🗡16〗17〗─1─日本は国産セメントで近代に成功し軍事国家になった。~No.50No.51No.52No.53No.54No.55 * ⑥

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 セメントは、兵器工場や要塞・軍港・飛行場の建設に必要な軍需物資である。
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 日本が独立した近代国家・軍事国家になれたのは、セメントのお陰である。
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 日本産業の強みは、セメントを海外に依存せず自国で生産できた事である。
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 古代ローマは、セメントを使って各地に巨大な建造物を造って国力差を誇示して世界帝国を築き、2000年の歴史を保った。
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 ローマ皇帝の権威は、インフラを整備し、ローマ市民に清らかな水を供給する事である。
 インフラ整備には、鉄だけではなくセメントと石材が欠かせず、生産量に制限がある煉瓦では限度があった。
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 近代化は、セメントがあって成功する。
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 2019年2月号 歴史街道磯田道史氏 歴史家から見たセメントの底力
 小野直樹氏
 高価だった輸入セメント
 小野 日本初のセメント工場ができたのは明治6(1873)年のことです。新政府の『殖産興業』の方針により、東京・深川の官営工場として設立されます。当時は輸入セメントがとても高価で、国産化の必要に迫られていたのですね。そこで英仏の技術を導入して、明治8年にセメントの製造に成功しました。
 磯田 『鉄は国家なり』と言われますが、鉄だけでは国家の建造物を造るのは無理で、もう一つ、重要な資材がセメントです。近代国家の建設には鉄とセメントの2つが必要なわけです。明治初年のセメントの価格を調べると、1トン50円以上する。当時の1円は労賃で換算すると今の約3万円に相当します。セメント1トンが150万円の感覚なんですよ。10トン投入するだけで1,500万円を費やす状況で、これでは何も造れません。だから、明治政府はセメントを国産化したかったのですね。
 小野 そうした国の動きの一方で、山口県小野田(現・山陽小野田市)では、明治14年に民営のセメント工場が立ち上がります。旧萩藩士の笠井順八が、旧士族の生活難を救うために興したものです。
 磯田 この笠井には泣ける話があるんですよ。彼はものすごく秀才なんです。萩藩の明倫館に藩士を集め、成績上位の3名に入ると、藩主にご進講をさせる。で、笠井は2位になったのに、身分が低いからと、外されてしまうんです。これは非常に失礼な話で、笠井はつらくなって学校にいられなくなる。ところが、藩がつぶれて武士が路頭に迷わんというときに、彼らを救うために立ち上がったのが、笠井だったのです。
 小野 セメントは石灰石が主原料で、山口には石灰石もあれば、製造に用いる石炭もある。笠井も輸入セメントが高価なことは知っていて、セメント製造に乗り出すあけです。石灰石は全国に存在し、100%国産ですから、その後、各地に工場が造られます。
 国の独立とセメント
 磯田 セメントは明治9年ぐらいまではほとんど輸入ですね。国内でのセメント製造が始まって、初めて国は独立するというふうに私は思います。セメントの独立なくして日本の独立なしという状況ですよ。明治16年時の国内製造量は約1,500トンで、まだ同じくらいの量を輸入している。ところが、明治25年には製造量がもう5万トンに達しています。このときセメント会社が14社あり、今のセメント協会の加盟社数が17だそうなのですから、今とそう変わらないぐらいまで増えているんですね。
 小野 私も、セメント産業が興るのは、国としての力が本当についてきていたからだと思います。インフラの整備と、それに必要な資材の供給が自国でできるようになるのは、本当に大きなことだと思いますね。
 磯田 セメントと国力ということでは、私、セメントのありがたみが一番わかったのは、大学院1年生のときです。当時、日本の援助でフィリピンのネグロス島に井堰(いせき)ができたときに、その頃、私は農業経済史をやろうと思っていたので、見に行ったんです。すると、井堰が水を送るおかげで米がどんどんできるんですよ。で、井堰を造るためのセメントの値段を村人に訊くと、異様に高い。生産力が乏しくて容易には入手できないと言うんです。帰国して、笠井順八の事績に触れて、明治維新とはこれだと思いました。維新とは、セメントが造れるようになる革命だったんだと。維新の志士たちがセメント工場を造るという発想を持っていたことが大きい。日本が経済大国として発展したのは、人々の生活を良くする生産技術を改良したこと。たとえばセメントを造る力ですね、それも民間会社が造る力を短期間で持てたというところにあるのではないかなと思いました。
 リサイクルへの貢献とコンクリート舗装
 磯田 その上、明治のセメント人たちは、アジアで最初に環境との折り合いに苦闘します。要するに粉塵を飛ばさない技術改良です。キルン(回転窯)を改良したり、集塵機をつけたり、環境対策技術の高いセメント産業にしていく。今、途上国がどこも、環境に優しい技術でセメントを造れているかというと、まだ疑問が多い。日本のセメント産業には、環境対策を世界に広めるという大きな使命もあるのではないかと思います。
 小野 環境に優しいという点では、セメントは製造過程で、副原料やエネルギーの代わりに廃棄物・副産物を使う技術が、日本はかなり進んでいます。この美しい地球を守るために、我々の技術は世界的に絶対必要になってくると思いますね。
 ……
 命を守るコンクリート
 小野 最近の日本は、豪雨や洪水といった自然災害が多いですからね。磯田先生は『天災から日本史を読みなおす』という防災史の本もお書きになっていますが、歴史の中の災害に着目するきっかけは、何かおありだったのですか。
 磯田 私の母方は先祖代々、徳島の牟岐(むぎ)というところで、津波をかいくぐって生き延び炊いて、その子孫が私なんです。母親も2歳のときに、昭和南地震津波に巻き込まれそうになり、高台に駆け上がって事なきを得ました。だから天災、特に津波は先祖の仇なわけですよ。そこで大学生の頃、地震津波の古文書を見つけるとファイルしてきました。
 ……
 磯田 それが人命を救うことになりました。コンクリートは正しく使うと、命を守るものになります。セメントを造っている人々も、人命を救う仕事なんだと、自覚されていいと思うんですよ。
 小野 ありがとうございます。コンクリートの力と人間の知恵との合わせ技が命を守ったということですね。
 景観を考えた防波堤
 磯田 東日本大震災の後、私は浜松の大学に移りました。南海トラフによる地震津波常襲地で津波の古文書を探すためです。
 ……
 小野 国土強靱化が叫ばれている中で、私どもはその一翼を担って、〝命の鎧〟にふさわしい、より品質が良く、機能の高いセメントを供給していきたいと思います」
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 セメント(cement)
 歴史
 セメントの利用は古く、古代エジプトのピラミッドにもモルタルとして使用されたセメント(気硬性セメント)が残っている。水酸化カルシウムとポゾランを混合すると水硬性を有するようになることが発見されたのがいつごろなのかは不明だが、古代ギリシア古代ローマの時代になると、凝灰岩の分解物を添加した水硬性セメントが水中工事や道路工事などに用いられるようになった。そういった時代には自然に産出するポゾラン(火山土や軽石)や人工ポゾラン(焼成した粘土、陶器片など)を使っていた。ローマのパンテオンやカラカラ浴場など、現存する古代ローマの建物にもそのようなコンクリート(ローマン・コンクリート)が使われている。ローマ水道にも水硬性セメントが多用されている。ところが、中世になるとヨーロッパでは水硬性セメントによるコンクリートが使われなくなり、石壁や石柱の芯を埋めるのに弱いセメントが使われる程度になった。
 現代的な水硬性セメントは、産業革命と共に開発され始めた。これには以下の3つの必要性が影響している。
 雨の多い季節に建物の表面仕上げをするために水硬性の漆喰が必要とされた。
 海水にさらされるような築港工事などで水硬性のモルタルが必要とされた。
 より強度の高いコンクリートの開発。
 産業革命時代に急成長を遂げたイギリスでは、建築用のよい石材の価格が上がったため、高級な建物であってもレンガ造りにして表面を漆喰で塗り固めて石のように見せかけるのが一般化した。このため水硬性の石灰が重宝されたが、固まるまでの時間をより短くする必要性から新たなセメントの開発が促進された。中でもパーカーのローマンセメントが有名である 。これはジェームズ・パーカー (James Parker) が1780年代に発明し、1796年に特許を取得した。それは実際には古代ローマで使われていたセメントとは異なるが、粘土質の石灰石を1,000 - 1,100 ℃と推定される高温で焼成し、その塊を粉砕して粉末としたセメントであり、天然の原料をそのまま使っていた。これを砂と混ぜたものがモルタルとなり、5分から15分で固まった。このローマンセメントの成功を受けて、粘土と石灰を人工的に配合して焼成してセメントを作ろうとする者が何人も現れた。
 イギリス海峡の三代目エディストン灯台の建設(1755年 - 1759年)では、満潮と満潮の間の12時間で素早く固まる上に、ある程度の強度を発揮する水硬性モルタルを必要とされた。この時土木工学者のジョン・スミートンは生産現場にも出向き、入手可能な水硬性石灰の調査を徹底的に行ったことで石灰の「水硬性」は原料の石灰岩に含まれる粘土成分の比率と直接関係していることに気づいた。しかし土木工学者のスミートンはこの発見をさらに研究することはなかった。この原理は19世紀に入ってルイ・ヴィカーにより再発見されたが、明らかに彼はスミートンの業績を知らなかったと思われる。1817年、ヴィカーは石灰と粘土を混合し、それを焼成して「人工セメント」を生産した。ジェームズ・フロストはイギリスで「ブリティッシュセメント」と呼ばれるほぼ同じ製法のセメントを同時期に開発したが、特許を取得したのは1822年だった。1824年、イギリス・リーズの煉瓦積職人ジョセフ・アスプディンが同様の製法について特許を取得し、これを「ポルトランドセメント」と称した。このポルトランドセメントは今日のセメントの主流であり、単にセメントと言った場合、このポルトランドセメントを指すことが多い。ポルトランドセメントのつづりは、Portland cementであり、アスプディンはイギリス人であり、イングランドポートランド島特産の石灰石の色調に似ていたことから、Portland cementと命名された。
 これらの製品は石灰とポゾランによるコンクリートに比べると、固まる時間が速すぎ(施工可能な時間が不十分)固まった直後の強度が不十分だった(型枠を外すのに数週間かかる)。天然セメントも人工セメントも、その強度は含有するビーライト(Ca2SiO4)の比率に依存する。ビーライトによる強度は徐々に高まっていく。1,250 ℃ 以下で焼成されているため、現代のセメントで素早く強度を発揮するエーライト(Ca3SiO5)を含んでいない。エーライトを常に含有するセメントを初めて製造したのは、ジョセフ・アスプディンの息子ウィリアム・アスプディンで、1840年代のことである。こちらが今日も使われているポルトランドセメントと同じものである。ウィリアム・アスプディンの製法には謎があったため、ヴィカーやI・C・ジョンソンが発明者だとされていたが、ウィリアムがケントのノースフリートで作ったコンクリートやセメントに関する最近の調査で、エーライトをベースとしたセメントであることが判明した。しかしウィリアム・アスプディンの製法は「大雑把」なもので、現代的セメントの化学的基盤を確立したのはヴィカーと言っていい。またジョンソンは、混合物を窯の中で焼成することの重要性を確立した。 ウィリアム・アスプディンの行った改良による製法では(父が集めるのに苦労していた)石灰をより多く必要とし、窯の温度もより高くする必要があり(そのため燃料も多く消費する)、出来上がったクリンカーは硬すぎて石臼がすぐに磨り減ってしまうという問題があった(当時、クリンカーを粉にする方法は石臼しかなかった)。このため製造コストがかなり高くなったが、その製品は適度にゆっくり硬くなり、固まると即座に強度を発揮するもので、製造過程にデメリットがたくさんあっても用途が格段に広がった。1850年代以降、コンクリートが建築にどんどん使われるようになり、セメントの用途のほとんどを占めるようになった。
 日本では、幕末の頃に高価なフランス製のポルトランドセメントを輸入したのが最初とされる。 1875年(明治8年)、日本で最初の官営セメント会社である深川セメント製造所にて、当時の工部省技術官宇都宮三郎がポルトランドセメントの製造に成功した。その後、1884年にこの工場は民間に払い下げとなり、日本セメント(現在の太平洋セメント)となった。また、1881年には山口県野田市に、民営セメント工場として最初のセメント製造会社小野田セメント(現在の太平洋セメント)が誕生した。当時の生産高は両工場で月産約230t程度であった。
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 コンクリート(concrete、混凝土)
 歴史
 ヴェスビオス火山山麓にあった火山灰、石灰、砕石を混合したものが水中で硬化したことを発見したのがコンクリートの歴史の始まり。
 歴史は古く、ローマ人がヴェスビオス火山山麓にあった火山灰、石灰、砕石を混合したものが水中で硬化し、強度を増すことに気付き、橋、水道橋、伽藍など建築物や構造物、構築物を造っていたことに始まる。ローマにある伽藍のドームは型枠すら使用されていた痕跡が確認されている。ローマに現在も残るパンテオンは鉄筋を使用していないコンクリート建築としては世界最大級のコンクリート製ドームの墓であり、ローマン・コンクリートがむき出しの状態である。現在とは異なり、当時のローマではコンクリート壁をレンガなどで覆っていた。ローマ帝国で使用されたローマン・コンクリートは、生石灰、「ポッツオーリの土」とも称される火山灰、軽石を骨材に使用していた。それまでの石、レンガを使用した建築に対し、コンクリートは革命的な材料で、制限されない自由で斬新な設計が可能となり、アーチやヴォールト、ドーム形状などに素早く硬化して剛体となり、それまでの石・レンガ建築で問題であった内部の圧縮・引張りを気にする必要が薄れ、建築史を大きく塗り替えた。
 最近の評価では、ローマン・コンクリートは現代使用されるポルトランドセメントと比較しても圧縮に対する強度は200kg/cm2と大して変わらないが、鉄筋を使用していない分、引っ張りに対する強度ははるかに低かった。ローマン・コンクリートの骨材には細かく砕いた煉瓦などの瓦礫を主に使っていた。
 古代ローマ帝国遺跡のコンクリートを調査した東北大学教授の久田真は、火山灰を混ぜることで緻密になり、耐久性が増したと分析している。北海道立総合研究機構北方建築総合研究所の谷口円は、劣化の原因となる二酸化炭素や塩分の染み込みを、火山灰が妨げて耐用年数が長くなると推測している。ローマ帝国滅亡後の中世ヨーロッパでは大型建築物は石造となり、コンクリートが再び使われるようになったのは産業革命後である。

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 日本が近代産業国家として急成長できたのは、セメントの原料である石灰岩が100%自給できたからである。
 「鉄は国家なり」といっても、鉄を生産する大規模工場群を建設しなければ始まらない。
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 煉瓦は、窯で焼く為の燃料が必要で、均質の製品を大量生産できなかった。
 そして、焼く為の燃料である石炭がなければ材木を使うしかなく、大量の材木を確保するには山野の樹木を伐採した。
 建材を煉瓦の頼っていた地域や国は、樹木を伐採しすぎて森林が消え、自然が破壊された。
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 全国規模の大量セメント生産は、地方分権的な幕藩体制では不可能で、どうしても強力な権力を持った中央集権体制でなければならなかった。
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 日本が近代化に成功し、中国や朝鮮が近代化に失敗したのはセメントを自国で100%生産できなかったからである。
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 インフラ整備には、国産セメントが欠かせなかった。
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 日本と古代ローマが似ている点は、100%セメントを生産していた事である。
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 明治時代の産業力の強みは、国内産業の為の石灰岩と主要輸出品の原料である生糸を100%自給できたからである。
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 日本の近代化は、石灰石・鉄鉱石・石炭の炭鉱が近くに点在していた北九州と西中国地方から始まった。
 東日本や東北の近代化が遅れたのは、この為であって、朝敵の旧佐幕派東北諸藩への懲罰ではなかった。
 関東内陸部や東北地方が近代化していったのは、鉄道網の延伸により石灰岩・鉄鉱石そして石炭の鉄道輸送が可能になってからである。


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コンクリートの文明誌

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