当てるために、御勅使川ではなく、釜無川を十六石にぶつけたと推測されます。
この流れを、やはり溶岩流が固まってできた「高岩」という崖にぶつけたのがF。高岩が切れた所は、通常の堤防の区間ですから、合流してきた御勅使川の勢いを受け止めきれずに、甲府盆地のほうまで流れていってしまう恐れがあるのです。
ですから堀切も十六石も、流水をコントロールするために、合流した流れの勢いを高岩にぶつけるための仕組みでした。
将棋頭で流れを2つに分けたときにできた前御勅使川も釜無川に合流しますが、合流地点は高岩より下流ですから甲府盆地まで行ってしまう恐れが生じます。
そのため、釜無川と前御勅使川が合流したこの流れの勢いを、高岩にぶつかって跳ね返ってきた流れにぶつけることで、相殺しています。高岩にぶつかって跳ね返ってくる流れを「高岩跳ね」と呼んでいて、これをうまく利用しているのです。まさに水をもって水を制す、の実例です。
信玄は、このように複合的なシステムを組み合わせて、流水をコントロールしています。
信玄堤は霞堤
Gの地点が信玄堤になります。
堤防というのはつながっているのが普通だと思うのですが、これは切れているんですね。霞堤と呼ばれています。信玄堤は、こういった不連続の堤防を幾つもつくっている、という特徴があります。
普通に考えると「間が空いていたら困るじゃないか」と思うかもしれませんが、大水になったときに隙間からじわっと水があふれて、再び隙間を通って川に戻っていくという仕組みです。あふれたといっても、時間はせいぜい1日から半日ぐらいですから、あふれた水がちゃんと戻っていくようにできているんですね。
もしも堤防をつなぐとどうなるかというと、堤防の一番上まで水位が上がってきて、ある一カ所がボンと切れる。そうなると、切れた所が流路になって、甲府盆地の中心部に一気に流れ込むようなことになってしまいます。
ですから、不連続にしてあるというのは、一カ所にエネルギーを集中させないようにするためでもあるんです。
模型実験で検証
将棋頭という流水コントロールの施設は、私の知る限り、日本にしかありません。それがとても不思議なんですが、なぜ信玄だけがこういう施設をつくったのか。
強いて似たものを挙げると静岡県の大井川に舟形輪中というシステムがあります。これは屋敷林を舟の形にして、大井川があふれたときに家を守れるようにしたと思われます。しかし、舟形輪中には石垣などはありません。静岡は駿河の国で、信玄ともゆかりがありますから、つながりを探りたいところです。
ドクター論文に載せましたが、私は模型実験で、流路に土砂が溜まっていって自然に砂州ができることを検証しています。
こういう施設というのは、何もないところからいきなりつくろうとすると、大変な労力がかかります。河川の流路が蛇行していくとともに、自然に土砂が溜まっていった砂礫堆(されきたい)を利用して、石を張って補強をしてこのような施設をつくった、というほうが理にかなっていると考えています。
1998年(平成10)に山梨県が行なった遺跡分布調査の報告書に、縦に並んでいる小さなレの字が載っています。現地に行くと小さな石垣積みのものが残っていました。
山梨で堰(せぎ)というと用水路のことなんですが、徳島堰という用水路の水門とか分派施設を守るためにつくられた石積みだったんです。徳島堰というのは、江戸時代に入ってから徳島兵左衛門という人によって、1666年(寛文6)につくられた用水路です。徳島兵左衛門は将棋頭を見て、こういうものをつくって用水路を守ろう、と思いついたと推測されます。
こんなに重要な施設が、今までまったく顧みられていなかった、というのも驚きですが、この発見は地元の新聞にも掲載されました。
文久年間の古図を見ると、将棋頭が3つありますし、明治初期の大日本帝国測量図という最初期の5万分の1の地図を見ると、将棋頭のようにレの字の形のものが幾つも見られます。大きなものだけで4つあります。
高岩の下流にも「出し」があります。現在のものは新しくつくられた「出し」ですが、おみゆきさんの石投げの儀式は、古来、この一番出しで行なわれていました。
こうしたこともくわしい記録が無いのでよくわからないのですが、実は信玄堤に関するリアルタイムでの文献は残っていないんです。
信玄は病死するんですが、その跡を勝頼が継ぎ、勝頼は織田信長に長篠(ながしの)の合戦で敗退します。その後韮崎城に籠りますが、最後は織田信長と徳川家康の連合軍に天目山(現・甲斐大和の辺り)で敗れて、武田家は滅ぶわけです。このときに武田二十四将といわれる家臣たちは家康に雇われるんですが、このときに大事な文書はすべて処分されてしまったようです。
信玄の経済政策で一番有名な甲州金と信玄堤に関する文献は、まったくありません。ですから文献に信玄堤のことが出てくるのは、江戸時代中期になってからです。
武田信玄・勝頼に仕えた武将、高坂弾正忠虎綱(こうさかだんじょうのちゅうとらつな・高坂昌信)の日記といわれている『甲陽軍艦』にも、信玄堤のことは出てきません。ですから、治水の要である信玄堤は、トップシークレットだったのではないか、と思います。
家康にも受け継がれたもの
信玄はまた、信玄堤を守るために竜王河原宿という新田開発を行ない、開拓団を募りました。特区をつくり、税金を免除する代わりに、治水に当たらせました。これがいわば甲斐市竜王の起こりです。
武田家が滅んで家康が甲府にやって来たときに、地元の庄屋さん方がこのシステムを継承するように陳情しています。
家康は「信玄がつくった仕組みなら重要だから続けなさい」と言ってこれを認めました。いってみればライバルである前任者の施策を引き継ぐということですから、よほど優れた仕組みとして認識されていたんだろうと思います。
江戸時代は、「甲府は江戸の奥座敷」と言われ、徳川の直轄領だったのですから、非常に重要視されていたということでもあります。
また、信玄は釜無川の水制に「聖牛」という施設を盛んに用いました。丸太を三角形に組んで、「蛇籠(じゃかご)」という籠に石を詰め込んで重しにしました。今は金属の網で籠がつくられていますが、当時は竹製の籠でした。これに流水が当たることによって、勢いを削いだということです。この「聖牛」を日本で初めて使ったのは、武田信玄で信玄堤の改修だったといわれています。そのことは江戸時代の古文書『地方凡例録(じかたはんれいろく)』に書かれています。信玄の勢力拡大に伴って、大井川や安倍川、木曽川にも伝播していき、江戸時代中期、享保年間(1700年初頭)には全国に広まっていたといわれています。
「聖牛」は環境にも優しいと、現代になって改めて見直されています。現在、信玄堤で見られる聖牛は、2002年(平成14)に整備されたものです。
ただ解析してみますと、2年や3年に1回の洪水でひっくり返ってしまう程度のもので、昔はその度につくり替えていたようです。逆に言えば、誰でも人の手で簡単につくれた。当時の河川改修の目標外力というのが2年や3年に1回ぐらいの洪水に対応する、ということだったのでしょうから、これで充分だったわけです。
我々が今、100年に1回規模の洪水に堪えることを想定しているのとは、安全度のレベルが大きく異なるということです。
中国まで連なる治水の叡智
さて、信玄は「聖牛」や「将棋頭」をどこから思いついたのでしょうか。調べていたら、世界遺産にもなっている中国・四川省成都に都江堰(とこうえん)という施設があって、信玄がつくった流水コントロールシステムに非常に近いことがわかりました。
都江堰のことは司馬遷の『史記』にも書いてあります。『史記』は世界で一番古い歴史書といわれる文献です。都江堰や信玄堤を見ていると、当時の人たちが自然の猛威に対して、いかに共生していたかという叡智を感じます。その叡智を今の河川管理に役立てることはできないか、と考えています。
河川整備によって安全度が上がると、先人の叡智は忘れられる傾向にあります。昔は洪水も頻繁に起こりましたから、「聖牛」なども誰でもつくれる技術だったのですが、10年に1度とか20年に1度しか洪水が発生しない状況になると、そうした技術の継承も廃れるし、自分が住んでいる場所が危ない地域だということも忘れてしまいます。つまり、叡智が失われていきます。
あふれさせることで安全を確保していた霞堤は、現在の町中にも町道に形を変えて残されています。しかし、これが霞堤であるということを、地元の人たちはもう知らないんですね。
三社御幸を復活させるときも、二宮、三宮の氏子さん方に声を掛けにいったのですが、「この祭りは治水のお祭りなんですよ」と言ったら、みんなびっくりしていました。
では、先人の叡智を今の河川管理に生かすには、具体的にどうしたらいいでしょうか。
自分の住んでいる地域が「何十年に1度ぐらいの確率であふれる」というような情報だけでは不十分で、「昔はこうなっていた、こういう所だった」ということを知ることで、その地域の危険性を把握しておくことが大切です。
今は堤防で守られていますけれど、いったん切れたら、30分でここまで水がきてしまいますから、そのときにどこに逃げるのかを認識する。それと逃げるタイミングも難しい。家の前の道が浸かってきたらすぐに避難所に逃げるのか、浸かってきたらもう間に合わないから2階に逃げるのか。そういう個人に問われる判断は、ハザードマップからだけでは下せないでしょう。それは個々人の問題で、地域の人々が、その地域の災害の特性、昔からの土地柄を知って自らの避難行動として認識することが大事です。
おみゆきさんを含めた「信玄の流水コントロールシステム」は、システム自体というよりも、地域の自助、共助活動の再認識に役立つという点が重要です。毎年、洪水期前に行なわれるこのお祭りは、現代、この地域に住む人々に、川とのつき合い方を呼び起こすための仕組みなのです。
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