🗡50〗─1─日清戦争の勝利は、国際法の徹底遵守と軍用乾電池使用の情報伝達であった。〜No.161No.162No.163 * 


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 一般社団法人・電池工業会
 電池の歴史
 1) 屋井乾電池
 日本人として初めて電池を製作したのは佐久間 象山(1811年〜1864年)であるとされています。電池は「ダニエル電池」(液体式)と思われます。
 明治時代に、乾電池が世界に先駆けて日本で誕生しました。その発明者は屋井先蔵(やいさきぞう)氏です。ただ、残念なことに、氏の作った会社は現在存在しません。
 さて、屋井氏は文久3年(1863年)、新潟県の長岡に生まれました。明治8年(1875年)(13才)東京の時計店に丁稚として入りました。
 明治18年(1885年)(23才)、電池で正確に動く「連続電気時計」の発明に見事成功し、明治24年(1891年)、特許として認められました。これはわが国の電気に関する初めての特許でした。
 しかし、使用した電池は液体式のダニエル電池などで、手入れが必要なうえ、冬場は凍結して使えないなどの欠点がありました。そこで本格的に「乾電池」の開発に取り掛かりました。
 日中は会社の仕事、夜は電池の開発を続け、3年間は平均睡眠時間が3時間程度でした。理科大学実験付属の職工となって頑張りました。学者ともよく相談したようで、屋井は産学協同の先駆者とも云えます。
 正極に薬品が沁み出して、金具が腐食して使えなくなることが問題で、この改良に苦労していましたが、炭素棒にパラフィンを含浸することにより明治20年(1887年)「乾電池」を発明しました。
 しかし、日本における乾電池の特許の第一号は屋井ではなく、高橋市三郎氏です。海外ではドイツのガスナー、デンマークのヘレセンが1888年に乾電池を発明したことになっています。
 明治27年に日清戦争が勃発し、ある日発行された号外で、満州において使用された軍用乾電池の大成功に関する記事が掲載されました。従来、液体型の電池が使われていましたが、満州の寒気に乾電池だけが使用でき、号外で「満州での勝利はひとえに乾電池によるもの」と報道されました。新聞はこの乾電池が屋井のものであることを聞きつけ、翌日の新聞にこれを書き立てました。
 明治43年神田区錦町一丁目に販売部を新築し、同時に浅草神吉町に工場を設けました。海外品との競争に勝ち、国内乾電池界の覇権を掌握するまでに発展し、「乾電池王」とまでうたわれるようになりました。
 昭和2年(1927年)若いころからの刻苦勉励がたたったのか、胃がんに侵され、急性肺炎を併発して急逝しました。享年66歳でした。屋井乾電池は、残念ながら後継者に人を得なかったようで、昭和25年に屋井乾電池の名は乾電池工業会の名簿から消えてしまいました。
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 ウィキペディア  
 屋井 先蔵(やい さきぞう、1864年1月13日(文久3年12月5日)-1927年6月1日)は乾電池の発明者である。
 略歴
 文久3年12月5日に越後長岡藩士屋井家(現在の新潟県長岡市)に生まれる。
 6歳で父が死去し叔父に引き取られた。明治8年(1875年)に13歳で東京の時計店の丁稚となる も、病気のため帰郷。修理工として年季奉公した後、東京高等工業学校(現:東京工業大学)入学を志望したが受験に2度失敗。年齢制限もあって進学を断念し、それからの3年間は独力で永久自動機等の研究を続けた。
 明治18年(1885年)、23歳のときに電池(湿電池)で動作する連続電気時計を発明する。連続電気時計に用いられていたのはダニエル電池などであり、電池の手入れが必要なことと、冬場は電池の液が凍結するため使用できなくなるといった問題があった。屋井は、これら問題を解決する電池の開発に取り掛かる。なお、連続電気時計は、明治24年(1891年)に日本では初めてとなる電気に関する特許として認められる。
 東京物理学校(現:東京理科大学)の付属職工となっていた屋井は東京物理学校の学者ともよく相談していたようであり、産学協同の先駆者であるとも言える。湿電池の問題に、薬品が沁み出して正極の金具が腐食するということがあったが、屋井は炭素棒にパラフィンを含浸することで解決し、明治20年(1887年)に「乾電池」の発明に成功する[2]。しかし、日本における最初の乾電池の特許は屋井のものではなく高橋市三郎によるものである。1888年にドイツではカール・ガスナー(ドイツ語版)が、デンマークではヘレンセンが乾電池の特許を取得している。
 屋井乾電池は、乾電池を用いる製品そのものが普及していなかったこともあって、しばらくは売れなかった。
 1891年に、繁(しげ)と結婚。
 明治27年(1894年)に日清戦争が勃発し、満州において使用されていた軍用乾電池の大成功に関する号外記事が掲載されることになる。従来の湿電池では液が凍結したため満州では使用できなくなったが、屋井の乾電池だけは使用できたのだった。
 明治43年(1910年)には、合資会社屋井乾電池を設立し、神田区錦町一丁目に販売部を新築するとともに、浅草神吉町に乾電池の製造工場を設け、乾電池の本格量産にとりかかった。筒型の金属ケースを用い、現在の乾電池のスタイルを確立している。屋井乾電池は海外品との競争にも勝ち、日本国内乾電池界のシェアを掌握し、屋井は乾電池王とまで謳われるようになった。
 昭和2年(1927年)に、胃がんに侵され、急性肺炎を併発して急逝。享年66歳であった。
 後継者が育たなかったのか、昭和25年には屋井乾電池の名は乾電池工業会の名簿から消えてしまっている。
 2014年、IEEE関西支部の推薦による「日本の一次・二次電池産業の誕生と成長1893」がIEEEマイルストーンとして正式に認定され、屋井の出身地の長岡市、出身校の東京理科大学近代科学資料館(以上は屋井乾電池が現存しないため)、ジーエス・ユアサコーポレーションパナソニックの4者に銘板が贈呈された。
 エピソード
 高等工業学校(現:東京工業大学)の試験に5分遅刻したため失敗し、翌年より年齢制限により受験資格を失ってしまったことが連続電気時計の着想とされる。
 発明にしたにもかかわらず、貧乏のため乾電池の特許を取得はできなかった(当時の特許取得料金は高額だった)。また、乾電池を発売した当初、大半の世論は「乾電池などという怪しいものが正確に動くはずがない」というもので、先蔵の乾電池は全く売れなかった。さらに持病の為に寝込む日が続き生活は貧窮を極めた。さらに、先蔵の乾電池の価値を知った外国人が万博にて自分が発明したものだと主張したため、しばらく時間が経つまで世界で最初に乾電池を発明したのが先蔵であると認知されなかった。
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